○山内(惠)
委員 今
局長にお答えいただきましたが、いよいよこの四月から
学校五日制が始まるわけですから、今のくらいのことは
大臣がしっかりとお答えいただく内容だったんじゃないかと私は
思います。五日制を進めるに当たって、
学力低下論が出てくるときに、このことをしっかりお答えいただけることを、
大臣、できるようでなければ、なぜ今回このような
学力低下論が出てきているのか、そのことに対してお答えしていくに当たっても、この五日制は、今
局長お答えいただいたように、大きな
教育改革ですから、その意味で言えば揺れてはならなかった今なんですよ。それをほとんどお答えいただかなかったということで、私としてはもうちょっとここのところ、質問を続けていきたいと
思います。
一九七一年の中教審、四六答申とも言われているんですけれども、あの段階から過度の
能力主義の
教育をしてきた、
詰め込み教育が始まった、私はこのとき
現場にいましたからよくわかっています。
実は、前にここで配った資料、
大臣の前の
大臣のときだったと
思いますが、配ったことがありますが、高校で使っている不等号が
中学校から小
学校へまでおりてきたりして、それから漢字の字数も高学年に緩く低学年に多くおりてきたり、掛け算も四年生でマスターすればよかったものを二年生にまでおろしてきて、四年生で、割り算はたくさんの長い数を、一けたで割るんなら九九さえ知っていればだれでもできる、それを二けたの数で割るということで、概数という概念が四年生に入ってきたということで、四年生の
子供たちの
算数嫌いが始まったというのが、七一年の中教審以降の
学校の
子供たちの現状でありました。そして、それ以降、この
子供たちは
詰め込み教育で本当にあっぷあっぷする
状況だったと
思います。
だからこそ、ここのところで問題にされたのは、画一的な
教育内容であったり、伝統的な一斉
授業であったり、
競争的な相対
評価の仕方であった、これが批判されたんです。そして、
学校囲い込みのスポーツ文化と言われていたものが、ずっと
学校の
先生方に重くのしかかって、部活、部活に追いかけられてきたというのが
学校現場の、私たちのつらい日々だったわけです。そのことを反省したからこそ、この
学校五日制では生きる力をという
言葉も出てきたんじゃなかったでしょうか。実は、一斉
授業を、もうやはり問題あると
考えた以降、
現場では随分いろいろな工夫をしてきています。
ところで、先ほど、相対
評価がいいとおっしゃった方に対して簡単に到達目標というふうにおっしゃったけれども、あの方は納得されたかなと私は
思いながらお返事を聞いていました。私たち、相対
評価というのは、五、四、三、二、一で、五は何%、一も何%つけなければならない。そして、中ぐらいの
子供をピークにしたこういう山ができるような学級の
子供を見る。だから、
子供たちがどんなに努力をしても、一だった子を二につけてあげるぐらいこの子が頑張ったけれども、クラスで一をつけなければどうにもならない相対
評価だったからこそ、絶対
評価に変えたんです。
絶対
評価を、本当に数字で
皆さんにお示しするのは大変難しいけれども、先ほどの方、オール五の子がいるとおっしゃったけれども、五、四、三、二、一で相対
評価をしているかどうかは、私の体験にはありません。大体三段階にしたと
思います。数字でわかるわかり方で言えば、八十点から百点とった子をよくできた、
勉強によって違いますから、数字は相当
学校によって違うと
思いますよ。それから、
教科によっても違うと
思いますけれども、わかりやすく
算数の例で言うと、八十点から百点とった子はよくできる、四十点から零点までの間の子は理解していない、それで、その真ん中のところはできるという
言葉で書いたり、A、B、Cとして、さっき言ったよくできる子をA、だめな子をCとしてきているわけだから、それを到達目標というんですよ。
ですから、八十点とれるようになった子が全部Aになるのは当然じゃないですか。科目、項目、いっぱいあるんですよ。漢字もよく覚えたのでA、割り算もできるようになったのでA、到達目標をそういうふうに決めたんですから、それを単なる学級の中の順番を知らせる相対
評価と違う
評価をして、
自分はまだ掛け算を覚えていないな、だからCだなとつけられた子は九九を覚えるようにするんですよ。そしたら、次の学期は覚えたのでそこは、次のまた難しい問題も入るからこの子がCがなくなるかどうかわかりませんけれども、掛け算が楽しくなって、割り算もできるようになってCがなくなる。これこそ
子供たちの伸びようとする
意欲を
評価する、そういうやり方が相対
評価ではなくて絶対
評価なんです。
だから、担任もこの子に掛け算を覚えさせてやろう、親も通知表を見たら掛け算を覚えさせてやろう、本人も九九を覚えようということを、この絶対
評価を見ることによって
自分の力を伸ばそうというふうにいくんじゃないんですか。でも、掛け算を覚えるのがみんなより遅かった子はいつまでたっても一であれば、この子の伸びようとすることを伸ばせないといって
評価してきたのが、相対
評価を変えて絶対
評価にしてきたんだということをやはり説明していただかないと、世の中で五、四、三、二、一がいいと思って五ばかりついているよと言われたことに対して、もうちょっと説得力のあるやり方をしていただかなければ、
学校現場の苦しみも
子供たちの努力も
評価されなくなるんじゃないでしょうか。
その意味で、私はここでもう一度改めて言いたいんですが、文科省の揺れが今回の
学力低下論争をますます増強しているように私は
思います。
例えば
子供の現状。私の住んでいる地域、いろいろな
子供たちがいますが、私が仕事を終わって夜ちょっと用事があって十時ごろバス停のそばを通ると、
子供たちが
学校のかばんじゃないものを持って帰ってくるのです。お買い物と聞くと、塾の帰り。こんなのはもう
小学生、
中学生、たくさん、遊び場に
子供がいなくなっています。
おまけに、朝のマラソン。走るのが好きな子も嫌いな子も、朝行ったらすぐ
学校を走れ、グラウンド走れと言っていたんですね。そして、それもただ走るだけじゃなくて、必ずそこに、
学校というのは
先生も一生懸命やるんですけれども、あなたはきょう何周走った、次何周走った、どれぐらいかかったかで、全部走ったらオリンピックの距離だけ走ったよというような表までつくっているんですね。
そんな頑張りをしているところに、朝自習は読書だと来たら、今度はこのマラソンをやめて朝自習です。そうすると、朝、私、
学校の
子供を想像できます。マラソンは好きだったけれども読書は嫌いな子、でも、その子に読書を教える、静かに読んでいる。とてもいい風景が想像できますが、その中に、読書より走りたいな、遊び回りたいなという子も、朝読書を、文科省があんな細かなところまで何で言うのかと私は
思いますけれども、言われるときっと全国の
子供たちが朝読書の時間ふえるんじゃないでしょうか。こんな細かなところまでなぜ
文部科学大臣がやるんですか。ちょっとそこをお聞かせください。短くて結構です。