○山内(惠)
委員 その
研修を何度も何度もしても、なおかつ
指導に不
適格とおっしゃられるまでの
過程の
部分についていえば、このことが、私は本当に教職員を萎縮させなければいいなというふうに思います。
それで、私は、私のクラスでちょっと問題が起こったときに、隣の先輩が私に言ってくれた
言葉を今も忘れないのですけれども、担任はこの子がいなければいいと考えることだけはするな。私は、あのアドバイスは生涯忘れない
言葉です。先日、西議員もおっしゃっていた、褒めることから始める、ここの
重要性をおっしゃっていました。教職員もそうだと思います。
例えば、立派な
授業をしていたから表彰なんて、そんなような褒められ方が必要なのではないと私は思います。私が新卒のとき、公開
授業を引き受けるときに管理職の方が言ったのは、いい
授業をしようと思う必要はない、初めに材料をどうやって準備するか知っておくといい、そう言ってアドバイスをいただいて、私は忘れもしない、理科の
授業で万華鏡をつくる
授業をした日のことを思い出します。三枚のガラスをガラス屋さんで切ってもらって、それから
子供たちに、あのとき西洋紙という
言葉を使っていましたけれども、
自分の墨で真っ黒に塗った、その墨の乾いたこの紙を合わせて三面の万華鏡をつくりました。
そして、
授業をしたあの日のことを私は思い出しますが、決して私は、そのときいい
教員、
指導力を持っていたとは
自分で思いません。もしこういう項目があったら、三年もしないうちに私はこの場から消えなくちゃならないような要素をいっぱい持っていたような気もします。しかし、当時、私の
自分の力のなさとは相反して、この三十年間の中で一番悩んだ時期でありながら、
子供たちとのパイプは今も続いています。先ほど言ったのは、
指導の力だけではない、
教育の力というのは、ほかの魅力その他にもあると私は思います。
実は、この万華鏡の
授業をしたときに、校長が私に言ったせりふは、これも私は
自分でうれしかったからなんですけれども、
授業は下手くそだったけれども笑顔がよかった。本当にそれを言われることが、私は、次の日から、
先生をやめたいと思わない日々を何日間も過ごすことができました。
でも、三年間ぐらいやはり
悩みましたから、そのことでいえば、ちょっとここで、重松さんという作家の方がおっしゃっていたんですけれども、さっきの
指導力と
教育の、
教育者という
言葉が世の中にはありますけれども、それは違うんだということを
説明しておきたいと思います。
小出監督があのマラソンの選手を
指導した、あれは
指導者であるけれども
教育者ではないんじゃないか、それは
教育者の要素もありますけれども、大きく分けたらの話です。
学校の
指導力がないというような発想よりは、これだって欠けているのは
指導力ではないんじゃないかなということをこの方は言っているんです。そして、もし担任に求心力がないとしたら、体罰などということで抑えつけてしまうんじゃないかという心配をこの方はなさっているんです。
今回の処分
行政は、ある意味で、この
自分の力の問題を、強制的に
学校現場をつくっていけない人の処分という発想に来てしまっていないかなというのもちょっと
懸念しているところです。
例えば、
指導力というのなら、陸上部の才能ある選手を伸ばすような力を
指導力、しかし、
教育力ということでいえば、「マラソンなんてかったりィーよォ」と書いているんですが、そう言いながらだらだら走っている人を
最後まで走らせるような力をいうのだ、例えば英語を得意にさせるだけなら
指導力でいいのだ、しかし、英語を好きにさせようと思ったらこれは
指導力だけではだめだとこの方は言っています。
それで、もう
一つなんですけれども、これは全部が全部ではないですけれども、この方の印象でいうと、管理
教育の問題がこのところ取りざたされているけれども、なぜか管理
教育をしている県が高校野球が強いんだよね、これは全部がではありませんから誤解のないようにお聞きください、それから、卒業式などに警官を導入した割合が高いんですよねとおっしゃっているんです。
私は、日本で、スポーツで鍛えた、そしてその
子供たちが大きな試合に行って、せっかく持っている力を発揮できないことが随分あったように思うんです。そのときに私は、ニュージーランドのオールブラックスチームのラグビーの監督が日本に来て、日本の選手の、それこそ
指導の仕方が違ったんです。日本は
過程ということ一本やりで言っていく方向がとても目につく、でも、
子供の心を解放してあげなければだめなんだ。その意味では、もしかしたら、あの小出さんもあの
高橋選手の心を解放させる力を持っていたと思うので、ある意味では
教育をなさったんじゃないかというふうに思います。
その意味で、
指導力というここの点だけで
判定をするというやり方に間違いがあると私は思っています。
それで、
最後なんですけれども、危機に瀕する日本の
教育と言うのであれば、今回の
教育改革国民会議の底流を流れている思想こそ、私は、今後の日本を危機に瀕する
状況にするのではないかと思います。
子供たちの伸びようとする力に対して本当に優しいまなざしがない。
私は、今、これは新聞からいただいた記事なんですけれども、現代の
指導者層に決定的に不足しているのは、各審議会答申に出てくる創造力でも独創性でもなく、他者の心や境遇に対するごく常識的な想像力と、人間としての最低限の優しさですと言っているんです。
私は、今、
学校の教職員にももっと励ましの、今こんな難しい時代だからこそ、教職員の
皆さんがこんなふうに頑張っていることをもっとくみ上げて文部
行政は進めていただきたい。
私は、処分や
子供の問題行動の排除などで、それから押しつけの
奉仕活動では、
子供たちはよみがえらないどころか、不登校もいじめももっと深刻化するだろうというふうに思います。
あえて
質問は
最後しないで、私の
意見として終わらせていただきます。