○林(省)
分科員 今、
大臣のお言葉を聞きまして、
大臣も随分と御心配もいただいているんだなと。たしかこの一月の十七日に、確かな学力の向上のための二〇〇二アピール「学びのすすめ」というふうなことを発表もしていただいております。
確かにいろいろな不安なことがあるけれ
ども、前を向いて、新しい
日本の学校
教育の
あり方を、これはみんなでしっかりと見守って、そしてその
成果について、こんなものは恐らく一カ月、二カ月で出るようなものじゃないと思います、一年、二年、場合によっては五年、十年の長い期間で見ていかなければいけないんだろうと思うんですけれ
ども、これは失敗したというふうなことで、えらいこっちゃと気がついたときには本当に取り返しのつかないことになっているわけでございますから、できるだけ細やかな、いわゆる日々の調査といいますか、日々の監視というとこれはちょっとまた皆さん方からおしかりいただくかもわかりませんので、しっかりと目を届かせていただいて、必要に応じた措置をとっていただきたいなというふうに思うわけでございます。
そのような中で、
大臣も、また文化審議会への諮問をなさっていらっしゃいます。国語が大事だ、文化の継承と創造に欠くことのできないものとして国語を位置づけておられて、これは非常に大切なことだろうと思いますが、この国語
教育などは、今、このゆとりの
教育の中で私は心配するのは、国語の時間だけじゃなくて全体の時間が削られているわけでありますけれ
ども、
日本人として必要な、まさに文化の創造にもかかわってくる、あるいは継承にかかわってくるその国語力を子供たちがどのあたりで一番身につけているのかということを考えますときに、この国語の時間の減少というのは非常に私は心配するわけですね。
その分はゆとりの時間のところで補っていけばいいじゃないですかということになるわけですが、こういう教科指導というのは指導者によって随分と差が出てくるものなんです。ですから、あることに大変深い知識を持っておられる
教員だと、例えば自分の得意な
分野のところにわっと子供たちを引っ張っていく。それがすべてけしからぬとは申しません。しかし、ゆとりの時間というのが非常に偏った指導になりはせぬかなという危惧を私は抱くわけであります。いわゆる教師の専門性がそういうところで妙に発揮をされていかないかなと。そして、一番時間をかけて、豊かな
日本人としての感性、特に語感を中心とした感性を養わなきゃいけない国語の授業の減少あたりは、非常に心配するところがあるわけです。
かつて、国立国語研究所の阪本一郎さんが、
日本人の平均的な語彙数、理解語彙というのですが、いわゆる言葉を聞いてその言葉の
意味がある程度にわかる、あるいはその言葉の使い方が、大体こういうふうにその言葉を使えばいいということがわかる、これは理解語彙でありまして生活語彙ではないんです。国語
教育の理想というのは、理解語彙を生活語彙に高めていかなきゃいけない。生活語彙というのは、自由自在にその言葉が自分の言語生活の中で使えるというのが生活語彙だというふうに言われているわけですけれ
ども、その理解語彙が平均的に
日本人成人はおよそ四万八千語でございます。
その四万八千語の理解語彙を持つ
日本人がそれをどこで多く習得しているかといいますと、小学校の五年生、六年生、中学校の一年、二年、この四年間でおよそ二万二千語を平均的に習得しているわけであります。この多くの言葉を、およそ半分近い言葉を習得するあたりのところで時間ががたっと削られてくる、特に国語の時間が削られる。
私は、国語というのはあらゆる
教育のもとになっているんだと。いわゆる国語を、
日本語をベースにして、他の教科にしても、極端に申せば英語
教育にしても
日本語をベースにして教えられているわけであります。したがいまして、国語力の低下、PISAの調査なんかを見ましても、
日本の子供たちのいわゆる読解力といいますか、これがうんと
トップレベルのところでは、少し全体のよさから見れば悪い、そして中間的なところというのが、いわゆる平均レベルのところでは
日本人の子供たちというのは非常にいい
状況にあるけれ
ども、
トップレベルが少ない。これが先ほどの
産学官の話なんかにもかかわっていくんだろうと思いますけれ
ども、優秀な
人材を育てることに支障を来してくるんじゃなかろうかなというような気がいたすわけでございます。
いわゆる基礎
教育の部分、ここをしっかりとやっておきませんと、もう少し言わせていただきますと、国語
教育をしっかりと中心に据えた基礎
教育をしっかりとやっておかないと、必ずやいろいろなところで、それこそ理科離れ、数学離れなんというようなことも言われておりますけれ
ども、我々自民党の方でも随分と、理科離れについてどうすればいいんだろうというふうな
議論を重ねてまいりました。しかし、一番のもとになるところの、豊かな創造性を生み出していくところの、すべて
日本語で発想をして、
日本語で表現していっているわけです。現行の国語
教育を見ていますと、これは私はもう随分と偏ってしまっているというような気がしてしようがありません。
国語
教育というのは、いわゆる文法ですとか語彙ですとか語法ですとか音韻ですとかといった言語事項をベースにして、現行の国語
教育は四本柱と言っていいんですね。大きくは二本です。表現と理解であります。この表現と理解が音声言語と文字言語に分かれるものですから、言うならば四本柱で成り立っていると言っていいわけであります。
この四本柱で成り立っている現行の国語
教育はなぜ偏っているかといいますと、何をしているかというと、文字言語による理解の学習指導、要するに、答案用紙を見て、それに適する答えを書ければいいという
教育に偏り過ぎているわけであります。したがいまして、残りの
三つがほとんどなされていない。例えば、人の話をきちっと聞く、こういう訓練の場面は一切ありません。ほとんど行われていないと言っていいと思います。あるいは、自分の思いを人前で語る。作文なんというようなのは多少されております、多少はされておりますけれ
ども、これも指導者によって大いに偏りがある。自分の考えを人前で音声言語によって表現する、文字言語の表現も少ないんですけれ
ども、音声言語の表現なんてもっと不足しているわけです。
こういうものを補っていくのが私は読書であろうと思っているわけです。お願いしておきました
質問事項、もう
大臣がそこまで、今回の週休二日制、ゆとりの
教育についてお考えをいただいておりますから、そちらの方はもうぶっ飛ばしまして、後の方のところを少ししっかりと聞かせていただこうと思うんです。この不足する部分を補うのが、まさに国語
教育では読書なんですよ。
ところで、これはちょっと
質問の通告には出ておらなかったんですが、
大臣は、子供たちに本を読ませる方法といいますか、読書をさせるために
教育現場で何をどうすればいいかというようなことを、ちょっと個人的な御見解で結構でございますので、こういうふうに読ませればいいんじゃないですかというのをちょっとお聞かせいただけませんでしょうか。申しわけありませんが、お願いいたします。