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米谷光正君 東北福祉大学の
米谷でございます。本日は、こういう席に参加させていただきましたことにまことにありがたく
感謝を申し上げます。
福祉というものを標榜する大学に勤務する者の一人として、二点に絞らせていただきまして、少しみずからの
意見を述べさせていただこうと存じます。
一つは、十三条でございます。
御承知のとおり、これは幸福追求権でございますし、個人の尊厳をうたった大変な条文でございます。この十三条、個人の尊厳、いわば我々の人格をどのように
尊重するかといったことについて述べておるわけでございますが、そもそもこの条文によりまして、我が国の場合、そこに住む我々
国民がいかに個人というものを
尊重され、同時に、個性というものの上に初めて
国家というものをつくり上げていくという非常に大きな
理想を掲げた、こういうふうに一般的に言われます。まさにそのとおりであろうとは思います。
ただ、このような個人の尊厳あるいは人格といったものはどうしても何らかの限界が生じてまいります。
一つは、この条文でも既にうたっておりますが、公共の福祉という概念でございます。どのような人格あるいは個性も、やはり公共の福祉というものの前では限界が存在する。
それから、第二点が比較考量論でございます。既にここにもマスコミの
皆様もいらっしゃいますけれ
ども、有名なあの福岡の博多フィルム事件でございまして、ここで初めて比較考量論というものが展開されました。取材の自由と報道の自由、それから同時に個人の自由、どちらの自由権をどのように守るか、ここに比較考量論が使われました。
さらに続きまして、二重の基準という点が挙げられる。私も
憲法を学生の前で講義する手前、どうしてもこれは避けて通れない。
となりますと、
人権という言葉がここに出てまいります。ところが、この
人権というもの、本来ですと、我が国の
国家権力に対しまして、それぞれの
国民がみずからの人格と個性のもとに抑制できる最高のもの、このようにうたわれているのが普通でございます。となれば、ここに明らかな矛盾が出てくるわけでございます。となりますと、
人権というものにもやはり限界があるだろう。
じゃ、
人権というのは何だということになってきました場合に、
人権というのは決して
権利ではない。この
二つでございます。
人権と
権利、これをよく間違ってしまう場合もあるわけでございます。あくまで、ここで言っていますのは
人権にすぎない。
権利というのはまた別の角度から出てくることになるだろう。
しかし、よく我々、福祉の場合に聞きますのが、私には
人権があるというような言葉を聞きます。確かに
憲法は
人権の擁護をうたっておりますけれ
ども、
人権があるんだから私には
権利があるんだ、こういう理屈にはならないのではなかろうか。もっと言いますと、
憲法上も、
人権という概念と
権利という概念を明らかにしておいていただけるならば、まことにやりやすいということにもなります。
しかし、
憲法が一々、一人ずつの
権利について、こうですよ、こうですよと言うのも、これもおかしな話でございますし、同時に、
憲法も法の
一つでございますから、法がそこまでのことを言い切った場合に、果たして次の
社会を生んでいくのか。やはり法というのは一歩引き下がったところから
社会というものに追従していく、先ほど言われましたけれ
ども、法に
人間が縛られるのではなく、
人間の方が法によって生かされる、要するに、法を我々が使うんだということになるとするならば、決して、
社会を超越したような
憲法をつくってもらってはこれも困る。
ですから、今の
憲法で足らない部分もございますけれ
ども、逆にそれを余りにも急激的に、
社会変化というものを度外視したような
改正ということになりますと、これもやはり我々
国民の
権利を縮めてしまうということになりかねないのではないか。その辺が、もし
憲法改正といった立場をとる、あるいはそういう
議論をする場合に一番重要ではなかろうかと思います。
もう
一つが、生存権という有名な
憲法二十五条でございます。
一般的に、文化的最低限度の生活を営むことを保障するという、この条文でございますが、生存権の
規定だ、あるいはその後段に続きます国の
社会的使命をうたったものだと言われておりますが、果たしてこの
規定が生存権の
規定と言えるのかどうか。
社会保障論あるいは
社会政策などの専門の方に言わせますと、これは絵にかいたもちだ、果たして生存権があるのか、そういう話になります。
事実、ここにいらっしゃる
皆様は非常によくおわかりだろうと思いますけれ
ども、生存権というのは、
権利であるのか。もっと言うと、生存権の
権利性とは何ぞやという問題が発生するわけでして、そういう面では、例えば最高裁判所の大法廷が出しました堀木訴訟を初め朝日訴訟、あるいは近年では塩見訴訟という大変大きなものが出たわけでございますが、こういった中で、果たして
権利性とはと言われる。
生存権とうたうのであるならば、やはりある程度の
権利性というものを、ほかの法律にどのように影響するかということを考えた上での
規定にしていかざるを得ないのではないだろうか。確かに、生活
保護法を含めまして、他の法律によって生存権
規定は生きているのだ、こういうふうには言われますが、もう既にこういった解釈で済ませる時代ではないのではないか。今言いましたように、あくまでも
社会とともに法というものは変わっていかねばなりませんけれ
ども、この点につきましては、少し我が国の
憲法、そろそろ、長期にわたったためにある種の硬直化を来している点があるのではなかろうか、このように思ったりもいたします。
確かに、
憲法ができて既に半
世紀以上たったわけでございまして、そろそろ
社会の実情と
憲法の
理念が少しどこかで食い違いつつあるのではないか。すべてが食い違っているとはもちろん申しません、今でもこの
理念は残していかねばならぬと思う
理念もたくさんございます。が、時として解釈に余りにも流れ過ぎてきたのではないか。もっと言いますと、解釈学の限界がそろそろ見えてきたような点もあるのではないか、そのように私個人としては思っております。
少し話を戻しますと、例えば、先ほど言いました
人権でございますが、問題は、この
人権という言葉が持っております意味なのではないかと思います。それは、我々は決して神でもなければ仏でもないわけでございまして、すべてが同じ人格を持っているというのは、これはもちろん違うわけでございます。となれば、すべてに
人権なりあるいは人格といったものを同じように見るということは、明らかにこれは矛盾するのではないか。となりますと、
権利といったものに結びついていく段階で、ある程度
人権というものの限界も出てくる、そのように思います。
ただ、今言いましたように、現在の生存権の
規定などからいいますと、少しそういった面が、余りにも、
憲法ではないほかの法だけによって実施されていく。同時に、既に言いましたとおり、その
権利があくまでも自分には当たり前にあるんだ、そういうふうな考えをしてしまわれる方もたくさんいらっしゃるわけでございます。
そうしますと、その調和をどのように図っていくか。やはり
憲法の
理念というようなものも、先ほどお話がございましたけれ
ども、本当に我が国の民主
国家、
民主主義といったものに立脚した
憲法というのであるならば、やはりある一定の指針を示すことによって、もっと言いますと、より具体的なものをお示しいただければ一番いいのではないかなと。
実は、私も
憲法を講義いたしますときに、よく学生に言われるのですね。
憲法ぐらい取っつきやすいものはない、しかしやってみればこれほどわけのわからないものもない。これは本当に私も同感でございまして、私もそういうふうに常に思っておりますので、もう少し、
憲法というのは
日本のいわば根本法、我々
国民がよって立つところでございますので、我々が常に身近に感じ、身近に
意見を言える、そういう
憲法にぜひしていただければと思うわけでございます。
本日はまことにありがとうございました。