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結城洋一郎君
結城でございます。
公述に先立ちまして、このような機会をお与えくださいました
憲法調査会の
関係者の皆様、また、詳細な資料を御送付くださいました事務局の方に厚く御礼申し上げたいと思います。
さて、私は、大きく次の四つの柱に分けて自分の考えを述べさせていただきたいと存じます。
第一の柱は、
日本国憲法全体に対する私の基本的考え方あるいは評価についてであります。第二の柱は、現在の
憲法状況を改善しようとした場合、
憲法改正が必要になるであろうと思われる点。第三の柱は、必ずしも
憲法改正によることなしにも対応できるけれども、もし
憲法改正が現実化した場合には、あわせて
改正を行った方が好ましいと思われる点についてであります。そして最後に、第四の柱は、もし
憲法改正が提起されることを想定した場合、その方法に関する私の考え方でございます。
まず、
日本国憲法全体に関する私の評価でございますが、以下のように考えております。
日本国憲法の立脚する諸原理、すなわち、第一に
基本的人権の不可侵、第二に
国民主権原理、第三に恒久
平和主義、第四に権力分立の原理、第五に
地方自治の尊重、第六に国際協調主義は、人類長年にわたる知的、
政治的な営みの到達点であり、いかなる困難があろうとも堅持すべきものであって、これは今後さらに継承、発展させていくべきものと考えております。
この中で、
基本的人権、すなわち、すべての人間の本質的平等あるいは人格的尊厳と言ってもよいと思いますけれども、これは、あらゆる
社会における最高の価値であり、
国民主権原理を初めとする他の諸原理の基礎をなすものであります。したがって、他の諸原理は、相互に補い合いながら、人間の自由性の確保という究極目的に奉仕する手段であると考えます。
このことから、
世界の多くの国はこれらの原理を国の基本方針として掲げているわけですが、
世界に余り例のない
日本国憲法の特色としては、何よりも第九条を挙げることができると思われます。
ここで、特に第九条に関して一言申し上げておきますと、まず、その
解釈といたしましては、第九条は、一切の戦力の保持を認めず、あらゆる場合における
国家の交戦権を否定しているものと解すべきであって、昨今流布され続けているような、自衛のための戦力の保持と自衛戦争は認められるというような
解釈は誤りと言うほかないと私は考えております。
このような自衛戦力肯定論の
解釈は、
憲法の文言に反するのみならず、
憲法制定議会における吉田茂総理大臣を初めとする為政者の
発言、すなわち、いわゆる立法者
意思にも反するものであると言わざるを得ません。
自衛のための戦力をも放棄し、軍事力に頼ることなく平和のうちに
国家の存立を図ろうとする、ある意味では生死をかけたこの決意は、その後五十年以上にわたる
我が国の平和と繁栄の基礎をなすものであって、私個人といたしましては、
我が国が
世界に対し誇りを持って提示し得る手本ともいうべきものであると考えております。
さて、私は、
日本国憲法の基本原理そのものに関してはこのように考えているわけですけれども、しかし、このような考えに立った場合でも、
現行憲法にはなお幾つかの点につき改善の余地があると考えております。
その中には、第一には、
憲法改正を伴わざるを得ないものと、第二には、必ずしも
憲法改正は必要としないけれども、
趣旨の明確化という
観点からは、現
憲法に追加修正を加えた方が好ましいものという二つのジャンルが存在すると思われますので、以下、これを分けて申し上げたいと存じます。
まず、
憲法改正を必要とするものから述べてまいりたいと思いますが、その第一は、
国民主権原理に関する点であります。
現
憲法の採用する
代表システムは、古典的な
代表制、つまり議員任せの
代表制の色彩が色濃く、
国会議員に対する主権者
国民の優位性を確保する手続が不完全であると思われます。
すなわち、
国政次元において
国民が
政治決定に参画する機会はほぼ
選挙に限られ、
選挙における投票行為以外には、例外的に、
憲法改正における
国民投票、最高
裁判所の
裁判官に対する
国民審査及び
地方自治特別法における住民投票に限られている現状であります。そして、これら三つの例外的参加手続は、その存在
意義の重要性はともかくとしても、
憲法施行五十五年の間、さしたる現実的
機能を発揮してこなかったことは周知の事実であろうかと存じます。
この結果、
国民の主権は、結局のところ
国会議員を
選挙する
機能に限定され、あとはすべて議員任せという状態に陥っていると言って過言ではないでしょう。
国民主権、
民主主義の眼目は、みずからがつくったルールに従うという点にあるわけですから、
国民の恒常的な主権性をできる限り担保し得る
制度、すなわち、直接
民主主義的諸手続の併用を
検討すべきであると考える次第です。その例としては、スイス
憲法に定める
国民表決、レファレンダム、あるいは
国民発案、イニシアチブ、
国民拒否といったものが最も
参考になると思われます。
なお、
地方自治法に見られるような議院の解散請求
制度なども
検討の余地があるのではないかと考えております。もしこれらの手続を
導入するということになれば、
憲法を
改正する必要が生じることになるはずであります。
次に、第二の点は、
違憲審査制度に関するものであります。
現行の違憲
審査は、
司法審査に伴う付随的違憲
審査に限定されておりますが、これによりますと、事件
争訟性や当事者適格などの
要件によって
裁判所による
判断が遅滞する場合が生じますし、本人の利益に基づかない争いの場合は司法
判断を求められないことも起こり得ます。この結果、例えば
内閣総理大臣や閣僚の公式参拝とそれに伴う公費の支出などに関しては、現在、司法
判断を求める道がありません。
こうした不都合に対処するためには、付随的違憲
審査制に加え、独立した抽象的違憲
審査を可能とする
憲法裁判所を設置すべきものと考えます。
