○安
念参考人 御紹介いただきました安念でございます。このような機会を与えていただきまして、まことにありがとうございます。
外国人の
人権につきましては十年ほど前に
論文を書いたことがございまして、本日申し上げることも格別この
中身と違ったことではございません。よほどお暇でしたら、ぱらぱらとめくっていただきたいと存じます。
私もある程度
論文を書いたつもりでございますが、一貫したものがございまして、それは、
中身が一貫しているわけではなくて、私の
論文は一貫してだれにも読まれた形跡がないということでございます。この
論文も、私の非常にマニアックな二、三の友人が読んだということの裏はとれておりますけれども、決して学界の権威ある通説などというものでは全然ございませんし、その上、机の上の
議論を頭の整理のために
整理したという程度のものでございますので、毎日毎日起こるビビッドな
事件に対処しておられます
先生方の御
参考になるかどうかについては大変怪しいと思っておりますが、そういうものとしてお聞きをいただければ幸いでございます。
日本国憲法については、
先生方の
議論も含めて実にさまざまな
議論がなされております。ただ、私の
立場から申しますと、
日本国憲法の
特色は、
格別特色がないということであろうと思っております。つまりそれは、
先進国の
憲法であればどこの国の
憲法にも書いてあるようなことを、どこの国の
憲法にも書いてあるような
言葉で書いてあるというだけのことでございます。それはほかの国の
憲法も大体同じなんですね。
先進国であれば皆同じような
憲法を持っております。つまり、幾つかの自由を
保障いたしまして、また一方では民主的な
政治機構の
根幹部分を規定しているというものでございます。
どこの国の
憲法も大体
先進国であれば同じであるというのはなぜかといえば、それは、
憲法の役割と申しましょうか、
守備範囲というのは実は非常に限定されているからだと思います。つまりそれは、
国家権力を制限して
国民の自由を
保障するという、この一点に結局尽きるわけでございまして、そうだといたしますと、そのための法というものがそれほどバラエティーを持たないというのは、これは一応当然のことではなかろうかと存じます。
恐らく、
日本国憲法の
特色は、
憲法の条文に
特色があったのではなくて、
議論のされ方に
特色があった。つまり、一方では
憲法がすごく好きという人がおる。一方ではすごく嫌いという人がいる。そういうものとして
議論され、時には、
言葉は悪いかもしれませんが、消費されてきた、コンシュームされてきた、そういうところに
日本国憲法の
特色があるというふうに存じます。
ところで、
憲法の役割は、結局、
国家権力を制限して
国民の自由を
保障することだというふうに申しました。恐らく、このことはそう大きな異論はないだろうと存じます。
問題は、どんなものにも、表玄関と申しましょうか、
正面玄関と
勝手口があるということでございます。つまり、
正面玄関はきれいに掃き清めて水を打ってある。一方、
勝手口の方に回りますと、ごみ箱があって、
空き瓶が置いてある。これはどんなものにも大体共通するだろうと思うんです。
憲法も、そう言ってしまえばそうです。
憲法の
正面玄関はすなわち自由の
保障でございますが、その理念は実に気高いものでございます。
日本人の感覚からいたしますと、非常に突拍子もないような概念に聞こえるんですが、自由の
保障という概念の背景には、少なくとも欧米の知的な伝統から申します限りは、
自然法という
発想がございます。その
自然法というのは、神様が
人間に与えた法でございますから、
人間の種類、どういう
人間かにはかかわりなく、
人間が
人間である限りにおいてはすべての人が享受できる、そういう自由、
権利を与えたのだ、こういうふうに建前としては掲げるわけでございます。これが
正面玄関でございます。これは大変美しいもの。
ただ、これは、実はという話が
勝手口の方にございまして、どういうことかと申しますと、すべての人に
文字どおり等し並みに
権利を
保障するというのが理念であっても、現実にはそうはいかないという問題が歴史的には多々あったということでございます。つまり、実は同じ
人間なんだけれども、その中には、ありていに言えば二等
市民と申しましょうか、そういう存在を実は
憲法も
勝手口の方では認めてきたわけでございます。
その
典型例はもちろん奴隷でございます。そもそも
人間じゃない、
財産権の対象として売買される。生物学的にはそれは
人間だということはだれも認めているわけですが、しかし、いわば真っ当な
市民とは同じ
権利を認めることができない。これは
アメリカの南北戦争が終わるまで西欧にも存在していたわけでございます。つまり、一八六〇年代まで存在しておりました。
