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参考人(
緒方貞子君) ありがとうございます。
本日は、
参議院国際問題調査会へ
参考人として出席するようにという御招待をいただきまして、ありがとうございます。また、御案内によりますと、もうここ数年来、国際問題そしてまた
国連の
役割等について御
調査をお続けになっていらっしゃる御様子、大変心強く拝見いたしました。
きょうは、特に
国連難民高等弁務官の勤務を終えてということで、私が十年間の経験その他から考えましたこと等について御報告申し上げ、今後の
調査の御
参考にしていただければと考えている次第でございます。
その前に、
一つお礼を申し上げたいと思いますのは、去る二月七日に
UNHCRのための議連を発足していただきまして、ここにいらっしゃる
先生方の間にも何人かお入りいただいたのではないかと思いますが、そのときも私は申し上げましたのですが、
国連のいろんな活動についての
支援というのは
政府ベースだけでは不十分で、これは国民的な
ベースでぜひ御
支援いただきたいと。その中でも、議員の
先生方は国民と
政府を結びつける非常に大事な方々でございますので、その意味でもこの議連が発足したということに私は大変うれしく、また心強く感じている次第でございます。
議連の発足に当たりましては、いろいろ
先生方の間でもお諮りいただいたのだと存じますが、一番感じましたのは、普通は私が
高等弁務官の間にこういうものができるというのが普通の姿ではなかったかと思いますのですが、むしろ終わってからできたということに、別にこの議連は
緒方を助けるためではなくて
難民を助けるためなんだ、政策としての
UNHCR支援、
難民支援ということでお立ち上がりいただいたと、そういうふうに私、解釈いたしまして、今後の議連のお働きあるいは
調査等につきまして、何でも私ができることがございましたらお世話させていただきますし、お役に立ちたいと思っておりますので、お礼と同時にその点も最初にごあいさつ申し上げようと思ったわけでございます。
UNHCR、
国連難民高等弁務官事務所と申しますのは、ちょうど五十年前、一九五〇年十二月十四日に発足いたしました。その後、現在、
職員は約五千名、そのうち
日本人職員は約六十六名でございます。
UNHCRは、世界百二十カ国に二百七十以上の
事務所を持っております。国よりも
事務所が多いと申しますのは、その国の首都に
事務所があるだけではなくて、私
どもの場合は事業をしている
国連機関でございますので、それこそ首都からヘリコプターや
軍用機などでかなり遠いところへ行った僻地にある
難民のお世話をする、そういうことで
事務所の数というものは国の数よりもずっと多いわけでございます。
難民総数といたしましては、私が
難民高等弁務官になりました一九九一年には約千七百万、その後ピークが一九九六年でございましたが約二千六百万、そして私が退任いたしました二〇〇〇年の終わりには約二千二百万でございます。つまり、中ぐらいの国の数ぐらいの人口を私
どものオフィスでいろんな形でお世話してきたと。
年間予算は約九億から十億ドルでございます。このうちの大部分は
各国政府の
任意拠出で賄っております。
それで、一番最初によく聞かれますのは、
難民というのはだれを指すのですかと。この
難民と申しますのは、
難民条約にその
定義等が書いてございますが、迫害、さまざまな
政治的信条、宗教その他の理由で迫害を受けて、
自分の国にいられなくて
国境の外へ逃れた人々、これらを
難民と呼ぶわけでございます。そして、その国の
保護が得られなくなった人々、その
人たちの
保護をするために
国連難民高等弁務官という官職ができ上がりました。そして、その事業の内容といたしましては、彼らを
保護し、
支援し、そして彼らの問題を解決する、この三点が
難民高等弁務官の任務でございます。
それじゃ、どうやってこの
仕事を実際には扱うんだろうかと。まず、法的な基盤はもちろんございます。その
人たちが法的には
自分の国家の
保護を得ていないわけですから、国家にかわって、簡単に言えば法的な滞在の資格であるとかそういうさまざまな法的なバックアップをしなきゃならない。そして、その
人たちが
自分の
国籍国外にいるわけですから、その
人たちのためのさまざまな
支援、それは法的なものもございますし物質的なものもございます。さまざまな形の
