○
伊藤参考人 ただいま御紹介いただきました
伊藤でございます。よろしくお願いします。
今まで三人の
憲法の
先生の方から
お話があったそうでございますが、私は
憲法を専門に
研究している
学者ではございませんが、むしろ、そういう
学者的な
立場からではなくて、
一般国民として、そういう
学者の
先生方が
解釈しておられる学説も含めて、私、日ごろ素朴な疑問を感じている
部分がございます。そういう疑問についてきょうは
お話をさせていただきたいというふうに思って、参りました。
まず、
基本的人権という
言葉からでございます。
基本的人権は、
御存じのように、
憲法十一条それから
憲法九十七条に出てくる
言葉でございます。
基本的人権ということを盛んに言いますので、
憲法の至るところに出てくるかのようにちょっと誤解してしまうわけでありますが、出てくるのはこの十一条、九十七条ということになります。
それでは、この
基本的人権という
言葉をどう
解釈するのかということで、ここで通説的な
解釈ということで、これは
皆様方も
御存じかと思いますが、とりわけ
宮沢俊義先生などがおっしゃられた、
人間性から論理必然的に生ずる
権利であって、換言すれば、人が人たることに基づいて当然に有する
権利である、まあ前
国家的な
自然権というものであると。と同時に、九十七条を踏まえまして、それは
アメリカ、
フランス両
革命が掲げた
政治原理に由来するものである、そういう
解釈がなされております。
とりわけ、その淵源とされる
アメリカ、
フランス両
革命ということで引用されるのが、以下三つ挙げましたが、
バージニアの
権利章典、それから
アメリカ独立宣言、
フランス人権宣言でございます。
中でも、
バージニア権利章典に関しては、「すべて人は、
生来ひとしく自由かつ
独立しており、
一定の
生来の
権利を有するものである。」こういう一節。それから、
アメリカ独立宣言の「すべての
人間は平等に造られ、おのおの
造物主によって、他人に譲りわたすことのできない
一定の
権利を与えられている。」これはちょっと引用するものによって違うんですが、この「
一定の
権利」を「天賦の
権利」と訳しているものもございます。三番目、
フランス人権宣言、「人は、自由かつ
権利において平等なものとして出生し、かつ生存する。」という、これが代表的な
自然権というものを表明する
言葉であろうかというふうに思います。
これが原型とすれば、現代においてこういう
考え方をとりわけ明確にあらわす
憲法の例として、
ドイツ連邦共和国の
基本法が言われるわけでございます。
これは第一条でございますが、「
人間の尊厳は不可侵である。」、そして二項で、
ドイツ国民は「侵すことのできない、かつ譲り渡すことのできない
人権を、
世界のあらゆる
人間社会、平和および正義の基礎として認める。」こういう
条文があるわけでございます。
自然権あるいは人が人たることに基づいて当然に有する
権利というのはこういうものであるということがまず
前提となります。
そこで、私の疑問と申しますか、
考え方をこれから少し開陳させていただきたいと思います。
この資料に
黒ひし形でちょっと付加する
部分をつけておきました。この
自然権というものを考えるときに、実は
前提があったのではないだろうかということを私は指摘したいわけでございます。
端的に言いますと、
フランス革命はちょっと色合いを異にしますが、ここに紹介したものは、
キリスト教的な神という
観念を
前提とした
発想であるということで、
自然権の
条文の
根底にあるのはとりわけ
ロックの
自然権論だというふうに言われますが、
ロックが説いたのは、神のしもべとして創造された
人間が
自然状態において持つ
権利というところから出発して、
社会契約説を唱えたわけでございます。その
ロックの
自然権論の中にも明白にありますように、神のしもべとして創造された
人間という大
前提があるわけでございます。当然、それを受けて、さきに紹介しました三つのものもそういう内容を持っている。
バージニアの
権利章典、これは一つ一つやるにはちょっと時間がございませんので、読んでいただけばよろしゅうございますが、とりわけ下の方、「お互いに、他に対しては
キリスト教的忍耐、愛情および慈悲をはたすことは、全ての人の
義務である」と、神に与えられた
権利であるがゆえにそういう
義務もあるんだということをうたっておるわけであります。
それから、
アメリカ独立宣言は、「おのおの
造物主によって」ということで、これは神ということだと思いますが、神に与えられた
権利なのだと。当然、
