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棟居参考人 本日は、「新
時代の
人権保障」、こう題打ちました
メモを
先生方のお手元にお届けしております。これに基づきまして、四十分ということでお話しさせていただきたいと思います。
この「新
時代の
人権保障」という大変漠然とした
テーマをつけたわけですが、その理由は、
一つには、
人権について、この
調査会で具体的には今回からお始めになると伺っておるというのが一点でございます。それからいま
一つには、
日本国憲法それ
自体の
人権保障、これが新
時代の
人権保障としてそぐわないのかどうかについては、これは
日本国憲法をどう
解釈運用していくかに
かなりの程度依存しております。
したがいまして、短絡的に
日本国憲法の
人権保障規定が新
時代にそぐわないといったようなことを申すわけではなく、その逆に、
日本国憲法で十分新
時代に対応できるというわけのものでもございません。これは、すべて
日本国憲法の
解釈運用に係ってくることでありますし、また、
解釈運用に
一定の
限界が見えたときには、
日本国憲法それ
自体の再
検討も、これは
検討の対象になってこようかと思います。
以上のような
意味におきまして、「新
時代の
人権保障」、こういう大変漠然とした
テーマを打たせていただきました。
まず、一でございます。
「
日本国憲法(
解釈運用)」としておりますが、これは、
日本国憲法を
解釈運用から見た場合の
日本国憲法、こういう
意味でございます。
解釈運用というのは、もちろんさまざまな角度からなされ、
立場によってさまざまでございます。しかしながら、以下
解釈運用と申します場合には、基本的には
判例あるいは
学界の
通説、こういうものを基準にいたしておりまして、
有権解釈機関である
政府あるいは国会がどのような
日本国憲法の
解釈運用をなされてきたかについては、これは私
ども解釈学者の悪い癖かもしれませんが、余り念頭に置いておらないということをあらかじめ御承知おきいただきたいと思います。
それで、この一でございますが、
日本国憲法の
人権保障の
一般的特徴として、以下差し当たり1、2、3、こういう
三つの
特徴を挙げてみたわけでございます。
その第一は、言うまでもありませんが、
日本国憲法は極めてすぐれて西欧的・古典的な
リベラリズム、
自由主義の
伝統の上に立っているということであります。西欧的・古典的な
自由主義というものですが、この古典的という
言葉は、
クラシック音楽がお好きな方であれば、その
クラシックと言うときの古典的という
意味が対応するかと思います。十九
世紀のヨーロッパにおきまして、リベラルな、
経済的な
自由主義あるいは精神的自由、それに基づく
民主主義、これが次第に成長していったということを指して
古典的自由主義と呼んでいるわけであります。
言い方を変えますと、もはや前
世紀になりましたが、二十
世紀に入りまして、
社会権といった
生存権などの
規定が
憲法に導入され、
国家の役割が大幅に変更される。それより以前の、
国家が
国民の自由を放任しておく、これがよいことであるという古典的な
自由主義、この
伝統の上に
日本国憲法は非常に忠実に、まず第一として立っておると言えます。
ただ、今申し上げました二十
世紀的な
社会権、
生存権を初めとして、教育を受ける
権利あるいは
労働基本権などといったものが
日本国憲法にございますが、この二十
世紀的な
社会権規定、これもまた、今挙げました条文に見られるように、
日本国憲法はその点でも世界をリードするような手厚い
規定を置いておるわけであります。
したがいまして、一方におきましては、古典的な
自由主義の
伝統を守りながら、
他方で、二十
世紀に新たに要請されておるところの、
弱者を保護する、こういう
社会権という理念をしっかり書き込んでいる。つまり、
自由主義、そして
社会権、
弱者保護という考え、この
二つの接合といいますか、
両者を併存させておるところに
日本国憲法の第一の
特徴があろう、こう思うわけです。
両者を併存させておると申したわけですが、これは後でもう少し取り上げさせていただきますが、実際には、古典的な、
自由放任主義といった
