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参考人(
曽根泰教君) 御紹介いただきました慶応大学の
曽根でございます。
時間に限りがありますので、レジュメに基づきまして手短にかいつまんで申し上げたいと思います。
私がここで申し上げたいことは、もし今、
憲法改正を行うのだとするならば、それは一九四六年、七年、戦後の時期に時間を戻して、そこで改めて
憲法を書くということではない。もし今、書くのであるとするならば、二十一世紀型の
憲法を
世界に先駆けて検討することではないか、こう思っております。
ただ、
社会が
変化した、
環境が
変化した、だから
憲法を変えろという単純な説はとっておりません。この五十年間においてさまざまな
変化が発生いたしましたけれ
ども、その発生した
変化が
憲法の
根本にかかわる問題としてどうかかわっているのか、その
前提で
憲法を論ずるべきであるだろうと思います。
同時に、
憲法を考えるということは、
政治的な文脈でいえば、当然のことながら
改憲の
コスト、
改憲の
政治的な
コストというのは大変大きいわけであります。その高い
コストを支払っても
憲法を変えるだけの
意味はあるかどうか、これが重要なポイントになると思います。
同時に、きょうの
主題であります
主権の問題あるいは
統治機構の問題、これらのことに関しまして私なりに
幾つかの
原理から
私見を述べさせていただきたいと思います。その上で、
首相公選の問題あるいは
政治改革における
政治的リーダーシップあるいは
政治主導の問題も触れたいと思います。
言うまでもなく、現在の
社会は大きく
変化しております。ただ、
変化している中でいかなる
憲法的な
意味があるのかということを考えるときに、多分、
統治構造の問題よりも
権利とか義務の
関係において我々が考えなければいけない問題としては、例えば今後予測される
社会は
少子化、
高齢化の
社会であるわけです。あるいは
経済が
右肩上がりでそのまま進行するとはとても思えません。あるいは
社会の
秩序を維持するときに従来のようなコミュニティーに依存してよろしいのか、こういう問題もございます。
ただ、重要な
観点といたしまして、
社会がただ
変化するということ以上に、先ほど申し上げましたように、
憲法的な問題とのかかわりで二、三、私なりの
観点から重要な点を取り上げたいと思います。
その一点は、いわゆる
主権にかかわる問題であります。この
主権にかかわる問題というのは、
国民主権という従来、
通常用いられる
憲法の問題というよりも、むしろ
国際政治あるいは
国際関係における
主権の問題として取り上げたいと思います。
通常の
国際関係あるいは国際的な
秩序というのは、
主権国家を
前提としてできているのが普通の
解釈でありますが、その
主権を
前提にした一種の演繹的な体系として
憲法を論ずることだけで十分なのかという、こういう問題であります。ここで申し上げる
主権というのは、いかなる外国にも従属せず、その
支配地域において完全かつ排他的な
権限を有するものというふうに
理解しておきます。
なぜこのようなことを申し上げるのかといいますと、
一つには
憲法ができて以来、核あるいは核兵器の
出現ということが
世界秩序を大きく変えたわけです。つまり、
自国の安全を全うすることが大変難しいことになったということが言えると思います。核の
出現ということ、あるいは
核抑止という
概念が出てきたということは、
安全保障上大きく
変化いたしました。
また、最近の例で申し上げますと、
アジア金融危機ということを経験いたしました
アジア諸国は、
自国の
金融政策あるいは
自国の
通貨を国際的なヘッジファンドを初めとする資本の流れになかなか抵抗することができないという
現象がありました。これはむしろ
マイナス面であるわけですが、
ヨーロッパにおいては
通貨統合の方向に進んでおります。ユーロが既に現実のものとなっております。そうしますと、
金融政策はいわば
主権の制限として
各国政府が受け入れたことになるわけです。あるいは
情報、
金融の
世界ではグローバリゼーションは非常に速く進行いたしました。一九四六年、七年当時とは大きく異なっております。
あるいは
環境というものを考えるときに、一国の
判断だけでは済まない、つまり
環境問題を論ずるときには
他国に及ぼす
影響、あるいは
他国から及ぼされる
影響、大気においても海洋においてもそういう問題が発生しているわけであります。総じて
自国のことは自分で決めるという、それだけでは済まない難しい問題があるということがおわかりいただけると思います。
さらに、次に、この五十年くらいを振り返ってみますと、
経済というものが大変発達したわけです。であるわけですが、その
経済をいかなる形で
憲法的な
枠組みの中で考えるか、あるいは
政府と
市場との
関係をどのような整合的なものにするかということをやはり明記すべき点として取り上げたいと思います。
例えば、現在
日本で
不良債権処理というのは
小泉内閣においても重要な課題となっているわけでありますけれ
ども、私自身、
企業、
金融機関あるいは日銀、大蔵省などを含めまして
幾つかの
失敗があったと思います。それは、
バブルの発生を抑制することができなかった
失敗がまず
一つ目の
失敗であります。
