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参考人(百地章君)
日本大学の百地でございます。本日は、参議院の
憲法調査会におきまして
意見陳述の機会を与えられ、大変光栄に存じます。
与えられましたテーマは
公共の
福祉と
国民の
義務でございますので、
基本的人権と
公共の
福祉をめぐる法解釈の現状、
公共の
福祉と
基本的人権の限界をめぐる
問題点、そして、
国民の
義務をめぐって、この三点についてお話をさせていただきます。お手元にかなり詳しい
レジュメが配付されていると思いますので、そちらの方をごらんください。
初めに、
基本的人権と
公共の
福祉をめぐる法解釈でございますが、時間がありませんので、この部分は簡単にさせていただきます。
まず、
公共の
福祉、英訳ではパブリックウエルフェアとなっていますが、この言葉は本来、
社会生活をともにする万人共通の共存共栄の
利益などといった
意味を持つものと思います。しかし、
憲法の教科書では、宮沢俊義
教授の説、つまり、
公共の
福祉をもって
人権相互の間の矛盾、衝突を調整する原理としての実質的公平の原理と見る説が通説的地位を占めてきたと考えられます。この説は、後で触れますとおり、
個人を超える
国家的
利益などといった
考え方を否定し、
公共の
福祉とはあくまで
人権相互間の調整を図るための原理にとどまると考えるところに特徴があります。
次に、
憲法十二条、十三条の
公共の
福祉と、
憲法二十二条一項、二十九条二項の
公共の
福祉との
関係をどう考えるかということが問題となります。
御存じのとおり、
日本国憲法の中で
公共の
福祉という言葉が登場するのはこの四か条だけですが、これらの
公共の
福祉の
意味をどのように理解したらよいかということで
判例や
学説は解釈が分かれています。細かく言いますと、
学説は幾つかに分かれますが、ここでは分かりやすく大きく二説に分けて御
説明いたします。
その第一説は
内在的制約説と言われるもので、
憲法第十二条、十三条の
公共の
福祉はあくまで訓示的ないし倫理的
規定、つまり
国民の
権利行使に当たっての心構えを示したものにとどまり、
公共の
福祉を理由に
人権が
制約できるのは二十二条一項の居住、移転及び
職業選択の自由と二十九条二項の
財産権に限られると解します。つまりこの説は、
公共の
福祉の
意味を、
社会国家的な見地からする経済的弱者保護のための外在的、政策的
制約と考えますから、これ以外の
権利は
公共の
福祉を理由に
制限することはできないとするわけです。ただし、そうはいいましても、他の
人権が全く
制約を受けないということではありません。
権利に内在する
制約、つまり他人を害したりするような
権利の行使は許されないと
主張しておりまして、昭和四十一年の全逓東京中郵
事件最高裁判決のように、
判例の中にも一部この
内在的制約説に立つものがあります。しかし、これは少数説にとどまります。
これに対して、
学説における通説は、
憲法十二、十三条の
公共の
福祉をもって
基本的人権の一般的な
制約根拠と考えますから、二十二条、二十九条以外のすべての
権利も
公共の
福祉を理由とする
制約を受けると解します。
ただし、
公共の
福祉という場合には、自由
国家的
公共の
福祉と
社会国家的
公共の
福祉の二つの側面がありますから、二十二条の
職業選択の自由や二十九条の
財産権などの経済的自由については、他の精神的自由権と異なり、
社会国家的見地から特別の政策的
制約を受ける場合があることを特に明示したものと考えます。
他方、
判例も、
憲法十二条、十三条の
公共の
福祉を
根拠に、すべての
基本的人権が
制約され得ると考えています。
このように、
判例はすべての
人権が
公共の
福祉を理由に
制限可能と考えてきましたが、
憲法制定当初の論理は非常に荒っぽいものでした。一方で、
憲法の保障する
基本的人権は立法によってもみだりに
制限されないと言っておきながら、他方では、言論の自由といえども常に
公共の
福祉によって調整されなければならないというように、
説明もないまま言わばなで切り的に
公共の
福祉による
制限を
合憲としてきました。
その後、
最高裁は、
公共の
福祉の
内容を各
人権ごとに明らかにし、例えば、デモ行進の規制は