意味での
自由主義と、
現代的なといいますか、二十
世紀的な、
弱者を保護する、そのために
国家がどんどん
経済にも介入していく、こういうものと連動します
社会権という考えは、そう簡単には、のりでくっつけるようなわけにはいかないわけです。大いなる
矛盾が、古典的な
自由主義と二十
世紀的な
社会権、あるいは
社会国家という
言葉も我々使いますが、こういった
社会権を標榜する、
弱者を保護する
国家、この
二つの
国家像あるいは
二つの
人権群には
かなりの開きがある。
日本国憲法はその
二つを、二兎を追っておるわけです。最終的には
一つの
国家しかあり得ないわけであります。
一つの
人権像しかあり得ないわけです。したがいまして、古典的な自由と
現代的な
弱者保護や
社会権、これは結局のところ
矛盾を抱えたまま
日本国憲法の上では並び立っておる。その
矛盾というのは、
政治の場、
現実の
先生方の
法制定の場で日々顔を出しておるということであろうかと思います。
その点はさておきまして、まず、この1という
日本国憲法の
人権保障の第一の
特徴について、今雑駁な紹介をさせていただきました。
続きまして、第二の
特徴といたしまして、
経済的自由というものに
スポットを当ててみることにいたします。
経済的自由につきまして、これはつい今し方、
古典的自由主義ということを申しました。つまり、
自由放任主義、こういう
観点からすれば、
経済的自由について、これはまさに
レッセフェールといいますか、
国家は
自由放任する、
国民の自発的な総意に任せる、そして
自由競争である。これは、裏を返せば
弱肉強食であるという、よくも悪くも
経済的自由が花を開いておるはずなわけであります。
ところが、
憲法の
解釈運用、こういう面に目を向けますと、この場合の
解釈運用というのは、
判例や
学説という先ほど申しましたような狭い
意味もございますが、より広く
法律あるいは
政府見解等でどのようにみなされてきたかといったものもここで含むことにいたしますけれども、このような
日本社会の中で、
経済的自由が戦後五十年実際どのように生かされてきたか、あるいは場合によっては生かされてこなかったかという面に
スポットを当てますと、
日本国憲法、その
解釈運用の大いなる
特徴、この第二点が見えてくるわけであります。
これも今さら言うまでもないことなんですが、我が国に非常に
特徴的な
お上依存意識、あるいは官の側から民を絶えず主導していく、こういう
行政主導といったものが
現実に存在し、今それを小さな
政府に持っていくということで
先生方頑張っておられると思うんですが、このような
現実を理論的に支える最高裁の
判例と、そして支えというか、これは我々の側での説明ということになりますが、
学界の
通説というものが存在をしてきたわけであります。霞が関の主導する
行政、つまり官僚統制的な
経済というもの、これに対して、実は戦後五十年間、五十年といっても
最初からというわけじゃないですが、
判例、そして
学説は極めて好意的であったということであります。
したがいまして、実際の
日本国憲法における
経済的自由というものは、本来の古典的な
自由主義の
軸足から
かなり離れている、そちらから
軸足を別の方に移してしまっているということが言えます。
どこへ移したかといいますと、
最初に述べました
日本国憲法の
二つの
側面のうちの第二の方、つまり、
弱者を保護する、
社会権の方に
軸足を移したわけであります。つまり、
経済的自由というものが本来は
弱肉強食といった負の面をもたらし得るとすれば、それをあらかじめ、しかも
かなり過剰に回避をしようとしまして、およそそのような
痛みが出ないような
行政主導的な
経済運営を行っていく。そして、それを
判例、
学説は、
弱者を保護するといった
観点からの
経済規制は
日本国憲法も容認しているんだ、あるいは、むしろ
国家の責務ととらえているんだ、このように高く持ち上げてきたわけです。
したがいまして、
解釈運用というフィルターを経た
経済的自由は、実は古典的な
経済的自由ではもはやなくなってしまっておりまして、
かなり大胆な変容を遂げ、あるいはもっとシンプルに言えば、極めて縮小されたものとして、小さな自由でしかないものとしてとらえられてきているということです。
