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参考人(
成田憲彦君)
駿河台大学の
成田でございます。
私は、
中村先生のように
憲法学者というわけではございませんで、
政治を
研究している者でございますから、
政治学の、
政治の
研究者の
立場から
意見を述べさせてい
ただきたいと思います。
私は、まず
日本国憲法の
歴史的位相ということについて申し上げたいと思います。つまり、
日本国憲法は、これは
統治機構についてでありますが、
世界史の尺度から見てどの
時代の
憲法と言うことができるのかということであります。
私が
大学で
憲法の講義を聞きましたときには、教えられたことはこういうことでありました。すなわち、
明治憲法は
民主主義の点で不十分な
憲法であった、しかし
日本国憲法によって完全な
民主主義が実現した、こういうふうに教えられたわけでありまして、現在でも多くの
大学ではそういう教え方をしているだろうと思います。
しかし、実は
民主主義にもその
歴史的経験を踏まえた歴史的な
位相、進歩、発展というものがあるというふうに私は考えております。
統治機構の面では、
日本国憲法は実はそれほど新しい
時代の
憲法ではございません。
ドイツや
イタリア、これらは
日本と同様に戦争に敗れまして
政治システムの断絶、したがいまして戦後新しい
憲法を制定した国でございますが、これらの国やまた
フランスでも、第一次
大戦後に
民主主義的な
統治機構が
機能不全に陥った
経験を踏まえて、第二次
大戦後の
憲法でさまざまな
工夫を行ったわけであります。
これに対して、
日本は第二次
大戦後は
民主化がテーマで、どういう
民主主義かということは十分吟味されなかったというふうに私は考えております。非常に大ざっぱな言い方をしますれば、
日本国憲法は第一次
大戦後型の
憲法と言うことができるのではないかと考えております。
第一次
大戦後型の
憲法という
意味は、
各国で
普通選挙、
女性参政権は必ずしもこの
時代には実現しておりませんでしたが、少なくとも男子の
普通選挙が実現した
時代の
選挙、
統治機構であります。すなわち、
国民にひとしく
参政権が与えられれば本当の
国民の多数派というのが結集されて
民主主義が完成されるというふうに考えた
時代の
憲法であったろうと私は考えております。
なぜそういうふうになったのかということは、
制定過程が大きな影響を持ったというふうに考えております。
マッカーサー草案をつくりましたGHQの
民政局においては、ハッシーとかエスマンあるいは特に
ラウエルといった人々が
明治憲法下の
日本の
統治機構の
問題点を
研究いたしました。彼らの
関心は
明治憲法の
問題点を発見することにあったわけです。そのため、これからの
時代にはどういう
統治機構が適当か、
世界ではどういう議論があらわれているのかということの
研究は必ずしも十分ではなかったと私は受けとめております。そういう
意味で、新しい
要素を取り込むことに不足する点があったのではないかというふうに考えております。
どういう
意味で
日本国憲法は古いのかということにつきまして、具体的な例で申し述べさせてい
ただきます。
例えば、
日本国憲法では、最近もございましたが、
衆議院における
内閣不信任決議案は
ただの
議案であります。
ただの
議案という
意味は、
通常の
法律案とか
決議案等の
議案と、
提出手続要件、
審議の
手続、可決の
要件等において全く同じであります。
しかしながら、
ヨーロッパの国では、例えば
内閣不信任案は
ドイツでは有名な
建設的不信任案と申しまして次の
首相を
選挙してからでなければ可決できません。また、
フランスや
イタリアでも
内閣あるいは
首相の
不信任決議案は
提出に当たって
一定の
要件がありますし、例えば
フランスでは四十八時間、
提出後四十八時間、
イタリアでは
提出後三日を経なければ討議に付すことはできません。
参議院でも、本日、
問責決議案、
内閣問責決議案が出まして、直ちに否決されたようでありますが、
ヨーロッパの国ではそういうところは違っているわけであります。
すなわち、
ヨーロッパ各国では、
議院内閣制を有効に
機能するようにするためにはどういう
工夫が必要かということからさまざまな
制度の
工夫ということがなされているわけであります。
私が
日本国憲法が第一次
大戦後型、すなわち
普通選挙実現後型の
憲法だと言いましたのは、多数決が
民主主義である、数を確保すれば、
普通選挙を
前提として数を確保すればそれだけで
民主主義になるという思想が
前提になっていて、一般の
議案でも
内閣不信任決議案でも、とにかくハウスの多数の
意思を確認するという以上の
関心を持っていないというふうに受けとめられるわけであります。
これに対しまして、
ヨーロッパの第二次
大戦後型の
憲法というものは
民主主義は数だけでは完成しない。
手続、
国民が理解するだけの時間
的余裕を与える、
制度化された
説明責任を確保する、
権力機構に相互にチェックをさせる、また多数の
意思による
議会の
立法を無効にする
憲法裁判所を置くなどの
工夫をしているわけであります。これらの
工夫が
