○黒岩秩子君 さきがけ環境
会議の黒岩秩子です。
私と
ハンセン病の出会いから
お話をさせていただきます。
私の次女が大学生のときにFIWCというボランティアグループに属していまして、韓国の元
ハンセン病患者さんの定着村に石垣をつくったり橋をかけたりというような肉体労働をしに行っておりました。次女は弟や妹たちも誘いまして、我が子四人が
ハンセン病患者さんや元
患者さんとのつき合いを始めました。
そんな中で十年前、私も誘われて、今、
江田さんがおっしゃっていた長島愛生園の夏祭りに行ったのが始まりです。以来、その村に住んでおられる何人かの
方々とおつき合いをさせていただいておりますし、実はつい最近、その中の一人が亡くなってしまいました。そしてまた、全国
ハンセン病療養所入所者協議会発行の全療協ニュース、先ほど
大臣もおっしゃっていましたけれ
ども、この全療協ニュースをずっととっておりました。そのために、
大臣が四月十八日に多磨全生園を訪問されたことも知っておりました。
実はこの長島という島、今も問題になっておりますけれ
ども、本土から三十メートルしか離れていないというのに、一九八八年になるまでそこに橋がかかっていなかったという島です。今回
判決にありますように、一九六〇年には既に、この
病気が不治の病ではないこと、また伝染力は極めて弱く、
療養所の職員で
感染した者はいないことなど知れ渡っていたにもかかわらず、三十年近くもこの島に橋がかからなかった。このことはあらゆることを象徴していると思います。
五月十一日の熊本
判決後に、控訴しないようにと訴えに来られた原告団のお一人がこう言っておられました。十一歳で発病し、島に連れてこられて、まず裸にされてクレゾール液で洗われてしまった。まだ幼かったので、親に会いたい一心でこの三十メートルの海を血だらけになって泳いで渡ったところをとらえられて、監禁室に入れられてしまった。この方は実は私と同い年の方でした。
この監禁室というのはどこの
療養所にもあり、そこではほとんど湯水しか与えられていなかったと言われています。中でも一番ひどいのは群馬の栗生楽泉園で、ここは特別病室というところがありました。そこに住んでいる
皆さんはこれを重監房と言っていたそうです。ここは
昭和十三年から
昭和二十二年までしか存在していなかったんですが、ここの中に入れられた方は少なくとも九十二人。そして、獄中で十四人が亡くなったのを含めて、そこでの虐待によって出てから亡くなった方を含めると二十二人もが亡くなったということです。
実は
昭和二十二年にこれが廃止されているにもかかわらず、ここのところの悪夢というのはずっとその後も続いていたと思います。
実は、私、前にも申し上げましたように、たくさんの虐待を受けた子供たちと接してきまして、幼児のころの虐待というのがどれだけ長年後までその後遺症が残るか、これはPTSDと言われていますけれ
ども、そのことを肌身をもって感じておりました。したがいまして、そこここの
療養所にあった監禁室に閉じ込められたという体験は、一回あっただけで十分その人は一生もうそのことはできないと思います。多くの場合、ここから逃げようとして監禁室に入れられるわけですけれ
ども、そうなりますと、もう出るなどという選択肢は全くない。一回入れられただけで出るという選択肢がなくなる。そういうところに押し込められていた。それがずっとつい最近まで続いた
現状だったと思っております。
五月十四日、
坂口大臣が
控訴断念を決意されたというニュースを朝日新聞で見て、すぐに
大臣室に電話をいたしました。すると、秘書官がおっしゃるには誤報であるということでした。朝日新聞だけが書いたので、ほかの新聞は書いていないと。そこで、くれぐれも控訴をしないように
大臣にお伝えくださいと申し上げて電話を切ったのですが、後にこの伝言は伝わらなかったということが判明しました。
ここで、一体控訴をするとすればどのような論拠でするのか、
厚生労働省の方に
伺いました。そのとき、その役所の方がこう言われました。
昭和五十年代には既に