公共の安寧秩序の維持のためであるから許されるとか、わいせつ文書の規制については、性的秩序を守り、最小限度の性
道徳を維持するためであるからやむを得ないといったような言い方をするようになりました。
この点、評価すべきでしょうが、しかし、これに対しても、
人権制約の目的が正当であるからといって
制約手段が無
条件に許されるわけではないといった批判が見られました。
そして、今日では、
学説の影響もあり、すべての
人権が
公共の
福祉を理由に
制約可能であるということを
前提に、個々の
人権ごとに
比較衡量論や二重の
基準論等の
人権制限基準を持ち出して、個別的、具体的に
制約の
合憲性を
判断するというやり方が
判例、
学説の通説になっています。
ただ、言えますことは、今日、
人権の
制約基準については非常に詳しい
議論がなされるようになりましたが、肝心の
公共の
福祉の
内容そのものについての
議論や
人権の
制約根拠、つまり
制約基準ではなくて
制約根拠については必ずしも
議論は深められておらず、その点不満が残ります。
そこで、次に、
公共の
福祉と
基本的人権の限界をめぐる
問題点について、若干の私見を述べさせていただきます。
初めに、
公共の
福祉の
意味をめぐる問題ですが、現在の通説と考えられる宮沢説は、さきに述べましたように、
公共の
福祉をもってあくまで
人権相互の矛盾、衝突を調整するための原理であって、
個人を超える
国家の
利益など認めないというものでした。つまり、
現行憲法は
人間性の尊重を最高の指導理念とするものであるから、
個人に優先する全体の
利益ないし価値などというものは存在しない。
人権に対抗できる価値などあり得ないわけであって、
国家そのものすら
人権に奉仕するために存在する。それゆえ、
公共の
福祉は、全体の
利益と異なり、あくまで
人権相互の間の矛盾、衝突を調整するための実質的公平の原理と見るべきであって、
人権制約の
根拠となり得るのは他の
人権しかない。だから、たとえ
国家や
国民全体のためであっても、
人権を
制約することはできないことになると
主張されるわけです。
しかしながら、果たして
現行憲法は
個人に優先する全体の
利益を一切認めていないのでしょうか。もしそうであるとするならば、現行刑法が、
個人的法益以外に、
社会的法益や
国家的法益を守るために、これらの法益を侵害する
国民の様々な
行為を処罰の対象としていることは
憲法違反の疑いありということにならないでしょうか。
それはともかくとして、実際には、直接他の
人権の侵害に当たらないような
行為であっても、
最高裁は、
公共の
福祉を理由として、
国民の
権利や自由の
制限を
合憲としてきましたし、諸外国の
憲法や国際
人権規約等の条約を見ても、同じような
人権の
制限が認められていることが分かります。
そこで、幾つかの例を挙げてみることにしましょう。
第一に、
公共の安全や秩序、
公共道徳、
国民生活全体の
利益などの維持のためなされる
人権の
制限の例が考えられます。
思い付くままに言えば、(a)
公共の安寧秩序の維持のための集会やデモ行進の規制があります。確かに集会やデモの規制の目的の中には、同じ
公共の広場や道路を同時刻に利用しようとする人々がいた場合、その調整を図るといったこともあり得るでしょうが、それだけでなく、
公共の安寧秩序の維持、つまり差し迫った危険を避け、地域の平穏や安全を維持するといった目的も考えられますし、
最高裁も、東京都公安条例
事件判決の中で、デモの事前規制を
合憲としています。また、諸外国では、
日本国憲法のように無
条件で集会やデモの自由を認めている国は少なく、例えばスペイン
憲法のように、平穏にかつ武器を持たないで集会する
権利のみを認め、その上更に、
公共の秩序の侵害が明らかに予想される場合には集会を禁止できるとしている例もあります。
次に、(b)青少年の保護や健全な育成のための有害図書の規制です。この有害図書の規制については、有害の
意味があいまいだとか、大人の知る
権利の
制限につながるといった批判もありますが、
最高裁は岐阜県青少年保護育成条例を
合憲としていますし、
ドイツ基本法などは
憲法でもって
表現の自由は少年保護のために
制限されると明記しています。確かに、違憲論にも言い分はあるでしょうが、だからといって青少年の保護のためには有害と思われる図書が全く野放しのままで良いとは思われません。
