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井上吉夫君
昭和二十年代といえば、戦い敗れた
日本、どうやって昔のような
暮らしになることができるかと、みんな一生懸命頑張ったころでした。そのころは、
林業というのは
余り暮らしの足しになるわけじゃありませんから、まずは食べるものの方が優先するのは当然のことだったと思うんです。
しかし、それが今の一千万
町歩に及ぶ
人工林ができ上がったというのは、ある意味では私は
日本における林政、その当時はやっぱりいいことをいろいろやってくれたなと。その中でも
人工造林についての
補助、大体、
計算された金額の四割
程度という
計算に立っていましたけれ
ども、実際上は四割にはちょっと、
実勢価格には足りないなという
程度ではありましたが、少なくとも
苗木代はほとんど
補助金で賄えるという
状態でした。そのことが非常に幸いして、ほかに
余り金になる
仕事もないものだから、山に熱心な
人たちは一生懸命
造林をしたんです。なぜかといえば、
外材の
輸入というのはほとんどありませんでしたから、ほとんど
国産材で賄うという時代。したがって、若干ながら戦時中の育った木として残った
部分は割といい
値段で売れていた、そうしてその
程度がちょうど需給が見合っているという
関係もありまして、
価格はいい、そして先々はまた楽しみだということなどがありまして、
林業というのはかなり熱心に
林家の取り組む対象になったと私は思っています。
そこで、私がどういうかかわりで
林業に熱心に取り組むようになったかといいますと、実は
昭和三十年の三月六日に私は父を亡くしました。そのときに、父と一緒に農業をやりあるいは
林業をやっているさなかは
余り山には熱心でありませんでしたけれ
ども、父が亡くなった後、山を全部調べてみると、たまたま二
町歩余り、二ヘクタール
余りの
ヒノキの四十二、三年生の
美林を残してくれました。それは今の国道三百二十八号線沿いの非常に出し場のいいところでしたので、いい
値段でみんな欲しがったわけです。もちろん、一遍に切るようなことはいたしません。何本かずつ切れば、大概、
林業につぎ込むだけの
経費は出るなというときでした。したがって、この山がある間に、ほかにもう
一つ十ヘクタールぐらいの
雑竹林がありましたので、その
雑竹林をきれいに
人工林に切りかえる、これがおやじが残してくれた山に対する恩返しだと思って、実はその年から一年に二町ずつ五
年間、
人工造林への切りかえをやろうというのが私の
造林との
取り組みの第一番目でありました。
五年と決めたのは、五
年間は
下刈りをずっと続けます。一年目は二
町歩ですけれ
ども、二年目は四
町歩、三年目は六
町歩というぐあいになりますので、やっと五
年間で
下刈りの手間が一応抜けるということを第一
段階の私の植林との
取り組みとして、それは予定どおりやりました。
そのことが私を、その後、
昭和三十六年に、
いずみ森林組合というのが、
町村ごとにありました大川内、出水、米ノ津、
三つの
森林組合が合併した
初代組合長にみんなが決めてくれたきっかけだと思うんです。あいつは熱心な、少し、若い者がなかなか
関心を持たない山の
仕事にようまあそんな気になったなということが、経済的な
計算が
余り強くなかったことかもしれませんが、熱心に取り組んだんです。自来、今日まで、実は私は
いずみ森林組合の
組合長をそのまま続けております。そして、
昭和五十年からは県の
連合会長も続けているというのは、それは私が
議員になったからというのではなくて、自分でずっと山を育てることにもう本当に、
山気違いと言われるほど熱心に取り組んだから自然にやっぱりそうなったのかなと今思うんです。
ちょうどそのころは
人夫賃が四百円でした。四百円の
人夫賃。そして
立木は、
立木価格で処分をしたときに、一
立方の杉、
ヒノキを処分いたしますと大体十人か十一人、
人夫賃が支払いができたんです。ところが、今、その同じ一
立方の
立木で何人雇えるかといえば〇・七人ぐらい、一人も雇えません。倍率でいえば、そのころの十五分の一というのが今の
材価の現況かということがおわかりいただけたと思います。
話の中に数字を入れましたので正確には受け取りにくい点があったかもしれませんが、事ほどさように
林業というのが、言葉にずっと書き並べてあるのを一読するよりも、実際上の
林業というのはほとんど
計算に乗らない、これをやれといったってやる人間がおるものかというのが今の現状であります。
ということの
理由の
一つは、途中で、
昭和三十八年から
外材が自由化されて、たまたまそのころに
林業基本法もでき上がったわけですけれ
ども、だんだん
外材が材として港に着くものですから、買い手はそれを
利用しながらどんどん
林産活動を、
製材その他の
活動をやる、その方が便利だと。私
どもの近くの山で伐出して
製材所に持っていくだけの
経費よりも割安で、アメリカやカナダや、あるいはちょうどそのころは
南方材が主流でしたけれ
ども、どんどん入ってきたという歴史をたどっております。
そして、そのことは何を言われるかといえば、
日本という国は、ほかの
仕事でどんどん稼いで、金さえ出せばどこの木もどんどん切って
世界じゅうの山を荒らす元凶だと、ろくなことは言われぬ。そして、そのことが
林家のために若干でもプラスになるかといえば、逆に
材価をどんどん低落させるということで、
林家も
悪口を言われる。そして、
日本全体として、
日本人というのはもう金さえ出せばどんどん
世界じゅうに罪をばらまくと言われる。その原因であることを、お互い絶えずそのことに
関係のある
立場の人はしょっちゅう
悪口を言われている。おれ
たちは悪いことはしていないはずなのにということは多かったと思うんです。
経過が長くなりましたけれ
ども、事ほどさような
状況の中で今日を迎えておりますから、今何をもって私
どもはこのことを
もとに戻す、若干でも
もとに戻していけるかという方策として物を考えなければならないなというぐあいに考えるわけであります。
少し話が長くなりましたが、そこで、今度の
改正の
ポイントを一体どこに置くのかということについては、
林野庁長官から細部の
説明を一通り聞かせていただければありがたいなと思うんです。
その前にもう
一つ加えるならば、現在
日本じゅうで使う
年間の
木材使用量の八割は
外材です。二割しか
国内材は使っていない。ところが、材はないのかといえば、今の
木材の
成長は、
年間の
成長量だけ切れば、
自給率は五割ぐらいになるはずです。したがって、そのたまる
部分というのが、
蓄積がどんどんふえるかといえば、木がうまく売れないものだから、
手入れ不足のために
間伐が進まないという悪循環の中にあるという、そういう
相関関係を含めながら、
林野庁長官も
水産庁長官から移られたばかりですけれ
ども、この前来
お話をしてみますと、極めて的確にこれらの
状況は承知しておられましたので、このことについて
長官からお答えをいただきたい。