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山本正和君
大学の
先生方も本当に苦しんでおられると私は思うんですよ。
ことし六十一になったので広島
大学を退官しましたといって私が教えた子が手紙をくれまして、
大学の教員でもいろんな悩みがあるという話を聞かせてもらったんです。それで、次男坊が慶応の文学部の
教授に四月からなったんですけれども、これまた妙なものですよ。それでもおまえ学者かと言いたくなるような生活
状況ですよね。ですから、
大学の
先生も本当の
意味で悩んでおられるんだろうと思うんですね、いろんな
状況の中で。
しかし、今の
日本の
大学制度というものは、これは何ぼ言っても国が決めているんですよね、
大学制度は。
アメリカは
アメリカで
大学制度がある。これはやっぱり国が決めているんですよね。それは州立を大切にするとか、あるいは私立を大事にするとかいうふうなのはありますけれども、それはそれぞれの国がやっぱり
大学というものに対しては関心を持っているから、そこで制度を決めているんです。
日本の制度はやっぱり
日本の国が決めているわけですよね。我々
国会が本気になって
大学問題に取り組まないからこうなっている。ハンセン病じゃないけれども、
大学そのものを本当によくしなければこの国はよくならないと私は思うんですね。
そういう
意味で、何とかひとつ、
大臣、今までも女性
大臣、森山
大臣も赤松
大臣もおられましたけれども、本当に
文部省の中で苦労してこられた、そういういろんな御
自分の御経験、あるいはまた大使としてやられたそういういろいろな立場から、今までと違った角度で
大学を本当によくしようと、
日本の国の。それこそ総理に話していただいて、
教育改革の大前提はまず
大学だというぐらいの宣言をやっていただくぐらいのことをぜひ
お願いしたいというふうに思いまして、これはもう私の
お願いですが、もし何かあればあれですけれども、よろしゅうございますか。
では次に、ちょっとこれは
学校で、今、義務
教育学校、高等
学校もそうですが、これは
世界じゅうどこでもここでも、
子供たちの反乱というふうな表現まで使っている人もいますけれども、その
状況で大変苦しんでいる、こういうことが言われているんですね。ただ、私は少しマスコミがあおり過ぎている要素があるように思えてならないんです。
いつの
時代でも
子供というのは反逆するんですよ。あの天皇陛下万歳といって厳しい
教育を受けたときでも、
子供は反乱を起こして、私の中学二年の子は
自分で刀をつくって、刀といったって鉄を磨いてとがらせたやつで、それで本当に気に食わないやつを、
自分でけんかしても負けるやつを刺していた。それこそ一遍に連れていかれてぶん殴られてひどい目に遭わされて、そんなことは新聞に載らぬですよ、その当時は。
しかし、いつの
時代にも
子供の反逆というのはあるのが当たり前なんで、世の中は。私はそう思うんですね。それをどう扱うかということが
一つあると思うんですけれども、ただしその前に大切なことは、
最初に
大臣の担任をした教師のお話を私いたしましたけれども、
子供というのは
先生の姿を見ているんですよね。そうすると、その
先生の姿というのがいつまでたっても印象に残ります。
私も、
亀井先生があそこにお見えですけれども、この前、私の恩師が、一九四一年に私の担任をしていた旧制中学の
先生が、これは漢文の指導の名人で、今ゼミナールで引っ張りだこです。やがて八十六か七になるんですけれども、大変な
先生です。この
先生に私は担任を四年生と五年生と二年間旧制中学でやってもらったんですけれども、もう今でも何とも言えぬその
先生の風貌が楽しくて仕方がない。別に聖人でも君子でもないんですよ。漢文の
先生だからといって聖人君子じゃありませんし、極めて
人間的な人です。あるいは、小
学校のときに教わった中島
先生という
先生、もうお亡くなりになりましたけれども、この
先生が非常に印象に残るんです。
そして、その
先生たちの
時代はどうだったんだろうかとちょっと私も調べてみたんです。そうしたら、小説の
世界にも出てくるんですよね。あの「路傍の石」という小説がございますけれども、そこで吾一という少年のことが出てくる。吾一という少年を教えている
先生は、知らぬ顔をしていつも机に向かって本を読んでいる、自習せいと言って。今だったら、すぐPTAから文句を言われて首になるかもしれない。
その吾一を教えた
先生が、吾一がみんなから
