○森本
参考人 本日、
憲法調査会の場にお招きをいただき、大変光栄に存じます。
私は、
安全保障を専門としておりますので、本日は、二十一
世紀のあるべき姿を、特に
国際社会、とりわけ
国連との関係において、
安全保障の側面から二十一
世紀の
日本のあるべき姿について申し述べ、
最後に、幾つかの今後の我が国が直面する課題について申し述べてみたいと
思います。
言うまでもなく、
冷戦が終えんいたしましておおむね十年を経過し、この間、
国際社会は
冷戦後の秩序を模索してまいりましたが、依然として、その姿について、明確な新しい秩序についての結論を得るに至っていないと
思います。この間、サミュエル・ハンチントンの文明の衝突といった幾つかの注目すべき議論が出てまいりましたが、しかし、これとて、
冷戦後の
国際社会の秩序を
意義づける、あるいは定義づける新しい論理にはなり得ていないと
思います。
しかるに、
現実社会はどんどん進みますし、また、この十年、実際の
国際社会を見るに、二つの新しい変化が生じつつあると
考えられます。
その
一つは、この十年、
米国のみがぬきんでて支配的な影響力を持つ、いわゆる
米国の一極制という
世界になりつつあることでありますが、同時に、
国際社会は、いろいろな問題について多国間協力を進め、これによって
国際社会の平和と
繁栄を維持しようと努めております。すなわち、第一に申し上げたい点は、この
米国による一極制と多国間協調主義あるいは多国間協力主義との調和をいかにして図るかということに、この十年、
国際社会は努力をしてきたと言えるのではないかと
思います。
これがどのような形になるのかということについては、後ほど、今回のテロ事件及びこのテロ事件に対する対応の結果、この
米国の一極制に与えるインパクト、インプリケーションについて簡単に申し述べたいと
思いますが、それがまず私が申し上げたい第一点です。
もう
一つは、この間、
世界のグローバル化というものが急速に進展したことについては御承知のとおりでありますが、グローバル化にはいわばよい面と悪い面とあって、よい面は、我々の生活をより安定し、豊かに、そして安全にするわけですが、同時に、グローバル化には影の部分があり、それが今日、例えば、地域
紛争の広がりあるいは大量破壊兵器の拡散、今回に見られるようなテロの広がり、環境問題、
経済格差、難民あるいはエイズのような伝染性の疾患と、いろいろのマイナス要因が
国際社会の中に広がりつつあり、
国際社会は、このグローバル化の光と影をいかようにして調和し、マネージしていくかという問題に直面していると
思います。
さて、アジアもこの例に漏れず、今申し上げた、いわゆるアメリカのぬきんでたユニラテラリズムとマルチラテラリズムをどのように調和させるのかという問題、そして、グローバル化の光と影の部分をどのように調和するのかという問題に直面していますが、とりわけアジアは、その中で多様性という性格を持っており、さらに、
中国の将来がアジアの平和と安定にいかなる影響を与えるかという、深刻かつ重大な課題を我々は持っていると
思います。
したがって、アジアは、その他の地域といささか異なっておりまして、巨大な
中国、そしてインドという、およそ今
世紀の中ごろには三十億になんなんとする人口を抱える
大国二つを持っており、この二つがともに核保有国であるということがアジアの将来に極めて重大な問題を投げかけていると思わざるを得ないと
思います。
この二十一
世紀の
国際社会がいかようなものになるかということについては後ほど簡単に触れますが、まず、概観を以上のとおりお話をし、その次に、今回の
米国で発生した同時多発テロ事件と、これに対する
米国を中心とする対応が
国際社会にどういう影響を与えるかということについて簡単に述べたいと
思います。
言うまでもなく、九月十一日の同時多発テロ事件は、
米国にしてみれば、単なる警察機関が取り締まるような犯罪というカテゴリー、次元を超えた、主権
国家として個別
自衛権を行使しなければならないような事態であると
考えていると
思います。したがって、
米国は
国連憲章第五十一条に基づく個別
自衛権を行使してこれに対応しようとしており、NATO諸国は、同盟国
米国に対する明白な攻撃があったものとみなして、集団的
自衛権を行使してこれに共同歩調をとろうとしていることは御承知のとおりであります。
しかし、この場合、
米国の個別的