さらに、(c)、最小限度の性
道徳の維持のためのわいせつ文書頒布等の規制が考えられます。この刑法百七十五条については、やはりわいせつの
概念があいまいであるとかいった批判があり、違憲論も有力ですが、これについてもわいせつの
概念を可能な限り明確にした上で
合憲としたチャタレー
事件以来の
最高裁判決は、結論的に支持できます。現に、国際
人権規約B規約では、
表現の自由については、国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは
道徳の保護のため、一定の
制限を課すことができると
規定しています。
次に、
憲法秩序や
国家の存立の維持のための
人権の
制約に移ります。
このうち、
国家の存立の維持のための緊急事態における各種
人権の
制限についていいますと、
財産権や
職業選択の自由あるいは居住・移転の自由の
制限などが考えられます。
例えば、
我が国が外国から武力攻撃を受け
自衛隊が
防衛出動する場合、
国家の存立を維持し
国民の生命や安全を守るために、一時的に
国民の
財産権が
制限されたり、業務従事命令によって
職業選択の自由が
制限されたりする場合があっても、これはやむを得ません。この点、国際
人権規約では、
国民の生存を脅かす公の緊急事態の場合は、事態の緊急性が真に必要とする限度において、この規約に基づく
義務に違反する措置を取ることができると定めて、各種
人権の
制約可能性を認め、
ドイツ基本法などでも、
レジュメに書きましたように、居住・移転の自由の
制限、
職業選択の自由の
制限、公用収用の際の補償
条件の緩和、自由剥奪期間の延長、信書・郵便・電信電話の秘密の
制限等の
制約を認めております。
公共の
福祉をめぐる問題はこの辺にしまして、次に
基本的人権の限界一般について何点か問題提起をしてみたいと思います。といいますのは、
公共の
福祉というのは言わば
人権制限の限界という問題でありまして、実はこの一番基本的な
議論が戦後の
憲法学はなおざりにしてきたのではないかという思いがあるものですから、あえてこの問題について考えてみたいと思います。
第一点は、
人間は
国家権力をもってしてもその本質を侵害することはできないとされていますが、他方では
国家あっての
人権ということも忘れてはならないということであります。言わば、パラドックスという言い方ができるかもしれません。
言うまでもなく、近代立憲主義は
国家権力の濫用を防止し
国民の
人権を保障するべく
憲法を制定することにありますから、
国家権力といえども
人権の本質を侵害することはできません。
人権が理念的に
国家以前の
権利であると
説明される理由もここにあります。しかしながら、その
国家以前の
権利とされる
人権も、現実に保障されるためには、平和で秩序ある独立した
国家の存在と
裁判所等による
人権救済制度が必要です。このことは、例えば
国家の庇護を離れた難民や亡命者たちのことを想起すればすぐ分かることです。
また、
人権の中には、その性質上、
国家の存在を
前提として初めて成立する
権利、例えば参政権などもありますから、外国人に対しては、たとえ地方参政権であっても付与できないのは当然であります。
第二点目として、戦後
憲法学における
国家論の不在ないし
国家論の混迷が、
公共の
福祉をめぐる
議論や
人権論に様々な影響、ありていに言えば悪影響を及ぼしているのではないかということです。
人権以上の価値を認めず、
国家といえども
人権に奉仕するためにあるとした宮沢説など、その典型と言えるのではないでしょうか。この点についての
説明はお手元に配付させていただきました拙稿「
国家論なき戦後
憲法学」を御参照願いたいと思いますが、要約して言えば次のようになります。
まず、
国家論の不在ということですが、戦後
憲法学では
国家についてまともに論ぜられることは余りありませんでした。また、
国家について触れる場合にも、
国家とは
国民、領土、それに主権から成り立っているといった、いわゆる
国家三要素説が紹介される
程度でした。もう
一つは、
国家論の混乱ないし混迷という点です。それは、
国家と
政府を混同するもので、その結果、
国家とは
権力であり、
権力は必要悪である、それゆえ