もう一つは女性でございまして、女性に対する差別が少なくとも法的な
レベルでほぼ撤廃されるのは、
先進国でも第二次
大戦後のことでございます。
もう一つは
植民地でございまして、これも第二次
大戦が終わるまで、終わってからもかなりの間でございますが、
欧米諸国はアジアやアフリカに相当の
植民地を持っておりまして、
植民地の
人間に対しては、本国の
人間とは違うんだと、平等の扱いをしてこなかったというのは、これは事実でございます。
それはいろいろなテクニックを用いて正当化してきたのでございますが、しかし、
理屈の
レベルでは、同じ
人間なのにどうして違いがあるのかということを証明するのは、結局無理だったんだと思います。歴史の流れもありましょう、それから
人間の知的な発達もありましょうが。いずれにいたしましても、こうした
裏玄関、
勝手口のさまざまな問題は、第二次
大戦の終結あるいはそれからしばらくの間、一応、法の
レベルでは清算されたというふうに言ってよろしかろうかと存じます。
しかし、最後まである意味で残っている大規模な問題は、
外国人の問題でございます。
外国人にも
憲法が
保障している
権利が
保障されるのかというのは、これは現代まで残っている
憲法のいわば鬼門と申しましょうか、最もタッチーな痛い
部分でございます。
建前から申せば、自
国民であろうが
外国人であろうが、すべて人なんですから、人である以上、すべての人が例えば
表現の自由、例えば
財産権、例えば
参政権というものを持ってよいはずのものでございます。しかし、この
理屈を実地に適用することはできないということは、これは少なくとも
先進国である以上ははっきりしております。もし
外国人にも自
国民と同じ
権利を認める、
文字どおりの内外人平等を認めるということは、移民を無制限に認めるということでございますから、自
国民にとっては破壊的な影響を及ぼすということは、これははっきりしております。
したがって、どこの国でも、
憲法に明文の規定のあるなしにかかわらず、
外国人の
憲法上の
権利の
享有は制限されているのだというふうに
学説や
判例がずっと唱えてまいりました。
しかし、そうなんだけれども、では、なぜ制限されるのか、
外国人は自
国民とはなぜ違う扱いを受けるのかということを理論的に証明することは大変難しいことでございまして、それは、
憲法の
人権の
考え方が、
自然法という
言葉を使うかどうかはともかくといたしまして、すべての
人間に、
人間であるというただそれだけの
理由で認められるとすれば、これはどうしても突破することのできない大変に難しい問題となって残るわけでございます。これは、今日においても、すべての
先進国の
憲法が抱えている問題でございます。
日本だけではございません、
アメリカでもイギリスでもドイツでもフランスでも、皆抱えている問題だ。そして、いまだに解決はできていない。きっちりと、非常にすっきりとした理論的な解決はできていなくて、今後もきっとできないだろうと私は思います。
さて、
外国人が
憲法上の
権利をどこまで
享有できるのかという問題についての
判例、
学説の態度は、伝統的に驚くほど一致しております。それはこうでございます。
憲法上の
権利は、
日本国民にしか認められないもの、例えば
参政権だというのですが、そうしたものを除いては、できる限り
外国人にも認めるべきだと言ってまいりました。例えば
政治活動の自由、これは
表現の自由の中に含まれるものでございましょうが、
政治活動の自由もまた
外国人にも認められるべきだというふうに主張してまいったのでございます。この点について、こうした抽象的な
フォーミュラとして見ますと、
判例と
学説の間に対立はなかったというふうに言ってよろしかろうかと思います。
問題は、実地の、具体的な問題への適用の
レベルでございます。このような一般的な形式、
フォーミュラの真価が試されましたのが、昭和五十三年、一九七八年の
マクリーン事件最高裁判決と言われております、この分野では最も有名な
判決でございます。
この
事件は、
アメリカ合衆国市民であるアラン・
マクリーンという人物が原告となりましたので
マクリーン事件と言うのでございますが、彼は、
日本に、
英語学校の教師として、
在留期間一年で
入国いたしました。その間、当時
ベトナム戦争のころでございましたので、
外国人ベ平連という、今となっては懐かしい名前でございますが、そこに所属をいたしまして、
平和的デモに随行するというような
反戦活動をいたしました。
さて、一年の
在留期間が切れそうになりまして、まだ
日本に
在留したいということで、当局に、厳密に申せばもちろん
法務大臣にでございますが、一年間の
在留期間の
更新の