日本国憲法では必ずしも十分ではないのではないかというのが私の
意見であります。
それでは、このような
日本国憲法は具体的にどういう問題をもたらしたのか。これはさまざまございますが、私は表の
政治と裏の
政治の二元的な
政治をもたらしたのではないかというふうに考えております。すなわち、表の
政治の不十分さを補うために裏の、裏のというのはこそこそとしているという
意味ではなくて、
日本国憲法が
規定する
手続によらない
政治が発達したということでございます。まあこれは
憲法だけの
原因ではございませんが、
憲法にも幾つかの
原因があったと思います。現在も
森内閣の進退に関しまして表の
政治と数の
政治という二つの
政治が進行しておりまして、
国民には大変わかりにくいものとなっておりますが、これは現在の事態だけではなくて
日本政治の
根本構造の問題であろうと私は思っております。
最大の裏の
政治は、先ほども申し上げましたようにこれは決して秘密でこそこそしているという
意味ではありませんが、
日本国憲法で
規定されていない
統治の
仕組みによっているという
意味ですが、
最大の裏の
政治は
与党という
権力機構と
統治のプロセスをつくり上げたことであろうと思います。この
与党というのは何も自民党や公明党、保守党という
意味だけではなくて、
細川内閣、
羽田内閣の非
自民連立時代も全く同様であったわけでありますが、特に
与党の
事前審査制度、
政府法案にしましても
政府の措置にしましても、まず
与党で検討して決まってから
政府の正式の
政策あるいは
法案とすると、こういう
制度が発達いたしました。
与党で決まりますと
衆議院と
参議院両方をまたいで拘束するわけですから、したがって
参議院の
存在意義が失われたということも、実はこの裏の
政治の
与党の
決定ということが
原因にあるだろうと私は思っております。
このような
与党の関与ということは
議院内閣制の国では普遍的なことと思われておられるかもしれませんが、実はそうではありません。欧米では
与党は独立の
権力機構ではなく、
与党の
議員はあくまでも
議会内で、
議会の
権限により、つまり
憲法によって与えられている
権限によって力を発揮します。
政府法案に対する
与党の対応は、
議会内での
与党修正あるいは上院
議員団としての
決定、下院
議員団としての
決定であります。両
議員団は政党の基本プログラムには従いますが、
法案の修正に関しては互いに独立、本部からも独立であります。したがいまして、上院も下院もそれぞれ
存在意義を発揮しているわけであります。
日本も、昭和二十年代はそういう
国会の姿でございましたが、その後、
与党機構が整備されることによって
政治の姿が大変変わっていったわけでございます。
重要なのは、マンデートということでございます。マンデートというのは大変難しい言葉ですが、
国民の信託あるいは
議員の身分、先生方の日ごろお使いになっている言葉で言いますと、私はバッジという言葉に大変近いのではないかというふうに思っております。
選挙で
国民が
一定の候補者にバッジを与えるということであります。重要なことは、党本部がバッジを与えられているわけではありません。党本部がマンデートを与えられているわけではありません。あくまでも
衆議院議員あるいは
参議院議員に与えられているわけであります。
党本部といっても、
衆議院議員、
参議院議員、すなわち
国会議員で
意思決定をしているというふうに言われるかもしれませんが、党本部の
決定は
衆議院議員と
参議院議員が共同で
決定しているわけであります。これは、
衆議院議員、
参議院議員にそれぞれマンデートが与えられている、マンデートを与えられている
衆議院議員が
衆議院の会派をつくって
意思統一をするということは、
憲法に整合的、マンデートの
考え方に整合的であります。あるいはマンデートを与えられている
参議院議員が
一定の会派をつくって
意思の統一をするということは、マンデートの
考え方に整合的であります。
しかし、その枠組みを超えて党本部という
機構で
意思決定をして
衆議院議員と
参議院議員がそれに服するというのは、私はマンデートの
考え方には反していると思います。これも
与党という、
与党の
権力機構化ということによってもたらされたというふうに考えております。
そのほかの裏の
政治、これは裏の
政治と言うにはほど遠く表で使われていることですが、よくマスコミでもあるいは
内閣総理大臣の施政方針演説でも
政府という言葉が使われます。例えば、総理の施政方針演説で
政府といたしましてはこうしたいという言葉が使われますが、これも私に言わすと裏の
政治であります。なぜなら、
政府というものについては
日本国憲法で構成メンバー、
権限、
手続が一切定められておりません、
明治憲法では
政府は定められておりましたが。そうすると、
国民が
憲法に照らして理解できない
統治機構の
政府というものが
統治を行っているということは、私にとっては不思議なことであります。
私は、
政治が
国民のものとなるためには表の
政治に一本化すべきであるというふうに考えております。これこそが立憲
政治というものであり、立憲
政治の要請であろうというふうに考えております。
