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孫参考人 ソフトバンクの孫でございます。本日は、このような機会をいただけましたことを大変光栄に存じます。
せっかくの機会でございますので、きょう用意してまいりましたプレゼンテーションの資料を一緒にごらんいただきながら話を進めてまいりたいというふうに思います。その後の皆様の御質問にも誠意を持って一生懸命お答えしたいと思いますので、ぜひよろしくお願いいたしたいというふうに存じます。よろしくお願いします。
着席にて発言するようにということでございましたが、せっかく
プレゼン資料も持ってきておりますので、画面を一緒に見ていただきながらお話を進めてみたいと思います。よろしいでしょうか。
まず、憲法に関することに直接入る前に、一体全体二十一世紀はどうなるのか、特に
コンピューター、
情報革命と我々人類のあり方がどのようにこれから推移していくのかということについて、私なりの考えを先に申し上げさせていただきたいというふうに存じます。
人類はこれまで、二十万年あるいは五十万年と言われる歴史の中で、三つの大きな革命を経てきたというふうに思います。
まず一番目の革命は、
農業革命です。これによりまして、人類は初めて、ほか
のけものたちに比べて、みずからの力でみずからの食するものをつくることができるようになりました。これが、決定的に我々人類とほかの動物を大きく分けることになったきっかけであろうというふうに思います。
次に、我々人類は、
産業革命ということで、みずからの筋肉の力を一万倍、百万倍というふうにより拡張することができるようになりました。この力によって、自動車を使い、飛行機を使い、あるいは洗濯機を使い、さまざまな動力、電力を使うことによって、我々の歴史的な発展を遂げることができるようになったわけであります。
そして、ついに人類は、もう一つ大きな革命として
情報革命、つまり、我々の
脳細胞の働きを一万倍、百万倍というふうに助けることができる、そういう道具をつくり出すことができるようになったわけです。食べるもの、そして手足の筋肉の延長、そして三番目に、最も大きな革命であろうと思われますが、
脳細胞の働きを拡張させる、そういうようなまさに革命と呼ぶべき変化をここで迎えることが明白になってきたわけであります。
ショッキングなことでありますが、この
脳細胞の働き、
コンピューターというのはもしかしたら人間の
脳細胞の数を超えるかもしれない、いや、超えるであろうということを予測することができるような事態になったわけであります。
脳細胞の働きというのは、
皆さん御存じのように、もともと
シナプスがくっついたり離れたり、こういうことで、
オン・オフの関係で、この膨大な
オン・オフの関係の蓄積で物を記憶したり物を考えたりするわけであります。これは、まるで
コンピューターの
トランジスタが、
オン・オフの関係で電流が流れたりとまったりというのと同じような働きであります。
とすると、この
脳細胞の数、大脳が二百億個で小脳が一千億個だとかいろいろ言われております。小脳の中でも、ある程度は物を思考したりするのにも役立っているという説もございますので、仮に
脳細胞の数が三百億個だといたしましょう。
コンピューターの半導体の中に入っております
トランジスタ、これは約一千万個であります。一千万個対三百億個。そうすると、人間の
脳細胞の方が
ワンチップの中に入っている
コンピューターの
トランジスタよりもはるかにはるかに大きい、やはり人間の方が賢い。だから人間はもっと微妙なことまで考えることができるし、すばらしい創造する力を持っているというようなことになるわけであります。
ところが、ここでもう一歩深く踏み込んで考えてみたいと思いますが、この脳細胞の数ですけれども、仮に三百億個だとしましょう。二千年前、人間の
脳細胞の数はどのくらいあったか。二千年前も、今の我々人類が持っている
脳細胞の数とほとんど変わっていないわけですね、現在と。二千年後はどうでしょうか。今から二千年後もほとんど変わらないはずです。人間のDNAはもう十分ぐらい進化してきております。これ以上急激に二千年間で人間の
脳細胞がふえるような進化というのは、物理的になかなかないんではないかなというふうに思います。ほとんど横ばいだということです。今を挟んで前後合計四千年間ほとんど横ばいである。
しかし、
コンピューターの
トランジスタはどうかということですが、過去二十年間ずっと見てきて、大体一年半ごとに倍、十八カ月ごとに
ワンチップの中に入る
トランジスタの数が倍、
倍々ゲームをやっているわけです。
倍々ゲームを十回やると千二十四倍です。二十回やると百万倍になるわけです。ということは、この
倍々ゲーム、今のペースで続いていくとどこかでクロスオーバーするだろうということなんですね。
もう一つ、最近わかってきたのは、
脳細胞の働きの
シナプスに結節点が、一本の
脳細胞に結節点が一千個から十万個ぐらいあるだろう、こういうこともわかってきている。そうすると、単純に