申請をいたしましたところ、
法務大臣はそれを不
許可といたしました。その
理由は、
日米関係を損なうような
活動に
日本国内で従事した、したがって、
日本国政府にとっては好ましくない人物であるというので、これ以上
在留を認めるわけにはいかない、ただ、引っ越しの時間は必要であろうから若干の猶予は認めるということで、一年間の
在留期間の
更新の
許可の
申請に対してはこれを不
許可とする、このような
行政処分をしたのでございます。
マクリーン氏がその
行政処分の取り消しを求めたというのが、この訴訟でございます。
途中の経過をばっさりと抜いて、
最高裁に行ってしまいますと、結局、
最高裁は、その処分は適法であると申しました。
その
理由づけでございますが、
最高裁の
判決の
理由づけは大きく二つに分かれておりまして、まず第一に、それまでの
判例や
学説に大いに敬意を表しまして、
外国人にもできるだけ
基本的人権の
享有を認めるべきだと申しました。もっとも、
日本人でしか行使できないような
権利は別だがという留保をいたしました。
では、
マクリーン氏が国内で行った
外国人ベ平連の
平和的デモに随行する行為はどうであったかと申しますと、
最高裁は、ここが大変注目すべきことですが、そのような
活動は
外国人にも認められる政治的自由の
範囲内だと言ったのです。その
範囲を超えているからおまえは追い出されても仕方がない、こういうふうには言っておりませんでした。そうなりますと、どうも
マクリーン氏が勝つような感じがするのですが、そうではありませんでした。
そこからが第二番目でございまして、
最高裁は、確かに
外国人にも平和的な
政治活動に従事する自由は
憲法上
保障されているのだが、そうした
権利は
在留資格制度の枠内でしか認められないのだという
言い方をしております。
在留資格制度というのは、
先生方御承知のように、今日では、
出入国管理及び
難民認定法によってつくられている
制度でございますが、では、
最高裁はこの
在留資格制度というものをどのように理解しているのかと申しますと、こうでございます。
法律の規定している
在留資格制度によれば、
在留期間の
更新を認めるか認めないかは
法務大臣の自由な
裁量に任されているのだ、このように申しました。自由な
裁量に任されているというのは、つまりこういうことです。認めるも認めないも、それはどちらでもよい、仮に認めないとして、どのような
理由で認めなくてもよい、こういうことでございます。
つまり、
日本国内で、
日米関係にとって
日本政府は好ましくないと思うような
活動をしたということを
理由として、
在留資格の
更新を認めなくてもよいのだ、それは
法律が認めている
裁量権の行使の
範囲内の話なのだ、このように言ったのでございます。
考えてみますと、この
判決のつくり方は、やや木に竹を接いだというのでしょうか、異質のものを何か
無理やり接着剤でつけてしまったような、そういう印象がございます。
前半部分では、あなたには
憲法上の
権利として
政治活動オーケーよと言いました。しかし後半
部分では、その
政治活動の自由も
在留資格制度という枠内でしか認められていない、その
在留資格制度のもとでは、あなたに
期間の
更新を認めるかどうかは
法務大臣の自由な
裁量だ、だから、ノーと言ってもそれは自由な
裁量の
範囲内なんだから、出ていってください、こう言ったわけです。
この
判決の
結論を導く上で決定的な意味を持っているものは、もちろん第二の
部分でございます。
在留資格制度の枠内でしか
憲法上の
権利が認められないという
部分でございますが、そうだといたしますと、では、
最高裁はその
在留資格制度というものをどのように理解しているのかということが次に問題となると申しますか、これは最大の問題でございます。
最高裁の理解によりますと、
在留資格制度というのは、
憲法の
外国人の
地位に関する基本的な
発想を踏まえてできているものでございます。それはどういう
発想かと申しますと、
外国人は
日本に、この分野では
本邦にという
言い方をよくするのでございますが、
本邦に
入国し、
在留し、引き続き
在留する
権利を
憲法上は持っていない、そういう
考え方に基づいてできている。では、なぜ
憲法は
外国人に
入国その他の
権利を認めていないと言えるのかといえば、その
理由は、
国際慣習法がそうだからだ。
国際慣習法によれば、
国家が
外国人を自国内に受け入れるかどうかは、その
国家の自由な
裁量によってよろしい。つまり、
外国人の
立場からいえば、
外国に
入国し、
在留する
権利はない、これが
国際慣習法である。その
国際慣習法がある上で、
日本国憲法には、その
国際慣習法を修正するというような態度を見せた条文がない。とすると、
