○
北澤俊美君 本
院議員真島一男君は、昨年十一月二十二日、心不全のため
長岡赤十字病院において急逝されました。時あたかも、君が
人生を懸けてなし得た
国政への復帰後の初の
国会となった第百五十三回
国会の終盤に近い朝でありました。君の胸中に去来したものを思うとき、ただただ
痛惜の涙でこたえる以外何もできない我が身が無念であります。
私は、本日ここに皆様のお許しをいただき、
議員一同を代表して、
従四位勲二等故
真島一男君の御生前をしのび、謹んで
哀悼の
言葉をささげたいと存じます。
私は、
真島一男君の
訃報を
長野の地で伺いました。
長野は
快晴であり、
国会開会中の東京も
快晴でありました。
独り長岡は、君の急逝を悲しむかのごとく、終日曇り空でありました。「星一つ生命燃えつつ流れけり」、君の
訃報を聞いて私の
脳裏に浮かんだ
高浜虚子の句であります。
私は、
真島一男君にお
別れの
言葉をささげるに当たって、君の友人、知人から数多くの
思いをお寄せいただきました。その
交友関係の広さ、
思い出の数々、そして六十九年の
人生でなし得た事績の膨大さ、こんなにも広く
人生のフィールドを縦横に駆け巡った人を私はほかに知りません。草稿を練りつつ、君は力の限り生きながら燃え尽きて私たちの前から走り去ったのかと、改めて
思い知らされたのであります。
あのトレードマークとなっていたウエリントン型のやや大きめの
黒縁眼鏡の奧の細い目、ついだれもが話し掛けたくなるような優しい笑顔、そして
不屈の
越後人魂、忽然として旅立たれた
真島一男君、春秋六十九年、君の
人生は短く無念でありましょうが、また、実り多き生涯でもありました。
ともに力を合わせ、永遠に寄り添うことを願った
奥様、そして御
遺族の
方々に数多くの
思い出を残された
真島一男君は、
政治家としても一
社会人としても、立派に生きたあかしを残されたことを御報告し、心からお悔やみを申し上げます。
真島一男君は、昭和七年十月二十八日、
新潟県
長岡市に生をうけ、その壮健な体格を生かし、サッカーなどのスポーツに興じ、また、親
思いの優しい心をはぐくみながら、多感な
少年期において万丈の
人生の原型を形作られたのであります。
やがて俊英として頭角を現した君は、「
雪国の興亡はそりに頼る
生活からの脱却に掛かっており、これをやり抜く」との
言葉どおり、熱い心を持って旧
建設省に奉職され、三十一年間にわたり
行政官として過ごされ、優れた数々の業績を残されました。その背景には、息をつく暇もなく働き通し、かじかむ手を赤く染めながら水
仕事にいそしむ
お母様の姿を間近に見続けてきた君の心に、
雪国での
人々の暮らしを少しでも楽にしてあげたいとの強い
思いが芽生え、当時としては珍しかった
電気洗濯機を初給与の中から
お母様にプレゼントされるなど、君の持つ慈愛の深さが人としてその資質を磨き上げたにほかなりません。
そして君は、その熱心な
仕事ぶりに周囲から高い評価と
信頼を得ることになり、早くから指導的な
立場で
行政の指揮をされたのであります。
関屋分水路の用地問題という実に困難な
仕事に直面した君のいちずな
対応ぶりから
事態解決の糸口が見いだされ、その後、越後平野を洪水から守ったこと、また、
関西国際空港建設プロジェクトに関する米国企業参入問題に係る
日米事務レベル協議において、君の昼夜を問わない獅子奮迅の働きにより、難航を窮めた交渉を
解決に導かれたこと、さらに、二千三百万人余の
入場者を得た
国際花と緑の
博覧会を
史上最大規模のものとし、成功裏に導かれたこと、そして、道路へ大
容量光ファイバーという新しい価値を付加し、
国土を
一大情報ネットワークとして活用するという卓抜した
着想など、君の功績には枚挙にいとまがないものがあり、改めてその
先見性に敬意を表するものであります。
私が
社会人となって
民間会社に在籍していた
時代、さらにその後、
県会議員として
社会資本整備に強くかかわりを持つ中で、当時、既にその名を知られていた君に教えを請い、しばしば訪ねる私を励まし、隣県の交誼をもって県政の
発展のために多大なお力添えをいただくなど、いつも温かく包み込むその誠実さに強い敬慕の念を抱かざるを得ませんでした。
やがて君は、新たに
国政という
立場から、
日本の
国土を均衡の取れた
発展に導くため、長きにわたり
活躍されてきた旧
建設省を辞し、
平成二年の
参議院新潟県
選出議員補欠選挙に郷土の衆望を担って出馬されました。その結果は、地元の
方々がいかに君に
