○田
英夫君
外務大臣、どうぞあれしていいんですが、一言だけ、これは
答弁要りませんけれども。
戦争のことをずっと議論されてきましたけれども、外交というものは一体どういうものなのかというのを一度時間をぜひとっていただいて議論をさせていただきたいんですが、私は究極の外交というのは
戦争を回避することだと思っています。これは宿題にして、どうぞお忙しい中ですから席を立っていただいて結構です。
そういう
意味で、私はこの前も言いましたけれども、
戦争を体験した者として既に、きょう恐らく四回目になると思いますが、この
委員会で
戦争の語り部のような役割を果たしてきました。きょうもそのことを一言申し上げたいと思うんです。
戦うということは人間の本能かもしれませんけれども、何万年もの人類の歴史の中で、恐らくそれはもう
戦争の歴史なんですけれども、二十世紀というのは、特に我々の生きてきた二十世紀というのは第一次、第二次
世界大戦という悲惨な
戦争があった。
戦争の様相が一変したんですね。それまでの日清、日露を
日本は体験したわけですが、しかし第一次大戦以後非常に大きく変わったことは、
戦争で軍人が死ぬ、そういう常識が破られて、軍人よりも一般市民の死者の方が多かった。第二次
世界大戦はさらにそれがひどくなった。
こういう悲惨な
状況の中で、やはり
戦争直後は、第一次
世界大戦の後、一九二八年、九年あたりは不戦
条約ができるというようなこと、国際連盟ができるというようなことがありましたね。第二次
世界大戦後は、やはり国連憲章というものができた。そして、そこでできたのが
日本国憲法だと思います。そういういきさつがある。
憲法ができたときのいろいろなことを読んでみますと、戦前の機構ですけれども、まだ
帝国議会があって、枢密院というものが一方でありましたね、天皇を補佐する機関として。その枢密院の新
憲法審議の場で、野村吉三郎さんという元海軍大将、そして最後の方の駐米大使ですね、
戦争が始まる直前の駐米大使、この方が枢密院議員として、枢密顧問官というんですね、
発言をしておられるのを読むと、まさに新
憲法九条を支持しておられる、非常に評価しておられる。やはりあの方は重光さんと一緒に上海で爆弾を投げられて、重光さんは足を失い、野村さんは片目失われて独眼竜なんですね。実は私の中学のときの校長に当たる方なんですが、この方が軍人であり、そして戦前のそういう経験の中から九条を支持しておられる。これはやはり大変我々参考にすべきじゃないかと思います。
そして、
戦争というものを体験した者は本当に悲惨さというか苦しさというか、このことがわかるんですけれども、今ほとんど
国民の九〇%が
戦争体験のない方ですから、求めても無理だと。今に一〇〇%になるわけですね。そういう中で、
防衛というものを考えるときに、安易に
戦争というものを、軍事力に訴えるということを考えるととんでもないことになる。そういう
意味で申し上げたいんですけれども、
一つは、これは全く私の体験です。この前も言いましたが、私は特攻隊に最後いて生き残りました。
昭和十九年の十月ですか、私は横須賀の海軍航海学校というところに約四百人近い予備学生と一緒に、いわゆる学徒出陣で出た同期の人と一緒に訓練を受けていた。ある日突然、総員集合、全員集まれということで、剣道場に集められました、夕方でしたが。
学生隊長というのは大佐です。その人が物々しい雰囲気の中で壇上に上がって言ったのは、おまえたちの中から特別攻撃隊員を募集すると。種類は、船舶によるもの、潜水艦によるもの、魚雷によるもの、三種類であると。希望者は明朝〇八〇〇までに当該教官に申し出ろ、以上。これだけのことですよ。
つまり
一つは、船舶によるものというのは、私が行った震洋特攻隊という、小さな船で体当たりする。潜水艦というのは特殊潜航艇です。魚雷によるものというのは回天です。いわゆる人間魚雷回天です。
夕食を食べ、最後寝てもだれも口きかない。お互いにふだんは夕食のときは楽しく談笑するんですが、その後勉強をして寝てもだれもまた一睡もしなかったと思うんです。階段ベッドで寝ているんですが、上の段の男がもう身もだえをするようにして寝返り打って寝られないでいるのが手にとるようにわかる。そのうちに、数時間たったときに、隣のベッドの上の段の戦友がベッドを出て教官室へ向かっていった。入りますと言っている。聞こえます。ああ、あいつは志願したなと思いました。ますますこっちは焦るわけですよ。と、彼は帰ってきていびきかいて寝てしまう、決断をしたから。
私はとうとう朝まで寝られませんでしたね。私の上の段の男も寝られなかった。手にとるようにわかったんですが、彼は戦艦大和で死んだんです。隣のベッドの上下志願して、やはり死にました。そのときに四百人のうち四十人が志願して全員死にました。そのとき志願すれば死しかないんですね。
悶々として考えたのは、つまり
自分で特攻隊を志願するということは、死を覚悟することですよ。どうせ戦況からしていつかは死ぬかもしれない
状況であることは事実なんですが、やはり人間というのは、みずから決断をして特攻隊を志願するとなるとそう簡単なものじゃない。もちろん初めて体験してわかりましたが、走馬灯のようにという
言葉がありますが、本当にそうですね。
それは映画のように映っていく動く写真じゃないんです。スチール写真、一枚の写真のようにして、学校の
先生が国のために命をささげることは美しいことだぞと、こういうことを本当に言いましたから、我々のころは。そういうのがぽっと