日本国憲法は
国際慣習法を受け入れているのである。ということは何を意味するかというと、
外国人は、
本邦に
入国し、
在留し、引き続き
在留する
憲法上の
権利はないということでございます。
さて、
憲法上の
権利がないということを
前提にして
在留資格制度ができているといたしますと、
入国し、
在留し、引き続き
在留したいという
外国人の希望をかなえるかどうかは、これは
日本政府が自由に決めてよいこと、つまりは、立法府がどのように決めてもよろしいわけです。すべて受け入れるという立法をしてもよろしいし、全く受け入れないという立法、つまり鎖国にしてもよろしいし、ある場合には受け入れ、ある場合には受け入れないというルールの仕方にしてもよろしい、そのようにできているのだというのが、
最高裁の認識でございます。
したがって、引き続き
在留を求める
申請、つまり
在留期間の
更新の
申請については、
法務大臣が自由な
裁量に基づいて判断すればよろしいのだ、このように言ったのでございます。
この
判決の仕方は、
先ほど木に竹を接いだような
表現だということを申しましたが、私は、
前半部分と後半
部分は結局矛盾しているというふうに思います。と申しますのは、
憲法上の
権利は
外国人にもあると言っておきながら、しかし後半
部分で、
憲法上の
権利が
在留資格制度の枠内でしか認められないと言っている。ところで、
在留資格制度は
法律に基づいてできているわけでございます。
出入国管理難民認定法という
法律に基づいてできている。
憲法上の
権利が
法律の枠内でしか認められていないということは、言いかえますと、
憲法上の
権利はないということです。
なぜかと申しますと、その枠組みをつくっている
法律をどんどん
外国人に厳しくして、
憲法上の
権利の
享有がまるでできない、あるいはほとんどできないような
法律をつくってしまえば、これは
憲法上の
権利を
享有していないというのと同じでございますから、そういう状態が許されるというのであれば、そして
最高裁はそれを許されると考えていると思いますが、そうであるとすると、結局、
外国人には
憲法上の
権利はないと言っているんだと私は思います。
この認識は、考えてみますと、恐ろしく薄情なように聞こえますが、頭の
整理の問題としては、私はそう言わざるを得ないのではないかと考えております。それはなぜかと申しますと、これは
最高裁も言っていることですが、くどい
表現を何度も用いて恐縮でございますけれども、
外国人には、
本邦に
入国し、
在留し、引き続き
在留する
憲法上の
権利はないからでございます。そして、
外国人が
本邦に
入国する
憲法上の
権利がないという点については、
判例も
学説も全く異論はございません。みんながそう言っております。このことを
前提といたしますと、
外国人には
憲法上の
権利を
享有する
資格はないんだと言わざるを得ないのではないかと思われるのです。
もちろん、そう申しますと、いやいや、そうではなくて、
入国、
在留の
権利はなくても、他の
憲法上の
権利は
享有できるはずではないか、少なくともそういう
理屈を組み立てることが可能ではないかという反論は当然あるだろうと思うんです。
しかし、
最高裁も
判決の中で示唆しているのですが、私は、その構成は苦しいと思います。と申しますのは、
外国人には
憲法上
本邦に
入国する
権利がないのだといたしますと、
先ほども申しましたように、
日本は鎖国をしても
憲法には違反しないということでございます。なぜかというと、
外国人には
日本に
入国する
憲法上の
権利がないんですから、すべての
外国人の
入国を拒んでも
憲法には違反しないわけです。愚かな政策ですよ、これは。全く愚かな政策ですが、
憲法には違反しないと言わざるを得ないわけです。もちろん、
入国させなくても
憲法に違反しないというだけでございますから、
入国させても
憲法に違反するわけではございません。もちろん
入国させてもいいんです。
しかし、させなくても
憲法に違反しないという以上は、
入国させるに当たって
条件をつけてもいいはずだという
発想に自然になると私は思います。
最高裁もそういう
発想をとっております。つまり、こういうことです。
入国は認めてやろう、ただし、これはあなたの
憲法上の
権利ではありませんよ。さて、その場合に
条件がある。それは、あなたは
日本国内に
入国し、
在留してもよろしいが、
憲法上の
権利は放棄する、あるいはそれを行使しないという
条件でだという
条件をつけることが許されるはずでございます。そのことは、すなわち
外国人には
憲法上の
権利を
享有する
地位と申しましょうか、
資格がないということを意味しているのではなかろうかと思います。
