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公述人(
横田力君) おはようございます。
このような機会に
憲法に関しまして私見を述べさせていただく場を提供していただきましたことを皆様に厚く感謝申し上げます。
今、三人の
先生方の公述内容を伺っておりました。これらを通じまして、
一つ見えてきた点があります。したがいまして、レジュメに必ずしも即応するという形を取りませんが、お話をさせていただきたいと思います。
一つ、これは皆様方が強調していた点、まず人らしくあるいは
人間らしく生きるということ。
憲法の
言葉で言いますならば、これは二十五条に
規定されておりますような生存の自由ないしは文化的な
人間らしい
生活を確保するという、このような
権利の問題だと思います。それともう
一つは、それらが平和の中で実現されること、平和の中で生きること。国家の戦争行為によってこの生きるということが否定せられるところに
人権の存立根拠はないと、このように今の御
意見の中からうかがい知るところです。さらに、その生き方の問題としてもう
一つの条件が課せられております。それは何かといいますと、共生ということです。皆が
差別されることなく、皆が平等に、そして皆が相携えてお互い同士の仲間として生きていくこと。
この三つが今、
憲法の課題として、あるいは
憲法を論議する場合に求められていることではないでしょうか。
もう一度確認いたします。
人間らしく生きるということ、それは平和の中で初めて実現するということ、そしてそこに
差別があってはならないということ、この三つが我々がここで討議の対象としている
日本国憲法の中にどのように体現されているかということを考えてみたいと思います。
まず、本題の中に、まず第一章としまして、
憲法の類別ということに言及したいと思います。どのような世界の流れの中で
憲法のパターンないしは種別があるかということを考えてみたいと思います。時宜に応じて
資料に目を通してください。
そこには、アメリカ、そしてイギリス、更にフランス、ドイツという主要先進国の四つの
憲法体系をそれなりになぞらえたものがお手元にあるかと思います。その中で、一番
最初に、
日本国憲法及び
日本国憲法が否定してきた、あるいは負の遺産として我々
国民を今でも縛っている側面があると思われるような大日本帝国
憲法、
言葉が非常に硬いですけれども、それを添付してあります。
それを見取図的に見ますと、世界
憲法の流れというのは、大きく分けたとき、二つの流れから成っていると、こう考えられると思います。
それは、
一つには西欧型
憲法と言われるものですね。
言葉を
憲法政治に置き換えてみますと、それは西欧型立憲主義と考えていいでしょう。いかなる意味において西欧型立憲主義と言われるか。
そこにフランス
人権宣言という文言が出ております。非常にこれが象徴的な、もう七月ですから、七月にいよいよパリ祭を迎えますね。一七八九年にパリにおける反乱が革命へと転化し、その中から
憲法制定議会、
最初は革命評議会と言っていましたけれども、そこから約一か月、八月の末日にこの人及び市民の
権利宣言という文章が確認され、採択されたものです。
そこに
人権を何となぞらえているかといいますと、前文の三行目ですね、初めから要するに三番目のラインです、人の譲り渡すことのない神聖な
権利ということ。譲渡不可能ということですね。一般の民法上の
権利等々が同意を介するならば譲渡は当然とされる。しかし、これが、人の
権利である、正にヒューマンライトであるということは何を意味するかといったときに、承認があろうと同意があろうと、人格を譲渡する、
人間性を譲渡することができないんだということを強く訴えていること、ここを確認したいと思います。ライツに対してヒューマンライツの持っている語義の意味ですね、ようようになかなかこれはつかまれないところですけれども、この場において強調したいと思います。
さらに、同じことは、時効によって消滅することのない
権利ということが、第二条、「
政治的結合の目的と
権利の種類」というところに書かれております。
これは、
政治的結合というのは少し難しい文言ですけれども、言っていることは何かというと、我々が国家を作り、
政府を維持し、我々はその
国民として団結する、その目的のことを述べているんですね。国家を作り上げる、言わば言ってみれば存在
理由です。そこに書かれている根拠として「時効によって消滅することのない」、これもやはりヒューマンライツの大きな特徴、ヒューマンがヒューマンたるゆえんですね。普通の
権利というものであるならば、使用しないこと、あるいは行使しないことによって、場合によっては
制度によってこれが消滅せられる場合があるということ、これはもう御承知のことだと思います。それに対して、いかに行使しなくても、あるいは行使不可能な状態に置かれていようと、
人間である以上、その
権利がなくなってしまう、そのようなことはないんだということを確認しているわけですね。
そしてまた、それらは、次の行ですね、「人の、時効によって消滅することのない」と言いながら、次の文言は「自然的な諸
