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参考人(
坪井節子君)
弁護士の
坪井です。今日は発言の機会を与えていただきまして、ありがとうございました。
共生社会に関する
調査会が
子どもの
虐待問題を取り上げたという視点、敬意を表したいと思います。
共生、正しく
子どもと大人が共に生きる
社会を目指すという意味で、
子どもの
人権保障の視点から
子ども虐待をとらえるという非常に重要な問題提起をしていただいているというふうに思います。
これまで、二回にわたります
参考人質疑の中で、法的観点からの
問題点に関しましてはかなり網羅をされていると思います。したがいまして、私からはこれまでの発言と重複をしない範囲で幾つか発言をさせていただきたいというふうに思っております。
私は、今日は個人として参っております。日弁連や
東京弁護士会の
意見として申し上げるのではございませんので、その点、御承知おきくださいませ。
一つは
虐待をとらえる視点なのですが、
虐待問題と少年犯罪という問題をつなぎ合わせて考えていただきたいということです。往々にして、少年犯罪というのは
子どもたちが悪い子、
虐待をされた
子どもたちはかわいそうな子という形で、全く別の
子どもたちというようにとらえられがちであります。
しかし、例えば、昨年、四十四回日弁連の
人権擁護大会で
虐待と少年犯罪という形で全国的な
調査をいたしました。この中で、一九九七年以降に起きました少年事件、殺人、傷害致死、傷害事件などの重大事件十四件に関しまして綿密な
調査をいたしました。この中で、八件ないし九件に重篤な
虐待が
幼児期にあったということが判明しております。
それから、私自身も非行少年の付添人活動ということをメーンの
仕事にしておりますが、その中で、重大な事件を起こした
子どもたちの背後に
虐待が見えなかったことがないと申し上げて過言でないというのが実感でございます。その意味で、
虐待という視点を少年犯罪と切り離してしまうと、それを放置された
子どもたちが今度は少年犯罪に陥ったときの
支援の仕方に間違いが生じてしまうと、その辺のことを是非とも念頭に置いていただきたいと思います。
その意味で、犯罪少年の処遇に被
虐待児
ケアという視点を是非取り入れていただきたい。それは、
子どもたちの犯罪の再発を予防するためにはどうしても必要なことです。
子どもたちが厳しい処罰を受けただけでは犯罪の再発を防げない。
虐待を受けたそのトラウマが回復されなければ同じ犯罪を犯し続けるというその危険性に注目をしていただきたいということです。
家庭裁判所や鑑別所の中で
調査を行い、あるいはその鑑別を行うときに、この子が
虐待を受けていたのかどうかという視点の
調査が行われているか、あるいは少年院
教育や
児童自立支援施設等の中でこの子の被
虐待児としての
ケアという視点の
プログラムが行われているかといいますと、
現実は非常にお寒いという状況であります。もちろん、最近はこの視点が重要だということは認識され出してはいますけれども、まだまだその視点は貧しいものがあります。
例えば、
児童自立支援施設に収容されております女子の非行少女、この子
たちの背景を探った
調査を伺いました結果、ほとんどが性犯罪ということにかかわっているんですが、この子
たちが、おおよそすべての
子どもが性
虐待の
被害者であったということも判明しております。そういった意味で、その被
虐待児
ケアという視点が入らなければ少年犯罪の再発予防ができないということをお考えいただきたい。
その意味におきましても、
子どもの対策というものが、
虐待は例えば厚生労働省、少年犯罪は法務省、
教育改革は文部科学省というような縦割り
行政の中で行われる。一人の
子どもが実はすべての問題を抱えているということが
現実なのであります。しかし、それを分断した
側面からしか
対応できないような
施策の立法あるいは施行、そういったことから脱しましてもう少し縦断的な形で
子どもたちの問題を見ていただく、そしてその核となるような省庁を作っていただければなというふうに思うのが
一つの希望でございます。
それから、
虐待が起きてしまったときの