らい予防法があっても出入りは自由になっていた。先ほど
桝屋副
大臣もそういうふうにおっしゃいました。しかし、私はこれを聞いたとき耳を疑いました。
昭和五十年代というのは一九七五年から八五年のことです。長島に橋がかかったのは一九八八年ですから、その後のことです。たったこの三十メートルのところに橋がかかるという、こんな単純なことの中に実は多大な魂が潜んでいると
考えます。橋をかけないことは、そこに近寄るなという強力な精神力が働いていると思われます。日本が経済大国として世界に名をとどろかすには、おまえたち姿を見せるなというメッセージさえ込められていたと思います。
姿形の違いをもってある種の
方々を排除した上で先進国として世界にアピールする、このようなことをしてきた大人のやり方を見て子供たちは育ってきました。学校の中で陰湿ないじめが横行し、たくさんの子供たちがみずからの命を絶ってきている。そのような中で、陰湿ないじめの方法を子供たちに教えてきたのがこのような大人による排除のやり方そのものだったのではないでしょうか。障害を持った子供たちを養護学校などの特殊学級に押し込めるやり方に通じていると思えてなりません。
かつて、小学校一年生の一年間養護学校に行っていた肢体不自由児金井康治君が二年生になるときに、普通の学校に入りたいというのを学校は拒否し、彼は親や支援者と五年間自主登校をしました。自主登校というのは、入るなと言われた学校に行くという、これは大変な行動です。これに対して、学校内のトイレさえ使わせず、その学校の校長と
行政の職員が門のところで立ちはだかって、そしてトイレを使わせなかった。校区の小学生をそこの校長が排除している、それをその学校の小学生たちは見ていたわけです。まさに校長は子供たちに後ろ姿を見せて教育をしていたということです。
先ほどいらした文部科学省の方にもぜひお聞きいただきたいと思ったのですが、先ほど
江田さんの質問に対して文部科学省は、
偏見、
差別をなくすということをおっしゃいましたけれ
ども、文部科学省そのものが実はこのことをやっておられる。それは、ことしの一月、特殊教育についての文部科学省の新しい方針が出されましたけれ
ども、そこの中で取り上げられているのは身体障害児だけです。知的障害の子供たちについて普通学級へ入れようなどということはまだ全く
考えられておらず、知的障害の子供たちは養護学校に
隔離されていて、私はこの長島愛生園のことを
考えるとどうしてもそのことが一緒になってしまいます。
障害児たちが、入れてくれないという地域の学校に自主登校というやり方で立ち向かってきた例を私はまだ
幾つか知っています。これは子供たちにとっては大変過酷なことで、その後、そのことが影響して精神障害になった知的障害の方もあります。このような方法で
隔離に対して闘ってきた障害児の姿は、
ハンセン病の
患者、元
患者の
皆さんの行動に通じています。
昭和二十八年、
らい予防法新法ができるときも、全国から
患者、元
患者が
国会に押しかけてこられ、この
法律の危険性を訴えられました。それで、そのころ既に、先ほどから問題になっている
プロミンの
効果とかが認められていたにもかかわらず、そのことを最もよく知ることができる立場にいた長島愛生園の園長であり、かつ
ハンセン病学会の会長であった光田医師の参考人意見によって
国会は新法を通してしまいました。先ほど
大臣はそのころの時代背景だとおっしゃいました。私はそういうことではないと思います。この光田医師のやってきたことというのは、どういうことかよく知っていながら、そのことをほおかむりをして、うそをついて
隔離したと私は
考えております。このことは、エイズにおいて医師たちが果たした役割に通じるものを感じております。
先日のこの
委員会で
大臣は医師の
責任ということをおっしゃいました。そこで私は
大臣にお
伺いしたいんですけれ
ども、このような光田医師のような、専門家としてうそをついて、ほおかむりをしてそのようなことをするのを同じ同業者として見た場合、どのような行動が可能なのか、
大臣にお
伺いします。