○
参考人(神
美知宏君) 全療協事務
局長の神
美知宏です。
本日は、大変貴重な時間を割いて私
どもの
意見の
陳述あるいは御
要望等を申し上げる機会をお与えいただきまして、そのことに対して改めて感謝を申し上げたいと存じます。
また、先ほど
参考人からもるる謝意が述べられておりましたけれ
ども、先日、六月七日、八日の両日にわたりまして、衆参の本会議におきまして
国会決議が採択をされました。こういう
決議の内容を改めて私
ども全
入所者の立場で拝見をしてみるときに、こういうふうな
国会決議が今までなされたことがあったであろうか、そういう印象を強く持ちましたと同時に、本当に私
どもが
国会の皆さん方、つまり国民を代表する国権の最高機関でこういう
決議がなされたことの感激を今もって強い余韻とともにかみしめておるところであります。皆さんの一方ならぬ
反省の言葉と今後の対策についての具体的な指摘もこの中でなされておるところでありまして、必ずや私
どもが今回この国家賠償請求
裁判をやってよかった、苦労はあったけれ
どもここまで生き延びてきてよかったという
思いを全
入所者がかみしめることができるように、あるいは、ふるさとにおいて非常に苦しい暮らしをしておる
家族の者
たちがこの
国会決議を見てどのように感激と喜びを味わっているだろうか、そのことを想像するだけで改めて感動と感激を覚えるところでございます。
そこで、先ほど私
どもの組織の会長であります高瀬の方から概略的にいろいろな問題について
先生方に御
意見あるいは御
要望を申し上げたところですが、その問題に若干補足をする前に、私個人のここに至りますまでの片りんをごく大ざっぱにお話し申し上げたい、そのように思っております。
私は、
昭和九年生まれでありまして、ことし六十七歳になります。
ハンセン病療養所に入りましてから五十年が過ぎました。半世紀です。いまだに死を迎えることはなく、生き延びてまいっておりますが、ここまで私を内側から支えてくれたものは何か。
一言で言えば、私
どもが置かれている立場、人権を剥奪され、人間の尊厳を奪われ、
社会から差別をされ、無
らい県運動によって一般
社会から追い出されて
療養所に入ってしか生きる道がなかった、このつ
らい体験を何とかいつか生きている間にすべて全面的に解消しなくては死んでも死に切れないという強い憤りと信念が私を今日まで生きてこさせたというふうに思っております。
私は、十七歳で高校に退学届を出して
香川県の
大島青松園というところに
入所をいたしました。はっきり
ハンセン病だという確信は持てなかったわけでありますが、近隣の医者の診断によりまして、恐らく間違いないであろうということでありました。
本来ならば、病気にかかった場合は近隣の医療機関で
治療が受けられる、あるいは薬局等で薬を手に入れることができる。しかし、私がかかった病気に対してだけは、なぜかどこの
病院に行っても
治療を拒否される。どんなに
家族挙げて駆けずり回っても治
らい薬を入手することができない。どうしてこういう状況がこの
日本の
社会にあるんだろうか、大きな疑問と、
療養所に入るしか生きる道のなかった失望感とで
ハンセン病療養所に
母親に連れられて入りました。
療養所に入ってみますと、
昭和二十六年でありますから、既に
療養所の中では
昭和二十四年ごろから、
ハンセン病の特効薬と言われておりますプロミンの
治療が二十四年ごろから開始をされておりまして、見る見るうちに病状が快方に向かっている。そのことを目の当たりにいたしましたときに、私は、不治の病気にかかった、どこにいても
治療が受けられない、
療養所に入るしかそういう手だてはないという
らい予防法によって私
どもの今後が生涯が運命づけられていた、その
法律はどういう
法律なんだということを、十七歳にして失望感の中でこの
らい予防法を目にいたしたわけです。
らい予防法の
基本理念の中には、強制隔離、撲滅
政策という理念が貫かれておりまして、同じような予防法の中に結核予防法があったわけですが、結核予防法は
入所規定があり退所規定がある。しかし、
らい予防法については、俗に私
どもは入り口があって出口のない
法律だというふうに言ってきましたけれ
ども、なぜか、
らい予防法の中には退所規定、
社会復帰の規定というのが全くありませんでした。
療養所に入りましてまず強く印象づけられましたのは、納骨堂がいやに立派であること。東南アジアにパゴダというのがありまして、仏教で使う礼拝堂のことだと
思いますが、それにも劣らない立派な建物がどこの
療養所の中にもある。これは、たとえ亡くなられるようなことがあっても、骨になっても一歩も
療養所から出ることはできないんだよと象徴するかのような納骨堂が
療養所の中心に当たるところに立派に建てられておりました。
全国十三カ所ある国立
ハンセン病療養所の中でこれまでお亡くなりになった方が二万三千七百名、私