子どもたちの救済という視点で私は特に申し上げたいと思いますが、前もってお配りしておりました私のペーパーに目を通していただいてくださってありますと有り難く思いますが、性
虐待を受けた一人の少女に法的
支援をした事件について詳しく御
報告をしたペーパーを配っております。
そうした私は
虐待を受けた
子どもたちの付添いという活動をこれまでしてきましたが、その中で非常に強く感じてきました点を
二つばかりお話をしたいと思います。
子どもたちに対する司法手続、特に家事審判手続というのが、例えば
児童福祉法二十八条、
子どもが
虐待をされている、親はしかしそれを否認をする、
子どもを
児童養護施設に措置しなければいけない、その場合に
家庭裁判所の許可を必要とするという
児童福祉法二十八条という問題があるわけです。あるいは、親権を停止させるとか親権喪失というような手続などもあります。こうした
家庭裁判所の手続の中で、あるいは、性
虐待を受けた
子どもたちが、
父親、祖父、そうした
加害者を強姦罪で告訴をするという形の刑事事件手続というようなこともございます。そうした司法手続の中で、
子どもたちから事情を聴取するということ、このことがいかに必要であり重要であるかということを痛感してまいりました。
虐待をされていた
子どもたちが
自分の
虐待の事実を司法
関係者にきちんと話すというのは、これは本当に困難なことであります。特に被
虐待児が幼い
子どもであればあるほど、それを
自分の言葉できちんと表現をするということが難しい。私が今までかかわった事件の中でも、本当に、一歳の
赤ちゃんの
虐待事件で、亡くなってしまった
赤ちゃんで、しかし親は
虐待をしていないと言った場合、だれも目撃者はいません、物的証拠もありません、
赤ちゃんは何も言えません。その中で、これが
虐待であるということを裁判官に分かってもらうということがどれほど困難かということを感じてまいりました。
もちろん、
赤ちゃんから事情聴取をするということはほぼ不可能に近いわけですけれども、ある
程度の年齢に達したときに、
子どもたちが本当に安全な環境で守られるということ、そして
自分が
虐待の事実を訴えることによって何らの不利益も受けないということ、それによって救われるという展望を持つこと、そうしたことの中できちっと事実を語れるようにする、そうした手続が今の
日本の司法
制度の中では全くと言っていいほど準備をされておりません。そういうことの、まず立件をするための
重要性ということを
一つ申し上げておきたいです。
また、
子ども自身にとって、
虐待をされた事実を語るということ、往々にして、つらい記憶は封印をするということの方が
子どもにとっていいのではないかという発想法があります。これは治療現場とももう少し私どもも
研究を続けていかなければならないとは思いますが、しかし、封印されたままでは、つらい記憶はどろどろになったままいつまでもうごめき続けているというのが私の受けている素直な実感です。
子どもたちも、やはり、つらい過去ではあっても、きちんとそれを見据えて、きちっと
自分の言葉で語り、整理し、それを抱えて一生を生きていくことができるだけのエンパワーメントをされなければならないというふうに思うわけです。その意味でも、
子どもたちが記憶を整理し、供述することの意義ということを知っていただきたいというふうに思います。
また、警察や検察庁での刑事事件としての立件になりますと、大抵の場合、大人の側の強い否認ということにぶち当たります。そして、密室の中の事件ですから物的証拠がない、唯一の証拠が
子どもの供述だけということにもなります。その意味で、
子どもの供述が立件する証拠としても非常に重要になっていくということも知っていただきたいと思います。
しかし、そうした
子どもから事情聴取をすることがどれほど困難か。まず、幼ければそれだけ言葉を持っていないということがありますが、ある
程度言葉を持つようになった
子どもであっても、
虐待をされた
子どもの記憶がいかに混乱をしているか、理路整然と何月何日何時何分何をされたということを
子どもたちは供述することができません。それから、つらい過去を無
意識に隠ぺいをしようとします。ですから、本当は起きていたのに忘れてしまったようなことになってしまう。