国家とは必要悪であるといった、単純といえば単純な
議論が支配的でした。
基本的人権とは、本来、
国家からの自由を
意味するものと考えられてきましたが、ここで言う
国家とは、
権力機構としての
国家、つまり
政府にほかなりません。とすれば、立憲主義の
立場から
国家に対して懐疑的となるのはある
意味で当然でしょうし、戦後はこのような
国家に対する批判的、否定的な風潮が蔓延しているようにも思われます。そして、
国家を単なる
権力機構と考えれば、
人権をもって最高とし、
国家といえども
人権に奉仕するために存在するとする宮沢
教授のような見解が支配的となったのも分からないではありません。
このような
国家論の背景にあるのは恐らくジョン・ロック流の
社会契約説だろうと思いますが、
国家ではなく、あくまで
政府の
説明としてであれば、
社会契約説が言うように、
国家、つまり
政府をもって
国民の合意の所産と考えたり、
国民が
国家のためにあるのではなく、
国家が
国民のために存在すると考えることも可能でしょう。したがって、このような
国家論を
前提にすれば、
人権以上の価値は存在しないとする宮沢説も分からないではありません。
しかしながら、
国家と
政府は同じでしょうか。このことは、国を守るという場合の国、つまり
国家とは何かを想起してみればおのずから明らかとなるはずです。ここで言う
国家とは、
国家からの自由と言う場合のそれと異なり、
政府をも含む
国民共同体としての
国家であるはずです。つまり、先祖以来、歴史的に継承されてきた共同体としての
国家のことであり、そうであればこそ、我々
国民はこの国を守っていかなければならないわけであります。
このような
国家論は、かつてヨーロッパで
主張された
国家有機体説に通じるものがあります。その代表的な提唱者は例えばヘーゲルやバークでありまして、例えばヘーゲルによれば、
国家とは、個を含む全体であるとともに、個の独立性をも許容し、高次の統一と調和を
実現する有機的統一体であると、そういった言い方をしておりますし、エドマンド・バークによれば、これもよく知られた言葉でありますが、
国家とは、現に生きている人々だけでなく、死者や将来生まれてくる人々との共同体である、こういった言い方がなされています。また、ブルンチュリー、ゲルバー、ギールケなどといった
ドイツの国法学者たちも、
国家とは、単に法的組織にとどまらない、文化的多様性を持った歴史的存在としての倫理的・精神的有機体、つまり生命体であるとしております。
したがって、ステート、つまり
権力機構としての
国家というのは、厳密に言えば
政府のことであって、ネーション、つまり共通の文化、伝統を持った
国民共同体としての
国家とは別であり、ネーションとしての
国家こそ
国家の本質を示すものと言えましょう。そして、このような
国民共同体としての
国家を
前提にして初めて、
個人を超える価値、つまり
国家の存立といった価値を認めることも可能になり、
国家の緊急事態においては、その存立を守るため一時的に
人権が
制約を受けるということはやむを得ないということになります。
ちなみに、田中美知太郎博士は、「市民と
国家」と題する論文の中で、古代ギリシャのポリス、都市
国家とその市民の
関係について次のように
説明しておられます。
古代ギリシャ人にとっては、
国家は自己をその一部分とする全体であり、
国家は市民を保護する。しかし、
国家の危機に当たっては、市民は自己の生命、財産を犠牲にしてでも
国家を守る。市民の資格の大事な一点は、国を守るということにあったからであると。
そして、これは何も古い昔の話で片付けられるものではないと思われます。現に諸外国では、
国家と
国民は依然としてこれと同様の
関係にあるからであります。
第三は、
人間とは何かとか
人間の尊厳とは何かを考えようとしない
人権論の
問題点であります。
宮沢
教授によれば、
人権は当初、神によって与えられたものと考えられたが、今日では神を持ち出すことはかえって有害であり、単に
人間性とか
人間の尊厳ということでもって
人権を
根拠付けるべきであるとされます。この点、別の論者、例えばジャック・マリタン
教授なども、
人権は前科学的、前
道徳的な確信を言い表したものであって、
人間の尊厳ということを自然科学的に証明することは不可能であると言っています。確かに、