どもの組織の結果で明らかになっておりますが、このほとんどの遺骨が無縁仏のようにそれぞれの
ハンセン病療養所の中の納骨堂に眠ったままです。
今、私
たちが思うのは、いつになれば大手を振ってふるさとに帰り、肉親の体温を感じるきずなが回復できるんだろうか。あるいは七十になり八十になってもそういう状況はやってこないんではないか。ふるさとがいつ私
どもを温かく迎えてくれる日が来るのかということが当面の大きな望みであり願いでもあるわけです。
先ほど、
参考人の
方々がるる
要望を申し上げておりましたけれ
ども、今回の
判決を見た後、幸いなことに、
国会、政府だけではなくて、地方自治体におきましても県知事が直接
療養所に出向かれて
謝罪を表明しております。なぜここまで早くも地方自治体の知事までが
療養所を
訪問しておるのか。その
理由を考えてみるときに、
昭和の初めごろ国民挙げて政府の指導のもとに行われた無
らい県運動、国民の一人一人が、隠れてひっそりと暮らす
ハンセン病患者を見つけ次第しかるべきところに通報して、みんなで寄ってたかって、手錠までかけて強制収容してきた。
自分たちの県にだけは一人も
ハンセン病患者を残してはならないという運動によって、強制刈り込みが行われた。そのことに対する深い罪の意識を、今の県知事の皆さん方においても自治体の皆さん方においても、何らかの形で意思表示をしなければ申しわけないという気持ちが、知事をして
療養所を
訪問させているんじゃないかというふうに私は受けとめております。
これから恐らく変わっていくというふうに
思います。私
どもの気持ちの中にも、
社会から排除をされて
療養所の中に入ったわけでありますから、
社会に向けて心の扉をかたく閉めてかぎをかけて暮らしてきたけれ
ども、ふるさとに残っておる私
どもの
家族も、同じ気持ちで今まで生きてきたわけです。
これから、地方自治体の代表者も
謝罪をしてくれている、今回の
裁判を勝利させたのは国民世論の力強いエネルギーが
国会を動かし、政府を動かしたと
思いますけれ
ども、私
どもの
全国組織を結成したのが一九五一年で、ことし五十年を迎えます。その五十年間にわたる
全国ハンセン病療養所入所者協議会の運動の一番大きな目的は、
らい予防法の廃止でありましたし、
日本の国内から
ハンセン病に対する偏見と差別を解消してもらう、解消しなければならないという強い熱意が五十年間の私
どもの運動を支えてくれたというふうに
思います。
その運動の成果が今回のこの状態に結びついたという総括もいたしておるわけです。この広い
日本の、一見平和に見える
日本の
社会の中に、
ハンセン病問題がまだこういう形で残っていたのかということがこのたびの
裁判の結果を通してマスコミ報道をされ、そのことによって国民は改めて知らされ、驚き、衝撃を感じ、何かをやらなくてはならないという動きにつながり、政府を動かし、
国会を動かした。そういうふうに私は分析をいたしておるわけで、これも非常に喜ばしいことだというふうに、この喜びの
思いは死ぬまで忘れないと
思います。
六十七歳になって全身が身震いするほどの感激を覚えたことがつい最近二回あった。一つは、
熊本地裁における
判決をかち取れたということ。一つは、この
判決を受けて政府あるいは
国会がどう対応しようとしているのか大きな難関でありましたけれ
ども、
小泉総理の政治的な決断によりまして控訴断念という情報がもたらされて、
判決を手にしたとき、控訴断念を聞いたとき、涙があふれました。全身が身震いするほどの感激を味わいました。
しかし、それだけに終わってはならない。
国会におきましては、恐らくあしたになるでありましょうけれ
ども、
参議院の本会議におきまして、御提案なさっている問題が
国会を通るというふうに
思いますけれ
ども、それだけでこの問題が解決したわけではありませんで、補償法案が通ったということは、新しい時代に向けて第一歩を踏み出したにすぎないというふうに私
たちは思っておりまして、あしたから、あるいはきょうからどういうふうに今後全療協が運動すれば、本当の意味で
裁判をやってよかった、生きてきてよかったという
思いを達成することができるのか。それは、先ほど高瀬会長が
参考人の立場からるる概略的ではありましたがお話を申し上げたことに関係するわけです。
皆さん方のお手元に、つい先ほど、全面解決
要求書なるものをお配りいたしましたけれ
ども、この中に盛り込まれているすべてが実現して初めて私
たちは真の人間性を取り戻すことができるというふうに確認をいたしておるわけで、恐らくあした法案が通った後は、きょうも予定されておりますが、
厚生労働省に対して全面解決
要求書一つ一つを私
どもの立場から改めて御説明を申し上げて、速やかなこの問題の解決を
要求しよう、要請をしようというふうに考えています。このことが成就して初めて失われた人権なり人間の尊厳が再び私
たちの手に回復してくる、そうでなければこの問題は終わったことにならない。