脳細胞の数だけでは比べられない、
シナプスの結合点まで含めて考えなければいけない。そうすると、三百億個の
脳細胞ということではなくて、掛ける千または一万あるいは十万ということをしなきゃいけない。
しかし、
脳細胞は必ずしも全部を活用しているわけではない。とすると、大体何個ぐらいを目指せばいいかということですが、ほぼ三十兆個ぐらいの
シナプスの結合点が人間の
脳細胞の働きを規定しているということになるならば、一体
ワンチップの中に入る
トランジスタが何個ぐらいになればいいか。これは仮定の話ですけれども、もし同じ三十兆個ぐらいになったとするならば、人間が物事を認知したり、あるいは
自然言語を理解したり解釈したり、あるいは伝達したり記憶したり計算をしたり、こういうようなことは、
脳細胞が物理的に
オン・オフの関係で考えたり伝えたりということをするのであるならば、
コンピューターも同じような、似たようなことをできるようになるんではないか。
その
コンピューターの
トランジスタの数が三十兆個になるのはいつかということで計算してみますと、二〇三〇年ということであります。つまり、二〇三〇年になると、物理的に、少なくとも器として、これは同等かそれを超える時代がやってくるであろう。つまり、二十一世紀というのは、まさにこの人類と人類が生み出した道具が、
知的生産活動、
知的活動においてもしかしたらクロスオーバーするかもしれないという、初めて迎える世紀であるということであります。
これが大前提として、大きなビジョンとして物事をとらえるならば、さあ、果たしてここから憲法、我々が、人間が人間として生きるすべを規定する一種の
プログラムですね、憲法というのは。我々が約束事として決めるルールでありますが、この人間がつくったルールに縛られて、人間が
コンピューターよりも劣る、拘束されることになってしまったんでは、これはもう
本末転倒であろう。そうするならば、我々が、人間が人間として生きるすべであるルール、これについても積極的に見直していかないと、どんどん我々の道具に抜き去られてしまう、あるいは我々がつくった道具によってみずからの破滅を迎えるかもしれない、こういうことになるわけですね。
そういう意味で、私は、むしろ積極的にこれをうまく活用して、人間がより幸福に、より生産的であり、より楽しく、より人間らしく生きるためにこの道具を使いたい、こういうふうに思うわけであります。
ちょうど一八六〇年代に、日本では
明治維新がありました。
アメリカでも同じように一八六〇年代に
南北戦争がございました。この
南北戦争、日本では
南北戦争というふうに翻訳されておりますが、これは英語ではシビルウオーというふうに言います。これは、それまで南部を中心とした
農耕社会から、つまり奴隷を使って手作業でやる、こういう
農耕作業から
工業社会に至ろうとする、そういう大きな社会の
パラダイムシフトを迎えるにおいて、それまでの人間がつくっていたルールを抜本的に見直そうということで、話し合ってもなかなか解決つかないから戦争という形で、ついに
南北戦争という形にまでなったわけであります。
同じ一八六〇年代に、日本では、それまでの
農耕社会、武士を中心として、農民を中心とした
農耕社会であった
社会構造から
工業社会に打って変わろうという、この大きな
パラダイムシフトのために
明治維新が起きた。日本も
アメリカも実は同じだったというふうに私は思っておるわけであります。
まさに
アメリカでは、一歩我々日本よりも先んじて、
IT革命、
情報革命に真っ正面から取り組みました。その結果、さまざまな法律に対する見直しが起きております。予算に対する見直しも起きております。物の考え方、教育のあり方、すべてにおいて
パラダイムシフトを迎えようとしているわけであります。
そういう意味で、もしかしたら二〇三〇年ではなくて二〇三五年かもしれません、二〇四〇年かもしれません、二〇二〇年かもしれない。まあその辺の十年、二十年は、長い人間の歴史から見れば誤差のうちだ。我々がここで考えるべき点は、そういう誤差の五年、十年を議論するのではなくて、大方向として、この二十一世紀において初めてクロスオーバーするであろう、この大前提に立てば、我々は大いに発奮して考えるべきであろう。
この
コンピューターの考え方ですけれども、
脳細胞というのは、先ほど申しましたように、
トランジスタのように
オン・オフの関係で、
側頭連合野あるいは視覚一次野、これが大脳新皮質の間で情報の
やりとりをして、扁桃体、視床、こういうようなところで、さまざまな、より潜在的な意識あるいは新しい知識、新しい記憶、思考、こういうようなものをつかさどっておるわけであります。
コンピューターは今まで、プロセッサーということで、エンジンに相当するところがあって、
プログラム、ルールを決めるところ、そしてデータ、この三つの部分の役割で物を記憶したり計算したりしておるわけですが、人間の
脳細胞はメモリーベースアーキテクチャーということで、
プログラムと記憶するところ、これが直接の
やりとりをしておりますので、新しい