さて、第三に、精神的自由という面についてはどうか。
表現の自由を初めとする精神的自由でございますが、これについても、
判例は余り精神的自由について好んで語りませんので、主に
学説、場合によっては
自分を省みるということになりますが、精神的自由という
議論をするときに、
学者側の
表現の自由の話をするときに、
最初に、あるいは授業の時間をほとんど使って何をしゃべるかといいますと、
わいせつ文書頒布罪という刑法百七十五条の話がメーン
テーマになっております。
その事件が比較的多いということももちろんあるんですが、およそ
表現の自由というものがいかなる
表現についての自由かを問われることなく、およそ何事か
自分の
表現したいものを言うことである、このように概括的にとらえられてきたことが、今のような、
わいせつ文書頒布罪が
議論の中心になってくるといった、ある
意味でおかしな結果につながっておると思います。
すなわち、この
メモに書きましたが、
主権者国民として、言いかえるなら、
公民としての自由という
観点から精神的自由をとらえるという態度が
学界においてはやや希薄だったかなという反省がございます。
これは、
言葉としてはわかりやすい反面、ややきついのかもしれませんが、前
国家的な、つまり
国家よりも前から、
国家抜きで存在し得る、かつ何でもありだ、こういう恣意的な自由として精神的自由がとらえられてきた。前
国家的な自由として
表現の自由をとらえるというのはもちろん必要なことなんですが、
他方では、まさに
国家の中でいかに
発言をしていくか、
政治に参加をしていくかという
公民の自由として精神的自由をとらえるという
観点が、少なくとも戦後の
日本国憲法の我々
学界から見た
解釈運用、つまり、我々
自身の
解釈を含むそれですが、そういったものにおいては希薄であったかな、このように思います。
以上で、この第一の柱についてお話をさせていただきました。
以下、順繰りでございます。
第二の柱としまして、「
古典的自由主義憲法としての「
限界」」、こういうタイトルを打っております。この「
限界」という
言葉に括弧をつけております。これはある種のエクスキューズであります。つまり、
日本国憲法は、およそ
憲法典というのは
かなりそういった
特徴を持っておりますが、相当フレキシブルに読めるわけであります。
法律というのは、
法治主義のもとでは、あらかじめ、コンピューターのプログラムのように、誤解のないように
一義的な
性格を持っておるということが求められるということは一面ございます。しかしながら、
他方では、ある時点でのさまざまな
利益の考量、さまざまな
必要性の取り込み、これをすべて完璧に行うということは不可能であります。常に
現実には新しい事案が登場し、それに対していささか古い
ルールを当てはめてまともな答えを出していく必要があるわけです。
そのような、実際に
解釈運用の場で生かされるべき
法典としては、
憲法典も
法典の
一つでありますので、がちがちの
一義的な明確さというものは
期待できもしないし、またするべきでもないということになります。
したがいまして、
憲法自身がフレキシブルである、さまざまに
解釈できるというのは当然のことでありまして、言いかえれば、新しい
時代に対応して、
日本国憲法も読みかえというものは当然にきくはずのものでございます。読みかえ、読みかえを重ねて、
人権につきましても今日まで至ってまいりました。
しかしながら、柱としましては、先ほど申しましたように、古典的な
自由主義といった
伝統にのっとっておるという
一つの柱があります。そのような
伝統に立脚した、
伝統といっても、
日本古来の
伝統じゃなくて、西欧から受け継いだ、輸入した
伝統ですけれども、輸入したとはいえ、こういう
日本国憲法の柱になっております
古典的自由主義というもの、これがやはり
現代的なさまざまの
人権事象に対応するベースとしては、
限界というものは当然に見えてくるだろうということが言えるわけです。
それはどのような
限界なのかということについて、ここでは差し当たり1、2、3と
三つを挙げておきました。
今、ややごたごたと申しましたが、これはいずれも、
憲法の
かなり自由な
