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岡崎トミ子君 民主党・新緑風会の
岡崎トミ子でございます。
まず、
委員長に申し上げたいと思いますが、自民党の理事にも申し上げたいと思いますが、これ真剣に
法案を審議している
態度なんでしょうか。たったお一人じゃないですか、理事以外に。もっと真剣にやっていただきたいというふうに思います。確かに
国会の会期末で大変お忙しいということはよく分かりますけれども、その点をお願いしておきたいというふうに思います。
私
たちは、今回の
法案審議に当たりましては、是非、
慰安婦とさせられた
被害者の
方々に
参考人としてこの
内閣委員会においでいただきまして、実際に体験したことを直接お聞きしたいというふうに訴えてまいりました。これは、御
本人たちの発言にこそ真実があると私
たち提案者自身が実感してきたからでございます。
政府の
調査でもヒアリングが行われて様々な事実が明らかになったはずですが、その内容のほとんどは明らかにされておりません。その内容のほとんどが明らかになっていないだけではなく、本当に直接
被害者の方
たちからお話を伺った、学んだことがどう生かされるのかということについても大変疑問を持ちます。
そこで、私
たちは、こうして
被害者の方においでいただく、この場でその話を共有して、議事録にもきちんと残したいと思いました。また、多くの
被害者たちの中には、自分
たちの苦しい不当な過去を自らの胸の内だけに収めて、自分を更に傷付けてこられました。困難に直面しながら訴えを始めた
皆さんの思いを正面から受け止めることが
国会の義務だという強い思いもございます。そして何より、御
本人たちの言葉を聞かずに議論することは大変申し訳ないと私自身は思います。
この
委員会の開催に向けましては、真剣な議論を重ねてくださいました。いろんな意見の違いを乗り越えて今日の
質疑が実現できたということは心から感謝をしたいと思います。
ところが、
被害者の
皆さんを
参考人にしてお招きして直接お話を伺いたいということの願いは実現しませんでした。これは直接実現しそうだというところまで行ったと思っています。それが結局は実現しなかったこと。私自身、それから
提案者、みんながショックを受けました。本当に残念でした。
そこで、今日は、この
法案審議を是非聞いていただきたいという思いで、
被害者のお一人、在日の
被害者で唯一裁判を闘い、今最高裁に上告中の宋神道さんに宮城県からおいでいただきました。ありがとうございます。
宋さんには、事前に心情を語っていただきました。その話は、この十年間、裁判を支えてこられた方に聞き書きをしていただきました。それをここで読ませていただきます。
私は今年満八十歳になります。だまされて
慰安所に連れていかれたのは十六歳のときです。まだ何も分からない、ままごと遊びをしているような子供でした。
何も分からないまま、性病の検査台に乗せられたときには、恥ずかしいやら、恐ろしいやら、痛いやら。検査器は入らないし、あんまり暴れたので、軍医もお尻をぴしゃりとはたいて下ろしてくれました。
泣いて、泣いて、そっち逃げたり、こっち逃げたり。隠れていたら捕まって、髪結び付けて殴ったり、足でけったり。暗い部屋に縛り付けて、飯も食べさせない。そうして死ぬ前に保護して、今日から兵隊さんの言うことを黙って聞くんだぞと、こう言います。そう言われても、その時間になると、やっぱり嫌だから、また同じことの繰り返し。涙ばかり流して。
逃げようとしても帰る道も分かりません。
最初は泣いてばかりいましたが、軍人の言うとおりにしなければ帳場に、担当している者に殴られる。軍人には刀で脅される。命が惜しくて、死ぬのだけは嫌でした。だから軍人の言うことを聞ぐしかねがったんです。日本語も必死に覚えて、はたかれないように、殺されないように、一生懸命やったんです。
明日は死ぬという覚悟で戦やっている気の荒い軍人ばかり相手にしてたから、私の気性もすっかり荒くなりました。毎日、毎日びんた取られて、ほっぺたにたこが寄って、今じゃ何ぼたたかれても痛くありません。鼓膜が破れて、耳も片一方しか聞こえません。
慰安所で彫られた入れ墨が恥ずかしくて、風呂にも行けません。それでも、生きてこられただけ何ぼかましかもしれません。