独立宣言の中には、ほかにも、神及び神の法のもとにという一番
冒頭の
言葉が来ますし、それから一番最後に、「聖なる
摂理の保護に信頼しつつ」という
言葉がございまして、この「聖なる
摂理」というのも、これは当然神のことでございます。神に対してある
意味での
義務を負うという
観念が
背景にあるわけでございます。
では、
フランス人権宣言はと申しますと、これは
キリスト教の神と必ずしも言えない。
フランス人権宣言の
成立過程にはいろいろ
議論があった。
キリスト教関係者が
キリスト教の神ということを言うべきだ、そういうことも言われましたが、結果的にどうなったかというと、「
国民議会は、至高の
存在の面前でかつその庇護の下に、」ということで、まあ神という
言葉は使いませんが、
人間を超えたそういう高いものの前で
責任を自覚しつつ
権利を確認する、こういう
書き方になっております。
一方、
ドイツの場合は、
ドイツ憲法の前文には、「
ドイツ国民は、神と
人間に対する
責任を自覚し」云々と、
憲法全体を貫く
精神として神ということを明確に言っております。神に対する
責任ということを言っておるわけでございます。そういう
責任というものを
前提にしての、いわゆる
権利という
発想であった。
フランス人権宣言の場合は、その神という
観念はあえて打ち出さなかった。そうすると、
フランス人権宣言で説かれている人とは何ぞやというと、これは神のしもべというわけにはいかない。しからば何だということになると、いろいろ
議論があるわけでありますが、
フランス革命のいろいろな文献の中には新しい
人間という
言い方がされています。要するに、
私利私欲を持たない共和国的な
人間という
言い方です。それで初めて
人権というものは成り立つんだ、そういう
前提を置いて
議論しておったということでございます。
さて、そこで、
冒頭の、人が人たることによって当然に生ずる
権利ということに戻るわけでございますが、我が国の場合、
抽象的個人というものが
前提になっておって、その
抽象的個人の
背景に一体何があるのかということに関する
議論がほとんどなされておらないわけです。
人間は
人間なんだよ、そういう
議論もあろうかと思いますが、私はちょっとそこに疑問あるいは
不満を感ずるわけでございます。
というのは、
人間が
人間であるがゆえに自由を有するんだ、
権利を有するんだ、その
権利には基本的に拘束があってはならないんだ、こういうことになりますと、しかし、その
人間というものは、実は悪を犯すこともある
人間なんですね。あるいはホッブズ的な
言い方をすれば、
人間の本性は
どん欲ということですね。だから、その
人間がその
人間のままでおるならば、万人の万人に対する闘争という形になるんだ、こういう
議論を彼は展開したわけでありますが、私は、このホッブズの指摘というものは忘れてはならない。
いわゆる
ロック的な神のしもべとしての
人間ということで出発するならば、そういうことはある
意味で信仰の
世界で解決がつくのかもしれませんが、何の
前提もない
人間ということを
前提にする場合、その
人間というものは悪を犯すこともあるんだ、あるいは
どん欲という性質も持っておるんだということでございます。
ということは、言いかえますと、その
人間の
定義からは
自己制約の論理が出てこないということでございます。それではいかぬということで、
憲法学者の中には、いや、ここで
前提とされている
人間は、単なる
人間ではなくて、
理性的人間のことだとか、あるいは
人格を持った
人格的存在のことなんだ、こういう
修正派が出てきておるわけでございます。
しかし、その
理性とは何ぞや、
人格とは何ぞやということを問いますと、必ずしも厳密に答えられているようには思えません。というのは、
人間というものは、
人格を持つということは、その背後にある
歴史、
文化、伝統の中で
人格というものは形成される。
昔、
オオカミ少女という話がございました。生まれた直後に
オオカミに育てられた
少女は、
言葉も持たなければ、そういう
人間の
文化に触れることもなかった。発見されて
人間社会に戻ってきたけれども、ついに
人間になることはできなかった、そういう話がございますけれども、
人間が物を考え、そして
人格を形成していくということは、まずやはり
言葉というものが
前提となります。
そして、その
言葉の中に込められたいろいろな
文化の伝承、そういうものの中で
人格が形成されていくというふうに考えますと、そういうものを全く
議論しないでいきなり
人格を出してくるのは、これはちょっと乱暴な