自衛権の行使というものには二つの課題があり、
一つは、一体、主権
国家でもないこの種のテロという集団に
国家が個別的
自衛権を行使できるのかという国際法上の問題が第一です。
もう
一つは、
自衛権とは急迫不正の侵害があった場合、これを排除するために
国家としてとらざるを得ない必要最小限度の対応措置でありますが、かかるテロ行為が終結して、今日テロ行為が持続していないという状況があった場合、このことをもって個別
自衛権を行使して他国に対する武力攻撃ができるのかという問題については、
米国は、今回のテロ事件を起こした主犯がアフガニスタンのあるところに現に現存している限り常に急迫不正の侵害があり得るとみなして、個別
自衛権を行使し得る事態であると
考え、今回は個別
自衛権を行使して、武力を使ってアフガニスタンの中のいわゆる国際テロ集団に対する軍事攻撃を続行しているものと
考えます。
この軍事作戦がいかような推移を今後たどるかについては、私個人、ある種の推測を持っておりますが、本日の課題ではないので、ここは控えます。
問題は、この一連の作戦は、
自分の解釈では、つまり第一期の限定的な目標に対する限定的な作戦にすぎないということであり、その次の段階として、第二期に、戦域を拡大する次の段階の作戦がいずれの時期にか大統領の決断によって行われ、さらに戦域を広げて作戦が続行されるのではないかと
考えます。
問題は、この種の一連の軍事活動が終結した後、
米国のこの種の対応措置が
国際社会の秩序と
国連の将来にいかような影響を与えるかについてであります。この点について、二つ申し上げたいと
思います。
第一は、冒頭申し上げた
米国のユニラテラリズムとマルチラテラリズムとの相関関係において、もしアメリカがこの一連の作戦に
成功すれば、
米国はユニラテラリズムがますます強化され、アメリカは
国際社会における相当多くの分野におけるリーダーシップがさらに強化され、アメリカの協力、アメリカの支援なくして
国際社会の諸問題を解決できないという重要な位置を占めるに至ると思われることであります。その点について言えば、アメリカのユニラテラリズムというのは今
世紀末まで続き、恐らくアメリカが圧倒的に支配的な影響力を持つに至るであろうということです。
他方、この軍事作戦に何らかアメリカが傷つき、
軍事力を撤退しなければならないような事態にもし至れば、アメリカは、このユニラテラリズムというものを捨て、国際協調主義から退き、再び孤立主義へ回帰するという可能性があるということです。私は、同盟国の一員としてこのような事態を望みません。これが第一です。
もう
一つの問題は、冒頭申し上げたように、
国際社会の
冷戦後における秩序は、ハンチントンの言う文明の衝突論が必ずしも
国際社会の中で通用していないにせよ、今回の事件は、明らかにイスラムと反イスラムの対立構造が現象として出ているということであります。
米国は、これを宗教
戦争ではないと説明をし、一連の
軍事力を行使しているわけですが、しかし、このことは、将来、
米国が持っておるある種の価値観、我々の言葉で言えば、法と正義に基づく秩序あるいは
民主主義あるいは自由あるいは市場
経済体制といった、我々が日々目にする
米国の価値観を共有することのできる人々あるいは
国々と共有できない人々、グループに、ゆっくりと
国際社会の秩序が価値観というイデオロギーに基づいて構成され、新しい秩序がそのような形ででき上がる可能性があると思われます。
したがって、この行方は、いずれにせよ、
米国が今後行う軍事作戦がどのような形で終結し、
米国が本来持っている作戦目的を達成し得るかどうかということによって、
米国のリーダーシップと
米国のユニラテラリズムというものが今後どのような形に残って、
冷戦後の秩序がゆっくりと形成されるかどうかの分かれ道が来るということであり、その点で、
米国が今日いわゆる主導的な役割を果たしつつ行っている軍事作戦の行方は極めて重要な
意味を持ち、影響を持つと思わざるを得ないことであります。これが、現在我々が直面している一連のテロ事件及びこのテロ事件に対する対応措置が今後の
国際社会に与える影響です。
ついでながら言うと、
国連との関係について言えば、今回、冒頭申し上げたように、
米国は、
国連安保理決議によらず、個別
自衛権を行使して一連の軍事活動を行っており、
国連が本来果たすべき役割というより、むしろ
米国を中心とする同盟によって問題が解決されるという事態が今後とも続くのであれば、
