○伊藤(信)
分科員 情報ということと感性ということがどう関係しているのかなと私も常に考えているんですけれども、例えばここに幾つかの肖像画がこの
委員会室にありますけれども、これをどうとらえるかということと、ああ、この方、何代目の何とかということ、これは別のものかなと。あるいは、
個人的に知っている、知っていないがありますけれども、ああ、この人はこういう人だったなという、このことは感性でもあるし、情報処理でもあるわけですね。
今、ITリテラシーとかいうことがやはり重要になって、ITリテラシーというと、何かみんな直結的にコンピューターを使えることみたいなふうにとらえがちですけれども、私は、ITリテラシーというのはもう少し文理融合なアプローチが必要だし、それこそ形而上学的な思考が必要だと思うんですね。
私どもが情報をどうとらえるかというと、まず一義的には、物理現象の差異を認識するわけですね。例えば視覚情報であれば、紙の上に何か反射率の違う、光の吸収率の違うような状況があって、それをまず字と認識するかどうかというのがあって、私は
日本語教育を多少受けているのでこれが読めて、その意味性をとる。
日本語教育を受けている人でも、やはり私と違う意味性をとる人もいるでしょうし、また、
日本語教育を受けていなければ、これは紙の上に何らかの付着物が乗っかっているとしか見ないわけですね。この絵についても同じことで、この方があの党の何さんだと知っている人と知っていない人では、同じ物理現象でも違うわけです。
そう考えてみますと、今、なるほど、インターネットの接続率が各大学や各小中学校で高まった、あるいは各家庭への普及率も非常に高まったということで、一見、情報というものが
世界で十分流通して、そのことによって国際コミュニケーションというものが担保されているように見える。そして小学校、中学校にも、コンピューターの使い方を教えればこれで異
文化コミュニケーションもできるんだというような錯覚があるように思うんですね。ところが、実際その画面に出てくるもの、今、マルチメディアの時代ですから、文字もありますし、映像もありますし、それから音もあると思うんですね。その物理現象をどうとらえて、それに対して意味性を付与したり、あるいはそこから感情や感覚を想起する、その
部分もまた非常に感性に近いと思いますけれども、ということは、極めてその
個人なりその
文化領域にいる人の教育とか感性とか、そういったものとの密接な関連があるわけですね。
ですから、今デジタルデバイドを解消しようということで、皆さんがコンピューターを使えるようにしようと。私もIT講習会の講師を務めた人間でもありますけれども、どうも単にコンピューターが、キーボードがたたければITリテラシーは解消できるというような短絡的な議論に陥っているのではないかなと私は思うんですね。
それから、もう一つの議論を申しますと、今のコンピューターのコーディングというのは、マルチコードじゃなくてユニコード、単純なコードなんですね。そうすると、これから
世界のコミュニケーションというものがインターネットを
中心としたものになっていくとなると、どうしてもそのコミュニケーションのチャンネルに乗らない
文化というものがだんだん消滅してしまうということが言われております。今、
世界に言語が六千ぐらいあると言われていますけれども、大
部分が口承といいますかオーラルのものですから、十年か二十年のうちにそれが三百ぐらいになってしまうという危険性もあるんですね。
ですから、二つの矛盾したことを聞くようでありますけれども、そういう本当の意味のITリテラシーの解消のためのコミュニケーション技術の教育ということ、それから、その中において
文化の多様性、言語の多様性というものを保持していくということを
文部科学省としてはどのように進めるべきかとお考えになっているか、その辺をお聞きしたいと思います。