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今井澄君 先ほど
武見先生もサッチャーイズムの話をされました。確かに
日本は今、いわゆる市場原理に任せるということで、競争
社会にしていくのか、
規制緩和を徹底して進めていくのかどうか、あるいはそういう中で出てくる
貧富の
格差ということがもう既に示されているわけですから、そういうものを重視してやっていくのか、そういうところにあるわけです。しかし、そういう中で、これまでの
社会保障のシステムあるいは具体的な
給付の
内容、そういうものは高度成長に支えられてやってきたために、またこれほど急速に少子
高齢化が進むということが予想されない中でやってきたために、必ずしもサッチャーイズム的な
方向をとるのではないにしてもスリム化を進める必要があるんだと思うんですね、ある程度。
国民に苦いというか厳しいこともやっていかざるを得ないということは、これは共通の
認識なんじゃないだろうかなと思いますね。
ところが、選挙を前にしますとやっぱりこういう厳しいことは言わない。例えば、先ごろ通りました年金の額を物価が下がったけれども下げないというのを二年も、二回も続けてやってきているんですけれども、私は全くナンセンスだと思うんですね、率直に言って。我が党の中でも賛否、私は反対だと最後まで言うんですけれども、まあまあ、そういったものでないでしょうということで我が党も賛成しましたけれども、やっぱり
国民の皆さんに正直であるためには、たとえ百円でも五十円でも下がるものは下がる、上がるものは上がるという
一つのルールに従ってやっていくんだと。そのことが長期の安定と公平のもとになるということをやっぱり知っていただく必要があると思うんですね。選挙というのはある
意味で一番いいチャンスですから、そういうときにやったらいいと思うんです。
ところが、先ほどのようなこと、私は事実こういうことが言われたんだと信じておりますけれども、一方、じゃ民主党はどうかというと、やっぱり中でいろいろあるんですね。私どもも基礎年金は税
方式にすべきだ、それは消費税でやるべきだと、ほぼこういうことで一致しているんですよ。そうすると、自動的に計算すれば消費税は何%上げなきゃならないというのが出てくるわけですね。私はことしの一月までネクスト・キャビネットの
厚生労働大臣をやっているときに、そういうことで詰めていって、消費税は少なく見積もっても二ないし三%上げて、基礎年金は税
方式でみんながもらえるようにすべきじゃないかということをさるところでリークしたら新聞に出まして、早速党内で怒られるわけです。
それはなぜかというと、やっぱりこれは与党に責任があると私は思うんです。野党がそういうことを出すと、与党が言ってもいないのに野党だけが言うとたたかれるだけなんですよ、悪用されるだけなんですよ、消費税ということで。だから、結局私どもも出し切れなくなっちゃうんですね。やっぱりそこは与党が大胆にやっていくということで、我々もそういうものを大胆に出して選挙で争うことができるというふうに思います。
だけど、また選挙というものはいろいろな要素がありますので、私、前も年金の審議をここでやったときに、参議院の当時
国民福祉委員会で提案したんですけれども、二院制における参議院の
役割を発揮すべく、例えばもう超党派で年金の問題をやるのはこの
委員会でやる、あるいは小
委員会をつくってやるということを提案したことがあるんですけれども、こういう党派利害が絡まって、両方ともある程度同じようなことを言いたいんだけれども、それが言えないという問題をむしろ参議院のこの
委員会あたりが中心になってやっていくという、政府・与党の
改革協議会ですら先ほど申し上げたように苦い薬はちょっとやめておいて、甘いことですり抜けようねなんということになっちゃうんでは困るわけですから、やるべきだと思うんです。
たまたま昨年暮れ、私は年金の問題を中心にストックホルムへ行って向こうの国
会議員の皆さんと
お話ししたんですが、やっぱりスウェーデンのあの大胆な年金
改革、政治に左右されない、あるいは将来の
財政にも余り左右されない拠出建ての年金