国会で法案が通ったことは、ただ単に緒についたばかりだという認識を持っておりまして、今後、私
どもは、平均年齢七十四歳ですから余命幾ばくもありませんが、残された時間を有効に使って全面解決
要求の完全なる実現に向けての努力をしなくてはならないという決意を固めております。
どうぞ、
参議院の
厚生労働委員会の
先生方におかれましても、九十年にもわたる
日本の
ハンセン病政策に
思いをいたし、今後歴史を一つ一つ検証していく中から、今後どうあるべきかがクローズアップされてくるというふうに
思います。私
どもの運動をどうぞ側面から御理解を願いたいし、御支援をいただきたい。そして、
国会の皆さん方においても注視をしていただいて、ぜひ再びこの問題を
国会の中で、全面解決
要求を全部実らせるために
国会においても引き続き御努力をいただくならば、これにまさる喜びはありません。
私の
両親は七、八年前に亡くなっていきました。ある日突然
母親は亡くなりました。一九九六年に
らい予防法が廃止をされたときに、四十五年も六年も本当の
名前を使えない、偽名を使って私は
療養所の中で生きてきました。入園したときに、
療養所の受付に、あなたは偽名を使った方がよろしいよとアドバイスを受けました。
子供でありましたのでとっさに意味を理解することが難しかったんですが、それは、あなたが病気になって
療養所に入ることによって秘密がばれると
家族がまともな形で生きていくことができなくなるので、秘密にしておくために戸籍名を、親がつけた
名前を使わないようにみんなしているんですよと言われました。
一緒に行った
母親と相談をして、神崎正夫という偽名を使って、十七歳の三月でありましたが、その瞬間私はどう思ったかというと、十七年間
余りいい人生ではなかったけれ
ども生きてきたけれ
ども、
療養所に入って親がつけた戸籍名を使うことができないという場に直面をして、私は人間性がそこで再び抹殺をされた、そういう印象を受けました。
ある日突然
母親が亡くなりました。七年ぐ
らい前のことです。私は、全療協の事務
局長をやって六年になります。私が就任をして間もなく
らい予防法の廃止の問題が動き始めまして、一九九六年に
らい予防法が廃止をされた。したがって、ここで私はもう偽名を使う必要がなくなったということで、当時厚生
大臣をなさっておりました菅直人さんが多磨全生園を訪れたときに、
大臣の目の前で、本日ただいまから私は本名に戻ります、戸籍名に戻りますということを宣言して、神
美知宏という
名前に戻りました。そのときのまた喜びは格別なものがありました。
本名に戻るときに
家族会議を開いて、本名に戻ることによって、もしそれが私が運動を展開する中でマスメディアが取り上げて新聞報道されたら
家族がまた迷惑するんだろうかということで、事前に相談をしました。おふくろは、もう少し辛抱しなさい、弟の
子供たちがまだ嫁いでいないので、もう少し本名に戻ることは我慢しなさいと言われましたけれ
ども、その他の
家族は、やむを得ない、本名に戻るのが当然だろうということで、本名に戻りました。
朝日新聞の記者がそのことをかぎつけまして、
朝日新聞の「ひと」というコラムに写真入りで私の本名に戻ったことが報道されました。新聞報道されたその日に
母親は急死をいたしました。あれほど
母親が
反対していたけれ
どもあえて本名に戻した、そのことがショックとなって
母親は急死をしたんではないか、直観的にそう
思いましたけれ
ども、心筋梗塞でその新聞を見ずに亡くなったということを聞いてほっといたしました。
葬儀には帰れませんでした。墓参りに帰れたのは、亡くなってから三年ばかりしたときのことです。しかし、生まれた家に立ち寄ることができずに、家の前を通り過ぎて
両親の墓にもうでて、そっとまた
療養所に戻ってきました。もうこういう経験はこれだけでたくさんだというふうに
思います。
かつて結核のことを肺病と言われていたけれ
ども、今はどこへ行って自分の過去の病歴を明らかにしても何の差別も受けません。
ハンセン病の場合も結核のそれと同じように、かつて私は
ハンセン病だったということを公言しても何の抵抗もない、差別も受けない、そういう
社会に一刻も早く皆さんの御理解によってしていただかなくてはならないと
思います。
先般の
厚生労働委員会に対する
大臣の回答としては、偏見と差別の解消という問題はなかなか難しい、高齢になり、固定観念として人間が一たん
思い込むと、繰り返し繰り返し啓発活動をしないことには解消するものではないというふうに見解を述べておられましたが、全くそのとおりだと
思います。したがって、
一言で集約すれば、
ハンセン病に対する偏見と差別が解消されて初めて私
たちは人間に戻れる、市民権を手にすることができる、そう思っております。
時間が経過しましたので、これで終わります。よろしく御理解賜りますように。
ありがとうございました。