いじめられて、母一人子一人なものですからね、鉄橋にぶら下がった。そして、汽車が通るのをじっとこらえて我慢して、げたが落ちて、今にも落ちそうなんですよね。それは
映画でやりました、昔。それが出てきたときに、
先生はいきなりこらっとしかるんですよ。何だおまえはといってしかる。そのしかるのが、あの
映画の
世界は私は今でも印象的なんですけれども、いつもぼやっとして知らぬ顔をして一人で本を読んでいる
先生、
子供のことを面倒見ぬような
先生がそのときにしかったそのしかり方で吾一が目を覚まして、そしてたくましく生きていくんですよね。おまえの字を見てみよと、吾一人と書いてある。
世界じゅうでおまえは一人しかおらぬのだぞと。少々
いじめられたから何だからといって、ほかのせいにしちゃいかぬ、
自分一人だと。
世界じゅうでおまえ一人しかいないんだということを教えるんですよ、がちんと。
私はそういうのが
先生の姿だと思うんです。だから、そういう
先生がふえることが必要なんだろうと思うんですね。そうすると、その
先生たちに何を求めなきゃいけないかといったら、いたずらに朝八時半から五時半までちゃんとおって、ああ終わった終わったといってさっさとうちへ帰って、それで今度はアルバイトに
家庭教師をやるような
先生じゃ困るんですよ。そんなことじゃなしに、とにかく勤務時間であろうとなかろうと
子供がおれば
子供とともにおるという
先生でなくちゃいけない。
私が昭和二十四年に
高校の教員になったときに、校長がこう言ったんです、勉強せいよと。勉強せいよだけですよ。どこでもいいから勉強せいよと、校長に私が言われたのはね。ちゃんと何時から何時までおれなんということは言わぬですよ。それで、その中でみんなが貧しかったけれども一生懸命になって頑張ってやったと私は思っておるんですね。そして、ちゃんと法律もよく読んでみるといろいろ書いてありますが、教員に求められるのは研修だと。特に自己研修だと。どうやって自己研修を保障するかということがなかったら本当に
教育はよくならない。
先生が勉強する姿、さっきの吾一の、本を読んでいるというのもやっぱり勉強する姿なんでしょうね。勉強する姿を見て
子供は学ぶんですから、
先生が勉強できるようにしてやらなきゃいけない。
ですから、ドイツで私は、議長をされた長田
先生と、今も御健在ですが、坂野
先生と三人でボンに行って、小
学校に行った。予定時間は一時間だということで行ったんですけれども、そうしたらもう坂野
先生が、いや、もっとおろう、もっとおろうと、午前中ずっとおったんですよ。二時間半ぐらいおったですよ。そしたら、終わったんです。
校長先生は三十八歳ぐらいの女の
先生で、
先生はみんな女の
先生ですよ。男は一人もいなかった。夏休みの前です。そしたら、
校長先生が、今週で終わりで、来週からは
先生方はみんな南フランスへバカンスに行くと言うんです。そんなに
先生は月給が高いかというと、月給は安いんですよ。安くても行けるんですよね。
校長先生、あなたはどうするんだと。私は校長だから、ちょっといろんな仕事をせぬといかぬので十日ほどおくれて行きますと。
そしたら、坂野
先生が、いや、すばらしい
教育だと。
先生たちは昼間
授業が終わったらいないんですよ、
学校からもう。
授業に全
責任を持つんですよ、教師というのは。そのかわり、
授業を参観している僕らみたいにドイツ語がわからぬ
人間にもわかるんですよ、教えているその教え方が、なるほどなと。時計のことを教えると、非常によくわかるように教えるんですね。やっぱり
先生が自信を持っている。そうすると、
先生は教えることに誇りを持つし、それから楽しいんですよ。
ところが、今の
先生たちは決して楽しくないんです、
学校が。
子供たちを教えることに本当に喜びがないような、何かしようとしてもわあわあ忙しくてというふうな
状況がある。
ですから、私は、やっぱり
文部省の仕事の中に
先生が勉強できるような
状況をつくってやる。
先生たちはしっかり勉強しなさいよということを
文部省がどんと言っていただくと、それは都道府県がそれぞれの都道府県の条件の中でさらに生かして頑張っていくというようなね。
先生、一緒に勉強しましょうよ、勉強する姿を
子供に見せましょうというふうなね。そのためには、国は皆さん方が勉強することを保障しますよというふうなことを打ち出してもらうことが私はこの国を変えていく
一つの力だというふうに思うんですよ。
大臣、その辺いかがでしょうか。重大関心のある初中
局長でしょうか。副
大臣に一遍この辺で見解を聞きます。