隣の
慰安所では、クレゾールを飲んで死んだおなごもいました。病気のとき相手をするのを断ったら軍人に殺されたおなごもいます。空襲で死んだおなごも、兵隊さんと心中したおなごもいました。一緒に死んだって、兵隊さんは自分の国に骨が帰るけど、朝鮮のおなごは死んでも自分の国には帰れません。ただそこで穴掘って埋めるだけです。あんな地獄のような
慰安所で死んで、ただ穴掘って埋められておしまい、死んでも国に帰ることもできない朝鮮のおなご
たちは本当にかわいそうでした。
けれど、生き残った方が幸せだったのか、戦地で死んだ方が良かったのか。
戦争が終わって日本に来てから、海に入って死のうと思ったことが、一度や二度じゃありません。汽車から飛び降りたこともあります。
若い頃は毎日、毎日、兵隊の夢を見ました。うんうんうなされて、びっしょり汗かいて、金沢幸一に起こされました。
慰安所のことは、何年経っても、幾ら忘れようとしても、忘れることはできません。ぐしゃぐしゃして、荒れて、大酒飲んで暴れたこともありました。大酒飲んで暴れても、悔しい
気持ちが晴れるわけじゃなし、ますます腹が立つだけなのに、ばかなことをしたと今では思います。でも、そのときはそうしねえでえられねがったんです。
なして日本の戦に、まだ訳も分からない朝鮮の子供が連れていかれて、あんな苦労をしなければならなかったのか。
考えても、
考えても、意味が取れません。だから悔しい
気持ちが出るんです。
年を取ってから敬老の日に近所の年寄りには座布団が配られるけんど、私には届きません。何年も同じ町内に暮らしていても、こんなところまで差別付けられてます。近所には軍人恩給をもらって大威張りで暮らしている人もいます。遺族年金をもらっている人もいます。戦地に引っ張っていくときは、お国のため、お国のためと言っておいて、今になって、なして朝鮮人だの
慰安婦だの生活保護だのと差別を付けられるのか。全く意味の取れないことばかりです。
だから裁判に訴えました。なんじょのものだか、意味を知りたかったんです。なして私が
慰安婦にされたのか、なして差別を付けられるのか、その意味をはっきりさせたかったんです。そして、近所で白い目で見られないようにしてほしかったんです。
裁判を始めたら、生活保護受けて人の税金で食ってるくせに、何の文句があって裁判するのか、日本の国に住んでいるのに日
本人ばかり悪者にするな、文句があるなら
韓国に帰れなどと言われました。
国民基金をもらえばいいんだと言う人も近所にはいますが、意味の取れない金をもらうわけにはいきません。民間人の金を集めてくれるといっても、また白い目で見られるだけです。
最初に裁判に訴えたときの首相は宮澤さんでした。今の小泉さんでもう八人目です。首相がころころ入れ替わり立ち替わり替わっても、民間人の金を集める話以外は何も出てこない。
国会で何か話が出るかと思って、いつもテレビで
国会中継を見てます。でも、近ごろじゃちっとも話も出ねえじゃないですか。恥を忍んで、針のむしろに立つ思いで訴えたのに、十年もの間ほん投げられてきました。きちんと
謝罪して、申し訳なかったと、意味の取れる
補償をしてくれなければ、また恥をかくだけです。
二十年ほど前に金沢幸一が亡くなってからは、ずっと独りで暮らしてきました。日本には肉親は一人もおりません。風邪でも引いて寝ていると、このまま独りで死ぬんじゃないかと思い、恐ろしく、情けなくなります。近所の人
たちには家族もおり、子供も孫もいるのに、私は独りです。戦地で日本の軍人の子を二人産みましたが、
慰安所では育てられずに他人に預けました。どうにも仕方がなかったとはいえ、親が子供を捨てるような罪作りなことをして罰が当たったんだと涙が出てきます。中国から親捜しの子供が日本に来ると、一人一人顔を確かめて見るが、分かりません。せめて子供でもいてくれれば、こんなに肩身の狭い思いをしなくて済んだのではないかと思えてならねえんです。
裁判を始める前は恥ずかしくてだれにも
慰安所のことは話せませんでした。でも、裁判を始めてから、本当にたくさんの人の前で体験を話しました。信用してもらえるかどうか心配でしたが、みんな心から聞いてくれました。中には、私が
慰安所に連れていかれ