解釈運用によってどうにかならないものではありません。しかしながら、本来の筋としての古典的な
リベラリズムというか
自由放任主義からすると、ちょっと苦しいかなという点を
三つ挙げたわけでございます。
その第一は、消極的自由ということです。
消極的自由というと、何か目新しい
言葉のようでありますが、ここでも薄い字で書いておりますように、
国家からの自由ということでございます。
この
国家からの自由というのは、本来の
自由権はすべてそういう
性格を持っておるわけでございますが、
国家による介入を排除するという
意味であります。
子供が親のいろいろな
干渉から逃げたいという、
子供が主張する自由、これは親からの自由ということでありまして、それと同じように、
干渉を排除する自由として
国家からの自由、すなわち消極的自由というものが古典的自由として
日本国憲法の柱になっているわけです。
しかしながら、
現代におきましては、例えば、これは後でも述べますが、時間の
関係でやや先取りをして申し上げますと、
インターネットというものに自由にアクセスできるということが、
個人の自由な
人格の発展という
観点から非常に重要になっているわけです。
しかしながら、このような
インターネットへの自由なアクセスというのは、
国家によるさまざまの政策的な営為を伴わないと、これは実際には不可能、あるいは相当に時間的に遅いことになる、あるいは、早く
インターネットの
利益を享受できる人となかなかそれを享受できない人の間の非常に大きな
格差が生じてしまう。
それは、単にスーパーが近くにあるか遠いか、新幹線の駅が近いか遠いかという問題よりも場合によってはもっと大きな、例えば
自分が
主権者の一人として世論の形成あるいは
国政そのものに参加できるかできないかといった
観点の
格差さえ、
インターネットを利用できるか否かによってそういった
格差さえついてくるわけでありまして、
インターネットという新しい
人権を取り巻く
現象一つを見ましても、単に
国家が何もしないで
自由放任しておればいいというこの消極的自由の
観点では、実は
国民一人一人の自由な
個人の
人格の展開というものさえできなくなっておる。それだけさまざまのいわば物理的な
前提あるいは
社会システム上の
前提が、
現代において
個人が自由を行使するためには必要になっているわけです。
つまり、ありていに言えば、
物入りになっているんですね、今。いろいろな自由を行使しようというときに
物入りになっておりまして、そこには、
個人が
自由放任で
社会の
自助努力でどうにかなる、あるいはどうにかするべきものと、そうではなくて、
国家が手っ取り早く介入して
整備をするべきものと
二つあるのではないか。
国家が手っ取り早く介入して
整備をすべきものについては、古典的な消極的自由という観念はやや後ろ向きではないかというのが第一点でございます。
続いて第二点ですが、これも
テーマとしては大きいのですが、余り深く申し上げる時間がございません。非
国際性ということでございます。
非
国際性というといかにも響きは悪い、また、
国際協調主義というのは
日本国憲法の柱ではないか、このように思われるでありましょう。これはもちろん当然の御指摘であります。しかしながら、ここでは私は
人権保障に限定をした話をさせていただいておりますが、この
人権保障という
観点からしますと、あくまで
国家対
国民といった、
国民の
権利として
人権が構成されている。
憲法自身も、
国民の
権利義務、こういう
国民という
言い方をしています。
実際の
解釈運用では、いわゆる
国籍を持っておる
国民というものにとらわれずに、自然人であれば
外国人でもといったように、どんどん拡張していくという
解釈を少なくとも
憲法学界ではやっておりますし、また、実際の
社会保障も
国籍の有無を問わず拡大適用されていくといった傾向もあると思いますが、本来の
憲法のつくりとしましては、
国家対
国民という
意味で、
国民の外といいますか
国家の外に
人権保障の
観点で目を向けたものではないということであります。
さらに第三に、これも大きな
テーマですが、私
人間関係について、基本的には、この古典的な
自由主義の
憲法はおよそ目配りをしていないということでありまして、