議論じゃないかという感じがしてなりません。そういうことが我が
基本的人権論ではほとんど
議論されていないということに関する
不満を私は覚えるわけでございます。
前提とされる
人間観というものは非常に重要でございまして、
ただ人であるということでいいんだ、こういう、
ただ人であることというその人のことを、マイケル・サンデルという
学者は、
負荷なき
個人という
言い方をあえてしまして、ここには、
歴史による
負荷もなければ
文化による
負荷もない、何にもない
個人である、それは果たして
権利の主体たり得るんだろうか、そういう疑問を出しております。
出発点としての
人間観というところで、私はちょっとそういう疑問を呈させていただきたい。
続きまして、それでは一方、そういう
自然権論的な把握に対して私は疑問を呈したわけでございますが、しからば、それは私が一方的に言っている独善的な疑問なのかといいますと、必ずしもそうではないようでございまして、西洋の
法思想あるいは
政治思想というものをひもといてみますと、大きく分けて
二つ潮流がある。
今紹介したのは
ロック流の
自然権論でございますが、実はそれだけが正統であるわけではございませんでして、例えば
英国における
保守主義、エドマンド・バーク、その源流をたどれば
コークという
法律家がおりましたが、
コークというような人からバーク、そして流れてくる
保守主義の
考え方、それから、
スコットランド啓蒙と言われるヒュームとかアダム・スミスという
人たち、それから、これは
大陸系という
言葉にはちょっと矛盾してきますが、
モンテスキューです。
モンテスキューの「法の
精神」というのは、これはまず
最初に
人間というものを出してきて、そこから演繹的に
議論していくんではなくて、彼は各国のそれぞれの多様な
歴史を学び、
研究し、その中にそれぞれ固有の法の
精神があるんだと。その法の
精神の中から築き上げられた
権利という
考え方、そういうものを明らかにしていったということで、
方法論からいえば非常に
歴史論的な
方法論でございます。
そういう
考え方からいきますと、
権利というものはどういうふうにとらえるかというと、全く
定義のない、
人間とか、あるいは神のしもべなどという
個人をまず
前提とさせるのではなくて、
人間というものを、まず普通の
人間、それも基本的にはいわゆる
国民である。それぞれの国に属する、あえて国と言わなければ、
政治共同体に属する
国民が
歴史の
経験の中で練り上げてきた
観念、とりわけ、その中で
人間というものにこれは必要な聖域なんだというような形で形成されてきた
権利観念、これが
ロック流の
自然権論に対抗する
権利のとらえ方でございます。私は、こういう
考え方にむしろ
重要性を感じます。
英国における
英国人の
古来の自由と
権利という
考え方はまさにそうでございまして、
マグナカルタから始まりまして、
権利の請願、
権利章典という流れで今日まで伝わってきている
イギリス的な
権利観。初めは、
マグナカルタの
時代は、これは当然
封建的貴族の
権利であった、あるいは特権と言ってもいいかもしれません。ところが、それが
歴史の
経験の中でだんだん広がっていって、そして
権利の
章典。
名誉革命の
時代になりますと、庶民にもすべて及ぶ
権利という形で考えられるようになっていった。
それは、
先ほどから繰り返し言いますように、
歴史的に形成されてきた
権利なんだということで、ですから、その
権利も、
合理論によってつくり上げてきた
権利ではなくて、いわゆる
経験主義的に、
歴史のテストを経て伝えられてきた、何度も
修正を加えられながら伝えられてきたそういう
権利観という
考え方でございます。
さて、三番目でございますが、では、
アメリカはどうなのか。
先ほど独立宣言で、あれは
自然権だという
言い方をしましたが、実は、その文言だけを見るとそのようにも読めるんでありますが、最近、
アメリカの
独立革命史はいろいろ
研究を積み重ねてきまして、最近台頭してきた
研究成果によりますと、いわゆる
独立革命におけるジェファーソンの
思想は必ずしも
ロック流の
自然権だけではなかったんだと。
ロック流の
自然権というよりも、むしろ
英国人の
古来の自由と
権利という
考え方が
前提にあって、それがもとになって展開されていったんだと。
ちょっと細かい話はここでは省かせていただきますが、もしあれでしたら後で御質問の中でもう少し詳しく説明させていただきます。
もっと言いますと、
アメリカ独立革命というのは、実は新しく
自然権を打ち立てたんじゃなくて、初めは、我々は