支援が必要になるんですが、その
支援を行う。そしてさらに、私はこの責任を一番重く感じましたのですが、彼らの問題を解決する、
難民が
難民でなくなるように努力する、これが私
どもに与えられた
仕事であったわけです。
具体的に申しますと、
難民という
犠牲者にかわって
各国政府に受け入れを交渉する、
支援を交渉する、そして
国際社会全般に対してはこういう
人たちを
自分の迫害を受けた国に送り返したりしてはいけないんだと、そういうような世論をしっかりと打ち立てる、そしてまた広くこれは
各国政府及び国民に対して訴えまして、そしてその
人たちの安全のために、そしてまた福祉のためにさまざまな物質的な
支援を集める、そういうような非常に多様な事業を内容としております。
法的根拠としては、一九五一年に成立いたしました
難民の
保護条約がございます。これがことし五十年を迎えますので、その
難民条約の確認と、そして十分今の事態に合っているかというようなさまざまな検討を行う、そういう条約の再検討の会議も準備しております。
そしてまた、多くの場合、
難民を守るための政治的な交渉を行わなきゃならないと。
援助活動と申しますと、ただ慈善のような
仕事というふうにお思いになったのでは不十分なんですね。それはどうしてかというと、かわいそうだから上げるということもありますが、
難民が
自分の
国籍国外にあって、そしてしかも身体的にも安全の面でもすべてを
保護するというのは大変なことなんです。特に、大勢の
難民が
国境を越えて隣国に逃げ込んだ場合、隣国の安全というもの、
国境周辺の安全というもの、こういうものも侵されますから、そのためにどうにかして
難民の安全と
難民を受け入れている国、そしてその
周辺地域の安全というものも確保していかなきゃならない、そういう安全の保障というのが非常に大きな責任になってまいります。そして、その裏には何があるかというと、
法秩序の遵守。これは
難民が
法秩序を乱さないようにということもあるんですが、
法秩序が十分守られないために
難民がまたさらに大きな被害をこうむることのないようにと。
これは、私が
難民高等弁務官を務めておりました際の最も大きな事件としては旧
ユーゴスラビア連邦の崩壊がございまして、この場合、
民族間の対立、
民族の浄化という言葉がしばしば使われたわけでございますが、そういう他
民族を追い返す、場合によっては他
民族の殺りくというものが
紛争の中心にあったわけですね。その中で、どうやってそういう追われる人々を守っていくかというためには非常に大きな苦労をいたしたわけです。
そこで、どういうことで何で二千万人以上の
人たちがこういうふうに逃れてきたのかというような
難民の流出の原因と、それに対してどういう対策をとるかということについてちょっとお話ししたいと思います。
何と申しましても、冷戦以後の世界の
紛争の最も基本的な形態は
国内の
紛争だったということでございます。
紛争の
国内化、これが冷戦までの
難民保護の実態と非常に
保護の実態が変わった原因でございますね。国と国との戦争であった場合は、
難民が逃げてきたときにはその国の外にあって
難民を受け入れて
キャンプをしっかりとつくり、守っていけばよかった。ところが、
国内の
紛争になりますと、どこでこういう
難民をどういう形で守ったらいいかということ。これが、しかも
国内紛争に巻き込まれない形で行うというのが非常に難しくなったわけでございます。また、
国境を越えた
難民以外に
国内で
難民化した人々、その
保護というのが非常に大きな問題になったわけでございます。
そこで、やはり私としては、
安全保障理事会というところにも、私以前の
高等弁務官は一人もそこで証人として行ったことはなかったんですが、しばしば呼び出されまして、あるいは少し話してくれというようなことでお招きを受けまして、全部で
安全保障理事会に十二回ほど参りました。それは
アフリカの現状の場合、あるいは
ユーゴスラビアの場合、あるいは
難民保護をどうやってやったらいいのかというようなことについて、
安全保障理事会は本来は国際的な平和と安全を対象にして活動する
国連の機関だったわけなんですが、やはり
国内問題、
国内の
紛争というものに踏み込まざるを得ない状況になってきた。それが、やはり人間がその中で一番大きな
犠牲者になる、一般の人間が
犠牲者になるという状況のもとで、どういう形でこれの