日本国憲法も基本的にはまたしかりということになります。
これはどのようなことかと申しますと、あくまで
憲法が
保障している
人権というのは
国家対
個人、そして、先ほど消極的自由というところで
国家からの自由と申しましたが、このような消極的自由、あるいは
国家からの自由というものは、比喩的に言えば垂直的な
関係であります。
国家権力というもの、これを上と言っていいのかどうかわかりませんが、
国民に上位するものと考えますと、
国民の水平的な横の
関係、
民民の横の
関係ではなくて、官と民という縦の
関係、比喩的に言えばその縦の
関係こそが、従来の古典的な
自由主義憲法のもとでの消極的自由という
自由権が、あるいはその他の
人権が
保障し
一定の規律をしてきたところのものなわけですね。
つまり、
個人と
個人、あるいは社員と
企業といった私
人間につきましては、これは、
先生方が
立法でさまざまの
ルールづくりをされる、現になされておるわけであります。したがって、
立法者は私
人間関係に対して決して放置をしておるわけではない。しかしながら、
憲法はどうなのかというと、
憲法自身が私
人間の問題に踏み込んで
一定の
人権上の
ルールをつくっているということは基本的にはないわけです。
このように、古典的な
自由主義憲法であるということから、よくも悪くも、今申し上げましたような、消極的自由である、非国際的である、私
人間関係を放置しておる、こういう
三つの
特徴が、そして、言いかえれば
限界があるということが指摘できると思います。
以下、もう少しスピードアップさせていただきますが、この二ページ目の柱の三、「
古典的自由主義憲法としての
日本国憲法と、
運用面でのズレ」ということでございます。
先ほど来申し上げてきました
日本国憲法の古典的な
自由主義という本来の素性といいますか姿、これは、実際の
日本社会あるいは
国政の上で戦後五十年の間に
かなりの程度変容されてきたわけでございます。
この第一の点、
経済的自由の点については既に先ほども申し上げましたが、ここでもう少しだけ詳しく述べさせていただくならば、「(
現実)」と書いてあるところの
真ん中より少し上に、
積極規制という
言葉を出しておりますが、これが霞が関的な
官僚主導経済を
側面からサポートしてきた
判例の擁護であり、また
学界も
通説はそれをもろ手を挙げて支持してきたところのものでございます。
この
積極規制といいますのは、
憲法が
保障しております営業の自由といった
職業選択の自由ですが、
経済的自由に対して、最終的には
弱者保護を目的としておるということが恐らく織り込まれておるはずですが、
国家が
経済政策、
社会政策を展開するという場合には、
個人ないし
企業の
経済的自由という
憲法上の
人権は大幅に制約をされてもそれは
合憲なのだ、こういう考え方であります。
今、大幅に制約されても
合憲だと申しましたが、もう少し技術的に言いますと、裁判所が
憲法違反だという
判決を基本的には出さない、こういうお
墨つきを昭和四十年代の
判決が既に行っております。それで、それ以前から続いてきた
官僚主導経済が、まさに
判例のお
墨つきを得まして、その後もずっと続いてきた、ごく最近まで続いてきたということであろうと思います。
これは、
日本国憲法の本来の
自由主義という
観点からすれば、一度も
現実化しなかった。すぐに
官僚主導経済というものの論理に置きかえられてしまったのであって、
レッセフェールといいますか、
個人が自由にベンチャーを起こす、そして
自己責任で、しかしながら、チャンスは平等に分配されておって、自由に起業していく、そして
日本の
経済が活力を持つ、こういう本来の
自由主義に込められた
自己責任とか場合によっては
痛みといったものが一度も
現実化してこないという、ある
意味では正反対の
解釈運用が
経済的自由についてはなされてきたということが言えようと思います。
精神的自由についても、これは先ほど申し上げたことを少し詳しく述べておるだけなわけでございますが、
真ん中より下の辺に書いておりますが、精神的自由の担い手は
主権者国民という
公民、これが中心だという精神的自由の本来の位置づけが、我々の側といいますか、