イギリス国民なんだと。その
イギリス国民の伝統的な
権利が
植民地においては踏みにじられていると。それに対するプロテストとして、いわゆる
独立というところまで流れていった。
独立ということになると、
イギリスから分離するわけですから、これは
イギリス国民の
権利というわけにはいかない。そこで、じゃ、どのように論拠づければいいかということで、
自然権的な
言い方をせざるを得なかったということであって、その
思想の
根底にあるのは伝統的な
権利という
考え方であったということでございます。
さらに、その後十年たちますと、
アメリカ合衆国憲法の制定というところに行くわけでございますが、ここではそういう
考え方はとりわけ明確でございまして、
米国憲法を読んでいただければわかりますように、そこには
自然権だとか
社会契約という
考え方は一切ございません。むしろ、
イギリス憲法的な
実定的権利観というものがそこでは表明されていると言ってよろしいかと思います。
そういう、
権利のとらえ方には二つあるということをここでは強調しておきたいと思います。
そこで、
日本国憲法は
自然権ということになって、これがある
意味では常識になっているけれども、本当にそうなんだろうかということについて、ここで簡単に疑問を提起しておきたいと思います。
条文を読みますと、まず
憲法第三章の表題が「
国民の
権利及び
義務」ということになっておりまして、
基本的人権及び
義務とか人の
権利及び
義務という
言い方はしておりません。あくまでも「
国民の
権利及び
義務」というふうになっております。すなわち、第三章は、まず、
国家以前の人を
前提とした
権利ではないんだ、
国民を
前提とした
権利なんだという
言葉になっております。いや、これはちょっと間違ったんだというわけにはいかないと私は思います。
それから、十二条、十三条、これは、今の
学者の
先生方の
解釈というものを一切
抜きにして、虚心坦懐に読んでいただきたいと思うんです。第十二条は、「この
憲法が
国民に
保障する自由及び
権利」。まず「この
憲法が
国民に
保障する自由及び
権利」という
言い方をしています。ということは、やはりこれは
憲法上の
権利なんだ、
憲法が認めたから発生する
権利なんだという
言い方で、
憲法以前にまず
権利があるんだという
考え方を果たして認めたんだろうかという見方が一つできます。
それよりも、私はさらに言いたいのは、「
国民の
不断の
努力によ
つて、これを保持しなければならない。又、
国民は、これを濫用してはならないのであ
つて、常に
公共の
福祉のためにこれを利用する
責任を負ふ。」
国家以前の段階にまず
個人というものがあって、その
個人には
人権というものがあるんだ、
権利というものがあるんだ、その
権利というものはある
意味では拘束されない
権利なんだ、こういう
考え方からいくと、「
国民の
不断の
努力によ
つて、これを保持しなければならない。」と余計なことを言っているということになりますし、「
公共の
福祉のためにこれを利用する
責任を負ふ。」というのは、これは
自然権なんですか、
自然権だったらこんなごちゃごちゃ言わなくてもいいじゃないですかということになる。
自然権を与えてくれたにしては、この
憲法はちょっとけちでございませんかと、あえて私は皮肉も言いたくなるような
書き方ではないか。
そこで、
憲法学者はどうするかというと、これは単なる
訓示的規定であって法律的には
余り意味がないんだ、こういう
解釈をして、この
条文にこだわらないわけです。でも、そうやってすっ飛ばしていいんでしょうか、
憲法に書いてあるんですよということでございます。
自然権であるならば、この
条文はちょっと納得できない
条文ではないかと、私は素人であるがゆえに、そういう素朴な疑問を提起したいと思います。
それから、第十三条、これはまたとりわけ
自然権論者が強調する
条文でもあるわけでありますが、しかし、その後段、「
公共の
福祉に反しない限り、
立法その他の
国政の上で、
最大の
尊重を必要とする。」と書いてある。これが
自然権であったら、「
公共の
福祉に反しない限り、」なんという
言葉は、少なくとも純粋な
自然権論でいけば、余計なことということになろうかと思います。それから、「
立法その他の
国政の上で、
最大の
尊重を必要とする。」これも余計なことで、
尊重するのは当たり前であって、「
最大の
尊重」どころか、絶対の
尊重を必要とすると書くべきだと私は思うんです。それが、
公共の
福祉に反しない限り
最大の
尊重ということでとどまっているのは一体何か。これは、実は