保護をし問題の解決をするかということが
安全保障理事会の大きな課題になったわけでございます。
また、
軍隊との関係、これが大きな問題として出てまいりました。旧ユーゴの場合、何といいましても
紛争は
民族と
民族の浄化の問題だった。例えば、
セルビア民族が
イスラム系の
人たちあるいは
クロアチア系の
人たちを追い出さなきゃならない。そうすると、現場におります私
どもの
職員は、逃げようかどうしようかという相談を受けるわけですね。
例えば、
イスラム系の住民から、今爆弾を投げ込まれたり非常な危険にある、出ていけと言う、それで出ていかなければ殺されるでしょうと。だけれ
ども、出ていったら
民族浄化というその
紛争の
目的に合ってしまうんじゃないか、どうしたらいいだろうと。そういうぎりぎりの相談を受け、ぎりぎりの選択に迫られたこともしばしばあったわけでございます。その場合に、結局、他
民族の追放をどうやって防いでいくのか。それと同時に、どうやってこの追放されそうな
人たちの命を守ってあげるか。そういう中で、私
どもの
職員は現場で非常に苦しんだわけでございます。
その間、
ユーゴスラビアの場合には、
国連が
平和維持軍を派遣しました。七千人ほどの
平和維持軍を
ボスニアに派遣したんですが、その
軍隊との協力をするべきか、するべきじゃないか。どうやったら、どういう形でしたらいいかということも大きな問題になったわけでございます。
私
どもの
職員は、それまでは
軍隊と協力するというふうなことはしませんで、
軍隊とは常に距離を置くという立場で
自立性あるいはニュートラリティーというもの、
中立性を守ってこようとした。ところが、三
民族のぶつかり合いの
国内紛争の中で、この
軍隊も
平和維持軍として
国連から派遣していまして、やはり
目的は平和の
維持、人命の尊重、そして
人道活動の
支援ということで出てきたものですから、その
人たちの使命と
難民保護の使命とは
目的においては非常に重なっていたんですが、具体的にはやはり
軍隊の存在というものとそれから
人道活動の
活動現場でのイメージというものをどうやって合わせるかということで苦労したわけです。
結局は、特に私
ども、歴史的にベルリンの空輸よりも長い
期間サラエボの空輸をしたわけですが、この場合、
軍隊は私のもとで
人道活動のために動くということで、おかしな話ですが、
難民高等弁務官がコマンダーでそのもとに空輸をしたと。あるいは、陸路非常にたくさんのトラックで隊を組みまして物資を持っていったわけですが、その場合、先頭にあった
国連軍が先に行って安全の確保をしたり地雷があったときはそれを除去したりという形で
支援をした。そういうことで、初めて私
どもとしては、
軍隊と一緒に
仕事をしなければ人々が守れない、こういう中での
仕事をしたわけでございます。
それで、私
どもの方からも
人道機関も
軍隊と働くということを習いましたし、また
軍隊の方でも、
軍隊というのは本来戦闘のためにできている集団なんですが、戦闘ではなくて人道的な
支援のためにどうやって活動していいかというようなことも習得されたんだろうと思うんです。
お互いに、ついに私
どもの方から
軍隊へのいろんな
人道活動の内容を示すような
教科書のようなものをつくりまして、
軍隊の方は
軍隊の方で
人道活動する、私
どもはつい
ばらばらに非常にフレキシブルな
仕事をしたんですが、
軍隊というのは組織されているものですから、
軍隊の組織はどうやって動くかというような形の
教科書をつくって
お互いに
支援をし合うための
条件づくりというようなものもしたこともございました。
今、
人道的支援のために政治的な
介入あるいは人道的な
介入、人道的な
介入という言葉を使いましたときに、多くの場合、
軍隊を使用するということについての是非が議論されているわけでございますが、私自身、
自分の経験からどういうふうに考えているかと申しますと、人道的な
支援から人道的な
介入までの段階的な
対応というものを計画して実施していく必要があると思うんです。
段階的な
対応と申しますのはどういうことかというと、まず一番最初にどこででもしなきゃならないことは、地元の
対応能力を
強化することだと思うんです。
難民が入っている、逃げていったその
地域、あるいはその国の地元の能力、これは百万人の
難民が内戦に敗れて逃げてまいりますと、これが事実今のコンゴですね、当時のザイールで起こったことで、百二十万人が
