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今井澄君 民主党・新緑風会の
今井澄でございます。どうも本日はおはようございます。
大臣、副
大臣の
皆さんも、
閉会中何かと
お忙しいところを御苦労さまでございます。特に
扇国土交通大臣にあられましては、本日非常に大事な
日韓の
会議が予定されております。あえて、私、どうしてもお尋ねしたいということでお引きとめしてここに御出席いただいていることに感謝を申し上げておきたいと思います。
今、実は、
委員長の言われたことなんですが、これは私個人の意見というだけではなくて、
与野党を超えて、大勢の
理事あるいは
理事会に出席している
メンバー共通の気持ちですので、まず申し上げておきたいと思います。
私も一九九二年に
参議院に当選させていただきまして、
自分自身が
政治家になるなんということを考えないときに、
参議院というものは余り深く考えたことがないんですね。それで、
参議院になってから、
二院制のもとの
参議院は何だろうかということは、私
自身、当選させていただいて十年目になりますけれども、ずっと考え、追求してきたことであります。
これは
扇大臣も、それからきょうお二人お見えの副
大臣も、ともに
参議院でやっぱりその問題は
自分たちの問題として考えてきたことだと思いますが、
二院制下において
参議院がどういう役割を果たすべきか。これはもう本当に古くて新しい問題で、私
たち自身が苦悩しながら解決し得ないできた。
私は、
参議院は
権力とは
一定の、
国家権力と申しますか
政府と申しますか、
一定の距離を置いた方がいいと思いますので、
大臣にはならないとか、それから
党議拘束はなくして
党派活動は最低限に控えるとか、いろんなことを考えたんですが、そうはいってもなかなか現実的には難しいという中で運営していますし、特にあれは八九年ですか、
与野党逆転現象が
参議院で起こって以来、それから
扇大臣も
与党に入られた理由も実はそこにあるわけですが、
参議院で
自民党が過半数を割ったということから
参議院が
権力闘争の場になってしまったという、非常に不幸な
歴史を
参議院がしょわざるを得なかったということも実はありまして、
参議院が
参議院らしい
機能を発揮できないできたと思うんです。
そういう中で、これは私
自身全く
自己満足かもしれませんが、私は当選させていただいて以来、第二種
常任委員会については一貫して
決算委員会を志望して、
予算委員会はどうしても年期上やらざるを得ないときに一回
理事をやらせていただいたきりで、ずっと
決算委員会で頑張ってまいりました。私の
先輩どももそういう方がおられました。例えば、
自民党ですと、亡くなられましたが
守住有信先生。きょう私が取り上げます
川辺川ダムの問題、前も取り上げたときは大分しかられ、御忠告、お教えを受けましたけれども、例えば
決算男として有名でした。それで、私が当時当選したときは、
社会党には
会田長栄先生という
福島出身の
先生がやっぱり
決算男として頑張っておられました。やはり
公共事業、特に
木曽岬干拓の問題をずっとフォローしてやってこられた。あるいは当時の
日本新党では、今、我々同志であります
円より子先生が
決算女として
国家財政の問題をやっていく。
もう各党とも何人かそういう
決算男、
決算女がいて、この
決算委員会を何とか、
参議院で一貫して言われているのは
決算重視ということなんですね、やってきているわけですが、先ほど
委員長は、お
立場上、しかもまだ決まっていない内容なんでおっしゃりませんでしたが、実は今回、
決算委員会、残念なことに
開会中に開けないんですよね、なかなか。
法案審査とか
予算とか、そういうものが優先されて開けない。だけれども、何とかしてこれを開きたいと
委員長以下御尽力いただきながら、
閉会中、やっときょう開けるようになったわけですが、きょうの
大臣出席と
参考人、
政府参考人出席についていろんな問題が起こったことは
御存じだと思います。
扇大臣については御無理をお願いしてやっと出席していただけるようになったんですが、
経済産業大臣と
農林水産大臣は
中国にきょうから行かれるという、いずれも大事なお
仕事だというのはよくわかるんですね。それから、例えば私の後に
質疑をされます同僚の
谷議員の方からは、
外務省のいわゆる不祥事問題で
野上事務次官を
参考人として要求したところが、あるいは
広野理事もたしか御要求になっているわけですね。これは今、
国民的な課題ですからそうなんですけれども、その
質疑の時間にも外国の大使や何かといろいろな行事がもう入っちゃったということで出られない。私は、この事態は非常に問題だと思うんですね。