自然権ではないんではないのか。
あるいは、もっと極端なことを言いますと、ここで言われている「生命、自由及び
幸福追求に対する
国民の
権利」、これは
アメリカ独立宣言から来ていますから、これは
基本的人権、
人権のことだという
言い方をするわけでありますけれども、しかし、そういう
前提を
抜きにして虚心坦懐に読みますと、「
公共の
福祉」だの「
国政の上で、
最大の
尊重」だの、そういう
言い方をされていると、これも
憲法上初めて誕生した
権利、そういう
解釈も成り立つんではないか。暴論かもしれませんが、私はあえてそういう関心を持つ。
それから、時間がないので早く行かなくちゃいけないんですが、
配列を見ますと、
自然権であるならば、当然
自由権というものが
重要性を持つはずなんですね。ところが、この第三章の
配列を見ますと、十五条は、公務員の選定の
権利、
参政権ですね。それから、十七条は、
国家賠償請求権。これは、
国家がなければ
存在しない
権利でございまして、少なくとも
自然権という
定義を純粋に追求するならば、こんなところに
冒頭から出てきたんではちょっと論理的でないんではないかということになります。それから、二十五条以下と言った方がいいんでしょうか、
社会権というものが重要だという
言い方をされますが、これもあくまでも
国家を
前提とする
議論ということになります。それは
自然権なんですかということになるわけでございます。
こういう第三章全体の
配列、それから個々の
条文の
書き方を見ますと、これは
自然権だということで権威ある
学者がまず
最初に言ってしまったものですから、この
憲法に書かれているのは
自然権だということになって、それに対して異説を唱えたら、おまえは何も知らないんだという話になってしまうけれども、私は
憲法学者ではございませんので、あえて異論を唱えさせていただくと、ちょっとおかしいんじゃありませんかということを言いたい。本当にこれは
自然権なんでしょうかということなんでございます。
そこで、そういう
立場に立って、じゃ、おまえは
日本国憲法の
権利をどのように位置づけるべきか、あるいはさらに、
日本国憲法を変えてその
権利というものを位置づけるとすればどうあるべきか、そういうことについて私のささやかな
考え方を示したいと思います。
私は、今まで言ってきましたが、
自然権論というものからの脱却を主張したい。そして、
権利というものを、そういう、神を
前提としなければ成り立たないとか、あるいは全くそういう
議論を
抜きにして、いきなり人は人としてそれだけで
尊重されるべきものなんだという
議論で来るのか。これは、私、ある
意味での形而上学だと思うんです。
そうじゃなくて、もっと当たり前の
人間観から、間違うこともあり得る、あるいはある
意味でいろいろな欲望を持っている、時には
どん欲にも走る、そういう
人間をそのまま認めて、しかし、もちろんその
人間はあしきことだけではない、その中に
理性もあれば崇高なものへの願いもある、そういう
人間が、
歴史の営為の中で、とりわけ
共同体に生まれた
人間として、その
共同体から
負荷された様々な
価値観あるいは
人間観、あるいは
人間として守るべきいろいろな道徳、そういうものを念頭に入れて、
共同のその交わりの中で、これだけは守らなければいけませんね、これだけは踏みにじってはいけませんねという形で形成されてき、そしてそれを最終的に
憲法で確認し
保障することになった
権利こそが、これを
権利と言うべきものではないのかということでございます。
あえてそのように
権利というものを
歴史論的、
共同体論的にとらえ、
共同体論的にとらえるということは、ですから、
人間はただ何にもないところに
個人としてぽっと
存在するわけじゃない、
個人としては
存在できないんですね。その
人間が、例えば
人格というものを持つに当たっても、その民族の
言葉というものが必要であります。その
言葉の中で伝承されてきたいろいろな
価値観というものがあって、その中で
人格が築かれるわけでございます。
ですから、そういうものを丸ごととらえて、そして、もちろん、それが全部が正しいというわけじゃございません。その中でいろいろ試練を経ながら洗練されて今日に至ったのが
権利なんだ。しかし、その奧には、その
歴史、
共同体独特の法の
精神が
存在する。その法の
精神を単に否定の対象としてとらえないで、肯定的にとらえようじゃないか、そういう
意味も込めて、私は、
権利のとらえ方を主張したい。
と同時に、
権利というものはそれだけでは