国境を越えて入ってきたときの
対応というのは相当の
対応能力がなければできないことなんです。そういう
対応能力をもっと、危険が起こりそうなところ、
紛争が起こりそうなところについてはその地元の、
地元レベルの
対応能力の
強化ということの
必要性というものを強く感じました。
それは、内容的に申しますと、
法治能力の育成である、あるいは
法務官の育成である、警察及び
軍隊の
法治能力強化のための訓練、あるいは
警察力のロジ、
コミュニケーション能力の
強化、こういうことがまず第一にされるべき国際的な
支援の形態であるというふうに考えております。場合によっては、人道的なアドバイザーであるとか警察の訓練をできるような国際的な警官であるとか、そういうものの派遣も考えたい。事実、
タンザニアでは私
どもが
タンザニアの警察に対してこのような
援助をいたしまして、そして
難民キャンプ内の
法秩序の
維持ということで努力しております。
それがさらに進みましてどういう段階を考えていると申しますと、
地域組織の
対応力の
強化でございます。これは、
アフリカは
アフリカ統一機構という
地域組織がございますのですが、そこには
平和ファンドというものがあって
日本からも御出資があるというふうに承知しておりますが、さらに
南部アフリカ、
西アフリカ、そして
アフリカの角の
地域にはそれぞれ
地域組織があるんですね。そういう
地域組織における
平和維持能力の
強化ということがその次の段階では非常に望ましいんじゃないかと。
これは、政治的な
交渉力から交渉のためのロジであるとか資金の提供であるとかいろいろなことがあるんですが、
地域に基づいた
平和維持能力の
強化ということもひとつ具体的に考えておりますし、ある意味では今、
西アフリカが一番危ないところになっておりますが、
西アフリカにおいては、ECOMOGと言われております、ECOWAS、
西アフリカ経済共同体の中にある
軍事部門でその
国境の
監視等をする
人たちを養成しております。そういうものがある。それでもどうにもならなくなったときに初めて国際的な
人道介入、
コソボで見られましたようなものが出てくるんじゃないかと。
国際的に見ますと、大規模な
軍隊の派遣、それによる人道的な危機のための
介入というものをする用意は極めて限られているものだというふうに私見ております。
コソボの再現ということはほとんど例外であろうと。そうなってきますと、もう少し段階的でいろんなやらなきゃならないことを、具体的なそういう取り決めも行いますし、
組織化が必要であるし、そういう
支援が必要なんじゃないかと。それが第一点でございます。
第二は、
対応能力の
強化ということで、もっともっと
平和維持活動と
経済社会開発というものを全く違うものというふうに考えるのではなくて、これは連携されるべきものなんだと思います。
紛争の予防であるとか平和の執行であるとか、あるいは解決の問題は絶えず政治、経済の
開発能力の
強化と裏表として初めて実際的な効力を発揮するものだと思うんです。
ここで非常に私が強く感じましたのは、
紛争がございますと、
緊急人道援助ということは私
どもの
仕事としていたしました。そしてまた、それに対する
支援というものも
各国政府からも参りましたし、民間の方々からもNGOの方も出てくださるということでいろいろあったわけです。ところが、その
紛争が少し解決に向かう、
紛争よりも平和の方へ少し向かい出すというときになってきますと、そこではもっともっと
開発援助の資金の投入が必要になるわけです。ところが、その資金はなかなか来ないんです。資金も来ないし、
技術援助も非常におくれると。
それはどうしてそういうことになるかと申しますと、やはり
開発援助というのは、大体ある程度安定した
政府があって、その安定した
政府を通して
援助の計画を立て、開発の目標を立てていくと。ところが、
紛争直後あるいは
紛争中にあったような国においては、そんな
政府はなかなか出てこないんですね。その
政府を強く、早く安定したものにつくっていくということ、これに成功すれば
紛争から平和への橋渡しがもっともっと順当にできる。
ところが、これがなかなか実現できない。その間のギャップが非常に私は大きな国際的な問題だとも思いましたし、平和の礎というものはもっと早くからつくるべきである、そういうふうに感じましたので、
