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公述人(小林正君) ありがとうございます。
私は、本
法案の重大性というものをかんがみつつも、
政府のこの問題に対する認識、大変大きな疑問を感じておりまして、まことに遺憾ながら反対をせざるを得ないということを以下るる述べたいというふうに思います。
まず第一に、このたびの
米国を舞台に発生した
同時多発テロに対する認識の問題でございます。
先日、NHKのニュースでニューヨークの育英小学校という
日本人学校が出てまいりまして、文部省から
派遣されたカウンセラーがこの問題で大きな心の傷を受けた子供
たちに心のケアの問題としての取り組みをしている場面が放映をされておりました。私事にわたって恐縮でありますが、実は私の孫もこの学校でこの三月まで通っておりまして、友達も多いわけですが、たまたま転任の
関係で横浜へ戻ってまいりました。そういうことで、このニュースを見ながら友達の映像を見て大変驚いておりました。
これは恐らく子供
たちの心に映像として永遠に残ってしまうのではないか、そういうことを懸念しているわけでございます。子供
たちがマイクを向けられて、考えまいと思ってもつい目に浮かんできてしまうんだということをこもごも語っていたわけでございます。このことを私
たちは今後の教育の問題として重く受けとめていく必要があるのではないでしょうか。
次に、九月十三日、プーチン大統領は大統領令を発しまして、ロシア
国民に対して、この日に半旗を掲げ、黙祷をささげるようにという布告を出しております。この間、米中ロという
関係の中で見ますと、大変いろんな、ユニラテラリズムなどと言われる
アメリカの最近の動向についてささくれ立った
関係もあったわけでありますけれども、この問題を通して、過般のAPECの
会議におきましても、認識の一致を図ってともに戦うという宣言が出されているわけでありまして、
国際社会は一致してこの問題への
対応を進めるということを決意いたしました。なぜならば、この問題が人道に対する挑戦であるということ、そしてまた、文明に対する挑戦として各国がこの事件を受けとめたからにほかならないというふうに思います。
そして、原因としては、二十世紀の近現代史に根を張るいろいろな問題がこの新世紀にもたらされていることは事実でありますけれども、この
テロリズムに関して、ビンラーディンとアルカイダというものに対する
テロの根絶ということに限定して、一致して取り組もうという姿勢で第一
段階の取り組みをスタートさせているのが今日の
状況でありますが、これは一過性のものではもちろんありません。現に、まだバイオ
テロという形で
アメリカ国民を恐怖のどん底に突き落としているわけでありますし、少数者が多数を恐怖によって支配する、そういう構図が明らかになりつつあるわけでございます。そうした
立場から、
国際社会が一致して取り組もうという決意をしたのは当然のことといえば当然であるというふうに思います。
そして、この問題が、従来、
国家対
国家、湾岸
戦争のようにイラクを
相手にした見える敵ではなくて、
テロ組織という目に見えない、しかも
国家対
テロ組織という非対称性の問題としてとらえていった場合に、さまざまな問題が提起をされ、国際法等の問題の
範囲を超えた外の問題として論ぜざるを得ない
事態が今進行しているわけでございます。それについて、新しい
戦争という言葉が使われております。アザー・ザン・ウオー、OTW、こういう言い方で言われている新たな
事態が進行しているということだと思います。
最近話題になっております、中国の人民解放軍の空軍大佐二名の共著によります超限
戦争という
軍事思想、戦略研究というものが話題になっておりますけれども、それに該当するような問題がかなり出てきているのではないでしょうか。
超限
戦争というのは、そこの資料にも出しておきましたように、あらゆる限定と限界を超越した
戦争であるということでございます。あらゆる手段を備え、あらゆる情報をめぐらせ、あらゆる場所が戦場となる。あらゆる兵器と技術が随意に重なり合い、
戦争と非
戦争、
軍事と非
軍事の二つの世界に横たわるすべての境界がことごとく打ち砕かれる、そういう
戦争を
意味している。ルールが破壊されたことで直接もたらされた結果は、有形無形の境界線で画定された
国際社会の認める国境が無効になったことである。なぜならば、非
軍事的
戦争行為で
国際社会に宣戦布告した非
国家的力の主体は、すべて超
国家、超領域、超手段の方法によって出現したからである。
このように述べられているわけでありまして、今次
同時多発テロの実相を見ますと、引き続いて行われているバイオ
テロの問題もあわせ考えまして、まさに手段を選ばぬ、そして日常生活の場が突如戦場になるという
事態が今出現しているということを、まずお互いに認識すべきではないかと思うのであります。
最近、この著者が記者会見をしてこういうことを言ったということも伝えられております。六千五百人は
テロの
犠牲者であるばかりでなく、
アメリカ外交政策の
犠牲者でもある。フセインまがいのコメントを出したということも伝えられているわけでありまして、米中ロの結束した
関係、
テロリズムが媒体となっているということも、全くパラドックスというか、皮肉な話なんですけれども、この問題について、一つのきっかけとして新たな平和への道筋をつくっていく必要はあるかなというふうに考えているところでございます。
そうした認識に立って考えますと、この新しい
戦争への
対応としてこの法律で果たしていいんだろうか、
政府の認識はそれで大丈夫なのかという思いがあるものですから、反対をせざるを得ないということを申し上げたわけでありまして、これは
憲法学者等も指摘をしているんですけれども、この問題を
憲法第九条の問題として真っ正面から受けとめて、解釈変更を行って新たな取り組みができる条件を整えると。これは
小泉首相が総理・総裁選挙の