権利の保全にある。」と、こう述べております。自然的というのは、今考えますと何か環境の保全のように聞こえるかも分かりませんけれども、それはもちろんそうではなくて、
社会以前、国家以前の我々の
立場というものがあるんだ、これをもって国家を作っているんだということを明言しているわけですね。
ここから見えてくることは、我々にとっての
憲法に
規定せられる
人権というものは、今の三つのフレーズを踏まえた上で、一般の
法律ないしは諸命令を根拠付け、なおかつそれらを統合し、そしてそれらに対して正当性の、何といいましょうか、
一つの印籠を、お墨付きといいましょうか、それを渡す、そういうシンボルであるということがここで確認されると思います。
そして、それとの関係では、少しよろしいでしょうか、少し、何といいますか、解釈技術的なことといいますか、文言の、字句の認識について四条、五条というところを見てみましょう。
そのような自然的自由というものは一体何か。四条で述べていることは、自由とは他人を害しない限りにおいてなし得るすべてのことであると、こう述べておりますね。では、それを受けた第五条、何だろうか、こういいますと、
法律が国家
制度の下において、あるいは国家
制度としての
法律が
規定することができる範囲というものが書かれております。それは正に他人を害すること、要するに第五条の文言では
社会に有害な行為、これしか
法律は禁止することができないという、このような言い方ですね。
したがって、広範な諸自由というものが先ほど述べたような意味でのヒューマンライツとして市民の中に留保されていること、これが近代
憲法の一番の里程標と思われるフランス
人権宣言の大いなるメッセージであると、このように考えていただきたいと思います。
そして、更に第六条、そのような意味での
法律の形成には、ここで言っていることは、ある場合については代表によって、そしてその前の文言ですけれども、自らという形で、本来であるならば自らが様々な形で参与するということが書かれていること、このような
権利を保全したところにフランスが共和制として歩みを進め、現在に至るまでの民主主義国家を作り上げていくところのスタートラインがかいま見えると思います。
そして、ここで考えていただきたいことは、その前にもある、今、フランスですけれども、その前ですね、これは何ページと言うのがちょっと大変ですけれども、ページ数でいきますと、アメリカですね、第八ページにありますけれども、ほぼ前後してアメリカでは
憲法典が制定せられます。ここは非常に、何といいますか、興味深いところでありまして、アメリカ
憲法の本文はここで書いておりません。アメリカ
憲法の本文は第一条から第七条で非常に短いです。もちろん、中が節に分かれていますから、文章の量としてはありますけれども、条文は非常に短い。それが、今を去ること百十何年前ですか、百二十三年、二十四年、一七八七年に制定せられているわけですね。それがそのままとして現在まで生きている。ただ、この場合の
憲法というのは正にコンスティチューション、国家の枠組みだけです。まず第一に連邦議会が来ます。続いて大統領が来ます。司法、そして連邦と州の問題が来ます。等々だけですね。
ここに私が出した八ページにある文章というのは何かというと、その四年後に大陸会議という独立戦争の後始末をやるために作られた会議の場において採択された条項ですね。なぜ修正というかといったときに、今述べた国家の統治機構のみで
憲法を構成していいんだろうか、独立をかち得た母国であるイギリスには
権利の章典というものがあるではないか、国家といえども統制してはならないような
人権というものをイギリスは確認しているではないか、アメリカはどうするのかといった議論が大陸議会を席巻します。その中から出てきたものが修正第一条から第十条というところですね。これがフランス
人権宣言を踏まえた、二年後の、フランス
憲法が制定されますけれども、その年と同じです。一七九一年にこの修正条項というものが合衆国
憲法における
権利の章典として採択されます。
これをもって、今日、アメリカ合衆国
憲法というのは大体三つの文章を指しております。これは、七六年、独立宣言ですね。そして、今お話だけで、お話ししました、公述しました八七年、
憲法、統治機構のみですね。そしてもう
一つ、九一年の修正条項ですね。これらは今日に至るまで営々と命を長らえてきていること、メンテナンスされていること、ここの持っている重みというものを十分に御理解いただきたい。
そして、ここにはあると思いますけれども、次のページ、九ページですけれども、十三条から十五条、九ページにありますけれども、この三か条をもって何と言うかといったとき、これをリコンストラクションクローズと、こう述べるわけですね、いわゆる再建条項。合衆国における市民戦争と言われた南北戦争の成果をもって確認したものがこの三か条です。したがって、ここで公民権の平等等々がかち得ているということ。
ですから、これが制定されてからもう既に百五十年近くがたとうとしている。そして、現在、連邦最高裁等々で違
憲法令審査権が一番行使されるときに、バックボーンとして、根拠として最も使われる