紛争の再発につながるような状況を防止するためにも、もっともっとこの
平和維持活動と
経済社会開発の連携というものを
強化していかなければならない、そこに
各国政府あるいは
援助機関の注目をもっともっと集中させなければいけないと、そういうふうに感じました。
こちらのいろんな
調査会の御報告を拝見しましても二本立てで別々になっているんですね、
平和維持活動とそれから
社会経済開発の問題。このリンケージに実はこれからの世界を平和の方へ持っていく、繁栄の方に持っていくためのかぎがあると。その辺はもう少し今後も御
調査いただきたいと思いますし、私の
自分の経験からそういうことを非常に痛感したわけでございます。
そしてさらに、
目的としましては、こういう内戦に基づいた
紛争が平和の方へ進みましたとき、これはいろんな形で追放された多くの
犠牲者あるいは
難民、
国内避難民が
自分のもとのうちへ帰り始めるときなんです。その帰り始めるときの
目的としては、やはり
コミュニティーづくりから始めなきゃいけない。上からどんなに立派な
政府をつくっても、これはやはりそういう
紛争の後始末としてはなかなか浸透しない。もっともっと一般の
人たちの、
お互いに殺し合い、恨みがあり、恐れのある
人たちをどうやってまた一緒の
コミュニティーの中で暮らす
人たちに変えていくか。
立派な言葉で言えば和解の増進なんですけれ
ども、私が現実に見ました状況からいいますと、和解などというものはかなり遠い先の
目的で、何とかともに暮らす、そういう道をつけていってあげなきゃいけない。
日本語というのは非常に大体難しい言葉だと思いましたけれ
ども、共生、ともに生きるという言葉がよく使われておりまして、これがまさに共生の育成をどうやっていくか、ここに大きなかぎがあるのではないかと思いました。
二点御
参考までに申し上げますと、そのために、私は
ボスニアにおきまして、ともかく今まで一緒に働いていた
人たちが
民族浄化の戦争の過程でみんな
ばらばらになるわけです、
イスラム系の
人たち、
クロアチア系の
人たち、
セルビア系の
人たち。もとへ戻ることも恐れているし、戻ったって
仕事がないわけです。
そこで、いろいろ工夫しまして、もといたところに、もしも多
民族を一緒に働かせるのならば工場をまた持っていきましょう、あるいは牧場を持っていきましょうということで、ほとんど無理をしてでも一緒に働かなければならないような状況をつくり出す。そういうプロジェクトにお金を出すということで幾つか提案いたしまして、一つの共生を進めるための、ともに働くためのそういう
支援をする。そういうことを
ボスニアで始めましたし、またルワンダでもそういうことを始めております。
これはまだ
実験段階にございますのですが、私のほとんど最後の願いの一つは、こういう共生プロジェクトをつくることによってどうやったら
コミュニティーづくりをまたできるかと。つまり、下からの平和構築の重要性ということに注目いたしまして、国民レベルの平和共存というものをもっと図っていくと。
この場合、非常に女性のプロジェクトというものがかぎになっております。これは
ボスニア・ウイメンズ・イニシアチブ、ルワンダ・ウイメンズ・イニシアチブ、
コソボ・ウイメンズ・イニシアチブという形で出してまいりましたのですが、どうしても
紛争後の社会では生き残った家族の筆頭は女性である場合が多いわけです。女性ならいいんですが女の子ですね。ルワンダあたりでは十二、三歳ぐらいの女の子が実は家長であって、そういう
人たちの互いの協力をする、出会いの場所をつくっていく、訓練を与える。やはり、私は
紛争終結後の社会の構成はもっと女性に注目するべきだと思いましたし、女性中心のプロジェクトも組んでまいりました。
今、このように、ざっとでございますが
紛争と
難民流出の解決についての私なりの考えを申し上げたわけなんですが、何と申しましても中心になるのは現場主義の思考だと思います。これは私
どもの
職員が八割は現場にいる。私もほとんど
紛争の現場を歩き回りました。そして、そこでつくづく感じましたのは、現場感に基づいた解決でなければ本当の解決というのは出てこないんじゃなかろうかと。
大変口幅ったいことを申し上げるようでございますが、どんな総会の議論も、どんな
安全保障理事会の議論も、あるいはいろんな国際会議の現場でも、幾ら会議をしても現場に伝わっていない場合が余りに多いという現実。この中でせっかく会議をなさるなら、せっかく