信頼を寄せていたかを如実に示すがごとく見事に初陣を飾られました。そして、続く
平成四年の
参議院議員通常選挙において再選の
栄冠を得られたのであります。
このとき、私は
参議院に初当選し、ともに
竹下登先生の下で
国政に参画し、君の御指導を仰ぐこととなったのであります。しかし、それもつかの間、大きな政局の流れの中で分裂・離党となりましたが、君は、その間、慰留の気持ちを強く持ちながらも私の
政治信条に理解を示し、有益なる示唆を与えてくれたのでありました。その後、お互いに
立場は変わっても長く御親交をつなぐことができましたのも、君の大きな
包容力のしからしめるところでありました。
参議院において、君は、その幅広い見識を遺憾なく発揮され、内閣、大蔵を始めとする数多くの
委員会の理事、
委員などの要職を歴任されましたが、中でも、君の
政治生活を印象付けたものに、
通産政務次官の任期中において
時代の行く末を見据えた
リサイクル法の制定に意を尽くされたことに加えて、
参議院アメリカ金融問題調査団長として渡米し、
バブル対策の立案に奔走されるそのお姿がありました。その後、
農林水産委員長としても
活躍をされるなど、
参議院議員たる者はかくあれと、身をもって範を示すなど、
国政に尽瘁されたのであります。
君は、
仕事に精進される傍ら、「マーサン」という愛称で親しまれながら、ゴルフ、マージャン、囲碁などを通じて多くの
方々との交遊も大切にされ、その幅広い交流と
着想には、ちゃめっ気を込めた人間の幅とロマンを感じさせるものがありました。その一端は、
格言、
翻訳など多くの
著作物の端々に表されるように、著者の心がそのまま読者に伝わるものでありました。例えば、ベンジャミン・フランクリンの「プーア・リチャードの暦」という
格言集を
翻訳、出版されましたが、本書は
日本図書館協会選定図書に選ばれ、ベストセラーにもなったのであります。また、君の古いノート一杯に書き付けられた
名言・
格言を集大成した名著「心に響く今日の
名言」を手にした人は、どれほど励まされ、また勇気付けられたか計り知れません。
このように
人生を深く洞察した
文人政治家として輝かしい
人生を歩んだ君ではありますが、その足跡は必ずしも平たんな道ばかりではありませんでした。
平成十年の
参議院議員通常選挙において次点という苦杯をなめたとき以来、君は
新潟県内をくまなく巡られる日々において、
地域の
人々に
不屈の
政治家との印象を鮮烈に与えるところとなったのであります。現在の私の
議員宿舎の
部屋は、君が以前使われていた
部屋であり、再起を期して刻苦勉励されている君の姿がいっときも私の
脳裏から離れることはありませんでした。
このような不動の信念に貫かれた君は、並々ならぬ闘志を燃やされ、昨年七月の
参議院議員通常選挙において返り咲きの
栄冠を獲得されました。
今日、
我が国は
解決すべき多くの
課題を抱えておりますが、特に、君の
専門分野である
生活環境整備から
都市再生に至る幅広い
政策展開が現下の急務となり、
時代をリードするアイデアを駆使し得る
参議院きっての
政策エキスパートとして
参議院自由民主党政策審議会の副会長としての
活躍が強く望まれていたところであります。
しかし、あれほど強靱と見受けられた君の体もひそかに病魔に侵され始めていたのであります。人の定めは静かに受け入れなければならないと申します。しかしながら、老少不定、生者必滅のことわりに自らを納得させようとするも、君の御
逝去は、
奥様を始め御
遺族の悲しみはもとより、郷里の
新潟県そして
国政にとっても
痛恨事というほかありません。
「困っている人に手を差し伸べる平和な
政治、美しさのある
地域づくり」を高らかにうたい上げながら、道半ばで倒れられた君の心情を推察するとき、胸の痛みを禁じ得ません。君を
政治に駆り立てたものは何か、生涯を懸けてつくろうとしたものは何かをよくかみしめ、二十一世紀の
国づくりに反映するよう全力を尽くすことをお誓いいたします。
いつの
時代も
夫婦ともに相携えて生きてきた君が、療養中に
奥様からこれからは楽しく生きていきましょうと励まされていたことなどを伺うにつけ、君の旅立ちに無念の
思いは募るばかりであります。
思い出は限りなく尽きませんが、
真島一男君の在りし日をしのびつつ、ここに謹んで、本院を代表して、心から
哀悼の意を表し、お
別れの
言葉といたします。
平成十四年一月二十一日
参議院議員 北澤 俊美
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