規定が修正第一条であり、ここの修正第十四条であるということ、これを御理解いただきたい。
我が国の
憲法の五十年の歴史に対して、
人権論という点で見たときに、いかに
人権というコンセプトが広い意味合いを持っているのか、ここの言わば枠組みということを次はフランスということになぞらえて考えてみたいんですね。
フランスにいきますと、十ページですね。もう時間がちょっと迫ってきておりますけれども、十ページ。そして、続いてこれが先ほどの
人権宣言ですけれども、十一ページ。これが現行フランス
憲法ですね。何と言っているかといったとき、次のように述べています。
前文だけいきます。前文の二か条ですね。「フランス人民は、一九四六年
憲法前文で確認され補充された一七八九年宣言によって定められたような、
人権および
国民主権の原則に対する愛着を厳粛に宣言する。」、これが今日の第五共和制
憲法の大きな柱となっている。
言いたいことは何かと申しますと、一七八九年
人権宣言が明確に第五共和制
憲法の主要な部分として確認され、それが今日の
憲法院等々の
憲法裁判の基準として生きているということ、表現の自由しかり、政教分離しかり、信教の自由しかりです。
人権宣言自体はわずか十七か条ですけれども、このような広範性ないしは柔軟性を持った構造にこそ
人権論の意味があるということを御理解いただきたい。
そして、ちなみにフランス第四共和国
憲法ですね。いわゆるビシー政権が倒れて、戦後できた新しい
憲法ですけれども、そこに述べていることは何なのか。正にここでも第四行目に、前文、フランス
人権宣言が引かれている。そして、現在のフランス
憲法における
人権条項とは、この八九年
人権宣言にプラスするところのこの第四共和国
憲法前文を意味していること。前文の後半部分には何が書かれているかといいますと、先ほど来出ていた
社会権条項ですね。これは二十世紀中葉の
憲法ですから、
人権宣言は自由権中心主義ですから、
社会権あるいは労働基本権、これが欠落している。それがこの前文に入る。こういう中でフランスという国は維持され、発展し、アメリカはまた今日を迎えているということ。
述べたいことはこういうことです。フランスの場合では様々にレジームが変わる、国家体制が変わる。アメリカもそうである。しかし、
人権条項は普遍であるという、ここの持っている意味です。
そのことは
我が国憲法に目を落としていただければ分かると思いますが、第十一条ですね、次のようになっております。「
基本的人権の享有」ということですね。長いからこれは全部は読みませんが、「
国民は、すべての
基本的人権の享有を妨げられない。この
憲法が
国民に
保障する
基本的人権は、侵すことのできない永久の
権利として、現在及び将来の
国民に与へられる。」という、このような書き方は正にフランス
人権宣言そのもののアイデアをそのまま継承したものである、こう考えられること。
ちなみに、その後に帝国
憲法が書かれておりますけれども、帝国
憲法の文言にこのような言い方はない。人、市民、
国民、あるいは
人間、このような言い方はない。臣民、そしてそれらは
法律の範囲内である。国家大権によって抑制せられるものとしてしか
人々の地位は
保障されていないこと。
それに対して、十一条を今引き合いに出しましたけれども、さらには九十七条ですね。九十七条、「
最高法規」というところですね。第四ページですけれども、ここにあることもほぼ同じことが書かれております。この
憲法が日本
国民に
保障する
基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の
努力の成果であり云々ですね。現在、将来の
国民に対して侵すことのできない永久の
権利として信託されたものである。
このような中で考えたときに、
人権というものは、先ほど述べた意味で、一方で生きるということを包摂し、もう一方で共生ということを包摂し、更にはその中に環境の保全も含めたところの生きる我々の自然的なメカニズムも包摂するものとして考えられること。そして、更には平和ということもそれに包摂するものとして考えられること。
そのような柔軟構造を持った
憲法に対して、あえてここに新たな
規定を設けるということの意味合いというものは一体何だろうか。運動の中において提起せられた様々な新しい
人権、新しい考え方、これらを主張される
方々、担い手が、
憲法が邪魔である、
憲法が桎梏であるがために新たな
人権が実現できないで
自分たちが不幸をかこっておるという議論は、私は寡聞にしてこれを聞いたことがないのですね。そのことは何か。正に、そういった要求の担い手、運動の担い手の
方々に対して、
憲法というものが、先ほど述べたようなアイデアとして、フランスあるいはアメリカの市民革命を勝ち得たようなアイデアとしてその人
たちの胸に響いているその証左ではないかと、このように考える次第です。
そういう中で、今日の議論をもう一度ひもといて
憲法とは何かというところに置き換えた上で考えてみるのも、ひとつこの場を意義あるものとする
先生方あるいは
公述人としての我々の役目ではないかと思い、時間ということですから、一応ここでお話は終わりたいと思います。