学説には、
現行憲法上も最高
裁判所に抽象的違憲
審査権を付与することが可能であるとするものもございますけれども、
判例及び
学説の主流はこれを否定しており、
憲法改正によることの方が論理的問題は少ないものと考えられます。
第三の点は、権力分立に関するものであります。
私は、今日における
議院内閣制度は、その本質上、権力分立システムというよりは、立法権と
行政権の二権
統合システムであると考えております。
君主や貴族といった身分
制度が消滅し、これに伴い、
君主と
内閣、これに対抗する
国民代表としての議会といった緊張
関係が消滅した今日、議会と議会によって選出される
内閣との原理的対抗
関係は本来解消しているのであって、両者間のチェック・アンド・バランス
機能は極めて微弱なものとなりました。
また、
我が国における慣行のように、解散権は
首相の専権とされるならば、本来は、議会と
内閣に対立が生じた場合に
国民に信を問うべき手段であったはずの解散権が、
政府・
与党勢力の維持強化の手段に化してしまうことは自然の流れであると思われます。すなわち、
内閣総理大臣は、
政府・
与党が最も人気が高いとき、すなわち、最も解散が必要ないときに解散権を
行使しようとするはずだからであります。
かくして、
議院内閣制度は、立法権と
行政権の
統合化と、
政府・
与党の基盤強化に奉仕する
機能を営むことになると考えます。
したがって、私は、権力分立を追求する以上、
行政権の長が独立して公選されるシステム、すなわち
大統領制が好ましいと考える次第です。ただし、
大統領制といってもその形態はさまざまあり得るのであって、
議院内閣制との混合形態、すなわち半
大統領制と呼ばれているようなシステム、これもまたさまざまな形態があるわけですけれども、これも
検討に値すると考えます。
このほか、現在はいわゆる
首相公選制も考案、提唱されているわけでありますが、私は、イスラエルの失敗をもって直ちに
首相公選制を否定すべきものとは考えておりません。
いずれにせよ、権力分立という
観点からは、
大統領制を
中心に
検討することが望ましいと考えている次第です。
次に、必ずしも
憲法改正を必要とはしないかもしれないけれども、
憲法改正を行う場合にはあわせて考えた方がいいと思われる点について
意見を述べさせていただきたいと思います。
憲法の
趣旨を明確化するという次元でいいますと
議論は尽きないと思われますけれども、ここでは
人権規定にかかわる主要な点に焦点を絞ってお話をさせていただきたいと存じます。
まず第一は、
公共の福祉という文言であります。
憲法は、十二条、十三条という包括
規定と、二十二条、二十九条という個別
規定の両者にこの文言を用いており、そのため、この概念の意味及び適用範囲の理解に関し、
学説上の対立を引き起こしました。
また、一部
学説や
判例のように、この概念を
国民全体の利益と解した上で、あらゆる
人権は
公共の福祉によって制約されるとする見解をも生み出すことになったのであります。このような見解は、個人は全体のために犠牲になれと言うに等しく、
人権の至高不可侵性に正面から矛盾するものと考えます。
このような誤った
解釈の余地を残すことのないよう、
人権一般の制約原理としては、他人の
権利を侵害しないことというふうな表現に変更することが望ましいと考えております。
第二は、抵抗権でありますが、
民主主義・
国民主権原理は、個々人の
人権の承認を出発点とし、最後に個々人の抵抗権に帰着する一つの完結した論理体系を持つものであって、このことに対する
国民的理解を促すためにも、抵抗権を
憲法上明記することが好ましいと考えております。
その他の
権利を幾つか考えてみますと、いわゆる新しい
権利としてのプライバシーの
権利や
国民の知る
権利などは、
憲法上明記しておいた方が好ましいと考えております。
また、
外国人の
参政権につき、定住
外国人に対しては地方
参政権を付与すべきものと考えますし、さらに、いわゆる在日と称される
我が国の
政策に起因する特殊な永住
外国人に対しては、その生活実態に即して、
国政に対する
参政権も
保障すべきものと考えます。
このほか、刑事手続に関する
規定などについても、より明確にしておいた方が好ましい幾つかの点を感じておりますが、ここでは省略させていただきたいと思います。
最後に、
憲法改正の提示方法に関する私の考えを申し上げて、結びとしたいと存じます。
今後、もし万一
憲法改正を提起する場合には、特に相互不可分の条項以外には、各条項ごとに賛否を問うべきであって、全体を抱き合わせにして問題の所在をごまかすべきではないと考えております。
現在、
我が国の
憲法論議の不幸は、
憲法改正といえばまずもって九条の
改正をいい、護憲、改憲という問題があたかも九条のみの問題であるかのように扱われてきたことであります。私は、このことが、一方において、
憲法改革論議があたかもタブーであるかのような雰囲気を醸成し、他方において、押しつけ
憲法論のごとく、
憲法の他の
条文の意味や価値を深く考察することもなしに、ただひたすら
憲法改正を叫ぶような風潮を生み出しているのではないかと感じております。
憲法を
改正すべきかせざるべきかということは、言うまでもなく、一つの
条文に限定されるべきものではありませんし、九条であれ何条であれ、これを
改正しようとするのも守ろうとするのも個々人の思想、信条の自由であります。自由な思考こそが
人権保障の根幹でありますし、
国民の
意思によって
憲法が定まることこそが
国民主権の大原則であります。
重要なことは、
国民一人一人が、自分が究極的に何を望み、何を望まないかを真摯に考えることであり、一方、為政者の任務は、
国民が何を望み、何を望まないのかを明確に問うことであると考えます。抱き合わせ的採決は、この原則と目的に明らかに背反すると考える次第です。
これで私の公述を終わらせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。