○石破
委員 残余の時間で、民間防衛についてお尋ねをしたいと思います。
従来、第三分類と言われておったものです。私は、いわゆる
有事法制の根幹は、実はこの第三分類、
国民を保護するための
法制だと思っているのですね。国家総動員だと言う人がいまして生理的アレルギーを覚える人もいますが、これは余り世間で言われていないことだけれども、なぜ日本はアメリカに勝つことができなかったのか、戦争自体が間違っておるということはともかくとして。アメリカの方が総動員体制はきちんとしいていたという物の本を私は読んだことがあるんです。
アメリカにおいては、一九四二年の段階で、もう民需用の自動車はつくってはいけないということになっておった。家族のドライブはしてはいけないということになった。鉄道旅行もしてはいかぬ、鉄のおもちゃもつくってはいかぬ、あるいは鉛筆の鉄製のキャップすらつくってはいかぬということがきちんと決められておったのだそうですよ。
つまり、どれだけ短い
期間で戦争を終わらせて、もとのきちんとした民主主義に復するかということが根幹じゃないかと私は思っている。国家総動員という
言葉はネガティブな響きを持ちますが、どれだけ本当に国の力を一点集中して、その不幸な
事態を終わらせるかということのために何ができるかということは、正面から向き合わなければ、結局は我々の大切な今の民主主義体制というものを守れない結果になるのではないかというふうに私は懸念をするのであります。
最近の戦争の特徴は、民間人が多く犠牲になることだということを申し上げました。かつての中世の戦争、それは勝手に王様同士がやっていたんですね。しかしながら、近代市民社会ができて、
国民同士の戦争ということになっていった。
第一次世界大戦までは軍人と民間人の死者はほとんど同数であったというふうに聞いております。ごめんなさい、第一次世界大戦でも二〇対一ですよね、軍務に服していた人二〇に対して民間人一であった。しかし、これが第二次世界大戦になって一対一になるんですね。戦争によって亡くなった人々の数が、第一次世界大戦では二〇対一であったのに、第二次世界大戦になればこれが一対一になった。朝鮮戦争になったら一対五で、民間人の方が多く犠牲になった。ベトナム戦争に至っては一対二〇、民間人が軍人の二十倍も犠牲になったということで、第二次世界大戦後、これはだめだ、民間人をきちんと守ることができなければこれは抑止力にならない、何かあっても民間人がたくさん犠牲になるということであれば決して抑止力にならないんだということで、スイスにおいても、フランスにおいても、ドイツにおいても、あるいはソ連においても、民間人を守るためにはどうするかという
法制を真剣に考えてきて抑止力ということになったはずなのです。
日本の場合には、全然それができていない。第二次世界大戦で日本とドイツにおっこちた爆弾の量を考えてみると、もちろん
期間の長い短いはありますが、ドイツの方が日本の十倍の爆弾が落ちている。しかし、亡くなった人は、ドイツは三十万人、日本は二十七万人。十分の一の爆弾しか落ちないのにほとんど同じだけの人が犠牲になったのはどうしてかということで、アメリカは、戦争が終わった後、調査団を日本に派遣した。
米国戦略爆撃調査団、その報告の中に、そうか、こういうことだったのかということが書いてあります。
日本における防空計画は、
国民の冷淡と無関心、民間と軍当局との間の混乱、調整の欠乏につきまとわれ、日本の役人が適切な民間防衛の必要に気がついたときには、既にそれをなし遂げるには遅かったのである。今でもそのまま通用する
言葉ではありませんか。
政府は戦争が始まるや否や、県や都市に対する統制力を失い、整然とした国家防空
組織活動は見られなくなった。今でも同じではないですか。
そして、日本の民間防衛当局は、将来の空襲の
規模の推定を誤っていた。その結果、アメリカの集中
攻撃は防空
組織の不意を突くことになり、手配や準備の全く整わないうちに完全に圧倒されてしまった。
一般に人員は十分であったが、指導力の欠如と方向違いの努力が効果をそいでしまった。
これ、昭和二十年に出た報告なんですよ。それから半世紀以上たって実は何も変わっていないのではないか、戦争の反省というものはきちんと生きていないのではないかということだと私は思っている。
長官も私も、午後質疑に立つ岩屋議員も、同じ昭和三十二年生まれのはずですよ。そしてまた、
理事をやっておる米田議員も、また浜田議員も、みんな、いろいろな
議論を一緒にしてきました。みんな戦後世代です。おまえたちは戦争を知らないじゃないか、戦争を知らない者が何を言うんだというふうに言われてきたが、じゃ、このような戦争の反省はどのように生きてきたのか。
民間防衛というものはちっともできていない。国会で