たちょうど同じ年ごろの子供もいました。こんな子供に意味が取れるのかと心配で心配で恥ずかしくて話したくなかった、逃げ出したかったけんど、仕方がない、話をしたら、こんな子供でもちゃんと意味を取って、涙を流しながら聞いてくれました。半分は
気持ちが晴れました。安心しました。
人の心の一寸先はやみです。
慰安所で七年、日本に来てから五十年以上、人の心が信じられずに生きてきました。疑うことしか知りませんでした。でも、裁判かけて体験を話してから、少しは人間らしくなれたと思っています。
私は十六の年から日
本人の中で暮らしてきました。日
本人と
気持ちよく付き合いたいと願い、そう努めてきました。私はあと何年生きられるか分かりません。けれど、日本に住む朝鮮人の子供と日本の子供
たちが仲よくするためにも、過去の過ちは過ちとしてきちんと
反省して、申し訳なかったと
謝罪してほしいです。
世間では、
慰安婦は民間業者が連れ歩いたと陰口を言う人もいます。戦地のことは、
戦争に行った者でなければ分かりません。
戦争がどんなに残酷なものか。民間業者がそんなことできるはずがありません。
あんな残酷な
戦争は二度と繰り返してはいかぬのです。
慰安婦ばかりでなく、中国の人も、日本の兵隊も、苦しめられた惨めな姿を、私はこの眼で見てきました。なのに、
日本政府は再びあの残酷な
戦争を始めようとしているように見えます。過去を
反省しないから、
戦争の恐ろしさを知らないから、そんなことを
考えるんです。私の話を聞いて涙を流してくれた子供
たちが、あんな残酷な戦に引っ張られていくことがあったらと思うと、近ごろはまんじりともできません。ほんと、幾らも寝られねえんです。
慰安婦問題を子供
たちの
時代にまで持ち越さないように、子供
たちを二度と残酷な
戦争に巻き込まないように、再び
戦争するための
法律ではなく、過去の問題をきちんと
解決する
法律を作ってください。そうでないと死んでも死に切れません。よろしく頼みます。
二〇〇二年七月二十三日、宋神道。
宋さんにはこのように話していただきました。それを書いていただいたものを読ませていただきましたが、杉浦副
大臣がおいでくださっておりますのでお聞きしたいと思いますが、わずか十六歳の少女が日々性交を強要されて、しかもそれが七年間にもわたり継続した。人間形成に重要な時期に、到底正面からまともに受け止めることができないむごい現実を宋さんはどうすることもできませんでした。ただ、逃れようのない現実として生き抜くほかにすべを持たなかったと思います。
宋さんは、戦後一九四六年春ごろに日本に来ました。安定的な職業を得られず、山に行って木を取ってそれを売り歩いたり、子守をしたり、魚の加工工場に雇われたりして、その日その日の生活費にも事欠く地をはうような生活をしてきたと言っております。死んでも死に切れないという言葉で結んでいた宋さんの心情、悲しみや苦しみ、怒りを
理解するには、このような戦後どのように生活をしてきたというこの
状況も無視することはできないと思います。
地裁判決では、軍人によって少女が日々
強姦される
慰安所というものを
国家が組織的に計画し管理したという非常に恥ずべき
行為があったことを認め、宋さん
個人の証言が事実に相違ないという点についても全面的に認めました。また、
東京高裁では、
被害事実を認めた上で、当時日本が批准、加入していた
強制労働条約、醜業条約に違反した
行為があり、
国際法上の
国家責任が発生したと、
国際法違反を初認定しています。
さらに、民法上の
責任に、意思に反して日常的に長期に
強制的売春を強いられてきたことについて、国は
慰安所経営者とともに監督者として不法
行為責任を負う余地があったと、宋さんに損害賠償請求権が生じた可能性を認めています。しかし、在日
韓国人の国への賠償請求権は日韓請求権協定が発効しました一九六五年から二十年が経過した一九八五年に消滅したと述べて、控訴棄却となりました。
当時も今も国際社会においておぞましい破廉恥極まりない
行為を許すことはできません。国は非常に恥ずべき
行為をしたと判決が認めたことを
日本政府はよく
考えるべきだと思います。
杉浦副
大臣、御高齢の宋さんに対して、宋さんのこれまでの人生を思って、そして国として少しでも報いたいとお思いになりませんか。まずお答えいただきたいと思います。誠実なお答えを私は求めます。