学界の側では少なくとも薄かったように思います。
最近の情報公開といった制度は、
公民の自由、
公民意識というものを育てる上で非常に貴重かというふうに私は思いますが、従来は、少なくとも精神的自由と
民主主義との相互
関係の意識は希薄だったかなという気がします。
なお、これは本筋ではありませんが、
個人情報保護法案につきまして、特に報道機関の位置づけ等につきましてさまざまな異論が世論の中にもあり、また
学界でもいろいろな
議論がございます。これは、ここでにわかにどうこう申し上げるような場でもありませんし時間もございませんが、プライバシーというものが、ある
意味で
表現の自由に対して何か異物であるかのように、敵対的なものであるかのようにとらえられているという、そういったプライバシー対
表現の自由という二項対立的な物の見方がありまして、そこから
個人情報保護法についてもなかなか厳しい評価が出てくるということになるのであろうと思います。
しかし、私は、このプライバシーといったようなものが、まさに
表現の自由あるいは
公民が自由に
政治参加をしていくというときの基礎をなすと考えますので、プライバシー対
表現の自由という見方
自体は精神的自由のとらえ方としてちょっとどうかなというふうに思っております。
さて、四の
日本国憲法あるいはその
解釈の課題ということですが、これは今まで私が述べてきましたことを裏返してとらえていただければそれで答えは出たようなものでございます。
まず第一に、積極的自由という理念が必要ではないか。
先ほど、消極的自由という
性格を古典的な
自由主義憲法である
日本国憲法は持っておる、こういうふうに申し上げました。消極的自由では、しかしながら、例えば
インターネットのようにインフラを
整備する、そこで
国家がむしろ主導権を持つべきだ、こう言えるような新しい
人権を取り巻く条件づくりについては消極的自由という古い理念では対応できない。としますと、積極的自由、つまり
国家による自由、あるいは
国家による自由の
前提条件の
整備という、レジュメで言うと三ページの上の方ですが、
国家による自由という
意味での積極的自由が、
日本国憲法そのもの、あるいはその
解釈運用のレベルで求められていくということであると思います。
次に、二番目でございますが、消極的自由、
国家からの自由という先ほど来述べてきました考え方は、
国家が何もしなければ
国家あるいは
国民にとってベストであるということでありますから、何もしないのがベストである、つまり、介入をせずにじっとしておれ、せいぜい夜回りをして
社会秩序、犯罪防止、これだけやっていなさい、これが古典的な
自由主義の教えでありましたから、その根底にあるのは
国家あるいは権力の性悪説であります。
しかしながら、権力というものが悪であるという発想にただとらわれていますと、権力というものが持ち得る非常にスピーディーで抜本的な紛争解決能力、問題の解決能力、こういう得がたい、ほかにはない可能性というものをあらかじめ捨ててしまうことになるわけです。
国家性悪説に立ちまして、ただ
国民が自由に放任で起業しておれといって何もしなければ、まさにその起業さえも全くなされないといったことに恐らくなるわけでございまして、制度設計の合理性を担保していくことはまさに
立法権を初めとする
国家権力の
人権に対する大いなる責務である、このように考えるべきであろうと思います。
その場合に、これはちょっと細かくなりますし、また時間の
関係もありますので省略をいたしますが、従来の裁判所による司法審査、
現実の裁判所がそのようなことをやってきたわけでは必ずしもありませんが、
学説がそうやるべきだと言ってきました考えは、とにかく
人権の側のコストを必要最小限にしろという、比例原則といいますけれども、その考えばかりを強調してきました。
しかしながら、別に必要最小限でなくていいというわけではないのですが、コストが小さければいいという考えではなくて、コストというのは、あくまで何を達成するかという目的とのバランスで決まる相対的なものでありますから、むしろ制度設計
自体が合理的なのかどうかという、政策の目的の合理性、そちらに、司法あるいは
立法についてさまざまなコメントをする
学説の側も、制度設計そのものの合理性の方に目線を移すべきだろう、このように思います。