バブル崩壊後の
処理の
失敗も、重要な
失敗として二点目に挙げることができると思います。さらに、最近起きている
不良債権というのは、実は
バブル後の、
バブル処理の
失敗にプラスして、それ以降貸し出したもの、あるいは
担保不動産の価格が低下したことによる
不良債権として積み上がっているもの、これが
三つ目の問題としてあるわけです。
ですから、このような問題を考えるときに、
憲法の問題としてではなくて個別の
企業のコーポレートガバナンスの問題として考えることももちろんできるわけですが、
市場トータルな
システムとして考えると、その
市場をいかにモニターするのか、あるいは
金融システム、
金融秩序をいかに維持するのか、こういう問題はやはり
憲法的な
枠組みの中で考えるべき問題と考えております。
もう
一つ、
金融あるいは
情報ということを重ねて考えてみますと、
グローバリズムというのがこの十年間、特に進行いたしました。
グローバリズムというのは、一般的には、
日本は
グローバリズムの波を受けるというそういう
理解が多いわけでありますけれ
ども、実はこの十年間、もっと長くとってもいいと思いますが、
日本は
グローバリズムの当事者であり、その
グローバリズムの恩恵をこうむりながら
経済活動あるいは
技術情報活動をしてきたわけです。そうしますと、そのとき
日本がいかなる意識と覚悟を持ってどんな
グローバリズムの
秩序をつくるのかという、こういう問題が必要になってくるわけです。
先ほどの
主権の問題とかかわるわけでありますけれ
ども、つまり
通常の
国家が持っている
国内秩序と
グローバルシステムとの接続の問題を考えないことには、現在では
憲法を論ずることは非常に難しくなってくるのではないか。つまり、
憲法がそこだけでは完結しないという、そういう
理解を私はしているわけであります。
そういう点から、国連であるとかIMFであるとかWTOであるとか
環境会議であるとか、さまざまな
国際機関秩序があるわけですが、実は
憲法を論ずるということはそういうグローバルな
システムをいかに構築するか、あるいはグローバルガバナンスをいかに確保するかという問題と密接にかかわっている、こう
理解しております。
IT革命ということも随分何年か言われているわけですが、これもさまざまな
立場から別の
解釈が可能だと思います。
経済的な
現象としては、
IT革命というのは
経済活動のフロンティアを拡大した、こう
理解してもよろしいと思いますし、あるいは
技術的には
デジタル情報をネットワークを通じて
世界大に拡大していくこと、こういう
解釈も可能ですが、私は
政治の方の
立場から、
IT革命あるいはインターネットというのは新しい
公共空間というものをつくり得るのかどうか、こういう
理解をしております。
遺伝子、
クローンなどの新しい
技術は、
生命倫理あるいは
生命倫理学者だけにゆだねる問題ではなくて、これは
国会の
テーマあるいは
憲法の
テーマたり得る問題なのではないか。例えば、人とは何か、死とは何か、あるいは
自己とは何かということが実は
遺伝子、
クローンなどを論じていけばいくほど発生するわけであります。ですから、こういう問題を考えると、
憲法的な
テーマの一部に入り得るというふうに
理解しております。
ただし、このような
社会変化あるいは
環境の
変化ということをもう少し
統治の面から考えて、私なりに
三つの
観点を取り上げて、そこから
具体例を持ち出して話を進めたいと思います。
一番目の問題は、まずガバナンスという
概念を使うことで今まで見えてこなかった問題が
幾つか可能であるだろう。残念ながら、ガバナンスに関する統一的な訳はなかなかありません。
通常、
統治と訳されますが、中国へ行きまして北京大学の先生と議論したときに、
統治はちょっと強過ぎると、支配に近い
概念であるから違う訳がいいだろうと。
日本では協力の協、協治とか、あるいはともに治める共治などを使いますと言ったら、いやそれは違うと。中国語の語感からすると、それは連立政権あるいはフランスの
政治のコアビタシオンと言われる、そういうものを指すんだと。強いて中国語で言うならば、治めるという字に理科の理、治理というのがいいんではないか、こんな
意見がございました。ただ、訳語としてはまだ統一しておりませんので、片仮名のガバナンスを使わせていただきます。
なぜガバナンスという
概念を使うことが
意味があるのかと言いますと、
政府以外にも
政治概念を
秩序の解明に利用できる点にあります。しばしば指摘されるのは、ガバナンス・ウイズアウト・ガバメントと。ガバメントなきところのガバナンスと。特に
国際政治、国際
秩序の場合には、そのようなことが利用されるわけであります。あるいはコーポレートガバナンスのように、
企業というのを
理解するときにも
政治概念あるいは
政府概念を使って、
主権はどこか、三権分立を実行するためにはどうしたらいいかというような議論がなされているわけです。あるいは制度と制度との間、例えば
政府と
市場との
関係というのは、実はなかなか
政治学、
経済学、行政学、それぞれの
立場でうまく接合ができていないんですが、ガバナンス
概念を用いることによって
関係を解明できる、こういう利点もございます。
これを考えるときに、
一つ重要な点、既にこの
憲法調査会でも出てきている話でありますが、三権分立