国連は本来持っている役割と機能を低下させざるを得ない、されざるを得ないと
思います。その
意味において、この
米国の作戦も
国連の将来に非常に大きな
意味を持つと
思います。私は、どちらかというと、
国連の将来、
国際社会の平和と安定のために果たすべき役割と機能について、楽観的に見てはおりません。
さて、以上申し上げたことが
日本の今後の
安全保障課題にいかなる影響を与えるかということと、この問題が
憲法との関係においていかような
意味を持っているかということについて、
最後に結論部分として申し上げたいと
思います。
第一に、
日本という国が今後
国際社会の中で重要な役割を果たすとき、
日本という国の
国家のあり方というものがまず問われているわけですが、戦後我が国の
国家の
政策は、どちらかといえば
憲法を中心とする法的
枠組みの中で何ができるかということを中心に
政策が論じられ、
国家としてどのような戦略があり得るのか、どのような
政策をとるべきなのか、どのような
政策をとるのが我が国の国益に合致するのかという視点がいささか欠落していたように
考えます。
それは、戦後の
日本の国のありようの中で、やはり国益という概念あるいは
国家観というものを余り明確な形で出さずに
国家の
政策や戦略を論じ、かつまた
政策を立案、実行してきた弊害がここに来ているのではないかと
思います。
この際、我々として
考えるべきことは、主権
国家というものが二十一
世紀末もなくなることはないということを前提に
考えれば、
国家として明確な戦略をまず打ち立てて、その上に立って個々の法的な
枠組みや
政策を論ずることが最も健全でかつ正しい道なのではないかと
考えます。この点が私が申し上げたい第一点です。
その次に、今申し上げたように、そもそも我が国の
政策は、基本的な戦略、これは
国家目的、
国家価値、その
国家目的と
国家価値を最も効果的に遂行、達成するための国益、そして国益を実践するための戦略、こういう基本的な国としての要素がどちらかというと余り議論されずに、先ほど申し上げたように、
憲法の枠の中でどのような
政策が
現実問題としてとり得るのか、ぎりぎりまで
憲法の解釈を突き詰めてみれば何ができるのかという点に立脚して
政策が議論され、あるいは法案が議論されてきたことが、今日我が国の個々の
政策を非常に行き詰まらせているのではないかと
思います。
例えば、今回のテロ問題についても、我が国の対応措置を
考えるときに、まず今回のテロ特別措置法案を通さなければいろいろなことができない。つまり、何かするときに法律をまず通さないとできないという先進国は
世界の中で余り例がないわけでありまして、このことは日々、我々の法的
枠組みが
現実の
政策をとり得る柔軟な
枠組みには必ずしもなっておらず、事態が起こるたびに法案が新しくつくられるという問題を我々が抱えているということなのではないかと
思います。
したがって、これを突き詰めて
考えると、
安全保障上の
政策というものを
考えた場合、
政策上の与件となっている基本的な法的政治的制約をこの際根本的に見直す必要があると
思います。でき得れば、
憲法を
改正する前に、現在の
憲法のもとで
国家の
安全保障に係る
基本法を
制定することが望ましいと
考えますが、しかし、それも現在の
憲法の枠の中でしかできませんので、やはり突き詰めて
考えると、
憲法第九条の、特に第二項を
改正し、
自衛権を明記して、自衛力の保有と
国家の危機管理に関する内閣総理大臣の責任と権限を明確にすべきであり、その際、加えて
国民の権利義務を明確にするということによって、
国家の
安全保障に必要な法的
枠組みを確立させることが必要なのではないかと
考えます。
この二つのことができれば、我が国の外交というものについても、今までどちらかといえば、外交
政策というものはあるのでございますが、外交戦略というものは必ずしも
国民に十分わかりやすく説明されてきていない弊害があり、この点についても必要な問題を十分に突き詰めて、あるべき姿を
考えてみると、外交
政策については、当然のことながら、
日本国が持つ国益を明確にし、特にその中でもアジアに関する基本的な戦略、そして
国連を中心とする国際協力についての戦略につき、明確な国益追求の観点から、総合的な
国家戦略を再
構築すべきであると
考えます。
以上のことを
考えるときに、もう