大事なことはわかるんですよ。例えば、
扇大臣がきょう
韓国に行かれる、朝から行かれる御予定だった。私は、この大事さ、よくわかります。それから、
農林水産大臣や
経済産業大臣が
中国に行かれる大事さ、非常によくわかるんですね。なぜかというと、私も実は、
日中関係とか
東北アジアの
関係とか、特に今、
世界が騒然としているだけに、
世界の平和とか
経済の安定とか考えたときに、
日中韓がどういうふうに連携してやっていくかというのは実は非常に大事なことだと思うんですね。
それで、私は、ことし九月三日から九日まで
中国共産党の
対外連絡部のお招きで、我が党の
伊藤英成ネクスト外交防衛大臣を団長として
中国を訪問してまいりました。
中国では、
曽慶紅さん、
胡錦濤さんに次ぐ
若手ナンバーツーと言われる方にもお会いして、いろいろ高官とお会いしてまいりました。その中で
中国側は、やはり大変心配しておられたんですね、
教科書問題、李登輝問題、そして
総理の靖国参拝問題。こういうことについて、単に怒っているだけではなく、むしろ大変心配しておられました。これは、
日本側はどうやって、
小泉総理はどうやってこの糸をほぐすんだろう、
中国側から動く問題ではないんだよということで心配しておられました。
そのとき私は不勉強だったのを恥じたんですけれども、実は来年は、
日中国交回復三十周年、それから
中韓国交回復十周年、そこへ
ワールドカップサッカーの
日韓共同開催というのが重なる。これはもう絶好の
機会なんで、これを
機会に、
東北アジアの
友好関係とより緊密な
政治、
経済、
社会、あるいは
国民のあるいは
国会議員の間のレベルの交流を深めたい、こういう試み、意図でもって三国の間で粛々と準備を進めてきている。ところが、三月の
教科書問題が起こって以来、これ、ぱたっととまってしまったのをどうするんだ、あなた方どう考えるんだということを私も言われまして、帰ってきてからいろいろ走り回りました。私は、そんな責任ある
立場でも大きな力を持つ
立場でもありませんでしたが、微力でしたが、一生懸命走り回りました。
そういう意味では、
扇大臣が、たとえ
大臣としての使命ではないにしろ、
日韓友好議連で、その面できょうお話に行かれる、大事なことだと思いますし、
農林水産大臣、
経済大臣がセーフガード問題で行かれるというのは非常に大事なことだとわかるんですね。
わかりつつも、一方で、じゃ
決算委員会というのはこういうときにしか開けないんだということについて、一体
大臣方がどうお考えになって、頭の隅に
認識があったのかどうかということですね。それから、
大臣を支える
省庁の側にそういう
認識があるのかどうか。
私は、十年間
決算委員会でずっとやってきて、
参議院の
決算重視と言いながら、いかに
役所側がこの
決算委員会を冷たくあしらっているかというのを嫌というほど感じたんですよ。
法案があるときにはとにかく
委員会を開いてほしい開いてほしいと来るくせに、
決算になれば逃げ回る。そして、大体これはもう
財務大臣と大蔵省に任せて、今
財務省ですね、ほかの
省庁はとにかく逃げ回る。
委員長や
委員部が苦労して
日程調整に当たるという姿を十年間見てまいりました。十年というよりも、正確には八年余り見てまいりました。私は、このことは非常に問題だと思うんですね。
ですから、例えばきょうの
野上事務次官の問題にしても、大事なお
仕事があるのはわかります。しかし、これほど
国民的な不祥事になっているときに、これまで
事務次官は
国会に出ないなんという慣例をもとにして勝手に
スケジュールを組んだとすれば、それは
国会軽視も甚だしいんですよ。
今、大きく
歴史が変わりつつあるんですね。
政治主導という形でやらない限りだめだということは霞が関の
官僚の
皆さんがよくわかっているじゃないですか。越えられない壁が
官僚の
世界にある。また、それが逆に
官僚の
仕事をしっかりさせる支えにもなっている反面、壁になっているということはわかっているはずです。
この
日本の国を救うには、本当に立ち直らせるには今大きな
政治の転換が必要なときに、私は、やはりこの
参議院が
決算委員会を重視してやろうということについてはっきりと
認識をしてもらって、注視をしてもらいたい。特に、
閉会中は大事な
大臣の外遊もあるでしょう、いろいろあると思いますけれども、そのときこそ
参議院の
決算委員会が
閉会中にどういう動きをするかということについて必ず情報をまず集めて、その上で
スケジュール調整をしてもらいたい、このことをはっきりまず申し上げておきたいと思います。
さて、十年間を振り返ってみますと、本当に世の中は変わりました。きょう、私は
川辺川ダムの問題を中心に