私の書いたその原稿の中にもありましたが、その少女は五年間記憶を隠ぺいし続け、もう不起訴寸前になりまして劇的に記憶がよみがえったという、そういう
体験がございました。それほど
子どもたちは忌まわしい過去を隠ぺいし続けるという、無
意識なこともあります。表現力も未熟であります。
それから、度重なる事情聴取に対して非常に嫌悪感を覚えます。何度も何度も聴かれる。
児童相談所で聴かれ、警察で聴かれ、検察庁で聴かれ、裁判所で聴かれる。私ども大人だって、嫌な過去を何度も人前でしゃべること自体はやはりつらいことがあります。にもかかわらず、現在
子どもたちがどれほどの聴取に耐えなければならないか、この辺りも考えていただきたい。
それに対して、聞き手側がどうなっているかといいますと、現在の聞き手側に、
虐待がどうして発生するのかと、あるいは被
虐待児がどのような心理状態にあり、精神状態にあるかということに対しての無理解というのがまだまだ現場の中の大勢であります。
それから、物事を立証し立件するためには、合理的な立証を必要とする、合理的な供述が欲しい。前後に脈絡が、きちんとつじつまが合っているということを要求する。そうすると、混乱した
子どもたちの供述は全く非合理的になりますので、証拠
能力がないということでたくさんの事件がやみに葬られていってしまうということです。そういう意味で、合理的な供述ではなくても、
子どもたちの供述は真実なのだということを受け止める姿勢というものも必要だと思います。
また、
子どもは、供述を引き出すために上から問われて、厳しい質問をされますと口を閉ざしてしまいます。
被害者であっても、残念ながら現在の例えば司法現場では大変厳しい
調査をされるという現状にあります。
子どもたちの言葉を引き出す
能力というものがいかに重要か。
また、
子どもの
人権侵害がどうして起きているかということに関しての誤解もあります。特に、性
虐待あるいは性搾取、
子どもの買春問題等における
被害者ですね、
被害者にもかかわらず
被害者側に落ち度があったのではないかというこの問題が付きまといます。これは強姦
被害者が苦しめられるのと同じことなんですが、この
被害者に落ち度があった、小さな
子どもたちに落ち度があったという視点で、
子どもたちが
被害者であるにもかかわらず責められるという問題も起きております。
こうした問題を運用面で改善をするためには、
子どもの事情聴取に当たる人
たちの研修の充実、
子どもの
人権論、
虐待のメカニズム、被
虐待児の心理などを十分に知っていただく。そして、
虐待を受けた
子どもたちをインタビューする専門家を育成していただきたいと思うわけです。
更に進めまして、
制度面では、
子どもに優しい刑事司法
制度というものを実現していただきたい。
参考例としまして、一九九九年にできておりますタイの刑事訴訟法、これは
子どもからの事情聴取の回数を減らすために、ソーシャルワーカーと警察官と検察官が一堂に会して、一度だけで
子どもの尋問を終えようという
制度でございます。
こうした
制度は、
日本の中ではまだ
構築されておりませんが、是非ともこうした刑事訴訟法の改正、あるいは法廷における負担を減らすために、例えばスウェーデンの法廷では十五歳以下の
子どもたちは法廷に来る必要がない、ビデオで聴取した尋問、それを法廷で証拠
能力があるものとして採用できるという法律ができております。そういった外国の例なども
参考にしていただきまして、
子どもに優しい刑事司法、
被害者を救うための刑事司法を実現していただきたいというのが
一つであります。
それから、これは私
たち弁護士自身への要求ということになるのですが、
子どもの法的
支援をするという担い手、これを育成をしなければいけない。
子どもたちと法律というのは縁が遠いと思われてきております。しかし、
子どもたちが
保護をされ、救済をされ、医学的・心理的治療を受ける、そして最後に
子どもたちは
自分たちが受けた被害を堂々と法廷で語ることができるまでにエンパワーメントをされなければいけない。
これは、フィリピンで
子どもの、性
虐待を受けた
子どもたちの
支援に当たっていらっしゃいますシェイ・カレン神父から私どもが教えを受けたことでありますけれども、