一つ我が国に欠落しているのは、そもそも同盟という選択を戦後我が国が行い、そして我が国の
国家の
安全保障を日米同盟に深く依存して今日まで
国家の
繁栄と安定を維持してきたわけですが、この日米同盟というものと
日本の
国家の持っている防衛力との相関関係をどのような形にするのかということについて必ずしも十分な説明が今までできておらず、この点についても今後、もう一度脅威の見積もりと、そして
冷戦後の新しい国際環境を再検討して、日米防衛協力をより強化するという観点から、同盟戦略を再
構築する必要があるのではないかと
思います。
その際、
米国の戦略が今回のテロ事件後にかなり劇的に変化する可能性があり、
米国の国防戦略の変化を冷静に見きわめながら、日米同盟の将来像について、
日本として明確な像を描きながら、今申し上げた日米防衛協力と
日本の
国家の防衛戦略との関係を明確にしていく必要があると
思います。
御案内のとおり、日米安保条約と
日本の自衛隊法を中心とする防衛関係法には法的にも直接の関係がなく、双方に余り明確な言及がないという不思議な法的な
枠組みにずっとなっているわけでありますけれども、本来であれば、日米
安全保障条約の中に
日本の
国家の防衛のあり方との関連が明記されており、また、
日本の自衛隊法の中に、日米安保条約との関連について、
日本のあるべき防衛戦略が書かれているのが当然であると
考えます。
冷戦期を長く無事に過ごした我々の先人の知恵というものが今日我が国の平和と安定を維持していることは明白でありますけれども、日米同盟を補完する側面を持っている部分の防衛力については、今後は
米国は必ずしも我が国周辺の問題に十分な国益を見出さない可能性もあり、その際は、我が国がより独立完結性の高い防衛力を保持し、この保持した防衛力を日米同盟とどのように関連づけるかということをもう一度見直す必要があり、その際、現在我が国が持っている防衛大綱を、もう一度新しい環境と
米国の国防戦略に基づいて再
構築する、見直しを行う必要があるのではないかと
考えます。
戦後、
日本は、今申し上げましたとおり、
米国との同盟関係を選択し、安定と
繁栄を確保してきましたけれども、思うにこの半
世紀、
日本の中では、占領
政策の負の遺産を多く抱え、また、先ほどからるる御説明申し上げているとおりの
憲法上の
枠組みあるいは
憲法上の与件というものが、
国家の発展や
日本の
社会の現状にひずみをもたらしつつあります。したがって、これを抜本的にこの際改革しなければならないと
思います。
現在、
日本はあらゆる種類の改革を進めておりますが、その
最後の改革とは
安全保障改革ではないかと
考えます。また、その際、
国家のあり方あるいは
国家像について明確な目標を描くことが必要であり、将来の国力がどのような推移をたどるのかということを十分に予測して国益を明確にし、そして
日本のあるべき姿を具体的に展望し、
日本がアジアの中でいかような国として今後存続していくべきかということを
国民的議論を通じて行いつつ、我が国の
国家戦略を模索する必要があるのではないかと
考えます。
以上申し上げたことは、すなわち二十一
世紀の
日本というものが今後直面する問題と、そしてその問題の中でどのような課題を
日本が抱えるかについてであります。
しかしながら、先ほど申し上げたように、繰り返しになるわけですが、現在アメリカが行っているテロ対応措置としての一連の軍事作戦は、単なる軍事作戦ではなく、
米国の
国家戦略あるいは国防戦略や、場合によってはアジア太平洋における基本的な
米国の戦略並びに
国際社会の新しい秩序に与える影響が極めて重大であると
考えますので、この一連の軍事作戦の成り行きを十分によく分析して、これが我が国の国益に与える影響をさらに綿密に調べた後、我が国として新しい
時代に対応できる国益をもう一度定義し直して、我が国のあるべき姿を模索することが望ましいのではないかと
思います。
その
日本のあるべき姿を
考えれば、
憲法の問題はその結果として出てくる結論部分でありまして、
憲法をどうするかというより、まず国のあるべき姿をどのようにするかということが先に論議され、先に結論が得られるならば、
憲法をどのようにして今後見直していくかはむしろ法的なテクニカルな問題にすぎないと
考えます。
以上が、私が本日与えられた課題について、
参考人として特に申し述べたい諸点でございます。
以上でございます。ありがとうございました。(拍手)