人間の尊厳ということを科学的に証明することは不可能でありましょう。しかしながら、証明できないからといって、なぜ
人間が尊厳かを考えようともしない戦後
憲法学の風潮には疑問を覚えます。
実際、
人間とは何か、
人間の尊厳とは何かを教えないまま、命の大切さということだけを教えてきたのが戦後教育であり、その背景には戦後
憲法学の影響があったものと思われます。一国の総理までが、人の命は
地球より重いなどと語ってきました。そのような教育が戦後半
世紀以上にわたって行われてきたにもかかわらず、
地球よりも重いと言われる人の命を虫けらのように殺したりする青少年による凶悪犯罪は後を絶ちません。
この点、小中学校の学習指導要領では、
道徳の目標として、
人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深めるようにすることが示され、それを受けて、生命の尊さを理解し、掛け替えのない自他の生命を尊重するようにするとされています。にもかかわらず、学校では、
人間の力を超えたものや、それに対する畏敬の念など教えられず、ただ生命の尊重ということだけが教えられますから、自分の肉体、生命や自分の欲望を満たすためには他人の命くらい抹殺しても構わないと思う子供たちが現れても決して不思議ではないでありましょう。
昔から私たちの祖先は、森羅万象の中に宿る人知を超えた大いなるものに対して畏敬の念を抱き、その加護によって生きるのではなく、生かされていると信じ、感謝の思いを持ち続けてきました。そして、その
人間の力を超えた大いなるものとは、宗教的に言えば神であったり仏であったりしますが、そのようなものを
前提として初めて
人間の尊厳や
人権の重みといったことも言えるわけです。
現に、
アメリカ合衆国の独立宣言では、すべての
人間は平等に造られ、造物主、つまりキリスト教の神、ゴッドでありますが、この造物主によって生命、自由、幸福追求の
権利などが与えられるとしております。そして、この独立宣言は今も
アメリカ国民の中に生きているわけであります。また、
ドイツ基本法でも、前文の冒頭で、
ドイツ国民は、神と
人間とに対する責任を自覚し、この
基本法を議決したと述べ、神の存在に言及しています。
このように考えるならば、
我が国においても、
人間を超えた大いなるもの、つまり神や仏等について想像を巡らし、そこから
人権の意義や限界を考え直してみる必要があるのではないかと思います。
限られた短い時間の中でちょっと話を広げ過ぎてしまいましたので、最後の
国民の
義務については触れる時間がほとんどなくなってしまいました。
レジュメでは、
憲法典上の
義務の問題、そしてもっと大事なことは、それ以上に大事なことは、
憲法典以前の問題として考えてみる必要があるんじゃないか。
例えば、遵法の
義務、これは
憲法には書いてありませんが、法治
国家における
国民として当然の
義務であります。ところが、戦後の誤った成文法至上主義、
法律や
憲法典に書かれていなかったならばそれは
義務ではないし守る必要がないといった、そういった成文法至上主義の
立場から
憲法典以前のそういった問題がおろそかにされてきたのではないか。
あるいは、
人権に対する誤解の問題もあります。さらに、
人権の
担い手の意識の問題、自覚の問題があります。つまり、
憲法十二条が言いますように、「この
憲法が
国民に保障する自由及び
権利は、
国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と。つまり、
国民自身が自由や
権利を行使するにふさわしい
国民とならなければならないということを
憲法は示しているわけであります。
また、さらに、先ほども触れました法の
前提としての
道徳の問題、これについてはまた
議論があれば後で御質問にお答えしたいと思いますが、やはり法の基礎にある
道徳というもの、この
道徳というものの大切さ、つまり、目に見えないものを畏敬し、身を慎み、自己の
義務を自覚することによって一人一人の人格を掛け替えのないものとして尊重できるようにする、そういう教育がまずなされなかったならばいけないのではないかということを考えているわけですが、これにつきましては後ほどまた触れさせていただきたいと思います。
以上をもちまして私の
意見陳述を終わります。
どうもありがとうございました。