このことは、
先ほども申しましたように、えらく割り切った、ドライな
結論のように聞こえるかもしれませんが、実は、
在留資格制度というのは、今申しましたように、
外国人には
憲法上の
権利がないという
前提でつくられていると考えませんと説明ができないんでございます。
外国人の
在留資格は、いわゆる
活動資格というものについて申しますと、ある特定の領域の
活動しかできないという組み立てになっております。
日本国民にはこんなことは許されるはずないと思うんですね。例えば、私には研究しかできない、ほかのことを一切やっちゃいけない、そういう
人間の
カテゴリーをつくることはできないはずです。例えば、
先生方について、演説しかすることができない、そんな
カテゴリーをつくることは許されないはずです。原則は何をやったっていいはずです。それが、
外国人に適用される
在留資格制度は逆なんです。ある特定の行為しかできないんです。そして、そのような仕組みが、少なくとも、今まで違憲だと言われたことはございません。
だとしますと、
外国人在留制度というのは、
外国人には
憲法上の
権利を
享有する
資格はないんだという
前提でできているというふうに説明するしかないのではないかと私は思います。したがって、私の考えでは、
マクリーン事件の
最高裁の
判決は正しい
結論をとったのではないかというふうに思います。そういたしますと、結局何が残るのかというと、
外国人には
憲法上の
権利はないという、それだけの話でございます。
この
言い方は、恐らく非常に多くの人の反感を買うだろうと思うんですが、私の言いたいことは、
外国人は、
外国人として
入国させてやった以上は、煮て食おうと焼いて食おうと自由だ、いきなり水際で拷問にかけてもいいんだ、そんなことを言いたいわけではもちろんございませんで、結局のところ、
外国人の
法的地位は
法律でつくられるのだからそれでよいではないかという
考え方でございます。
法律によりさえすれば、私は
外国人にどのような
権利を認めてもいいと考えております。これはこれでかなりこの世界では過激な
考え方なのですが、
憲法上の
権利はゼロ、しかし
法律によって
日本人と同じように扱ってもいいというのが私の考えでございます。
多くの
学説は、例えば国務大臣でありますとか、裁判官であるとか、
国会議員であるとか、そういった
公務員には
外国人は就任できないと言っておりますが、私は、これはどうしてなのかよくわかりません。
私は、
公務員というのは基本的には
国民の
サーバントでございますから、
国民にとって役に立つのであれば、
外国人であっても
日本国民であってもそれはどっちでもいいというふうに考えるべきなのではないかと思っております。それは、
法律でそう認めればよろしい。もし働きが悪いのであれば首にすればよろしい、それだけのことではないかと思います。
憲法上の
権利はゼロであるが、
法律によって
日本人と全く平等な扱いをしても許されるのではないかというふうに私は考えております。
私は、
憲法上、
外国人には
人権享有の
資格はないと考えます。一つの帰結でございます。それは
法律で認めればよろしいではないか、しかもそれは
日本人と同じように、いわば制限なく認めてもよろしいのではないかというふうに私は考えております。
第二点でございますが、
外国人に
人権がないというその
結論のさらに奥にある問題の第二点目は、では、
外国人には
憲法上の
権利を
享有する
資格がないとして、そうなると、
憲法上の
権利を
享有できるのはだれか、それはもちろん
日本国民だ、こういうことになるわけです。では、その
日本国民というのは一体何者であるのか。
先生方も私も
日本国民でございますが、
日本国民がだれであるのかということについて、
憲法は何も語っておりません。ただ、
憲法第十条で、
日本国民たる
資格は、
法律でこれを定めると規定しているだけでございまして、それに基づいて、御案内のとおり国籍法という
法律がございます。
私を含めて大多数の
日本国民が
日本国民であるという
理由は、何か実体的な価値に基づいてあるのではございません。
日本国に貢献したからではないし、
日本語がしゃべれるからではないし、
日本の法令に忠誠を誓っているからではないし、
日本食を好むからでもないし、とにかくそういう実体的な価値とは何の関係もございませんで、単純に、父親、母親のどちらか一方が
日本国民であったという、それだけの話でございます。全く形式的な基準に基づいて
日本国民であるかないかが決まっております。
これは、諸国の例、皆同じことでございまして、国籍の付与に関して一々実体的な関係を審査するなどということはコストがかかってできませんので、出生によってすぱっと割り切るわけでございます。しかし、このすぱっと形式的に割り切るということは、