質疑をさせていただきたいと思っているわけですが、この
ダムの問題、実は私が
国会議員になってから、私は
医者出身ですから、
社会保障、これを
自分のライフワークとしてやってきて、今
医療改革も大変で、夜も寝ずにいろいろ
政府の案に対する
対抗案などをつくっておりますけれども、同時に、やっぱり
国会議員というものは幾つかの分野を持ってやるべきだろう。私は、
外交とそれから
公共事業と、特に水の問題ということに焦点を絞ってこの十年間やってまいりました。
なぜ私がこの
ダムの問題、水の問題に目をつけたかというと、実は私が
院長をやっていたときに
病院の
移転、新築をしたわけであります。
移転、新築してできた
病院は二百床の小さな
病院ですが、三つの点で
日本で指折りの
病院ということで有名になったのを
御存じないかもしれませんが、大変きれいな
病院と。
日本一きれいな
病院、カーペットが敷いてあり、美術館のような
病院、心安らぐ
病院というので、私の後の
院長がついこの前、
芸術祭参加テレビに「がんばらない」というものの
主役で出ました。
あの
主役の御
夫婦は、本当に私の後の
院長、副
院長の、この
夫婦の
雰囲気を実によく出している。あの
テレビをごらんになった方はいるかもしれませんが、あそこに出てきたのが私が
院長のときに
移転、建設した
諏訪中央病院でありまして、あの
ハーブガーデンもそのときつくったわけであります。その後、
鎌田院長は今また
院長をやめましたけれども、
うちはどんどん
世代交代をするというので、十年前後でどんどん
院長を譲っていっているんです。
そのときに、実は私は三万坪欲しいと市長さんにお願いしたんですが、なかなか三万坪は、その前わずか百二十床の
病院ですから、とてもいただけなかったんですが、これからの
病院にはそのぐらい必要なんだ、いろんな
複合機能が必要だということでお願いしたんですが、何と一万二千坪買っていただいたんですね。
うちの
病院の前に
移転、新築した
長野県内の
病院が、
長野日赤が七百床で八千坪でしたかね。
昭和伊南病院が三百床で一万坪ぐらい、一万坪もなかったですかね。その両方を合わせたぐらいの
敷地を確保していただいて、
病院を
移転、新築したわけであります。
そのときに、
調整池をつくらなきゃならない。せっかく確保した
敷地、将来使いたい
敷地の中にやたらに大きな
調整池をつくらなきゃならないんですね。どうしてこんなものをつくらなきゃならないんだろうと言ったら、百何十年
確率で、ここは山林と畑だったんです。そこを開発すると、ちょうど中に小さい川なんですが暴れ川と言われる川が流れていたんです。それで私は、そうなのかというので少し水のことを勉強しまして、それで当時、
岩波新書でしたか、
間違いだらけの
河川管理という本があって、それを読んでみたら、どうも
日本の
河川管理は間違っているらしいと。それで、
河川調査会という、たしか高田馬場のあたりにあるんですが、私ははるばるそこまで
諏訪の方から出てまいりまして勉強しました。そしてそれ以来、水の問題というのには非常に
関心を持ってやってきたわけであります。
したがって、
参議院で
決算委員会に所属してからは、
ウオータープランとか
利水権とか
治水の問題、発電、いろいろ
関心を持って勉強したんですが、実は私の
地元にも随分
ダムがあって問題になって
反対運動があったんですが、私は
参議院議員に当選した当時、
地元で
ダム反対が言えなかったんです、十年前は。
ダム反対なんて言ったら、
後援会の
皆さんからもう
選挙をやってやらないぞと、こういう
雰囲気だったんです。
それで、私は何でこの
川辺川ダムをやっているかというと、子供のとき「五木の
子守歌」という映画を見たのが非常に印象に残っていたこともあって、遠いですけれども行ってみたり、遠いから余り
選挙に
関係ないですしね。それから、ネパールのアルンⅢという
ODA関連の
ダムの話で向こうへ行ってNGOと話したり、そんな遠くの
ダムに取り組みながら
地元ではじっと口をつぐんで黙っておりました。
しかし昨年、
田中知事が誕生して、私もこの
選挙を一生懸命やったわけですが、脱
ダム宣言、ようやく
地元でもこの
ダム反対ということを胸を張って言えるようになったんです。
大臣、こういうことで、この十年間に
大変時代が変わったということが
一つ大きいのではないかと思います。
もう
一つ、十年前の十二月八日、十二月八日というとパールハーバーでいろいろマスコミに出ておりますが、実はソ連邦が崩壊した日でもあるんです、十年前。あれ以来
世界は変わりました。今度のテロ問題では、
アメリカとロシアはがっちり手を握って、
中国まで手を握ってやっている、本当にさま変わりであります。その間に、