大臣はそれぞれ答弁をするけれども、実際の法整備というのはできていない。個人をどうやって守るかという法整備がちゃんとできなくて、そして訓練をちゃんとやっていなくて、本当にそれが抑止力と言えるのか。私は、決して言えないと思っている。
昨日は沖縄が復帰して三十年であった。夜、テレビを見ておると、
有事法制を沖縄ではどう見たかというテレビ番組がありました。怖いですね、物資はみんなとられちゃうんですよ、軍に徴用されるんですよ、従事命令が出るんですよ、逆らえば、従わなければ罰則なんですよ、軍は民間人を守ってくれないんですよというような
報道がなされておりました。
私は、毎年できる限り沖縄に行くようにいたしております。あの南部戦跡に建つ平和の礎というところへ行って涙しない人間は、私はいないと思っています。ひめゆりの塔に立って、涙なくしてあそこに立てる人間もいないと思っています。どうすれば平和になるのかということを我々も一生懸命考えておるつもりなのであります。
しかし、あえて申し上げますが、有事になって、戦時になって、軍事
組織は何に専念すべきかといえば、それは、どうやって敵を一瞬でも早く撃滅をして国に平和を取り戻すかということに専念をしなければいけない。
防衛出動も災害派遣も同時に出るということは、私はあり得ないのだろうと思っている。例えば災害であれば、
自衛隊も来ますよ、警察も来ますよ、消防も来ますよ、国家の総力を挙げて原状の復帰をやりますよ。しかし、有事はそれとは違うんだ。相手は日本の弱いところをついてくるし、次から次から
事態は拡大をしていく。
自衛隊は、そのときにどうやって敵をせん滅するかということに専念をしなければ、これはどうにもならない。
それじゃ、民間人はどうやって守るか。今まで
自衛隊がやっていたことを警察や消防がやる、そして警察や消防がやっておったことを民間防衛
組織がやるということにならなければ私はうそなんだろうと思っているし、そういう
組織はきちんとした民主主義国であれば、あえて申し上げますが、どの国でも当然に持っているんです。日本だけが持っていないんです。民間防衛
法制も民間防衛
組織も、
災害対策基本法に災害はカバーをされているけれども、有事については言及をされておらないのです。これをどのように整備をしていくかという
方針、これが明らかにされなければいけない。
そして、繰り返して、沖縄の経緯。私は、沖縄は、先生方にまたお教えをいただきたいと思っています、あるいは自分の
考え方が間違っておったらばおしかりをいただきたいと思っていますが、私は物の本で読む限りにおいて、ああいう場合に、米軍が上がってくる、米軍が上陸してくる、そのときに、民間人は軍と一緒に行動しては絶対にいけないはずなんですね。軍はそこで戦闘になるわけですから、民間人はいかに軍と別に戦場ではない安全なところへ避難するかということを考えれば、あのような悲しい犠牲は起きなくて済んだのではないか、私はそのような論説を幾つか拝読したことがございます。
いざというときに
自衛隊は何をするか。仮に、海外から敵が侵攻してくる。日本の大きな町はほとんど海岸沿いにありますからね。私の選挙区、鳥取もそうですよ。
大臣の選挙区もそうでしょう。やってきたときに、民間人は内陸へ逃げるんですよ。逃げ惑うんですよ。そして、軍の駐屯地というのはほとんど内陸にあります。戦車部隊なんて特にそうですよね。海の側から内陸に向かって民間人が逃げてくる。陸の側からは
自衛隊が進撃をする。そのときに、だれが交通整理するんですか。だれが避難誘導するんですか。先ほどのミサイルでも、だれが警報を出すんですか、だれが避難命令を下すんですか。
そして、初空襲を日本が受けたときにはドーリットル
攻撃隊というのが来ましたよね。あのときにはいきなり、警戒警報ではなくていきなり空襲警報が出て、逃げる間もなくみんな犠牲になった。東京大空襲のときには、穴を掘って隠れなさいということで、焼け死んだのではなくて酸欠で多くの人が亡くなった。広島の原爆のときには、空襲警報が解除されてからエノラ・ゲイが飛んできた。それで大勢の犠牲が生じたのではありませんか。
民間防衛というのは、
我が国において特に論ぜられなければならない問題であるというふうに考えますが、お考えと、そしてまた整備の
方針、そしてそのために必要ないろいろな
手段ですね。
私は、民間防衛基本法というのをつくって所轄の官庁を決めて、消防であり警察であり、あるいは消防団であり、
自衛隊OBであり警察OBである、民間防衛というとすぐ市民が竹やり持って戦うんだというようなことを言いますが、そんなことでは絶対にない。どうやって市民を安全に保護するかという
法制が何よりも肝要と考えますが、お考えを承ります。