続いて、3でございますが、古典的な
自由権というもの、そして
弱者を保護するための
社会権、
生存権というもの、これを余り
両者の
関係をはっきりさせずに、とにかく接着剤でつけたように
二つを並べておる、これが
日本国憲法の
特徴であるということを冒頭来申してきました。
そのような
自由権もしくは
社会権あるいはその両方といった、
人権相互の峻別論というもの
自体がいささかもう古臭くなっておるかなという感想を私は持っています。むしろ、
自由権、
社会権あるいは
国政に参加をする参政権、こういった古典的な分類論
自体を超えた複合的な
現代的
人権というものを考える必要がある。
これを
規定の上で明記すべきか、それとも
解釈でどうにかするか、これはもちろんさまざまな評価があります。ただ、
解釈でどこまで古典的な本来古いはずのものを
現代的にいわば読みかえをしていくことができるかなどについては、
現実に
解釈をやってみるといろいろ無理も出てくる面もあるのではないかなと思うのですが、ともかく、今まず理念として、
自由権と
社会権と参政権といったような、全然別のものなんだ、それぞれ違うんだという、小さなグループに分けるといった理念を変えまして、むしろそれぞれすべての面をあわせ持った複合的な、
個人の尊厳を支えるための
一つの包括的、複合的な
人権の理念が必要ではないか。
その例としては、これはもう説明は要らないと思います、
インターネットへの自由なアクセス権を考えていただければ、これは単なる
自由権というだけではなくて、むしろ生存を確保する
社会権の面あるいは
国政に参加する参政権の面、すべて持っておるのですね。環境権、情報公開請求権、いずれもしかりです。
このように、複合的な
性格づけを持った
人権というものを構想していく必要があろうと思います。
さらに、第四でございますが、「
人権の国際的
保障と国内的
保障の連携」、こういうことをここで申し上げておるわけです。
これは、国際
人権規約、既に批准済みであり、また裁判所も場合によっては国際
人権規約を国内の事件で参照するといったことをやるようになってきておりますので、この国際
人権規約、といっても、その中にA、B
二つありますし、条文ごとにさまざま
解釈に難しい問題がございますが、こういった国際
人権規約に見られるような
人権の国際的
保障、つまり国際条約を通じて
人権を
保障していく、こういう開かれたといいますか国内向けにとどまらない
人権保障が必要でありましょうし、また、このような
人権の国際的な
保障という
観点をとれば、
人権保障について
一定の歩どまりといいますか、国際標準ができ上がってくるわけでありまして、
日本だけの特有の
人権論、
人権保障をやらずに済むということになろうと思います。
ただ、これを言っていますと、グローバル化の波の中で、従来よくも悪くも築かれてきました
弱者を保護するために
国家が積極的に介入するという、先ほど来述べてきました積極的自由とも少しつながるのですが、霞が関的な
行政ということで今は悪い面ばかり着目されていますが、この
弱者を保護するという
日本の戦後五十年の
伝統はどうするんだということになります。
この
弱者保護について、従来、
解釈でそのような
解釈をまかり通らせてきました。しかし、ここに来て、むしろ
日本国憲法本来の姿としては、霞が関的な介入はよくないことであろう、こういう揺り戻しがあると思います、理論の上でも。
しかし、そうやってぶらんこのように行ったり来たり
議論をしておれば学者はいいのですが、実際に
国民にとってあるいは
国家そのものにとってどのような
弱者保護がどこまで
国家の責任でなされるべきかについては、これは
憲法あるいは
憲法解釈の上ではっきりした方がいい、このように思います。
もう時間が尽きておりますが、最後に、私
人間についてでございます。
この
民民という問題については、最近のボランティアといったものが非常に注目をされる
時代におきましては、単なる民という中にボランティアといったセクターもございますので、私
人間の問題が非常に重要になってきておる、このように理解をするわけです。
時間も参りましたので、ここで切らせていただきます。どうも不十分で失礼しました。(拍手)