先生の顔と一緒に浮かんでくる。次の瞬間、家族と一緒に旅行したことがぱっと写真のようにして頭に浮かぶ。次々次々に一枚の写真のようにして変わっていく。それが結局朝まで続いたわけです。私はそのとき志願しなかったんです。それから二カ月後に、少尉に任官すると同時に特攻隊へ行きました。
そういうこの苦悩というのを、これは今の簡単な
言葉じゃ到底わかっていただけないかもしれない。結局、大和で死んだ上段の男も苦悩してそして死んだんですが、彼のことを、
戦争が終わって二十年ほどたって、生き残った当時の戦友たちが集まって教官も交えて懇親会をしたら、そのときの学生隊長が、まさに募集をした学生隊長が生きておられて出てこられました。そして、懇親会の席で私に、田、おまえは次男だったなと言われたんで、そうですと言ったら、うん、おまえはだから特攻隊へ行けたんだと。君の上に寝ていた松本君というのは母一人子一人だった、だから死なしちゃいけないと思って大和に乗せたんだよ、こういう話をされました。
そういう
戦争の何というか、表に出てみんながわかる、空襲で死ぬことも含めて、あるいは、陸軍の本当に弾が飛んでくる中で死んでいくということと、そういう
現象だけじゃなくて、内面的な人間の苦しみというもののひどさ、そういうことをぜひわかっていただきたいということをまず
前提に申し上げておきたいと思います。
これは通告してありませんけれども、
一つ大変気になることが新聞にこの間出ておりましたから取り上げてみたいんですが、三島由紀夫君が
自衛隊で訓練を受けていたということが五月二十五日の朝日新聞の夕刊に出ておりました。
三島由紀夫君と君づけで言うのは、実は彼は小学校から大学まで私の一級下におりました。非常にもちろんよく知っております、秀才でしたし。彼がどうしてああなってしまったかというのは三島文学の方からは絶対にわからない。愛好者もたくさんおられますけれどもね。私どもは、それがわかるつもりです。
つまり、彼は戦前の私どもと同じ教育を受けたわけですよ。お国のために命をささげろと、天皇陛下のために死ぬことは美しいことだぞと、本当にそういう
言葉を
先生から言われながら育ちました。彼は秀才であると同時に、非常に純粋にそれを受け入れて育ってきたと思う。
私も実は、特攻隊に行くぐらいですから軍国少年でしたよ。そういう雰囲気の中で、幸いにしてと
自分で言ってはおかしいけれども、私は戦後新聞記者になりました。社会の底辺も見ました。
政治の中のいろいろな動きも知りました。
彼は書斎にこもって、作家として、大蔵省の役人をやっていましたけれども、一時。愛知揆一さんによると、おれがやめさせたんだよと、作家になった方がいいよと言ったんだよと言っておられましたけれども、彼は作家になりました。しかも書斎にこもる作家になった。まるでタイムカプセルに入っているように、外を見ると世間は全く変わっていると、昔のままの彼の目から見ると全く堕落していると、
自衛隊を含めて、そう思えたに違いない。最後の彼の割腹自殺はそういう結末だと私は思っています。
しかし、その中でこの新聞で気になるのは、彼はクーデターを考えていた、皇居に突入してクーデターを起こすということを
計画していた、楯の会をつくって。しかし、
戦争中の中学生や高校生のときの彼は、そんなことは到底できないほど肉体的に虚弱だったんですよ。それが一種のコンプレックスになったかもしれません。
ですから、私が申し上げたいのは、
戦争というものはどんなものなのか、そして教育というものの恐ろしさ、繰り返しそうやっていくと本当に純粋な人間ほど純粋にそういう人間になってしまうということ、私はだから三島由紀夫君というのは犠牲者だと思っています。そういうことも含めて考えていかないと、安易に
日本が
集団的自衛権を行使できる国になるべきだとか言ってはならないんじゃないかと思うんです。
実は、この話は五月十八日でしたか、
防衛研究所で講演を頼まれましたので、一時間半ありましたからもっと詳しく一佐、二佐の皆さんに話しました。あなた方には大変耳ざわりな話かもしれないけれども、同時にこういうことをぜひ知っていていただかないと困るということで、率直に話しました。後で、
防衛研究所長もいい話だったということを言ってくださったので助かりましたけれども、そういう
前提の上に立って
自衛隊というものは存在をしていかなくちゃいかぬ、
防衛庁は存在していかなくちゃいかぬと私は思っているんですね。
時間がもうそれだけでなくなってしまうんですが、最後に、今度の
防衛庁設置法の一部
改正という中で、そういうことを含めて、私は、
予備自衛官の公募ということと、それから
予備自衛官の災害招集制度をつくられたということ、特に災害のための招集制度をつくられたということを評価したいと思うんです。私は、そういう形で、
自衛隊というものの役割を変えていく、平和の方向へもっと拡大していいんじゃないかということを願っているんです。
ですから、できれば、陸上
自衛隊、十八万が十六万になりました、これは実態は非常に集まらなくて実勢力に合わせたというふうに言ってもいいかもしれませんが。そんな悪口を言うつもりはないんですが、むしろ、第一
師団から始まって今旅団になっているところもありますが、そういうところを、この
師団、旅団単位に例えば一個大隊ぐらいは純粋に災害救助を専門にする
部隊をつくっていったらどうかということを提案したいんですが、
防衛庁長官、いかがでしょうか。