子どもたちが法廷で堂々と被害を恥じずに
加害者を告発できるようになることが
子どもたちの最後のエンパワーメントである、その最終目的であるというふうにおっしゃっていらっしゃいました。そういう意味で、法的
支援ということの
重要性を認識していただきたい。そして、法的
支援をするための
弁護士あるいはそのための財政的な
支援ということもお考えいただきたいというふうに思います。
現在、司法改革という形で問題がいろいろ論議されております。しかし、
子どもの問題にかかわる本当の弱者を救済するための
弁護士の育成というようなことは隠れてしまっております。その意味でも、この法的
支援を行うための
弁護士の
必要性や、あるいはその財源の
必要性などもどうぞ御配意いただきたいと思います。
虐待の中でも、次に申し上げたいのですが、
子どもの性
虐待について、特に具体的な
事例を
支援をしていまして感じたことを申し上げておきます。
どんな
虐待の場合でも、確かに被害発見が非常に困難であるということはあるんですが、性
虐待は特に被害発見が困難です。したがいまして、被害告知ということが容易にできるための性
虐待を受けた
子どもたちへの窓口システム、これは大変難しいのですが、システムをいただきたいし、日常的に
子どもたちに、性
虐待を恥ずべきことではない、きちっと
支援を求めていいのだという
子どもたちへの日常的なエンパワーメントをしていただきたいということが
一つであります。
立証の困難性については、先ほど申し上げました。
そして、回復への道のりの困難性も、身体的
虐待に比べまして性
虐待を受けた
子どもたちの心理的なトラウマというのの深さというのは私も慄然としております。やはり、体だけではなくて心と体の接点である性というものを、尊厳、
人間の尊厳にかかわるそのものを侵害されるということが
子どもにとってどれほど深い傷を与えるかということではないかと思います。その意味で、この回復に寄り添える今のシステムというのはなかなかないのですが、性
虐待については特に特別な配慮が必要だというふうに考えています。
また、再統合という問題につきましても、身体的
虐待の場合ですと、いずれ親元にということを考えるということはあるのですが、私の実感としては、性
虐待を受けた
子どもが親元に帰りたいということはまず言わない。これはやはり性を侵害されることによって、親子ではない、その違った
関係になってしまっているところに、また親子として戻ることができないということがあるのだと思うのです。したがって、再統合を考える上でも、性
虐待の場合はやはり非常に困難だということを念頭に置いて再統合問題も考えていただきたい。
また、性
虐待につきましては、親以外の教師あるいは
児童養護施設の
職員等からの性
虐待というのも実は大変多く隠れております。
虐待防止法は、親、
保護者等からの
虐待について触れておりますが、
現実に
子どもたちが苦しんでいるのはそれ以外の
人間からの性
虐待も多くあります。十三歳未満であれば、暴行、脅迫が伴わなくても強姦罪にはなるとはいえ、なかなかそれが
虐待として認定されにくいという
実情がございます。そういう意味で、性
虐待の深刻さを、
現実をもう少しきちっと
調査の上、立法等にも反映をしていただければと思うわけです。
最後に一言、直接、性
虐待という中で、
虐待防止法の中には取られていないのですが、
子どもに対する商業的性的搾取、
子ども買春、
子どもポルノという問題が、昨年の十二月、世界会議が開かれたことなど御承知おきいただいておると思いますが、この性的搾取という問題が性
虐待の一態様として位置付けられるべきだということを私は
意見として持っております。
やはり性
虐待として位置付けないと、悪い
子どもたち、非行少女
たちという形で、この買春
被害者、ポルノ
被害者たちがいつまでたっても救われないという
現実があります。これはお金を用いた、経済力を駆使した性
虐待であります。その意味で、性
虐待の一端としての
子ども買春、
子どもポルノ問題も位置付けて、この
子ども買春、
子どもポルノ禁止法の見直し等々とも連動させた形で御審議をいただければというふうに思っております。
以上です。