日本の
国会でも
与野党いろいろ入れかわったり、再編がありましたし、私も
与党で
仕事をさせていただいたことがあります。
特に、私は、この
ダムの問題に関しては非常に印象的なのは、一九九四年に
アメリカの
開墾局の
ダニエル・ビアード総裁が
ダム時代は終わったと
宣言をしたのを聞いたのが私は非常に印象的でした。
アメリカはまさに
ダムの国です。今、大恐慌のときの話がよく問題になって、
TVAの話、それだけではありません。一九三〇年ごろから
アメリカでは、もう
一つ開墾局という
政府の部局が何と一九八〇年までに千もの
ダムをつくった。それから、それだけじゃないんですね、
独立戦争のときにできた
陸軍工兵隊というのは実は
ダムづくり専門で結構やってきていたみたいですね。こういう形で、
TVAが有名です、あれも三十ぐらい
ダムをつくったんでしょうか、まさに
ダムの
時代、
ダムの国だったし、
日本も
アメリカに倣って
ダムをつくったんですが、この
ダムも終わりだということで
ダムを壊し始めた。これは非常に私にとってもショックでした。
それで、ではどうするんだというときに、非常におもしろいのは、特に
陸軍工兵隊が、
ダムについてはもう転換させなきゃならないというときに、何か
構造物をつくる構造的な
アプローチから非
構造的アプローチに変えるんだと。つまり、例えば
治水というのは
国民の生命、身体、
財産を守るという、一番大事と言われていますけれども、それは別の方法でやるんだ、洪水が起こることを前提としてやるんだというふうな
考え方に変わる。自然との共生ですね。人が全部水をコントロールできない、八十年
確率だろうと百何十年
確率であろうと。そういう
考え方に転換したというのでびっくりしたわけです。
実は、私
自身、ヨーロッパに行ってもその体験をしてびっくりいたしました。私は、
介護保険のことを一生懸命やっておりましたので、一九九五年に、ちょうど
参議院の
厚生委員長ではありましたが、議運や何かにお願いをして、
閉会中じゃない、会期が延長になっちゃったんですが、
ドイツに行きました。そのときに、ボンで
ライン川のほとりの
ドレーゼンホテルという非常に由緒ある
ホテル、各国の首脳が泊まる
ホテルに泊めていただきました。それで、それは
介護保険が導入されて一年目なんですね。まだ在宅しかやっていない。二年後にもう一度、今度は施設も始めてどうなったかを見に行きました。
そのときに、
ドレーゼンホテルに泊まろうと思ったら泊まれないんです。なぜかといったら、
ライン川がはんらんしたから。あそこ水浸しで泊まれませんよと言われました。そうか、あのいい
ホテルにまた泊まりたいのになと思った。それで、
ドイツの
人たちは平然としているんですね。だから大変だ、だから
かさ上げをしろとか
ダムをつくれじゃなくて、やっぱりそういう中でどう生活をするかという話になって、というふうなことがあります。
さて、こんな話だけをしていると話だけでもう十八分もたっちゃって大変申しわけないと思いますが、実はきょうの質問は十二問もつくりました。しかし、余り細かいことを私やるのはやめました。というのは、おととい熊本県の
潮谷知事のあっせんで
討論集会、
県民集会が開かれました。そこで
国土交通省が民間の
研究団体が出した案に対して反論を出されましたね。私もそれを入手して読ませていただきました。しかし、率直に言って私はこれがわからないんですね。
そして、九日に出された
国土交通省のカラーの入ったこれを読ませていただいたんですけれども、この日曜日、月曜日で専門家のアドバイスをいただいて、例えばこれには建設省は、必要となる不等流計算を行わずに算出しており、水理学の基本から外れている、例えばこういうふうにして民間の
研究団体、学者が加わっている、専門家が加わっているんですが、これに反論されている。残念ながら、私はそれに対する反論の今資料を持っていない。時間的にも無理なんですね。これは、
大臣も素人でいらっしゃるから、このことをきょう私はやりとりをしようと思いません。
さて、
川辺川ダムでありますけれども、これは古くはもう一九五九年、電源開発が発電用の
ダムの構想を発表して、その後、実質的にはそれを引き継ぐ形で当時の建設省が一九六六年に
川辺川ダム建設計画を発表したわけです。それから三十五年たつわけです。
そこで、
大臣にお伺いしたいんですが、この三十五年の間でこの
川辺川ダム建設の目的、意義について何か変わってきたことはないのかどうか。変わったとすればどう変わったのか。今日的な意義は何なのか。
ダムについては、多目的ということが言われますけれども、多目的というのは無目的につながると私は思っておりますので、お答えいただきたいと思います。