存在しないわけで、それを
意味あるものとするためには、それを支える法と制度というものが非常に重要でございます。
フランス革命は、
人権宣言では非常に立派なことを言いましたけれども、それを実定化していくための法と制度というものにおいて大変な間違いを犯した。その結果、あの
フランス革命は大変な災厄を招いたわけでございまして、
フランス革命二百年のときも、
フランス国内では、必ずしも心の底から
フランス革命を祝うことはできない、そういう
議論があったわけでございます。それは何かというと、
人権観というものももちろん問題であったんでしょうけれども、しかし、何よりも、それを支える法と制度の
議論があまりにも大ざっぱ過ぎた。
一方、ハンナ・アーレントなんかがとりわけ強調することですが、
アメリカ憲法は自由の確立に成功したという
言い方がされます。それは、なぜそれができたかというと、そのための法と制度において、
アメリカ憲法は卓抜な工夫を行ったんだ、そういうことを言うわけでございます。
そういう
意味で、私は、余り理念的な、
自然権だというような、そういう形而上学を振り回すのではなくて、もっと
権利というものを
経験主義的にとらえ、なおかつ、それを支える法と制度というものはどうあるべきかという
議論を現実主義的に展開していくことが、
権利のためにも必要ではないのかということを主張したいわけでございます。
さて、ここで二番目になります。
そこで、
権利の限界ということになります。
冒頭の
議論とも関連しますが、
権利というものの本質からくる限界があるんじゃないか。当然、いわゆる原初的な
自然権論には、神という
存在からくる制約というものは当然意識されておった。それが、例えば
バージニア権利の
章典の
冒頭に紹介した
条文でもあるわけであります。
キリスト教的な道徳を忘れてはならぬということであります。もちろん、それとともに、
人間というのは一人で
存在するわけじゃない、ともに生きているわけでございますから、そこからくる制約もございます。そういう、法で縛る以前に、
権利というものの内在的な制約というのもあるんじゃないか。
その制約はどこからくるかという
議論の中で、ロバート・ベラーという
アメリカの
学者が心の習慣ということを言っている。これはトクビルから得た
言葉なんでありますが、
アメリカの
権利、あるいは自由が今日まで確立して
存在してきた
背景には、やはり聖書的伝統と共和主義の
精神というものがあったんだ、これを
抜きにしたら、
権利は自己崩壊を遂げていたであろう、民主主義は自己崩壊を遂げていたであろう、こういうことでございます。
これは、さらに、トーマス・ジェファーソンの認識でもございまして、彼は、共和国を生き生きと保つものは人民の態度と習俗であるという有名な
言葉を残しておりまして、
権利という
言葉を強調するだけではだめなんだ、大切なのは、ある
意味で
アメリカ国民という以前の
イギリス国民として、その中で培われてきた人民の態度と習俗というものを
尊重し、それを大切にしていこう。それを守らないと、それは民主主義の中に食い込む
国家的潰瘍になる、がんとして
国家を滅ぼすことになる、そういう
言い方をトーマス・ジェファーソンは言っておるわけでございます。
そういう
権利の
自己制約ということの延長の中で、
公共の
福祉という
憲法の
言葉がございますが、これでいいのかということになります。もう時間がございませんので簡単に流させてもらいますが、今、
公共の
福祉を
解釈するに当たっては、これは
人権相互の調整原理なんだということで、できるだけこの
意味を軽く
解釈しようとする
考え方がございます。
しかし、これは、否定される方からは何ということを言うんだと言われるかもしれませんが、やはり
権利というものは、
先ほど言いましたように、
国家あって
存在する、その
国家が崩壊すれば、例えば北朝鮮のあの瀋陽の事件ございましたけれども、あの方々には
権利はないわけですね、その
国家をまず維持しなくてはならない。
それから、社会には
公共の利益というものがあるんだ。その
公共の利益は、実は、道徳、公序良俗という
言葉がございますけれども、道徳によって成り立っている。
これを肥大化させて、これを実体化させて、もうこれで制限するんだ、そういう乱暴な
議論をしろと私は言っているんじゃありません。しかし、やはりそういうものの
議論を避けては通れないんではなかろうか。
外国の例との比較をここで入れておきました。
国家の安全ということは、外国の
立法例にはたくさん入っております。あるいは、
公共の道徳とかそういう
言葉もございます。一方、