改革は、当時与党だった保守党の
社会大臣が座長になって、各党の議員でワーキンググループをつくって、そこで徹底的に詰めて、それで各党の合意をとって発表したんですね。それで、なるほどな、政治主導というのはこういうところにあると。しかも、こういう
国民的な
課題というのは党派利害を超えて
国民の利益、利害の問題としてやるものだなということをつくづく感じましたし、そのとき、その当時のことにかかわっておられた議員の
皆さん方三人ほどの
お話を伺って、各党派の議員の皆さんに伺って、本当にその
人たちの苦労と自信、そしてやっぱりお仕事をしたというその感慨を本当に肌で感じました。
私も政治家である以上そういう仕事をやってみたいというふうに思いますので、できれば本音で、そして急ぐわけですから、選挙のたびに何か嫌なことは隠して先送りをして、こんなことをやっている限りは本当に抜本
改革もできないし、おくれおくれになってしまうということが大変問題だと思いますので、ちょっと理想論にすぎないかもしれませんが、問題提起をさせていただきます。
さてそこで、この
大綱なんですけれども、この
大綱の記述については幾つか気になるところがありますので、ちょっと個別に
お話を伺いたいと思います。
まず、この構成は四部構成になっていて、三番目に「
改革の基本的
考え方」というところで、まず(一)、
医療の問題が出てきますが、その四番目に老人
医療についてこう書いてあるんですね。「健康管理や
生活指導等を重視した
高齢者の心身の特性にふさわしい
医療を確立していく。」、それはそれで間違いではないんでしょうけれども、「また、できる限り本人の意思を尊重し、
尊厳をもって安らかに最期を迎えられるよう、終末期
医療の在り方を検討する。」と。老人
医療についてこれしか書いていないというのは、私はちょっと恐ろしいことだと思うんですよ。
お年寄りはしょせん死に行くものなんだ、だから余り一生懸命
医療をやらないで、できるだけ
生活の質を重視することは大事ですよ、
生活の質を無視した
医療、例えばよくスパゲッティ症候群と言われる、
病院に担ぎ込まれると、もうありとあらゆるところに管を突っ込んで一分一秒でも命を長引かせようとする
医療が果たして本当に本人のため家族のためかというと、疑問とせざるを得ません。
そういうのを排除していこう、本人の意思を尊重するというのはいいんですけれども、お年寄りだって肺炎になったら、二十歳の人、五十の人が肺炎になっておるのと同じように治療すべきだと思うんですよね。やっぱりできることはやるのが当然だろうと思うんですが、どうもここに終末期
医療のことが出てくる。何かお年寄りというのは、若者とは違って、もう余り
医療はやらないで最期を迎えてもらうのがいいのじゃないかというふうな雰囲気が最近非常に強くなってきたのじゃないだろうか。
私はそこで老人の独立
方式、保険についても危惧するんですね。お年寄りだけを切り離して、その
人たちに対してはお年寄り以外の人と違った
医療の
標準、基準を当てはめるというのは問題じゃないかと。
私は、昨年二回ほどヨーロッパの
医療を見に行きました。ベルリン、ストックホルム、パリ、ロンドン、そしてまた各国の関係者だけではなくOECDの健康政策の関係者たちとも
議論をしました。そこで、私、かねがねヨーロッパではお年寄りが
医療からある程度遠ざけられているんではないだろうかという危惧を実は持っていたものですから、幾つか伺ってみたら、ある程度やっぱりそういう傾向がなきにしもあらずということを感じました。
例えば
イギリスでは、六十五歳を過ぎて腎不全になったら透析はほとんどやってもらえない。聞いてみたら、別にそういうルールがあるわけでもない、だけれども事実はおっしゃるとおりですということをはっきり向こうの責任ある方が言っておられました。
スウェーデンでも、プライエムと言われるところにおける
医療が十分ではないと。スウェーデンでも医者の数や看護婦の数が減っちゃって困っているということで、看護婦さんは主にポーランドから来てもらって、もう少しお年寄りに対する
医療、看護を厚くしようと今
考えているところだというふうに言われました。