これまで申し上げました点に即して具体的に申し上げますならば、私は、
憲法で
政府を定義し、
政府のみで
統治する、すなわち
政府・
与党二元論ではなく、
政府一元論で
統治をするというのがこれからのあり方であろうと思います。
それでは、具体的に
憲法をどのようにすべきであるかという点について申し上げますれば、いろいろございますが、基本的なことは
議院内閣制を強化するということだろうと思います。この点は、GHQは大統領制のアメリカの国の人々でございますから
議院内閣制の
経験がなかった、そういう
意味でも私は
日本国憲法の
議院内閣制というのは手薄なのではないかというふうに考えております。
中村参考人も先ほど触れておられましたが、最近、
首相公選制というのが主張されておりますが、私は問題が多いと思っております。
一つには、
提案、
首相公選制について言及される方は多いのですが、大統領制なのか
議院内閣制なのかがはっきりしないものが多うございます。
議院内閣制でなおかつ
首相公選という国は実例的に唯一はイスラエルでございますが、イスラエルは最近、公選制をやめる動きがございます。公選制は失敗であったということでやめる動きがございます。
また、
首相公選制というのは
象徴天皇制との整合性においても問題があると私は思っております。
例えば、公選された
首相はアメリカの大統領のように就任式に臨むのか、それとも
天皇による任命式に臨むのかということは意外に難しい問題であろうと私は思っております。例えば、公選
首相が就任式に臨むのであれば
象徴は何のためにいるのかということになるでしょうし、もし公選
首相が
天皇による任命式に臨むのであれば
主権者が選んだ
首相を
天皇がどういう資格で任命するのかという原理的な問題が生じることになるだろうというふうに思っております。そういう
意味では
首相公選制というのはいろいろ問題を抱えている。
私は、
議院内閣制の強化ということがやはり基本であろうというふうに考えております。
そのためには、例えば総理大臣の
選挙の仕方、例えば
議会が自発的に総理大臣を
選挙している国というのは先進国では
日本のみであります。多くは大統領が候補者を
指名する、推薦する、あるいは任命して
議会が信任をするという形でありまして、総理大臣の選ばれ方、
一つの
手続、
国民に対するアカウンタビリティー、だれ、どうしてその人が選ばれたのか、こういう点も必ずしも十分ではないと私は思っております。
また、
内閣不信任の
手続も必ずしも整備されておりません、先ほど申し上げましたが。
内閣の安定、それからなぜ不信任するのかというアカウンタビリティー。簡単なこと、不信任案が出てから
一定の時間を置いてから討議をするというような
工夫もなされておりません。
さらに、
議院内閣制の点で重要なのは、
立法における
内閣あるいは
政府の責任と
権限であります。
ドイツとか
フランスでは、
政府が
立法にどのように関与するのか、その
権限はどうであるのかということが具体的に書かれております。
日本国憲法下では
法案提出権があるのかどうかもはっきりしておりません。
議案の
提出権ということで解釈
運用上、
政府は、
内閣は
法案を
提出しておりますが。このようなあいまいさが
与党の
事前審査制度の
制度的な背景にもなっております。
議院内閣制の強化という点からも
二院制を検討しなければならないと思います。私は、
議院内閣制のもとでの第二院、上院というものは
政権の所在にはかかわらないようにすべきだというふうに思っております。そういう
観点からの
参議院のあり方ということも
工夫すべきではないか。
また、
内閣ないしは
政府の
リーダーシップを強化する。これが
議院内閣制の根幹でありますが、基本はやはり
政府一元論にする必要がある。
さらに、総理大臣の
権限強化。よく官僚主導か
内閣主導かと言われますが、大切なのは
内閣主導か総理大臣主導かということなんです。
ヨーロッパではそういう問題の立て方をします。
内閣主導というのは現実にはどこでも背後にサポート役としてついている官僚主導になるんです、どこの国でも。官僚主導を克服するのは
内閣主導ではなく
首相主導ということであります。こういうことも
議院内閣制の強化の点で検討する必要があろうと思います。
その他、
議院内閣制とあわせて、
地方自治の強化、部分的な
国民投票制度のあり方も検討する必要があろうと思います。
最後に、
憲法と附属法の整合性ということを一言申し述べさせてい
ただきます。
現在は、
憲法と
内閣法ないしは
憲法と
国会法は矛盾している部分がございます。
内閣につきましては、
憲法では総理大臣は
内閣の首長であります。しかし、
内閣法では実際は、言葉はともかく実態においては閣議の単なる座長でありまして、閣議万能主義であります。これは
憲法の
考え方と食い違っていると私は思います。また、
国会につきましては、
憲法では
議院内閣制ですが、
国会法は大統領制下の常任
委員会中心の
議会というものを根底に据えまして、特に会派の扱いが不十分になっているというふうに思います。新しい
憲法を考える場合には、附属法との整合性ということも考慮してい
ただきたいと思います。
以上をもちまして私の
意見陳述を終わらせてい
ただきます。