概念と議院内閣制というものが実は違う
原理から成り立っている、あるいは違う
原理とは言わないまでも異なる主眼、異なる力点の置き方から成り立っているというふうに考えているわけでありますが、私自身そういうところをもう少し強調したいと思います。
つまり、三権分立というのは法決定、法執行、法裁定というひとつの役割分担が
三つの機関でなされると
通常理解されているわけですが、これに対しまして、
統治とコントロールということで東大の高橋和之教授などは別の
解釈をしております。それが、議院内閣制あるいは
国民内閣制という呼び方をしておりますが、そういう発想で見ると現行の
政治あるいは行政というのはよくわかると。私の
言葉に置きかえると、それはマネジメントとモニター、意思決定とモニタリングの
関係であります。
それをもう少し具体的に申し上げますと、現在
首相公選論というのがかなり唱えられておりますし、世論
調査では相当の支持があります。ただ、もし
首相公選を導入したらどういう結果が起きるのかということを現在の実例から
幾つか考えてみますと、例えば選挙というのは民意の反映であると同時に政権の選択、
政府をつくるということであります。そうしますと、
首相公選が政権選択だとすると衆議院選挙は政権選択ではなくなる、役割が明らかに変わるということになるわけです。これはアメリカの下院
議員選挙、イスラエルの
国会議員選挙などを見ているとそういうことが言えるわけです。また、政党あるいは議会、内閣の相互の関連性が薄まるわけです。ですから、政党
政治、議会というものが、
首相公選、特に準大統領制と呼んでもいいと思いますが、導入すると弱まる。
これを、もう少し今まで行ってきた
政治改革の理念と方向性に接合させるためにはどうしたらいいか。つまり、内閣主導による
政治主導であったわけです。議会は
政府・与党対野党、選挙区における小選挙区制というのは
政府対野党を選挙区にも持ち込むということであるわけです。
一つの解決策というのは、自民党が行いました予備選挙、あるいは党首公選制ということを導入することによって、党も強くするし、そして現行
システム、議院内閣制の
システム自体も生かす、こういうことであるだろうと思います。
あと二点、申し上げたいと思います。
それは、
一つはシビルソサエティーの問題であります。
一般にアメリカ
社会は
政府と
市場の二分法で
理解されることが多いんですが、実際は教育、研究あるいは
社会保障の分野などはNPO、NGOが活躍しているわけです。ということは、いわゆるシビルソサエティーと言われる領域ということを今後もっと増大する方向で
理解する方がいいのではないか。ただし、そうなりますと、
政府というのは税で、
市場というのは売買で、NPOというのは基本的には寄附でという、
原理が違っております。資源配分はかなり選択的なものになるわけです。例えば、相続税を払うかわりに大学へ寄附をするなんということは、今までの資源配分とは変わってくるわけです。あるいは財務省の役割が変わってくるということが言えるわけです。ですけれ
ども、それも
一つの決断であるわけです。
社会的なイメージとして、
政府と
市場の二分法ではなくて、その間にNPO、NGOの領域が拡大して、そしてそれは選択的に
国民が活動に寄与できる、そういう
社会を想定することも重要かと思います。
もう
一つの
概念は、セキュリティーという
概念であります。
これは、
安全保障から
社会保障まで、ナショナルセキュリティーからソシアルセキュリティーまであるわけですが、実は中心的な
概念はリスクであります。つまり、リスクは個人で負担することができない、家族で負担することができないゆえに
社会に依存する、あるいは保険制度ということで保障することになるわけです。個々の
国家もリスクを個々の
国家で負担し切れないときにコレクティブセキュリティー、集団
安全保障というようなものが発生するわけです。
ただし、今問題になっております集団的自衛権の問題は、このコレクティブセキュリティーと個別自衛権との間にどういうものが想定できるか、そこに
一つの難しい問題があるかと私なりに
理解しております。例えば、国連というものを想定することは非常に
理解しやすいわけですが、多国籍軍というものを考えると、それはコレクティブセキュリティーに入るのかどうか、集団的
安全保障に入るのかどうか、これが難しい点であるだろうと思います。
もう一点、このセキュリティー
概念で難しいのは、
社会保障から国際公共財まで、その費用はだれが負担するのか、非常に難しい問題があります。しかしながら、セキュリティーということで、
政府がそのセキュリティー、つまり一種の保険を最後に引き受けるという役割はやはり逃れられないんではないかということを
理解しております。
最後に、どんなような
憲法の姿を考えているのかといいますと、基本的にガバナンスの構造が
理解できれば、それは
統治機構なり、
政府と
市場との
関係なり、あるいは
グローバルシステムとの接続なり、それが
理解できれば、あとそれを文章化することはそれほど難しくないだろう。今もし議論するんだとするならば、二、三十年先を見通した
憲法論でなくてはならないだろう。それから、将来世代をできるだけ縛らないものが望ましい。そして、柔軟かつ簡素な
憲法的
枠組みを私は想定しております。
以上でございます。