調査ミッションをお出しになるなら、その結果が現場の実態を変化するようにどうやって持っていったらいいかと。それが私の一番疑問として持って帰った命題でございますし、私はそのためには何でももう少し手伝うことがあったらお手伝いさせていただきたいと。
国連というのはニューヨークの本部中心じゃなくて、むしろ
国連を中心とした世界各国の共同事業体のその現場での変化、これが一番大きな
国連の課題であると思っております。そして、事業対象は
政府じゃなくて、
政府はもちろん必要なんです、
政府からさらに個人、市民、そういうところまで広がっていかなきゃならないんだ、そういうふうなことを感じました。
いろいろ私としては十年間いろんな勉強をすることもできましたし、特に
自分で一番大事な収穫と考えておりますのは、現場から物を見る、あるいは考える習慣だったと思うんです。これはただ、一つだけ大きな危険を伴っております。これは現場にある
職員の安全性の問題でございます。現場にいなければ本当にいろいろな人々の
支援をすることはできないんです。
保護もできない。ところが、現場というのは
紛争地である場合が多いものでございますし、非常に
法秩序の遵守というものに欠けているところが多うございますから、どうしても危険を伴うのでございます。
したがって、
国連の現場主義で働いている機関、これらの機関の
職員の安全をどういうふうに確保するか。これは条約は一応できたんですね、
平和維持活動及びそれに従事している職員の安全を確保する条約というものはできておりますが、その条約のカバーする範囲というものはもっともっと広げられなきゃなりませんし、また、
職員の安全を確保するためにはいろんなセキュリティーオフィサーも必要でございます。それからコミュニケーションの道具も必要でございます。
そういうような
職員の安全を
保護するための財政的な裏づけ、これが今の
国連では大変薄いのでございます。それについて
日本からは
任意拠出でそれを
強化するための
支援は出ておりますが、
国連の
仕事というのは現場にあるんだという認識から、もっとこの裏づけを予算的にも
強化していただきたいと。国際貢献というものは、抽象論や抽象的な提言や遠ぼえでは不十分であるということを非常に強く感じますものですから、この機会にこういうことを申し上げて、私が常日ごろから一番必要と感じる
国連強化策、国際協力の
強化策としてこの点を訴えさせていただきたいと思いました。
実は、近く正式に発足すると思いますが、人間の安全保障委員会というのができまして、そしてこれは
日本政府からも
国連に対して、人間の安全保障に関するトラストファンドというものがもう既に創設されております。そういうトラストファンドが
目的とするところ、これは本当に不安全と申しますか、安全の欠如している
紛争地、そしてそこにおける人間の安全度をどうやって高めるか。あるいは貧困、これは貧困というものもどれだけ人間の安全というものを脅かすかわからないんですが、その貧困に対して具体的にどういうような改善策をするのか。
そしてまた、社会的な安定というものが、これは感染症の問題な
ども非常に最近出てまいりましたけれ
ども、社会的なセーフティーネットと一言で言われておりますが、そういうものが本当に一番必要とする
人たちのためにどうやったら行き渡るのか。
そして、さらに今私
どもが知っております人間の安全保障を脅かすものとしては、一番最近注目され始めたのは感染症の問題ではないかと思います。感染症については
安全保障理事会まで取り上げられたんです。ですけれ
ども、十年、十五年先を見ますと、新たな不安定あるいは安全を脅かす材料というものは科学技術の進歩からも出ている。そういうものをもう少し早く予測して、予防策を立てることができるんではないかと。
そういうようないろいろな課題を踏まえての人間の安全保障委員会の発足というもので、私は共同議長としてお役に立てたらと思っておりますのですが、これは抽象論ではない、本当にその委員会の
仕事の結果、多くの人々の安全というのがより確実に保障される、そういう結果を目指してしばらく、せっかく引退して帰ってきたのでございますが、もう少し必要ならばお役に立つつもりでおります。
三十分というお時間をいただきましたので、とりあえず問題提起として私の感じるままに御報告させていただきました。
ありがとうございました。