段階以降かなり積極的に
発言をされてきたことでありまして、
国民の期待もあり、歴史的な決断をするのではないかということも我々も期待をしました。
しかし、結果としてはそうならないで、結果、どこに足を据えたかといいますと、
憲法の前文であります。そして、その前文の「われらは、平和を
維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる
国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」と、ここのところに依拠してということも総理御
自身もおっしゃっているわけでありますが、実はこの一節の前に何て書いてあるのか、御案内のとおりでございます。「平和を愛する諸
国民の公正と信義に
信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と、このように書いてあるんですね。
そして、今度の新しい
戦争と言われる
事態は、まさにこの決意を打ち砕くものになってしまっている、その認識から出発すべきではなかったのかというのが、私の、まことにこの
法案策定に至る経過の中で残念に思っていることの一つでございます。
そしてもう一つは、この法律について二年間という期間限定がなされているという問題があります。この
同時多発テロの問題が一過性のものでないことはおのずから明らかでありまして、新しい
戦争がいつまで続くのか、それはだれもわかっておりませんし、どの国も、そのことについて一番いいシナリオで明るい展望を持っている国はどこにもない。にもかかわらず、
我が国が二年間ということを期間限定してこのことを言っているということは一体どういうことなのか。
国際社会の
立場からしますと、大変に認識の問題として批判を浴びる結果にしかならないのではないか、国権の最高機関としてこういう認識であっていいのかという思いがございます。したがって、この部分については削除していただければと、このように考えているところでございます。
それから次に、
自衛隊の
活動についての問題ですが、相変わらず警職法の規定を準用しているという問題もありますし、
警護に当たって、この間の論議の経過を見ていますと、
国民に銃口を向けるといったような声が聞こえる。これは保守党の内部からもそういう声が聞こえてくるわけでありまして、与党と言った方がいいですね、与党の内部からも聞こえてくるわけでありまして、そういう点から、やっぱり
自衛隊というものについての認識、これもまだ十分一致していないのかなというふうに言わざるを得ません。
私は、この
法案策定に当たっての、今度の新しい
戦争というものの持つ
意味、重大性というものにかんがみて、泥縄式ではない、常に備えあれば憂いなしということも総理御
自身も言っておりますけれども、まさに備えあっても憂いがある
状況だということだと思うんです。したがって、この
段階における万全を期す、そのために何か抜かりはないかという総点検をやっぱりやる必要がある、このように考えているところでございます。
そして三点目ですが、ことしは日米同盟、サンフランシスコ講和条約締結五十年という大きな節目の年で、マスコミもこの間、この問題についての特集を組んできたわけでありますけれども、その式典の行われた九月八日から三日後にこの
同時多発テロが発生したわけでありまして、今後の日米同盟
関係を考える上で大変象徴的な事件だったというふうに思います。
そして、同盟
関係にある
日本として、今
テロとそしてまたバイオ
テロという連続した
攻撃にさらされている盟友
関係にある
我が国として、今後どうすべきなのかということについて考える必要があるだろうと。きちんとした同盟
関係のモラルや誠実さが問われているのではないか。このことがきちんと米
国民にも
理解されなければ、現在の片務性の同盟
関係というものの
信頼性を高めることはできない、このように思っているわけであります。
片岡鉄哉さんという方が「
日本永久占領」という本をお書きになっていますが、その中で
アメリカとの同盟
関係、上下三つのヒエラルキーということを指摘されております。
その一つは、完全な平等で
相互的な
関係というのは
アメリカとイギリス、フランス、この
関係は完全な対等、平等な
関係の同盟
関係で最も上位にあると。
そして二番目、これはゴーリズム・オプションというような言い方もされているわけですが、二番目の問題としては
アメリカとドイツの
関係。ドイツは、御案内のとおり、
集団的自衛権というものを認めてNATOに加盟をして、NATOの域内における
行動について
米軍とともに戦うということを決めているわけですが、これについてはアデナウアー・オプションというような言い方もされているようでございます。
そして、三番目が日米
関係。五十年を迎えた当時の日米安全保障条約というのは、結局は占領の延長、そして同盟
関係でいえば保護国としての
対応でしかなかった。名誉なきただ乗り論という言い方もされてまいったわけでありますが、六〇年安保でこれが改定をされて、結果としてそれは名誉あるただ乗り論に変わったんだと、こういう指摘を片岡さんはなさっておりますが、以後、九〇年代、周辺
事態法の問題、ガイドライン、いろいろございましたけれども、それを経ましても、
集団的自衛権の問題という壁に突き当たって、結果としてこうした
事態が今日まで続いてきている。今後、日米
関係をより強固な基盤の上に構築していって
東アジアの平和と安定のために両国が寄与していくということになるとすれば、この問題の解決を抜きにしてはあり得ないのではないか、このように思うわけであります。
最後に、今後、
政府においてこの
法案が可決された
段階で
基本計画を策定されると思いますけれども、何でもありの
相手に対してべからず集で
対応したのでは、結果として勝敗の帰趨はおのずから明らかである、そのことを申し上げて、私の
意見といたします。
ありがとうございました。