以前にデンマークに行ったときも、
病院で退院と言われて引き取らないと、それ以降の入院費は市町村が払わなきゃならないんですね。
病院は県でやっています。それで、市町村では施設をつくってそこにお年寄りを引き取るわけですね、県立
病院から退院を通告されると。それはデイ
サービスセンターとか老人ホーム、そういうものとの複合施設で実に立派な施設で、そこで行われている老人の
介護というのは本当にすばらしいものです。スウェーデンもそうです。
日本がまさにそれを模範にしてやってきているんだと思います。
ただ、そこでちょっと不思議な光景をそのとき見て、いまだにひっかかっているのは、老人用のベッドがあるんですね。そこに酸素の配管もあります。そして、人工呼吸のためのバッグなんかも置いてあるんですよね。なるほど、そうすると場合によっては酸素を吸入したり人工呼吸を時にはしなきゃならない患者も県立
病院を退院させられて、市町村のこういう総合福祉センターのようなところに引き取らなきゃならないのかなということを感じました。
お読みになった方もいるかもしれませんが、東洋
経済という雑誌で、寝たきりが何で
日本には多くてヨーロッパに少ないかというと、ヨーロッパでは寝たきりになるほど重症な後遺症を持った患者がいないんだ、死ぬ者は死んじゃうんだというちょっと乱暴な
議論でして、これは前からあるんですよ、実はこういう
議論が。私はそういうことは基本的にない、ないけれどもそういう傾向は必ずしも否定できないなと、実は前から思っております。
日本に何で寝たきりが多いかというのは、重症患者を助けちゃうから寝たきりになる、これは事の本質を見誤る論理だと思うんです。
日本では寝たきりをつくっているわけですからね。寝たきりが
日本にいるというのは、別に老人に徹底した
医療をやっているからだというのが原因ではないと私は自信を持って言えますけれども、しかし確かに老人に対する
医療がどうかということになると、私は、
日本がいいか悪いかは別として、ヨーロッパあるいはアメリカではお年寄りは
医療の
サービスが十分でないなということをつくづく感じております。
そういう点からしますと、まさにこの三の(一)の4、ここしか老人
医療の中身はないんですよ、
内容についての記述が。ということは、お年寄りはもう終末期である、死に至るものであるということで、できるだけ
医療から遠ざけよう、そのことをもって老人
医療費の節減を図ろうとする、そういうちょっと恐ろしい短絡的な傾向を感ずるわけであります。
それよりも、例えばこの前の中央公論の三月号に出ていた人の、非常にあれはおもしろい論文だったと思うんですけれども、お年寄りは腎臓も肝臓も機能が弱るから元気な人と同じように朝昼晩と薬を飲む必要はないんだよ、一日一回飲めば三分の一で済むはずだと。ところが、そういうことが、老年医学会ができて四十年もたつのに、老人科専門の医者は何をやっているんだ、そういう老人の投薬マニュアルもできていないじゃないか、そういうことをやることの方が先だと。私も八十八で亡くなる父をずっと見ていて思ったんですけれども、一日一回薬を飲むだけで一応心臓発作は抑えられているんですね。多分そういうことはあるんでしょう。
だから、若者や元気な壮年期と同じようにお年寄りにも一日三回薬を飲ましたり、せっせと検査をやったり、その正常値も元気な人の正常値と同じ正常値で異常かどうかをはかっている。例えば、その論文によれば血糖値なんてむしろ高い方がいいんだと、お年寄りは元気がなくなってきているんだから血糖値なんかむしろ高いぐらいの方が活力が出るんだということが、本当かどうか、血圧だってそうですよね、これは。
これは
坂口厚生
大臣が専門家なので、できたら教えていただきたいんですけれども、まさに老人
医療のむだをなくすというのは、本当に老人の特性に合った薬の飲み方や血糖値のコントロールの仕方、それを変えていけばむだな
医療費というのはもっとなくなる。そのことも記述されていないと、一方的に終末期
医療だけのことを記述されたら、何かそら恐ろしい感じがするんですよね。老人を捨てる
医療にする気かということなんですが、その辺どうなんでしょうか、
大臣。