○井上美代君 私は、厚生省が相当苦労をしながら南方
地域の
遺骨収集に努力されたというふうに思うんですけれども、先ほどから出ておりますように相手国の事情等によって、自然条件などもあるんですけれども、
収集できない
地域を除いておおむね
収集を終えていると、このように言っておられます。ただし、今後も
収集可能なところについては情報があればその情報を確認した上で当該の
地域で
遺骨収集を行うこととするというふうに言っておられるんです。
私は、これではやはり受け身ではないかなと、もう一息頑張ってほしいというふうに思うんです。南方は特殊なところだということはよく聞いておりますのでなんですけれども、余りにも
遺骨収集の率が低いというふうに思うんです。だから、そういう
意味で、あと一息の努力をお願いしたいというふうに
思います。そして、
遺骨の
調査に取り組んでいる人もいるわけですね。だから、そういう人たちともっと連携をとって、そして積極的に
遺骨収集を行うべきだというふうに思うんです。
第二次大戦の
戦没者の
遺骨収集が全体で約半分、パプアニューギニアにつきましては三九%ぐらいになりますか、すごく低いわけですね。だから、今困難もお聞きいたしましたけれども、やはりもっと
遺骨の
収集に力を入れてほしいと。これまでも相当力を入れていただいたことはよく承知しているんですけれども、私はもっと情報もとりながらやっていかなければまた後に悔いを残すのではないかというふうに
思いますので、
皆さんの御努力に対しては大変かと
思いますけれども、ぜひ頑張ってほしいというふうに思っております。
先へ進みますけれども、
皆さんのところに資料も出しておりますけれども、
遺骨収集問題で東部ニューギニア戦線での戦死者の
遺骨収集に関連した問題でお聞きしたいわけです。
ここに出しておりますのは毎日新聞の一九九九年八月十四日の新聞です。(資料を示す)これは福井記者が取材をして書かれたものです。このパプアニューギニアは、当時、東部ニューギニア戦線というふうに言われておりましたけれども、今はパプアニューギニア国というふうに独立しております。
この新聞に出てまいりますこの写真の人ですけれども、西村幸吉さんという方です。一九四二年にニューギニア島の東北部に上陸して約一年間戦われて、そして所属大隊の兵士たち、前線兵士約八百人のうち十人が生き残った方なんですね。その中のお一人がこの西村さんです。この報道にあるように、十年近く前にみずから発掘した金歯のある頭蓋骨を持ち帰ったということなんです。写真で手に抱えておられるのがそうなんですけれども。
持ち帰っておられて、そして一九九九年の報道の時点ではこの御
遺骨の
遺族はわからなかったんです。しかし、西村さんは、この記事を出せば
遺族はきっと出てきてくれると思うというので、西村さんはまずこの
遺骨の記事を出してもらったわけなんですけれども、しかし
名前は挙がらなかったんです。そのために、西村さんは、この
遺骨の出た陣地の戦闘にかかわった
家族をずっと訪ねていらっしゃるんですね。そして、五十日ぐらいかけて訪問して、ついにそのお姉さんというのを探し当てるわけなんです。しかしながら、生まれた家はもう代がわりになっておりまして、お姉さんがいましたけれども、嫁いだ先でもう年をとっていて
遺骨を受け取ることはできないというふうに言われて、この
遺骨は今も西村さんが抱えておられるわけなんです。このようなことがあるんですけれども、本当に
戦争の悲劇というのは今日まで続いているということがはっきりすると
思います。
私は、
大臣にお聞きしたいんですけれども、こうした努力をされている方がいらっしゃるんですけれども、どのようにお考えになるか、御
意見をお聞きしたいと
思います。