アメリカ合衆国憲法では、
権利の制限という形では入っておりませんが、「正義を樹立し、国内の平穏を
保障し、
共同の防衛に備え、一般の
福祉を増進し、」それと両立する限りで、「われらの子孫に自由のもたらす恵沢を確保する」ということになっておるわけです。
こういう
国家論というものは、私は大切ではないか。そうなると、やはり、今唱えられている
公共の
福祉論は、果たしてこのままでいいのかなという疑問を私は持っておるということでございます。
それから、
権利に対する
義務ということでございます。
私は、言っておきますが、何も
義務をずらずら並べろなどというそんな
考え方を持っておるわけじゃございませんけれども、
国家共同体を形成する限り、
義務というものがなくては
国家共同体は成り立たない。我々は、主権者であると同時に、やはり
国家の統治に服している、そういう
立場もございます。当然、そこには
義務があるということであります。
そこで、あえてここで一つだけ、私は、いろいろな
義務を、これはある
意味で書こうが書くまいが当たり前の、例えば遵法の
義務なんというのは当たり前であって、
国家共同体が
存在する限り、遵法の
義務がなかったら成り立たないわけでございますから、そういうものをあえて書くか書かないか、これはいろいろ
議論あろうかと思います。
私は、
国民の
義務としては、国防の
義務というものをぜひ書いていただきたい。反発も多かろうと思いますけれども、今、有事法を
議論されておりますが、いわゆる
国家有事の際、
国民の自発的協力だけで果たしていけるんですかということを言いたい。
ただ、念のために言っておきますと、国防の
義務というのは、兵役の
義務とはイコールではございません。国防の
義務というのは、大きく言えば、いわゆる
国家有事の際における
国民の心の姿勢を論ずるわけでございまして、兵役の
義務というのはまた別でございます。
それと、ここでもう一つ指摘したいのは、自分の国をみずから守るということは民主主義の基本原則ではないのか。か
つて、市民という
言葉は、防衛の
義務を負った
人間にのみ言われた
言葉でございます。
外国の例との比較はここで少し削除させていただきます。
国防の
義務についてはいろいろな
立法例があります。これは西修
先生にお伺いしますと、あらゆる
憲法を
研究しておられますが、
憲法ある国のほとんど大多数、国防の
義務は定めておる、ない方が珍しいというふうにおっしゃっておられまして、有名な国の
条文を見るだけでも、国防の
義務というのはほとんど入っております。
さて、最後に、各論的規定でございますが、私は、特段ここを直せというような、余り各論については積極的な
意見を持っておりませんが、情報に関する
権利、環境に関する
権利というようなことが言われております。これについては、慎重にその外延、内包を確認しつつ新設されることがよかろうと思います。
二番目の政教分離の規定については、これは絶対的分離ではないんだということを、これは最高裁判決で確認されておるわけでございますが、その目的・効果基準というものがもう少ししっかりと確認されるような
憲法の規定に改めるというあり方があっていいんじゃないか。
外国の例との比較でございますが、政教分離というのは、実は例が非常に少のうございまして、七カ国だけでございます。それ以外はむしろ、国教制、イスラムなんか全部そうでありますが、国教制が圧倒的に多い。それから、宗教公認制、例えばスペインなんかそうです。今までのカトリックとスペイン
国家との特殊な関係にかんがみて、カトリックに対しては特殊な地位を与える、そういう宗教公認制、そういうものがございます。政教分離は七カ国のみであるということでございます。
それから、最後にもう一つ指摘しておきたいのは、家族
尊重の規定というものがあってもよいのではないか。この
人間社会の基礎でございまして、
世界人権宣言にもそういう
言葉がございますけれども、私は、これから文明が進めばますます家族というものが危機に瀕する。しかし、やはり
人間にとっての最後のよりどころは家族ではないのかという
考え方から、家族というものを
尊重する。
とりわけ、我が国の法体系の中では、この家族というものの積極的位置づけは余りあるようには思えません。民法の中には家族という
言葉はございません。そういうことを考えますと、家族という
言葉をあえて
憲法の中に入れて、その保護をうたってもよろしいのではなかろうかという
考え方を持っております。
いただいた時間をちょっとオーバーしてしまいましたが、以上をもちまして提起とさせていただきます。