日本国民であるという
地位が実はある意味で便宜的なものであるということを物語っております。なぜ私が
日本国民でなければならないのか、あるいは
日本国民であることが許されるのかということについて、実体的なことは何もないわけです。ただ、生まれたときにおやじが
日本国民だ、それだけの話でございます。そうだといたしますと、本来の
人権の
享有主体、本来
人権を
享有することができるとされている
日本国民という
地位もまた、実は
憲法上の基礎は大変あやふやだということでございます。
だといたしますと、ここからは私は政策論として申し上げたいことでございますが、
日本国民と
外国人との間に非常に大きな差異があるというような立法政策は、フィロソフィーの問題としては望ましくないのではないかというふうに考えております。
さて、最初の問題へ戻りますと、
憲法上の
権利の根拠が、
人間がただ
人間であるというだけのことにあるという原理に立脚いたしますと、自
国民と
外国人を
人権の
享有において差別するということの
理由づけは大変に難しいものでございます。というか、恐らく成功しないだろうと思います。しかし、同じように扱うことは破滅的な結果を導いてしまう。そこで、何だかんだと
理由をつけて、違った扱いをしてもよいというふうに
理屈をこねるわけでございます。
そのこね方の一つが、今私が申しました、昭和五十三年の
マクリーン判決が述べている、あるいは示唆しているところでございまして、結局、
外国人には
憲法上の
権利を
享有する
資格はないのだということでございます。
しかし、だからといって、繰り返しになりますが、立法政策の問題として、
外国人をまさに煮て食おうと焼いて食おうと自由だという扱いをするのは賢明だとは私には到底思われません。ここから先は、まさに国権の最高機関である国会のお仕事であろうと思います。もちろん、これに対しては、
憲法を改正して
外国人の
法的地位を明瞭にせよという御主張はあるいはあるかもしれません。しかし、私は、余りそれは御推奨できる方法ではないと思うのです。
と申しますのは、
憲法というのは、事柄の性質上、非常に抽象的なあるいは一般的な規定の仕方しかできない法典でございまして、そうであるといたしますと、仮に
憲法を改正して
外国人の
地位を決めるといたしましても、さまざまな
意見があるわけでございますから、結局のところは、
判例、
学説が今まで言ってきたように、できるだけ
人権を認めましょうといったような書き方しかできないと思うのでございます。
そうだといたしますと、具体的な問題が起きると、今度は、
憲法にはそれだけしか書いてないわけでございますから、裁判所での裁判官の判断ということになります。つまり、
憲法にざっくりとした条文を置けば、最終的な判断権者は裁判官でございます。一方、
法律で決めれば、最終的な判断権者は
国会議員でございます。結局、どっちを信用するかという問題でございます。裁判官を含む官僚を信用するか、
国会議員を信用するか、これはつまるところ、物すごく単純化して言えば、試験を通ってきた
人間を信用するか、選挙をくぐってきた
人間を信用するか、こういう二者択一でございます。
もちろん、大変な失礼な
言い方ですが、どちらも全面的に信用はできないでしょう。しかし、私の趣味を申せば、試験よりは選挙の方がよろしいと私は思っております。これは別に
先生方にお世辞を申し上げるつもりで言っているのではありません。選挙は厳しいなと。厳しいなというのは、私は渋谷を通って通いますが、あそこで演説をしておられる
先生方を拝見しておりますと、本当にそう思います。私ども学校の教師も、学生が講義をまともに聞かないといって怒るんですが、しかし、私どもは、試験とか単位とかというもので学生をおどすことはできるわけです。しかし、
先生方はそうはまいらない。
渋谷のハチ公を通っている連中というのは、私も含めてですが、
先生方の演説を聞かなければならないいかなる義理もございません。そういう
人間を振り向かせて話を聞かせる、これは大変な技術でございます。それだけのことができるんだから、やはりメリットがあるんだと、こういう
言い方を申しますと大変失礼なことを申し上げているようでございますが、選挙の洗礼を定期的にくぐらなければならないということは大変厳しいことでございまして、意識が有権者と一致する、せざるを得ない、そのことの意義はやはり大きいと思います。
憲法でざっくりとした規定を置いて裁判官に決めさせるよりも、
法律で決めて
国会議員に決めていただいた方がよりよい、あるいはより少なく悪いというのが私の
結論でございます。
時間が余りましたが、これで終わらせていただきます。ありがとうございました。(拍手)