脳型コンピューターのようなものが物理的にも設計可能な理論が出てきております。こういうものを使いますと、先ほどのような、もしかしたら二〇三〇年よりも早い段階で
脳型コンピューターができるかもしれないということまで最近わかり始めてきております。
ちなみに、認知ですけれども、これが飛行機なのか車なのか、鉛筆なのかボールペンなのか、リンゴなのかオレンジなのか、こういう認知、認識するということ、言葉、映像、音、におい、こういうようなものを認識する力は、恐らく十年間ぐらいで人間の百万倍ぐらいの力を
コンピューターは持つようになるであろう。
自然言語も、
コンピューターはあと十五年から二十年ぐらいで、今僕が話しているこういう言葉すら直接
コンピューターが聞いて、それを翻訳したり、言葉の
やりとりができるように、
自然言語の認識ができるようになる。これも論理的に人間が考え出したものですから、論理的に
コンピューターも
プログラムとして認識できるようになる。
ですから、先ほどのように、
トランジスタの数がクロスオーバーする前に、徐々にこういうような
逆転現象が至るところで起き始めるということであります。願わくは、我々人間は
コンピューターに使われる立場になるのではなくて、我々人間が継続して
コンピューターを道具として使う、こういう関係でありたいものだというふうに考える次第でございます。
ところで、憲法の話に入る手前、最後の
ポイントとして、背景として申し上げたいことがあります。
それは何かといいますと、アジアが大変大きな
時代的ポイントを迎えることになるだろう、これが二十一世紀にやってくるだろうと私は個人的に思っておるわけです。そのアジアの中で、最近
IT戦略会議等でも議論されておりましたが、日本が実は大変おくれてきている、抜き去られてきているというような話を私自身もしておったわけですが、より具体的な数字を調べてみました。
高速インターネット、
ブロードバンドですね、
高速インターネットを
インフラとしてつくることによって初めて、人間が考えたさまざまな情報、つくった情報、これをお互いに
やりとりすることができるようになるわけです。まるで
工業社会における自動車のための道路の
ネットワークに相当するのが光ファイバーあるいは無線その他の
情報ネットワーク網、
インフラなわけですけれども、この
高速インターネットの
インフラ、つまり従来の電話線の遅いものではなくて、高速の
インターネットの普及率において、去年の一月、韓国は五万回線だったんですね。
日本は今二十万回線です。日本は今二十万回線か、そうすると、韓国の去年の一月の五万回線に比べて四倍かと思うかもしれませんが、実は、その韓国は今四百五十万回線になりました。このアジアの全体の
パイチャートの中で黄色い部分は、日本ではなくて実は韓国なんです。日本は何と、この赤い部分の二%のところなんですね。アジアの中の
高速インターネットの
インフラに占める日本の比率というのは、もう決定的に抜かれてしまったということであります。
ちなみに、
アメリカは六百万から七百万回線です。
アメリカが、あの人口、あの
テクノロジー、あの経済の背景にして六百万から七百万回線で、それよりもずっと小さな韓国が四百五十万回線になりました。世界で二番目の
経済大国であります日本、まさに
産業革命の中で大いにその力を発揮した日本が、世界で二番目の日本が、アジアの中ですら後進国になってしまった。これは衝撃的な事実であります。
しかも、その差がますます開いておるということ、これはゆゆしき問題だ。だから、我々の先輩の先生方、また先生方の先輩の先生方が日本の産業の発展のために道路をどんどんつくって整備したように、
高速インターネットの道路、これを我々の
子供たちのために、孫たちのために一刻も早くつくらないと、どんどんその差は開いていく。
今、国連でもダボスの会議でも、
世界じゅうのあらゆる会議の場で、
デジタルデバイド、つまり、
情報革命に早く取り組めたところと遅く取り組んだところの格差が世界的な問題として議論され始めておりますが、この
デジタルデバイドにおいて、日本はまさに後進国になろうとしているという事実を大変重く私はとらえております。
特にこの
高速インターネットにおいて差が開いてきておるということで、一刻も早く
規制緩和をして、一刻も早く
競争政策をとって、一刻も早く日本の国民が自由に、まるで空気のように情報に触れることができる、そういう時代を迎えるべきであろうというふうに思う次第であります。
そこで、日本の二十一世紀の憲法でありますが、今申し上げましたような
テクノロジーの進化を背景に、我々人間として、その生きていくルール、これについても若干の見直しがあった方がいいのではないかというふうに思われる点がございます。
IT革命、
情報革命、もう一つは
グローバル化ということですね。
百年前の
明治維新の直後というのは、まさに藩だとか地方のそれぞれの中で、ルールも違う、生き方も違う、考え方も違う、文化も違うということでしたが、今は、
産業革命の結果、
交通手段も
情報伝達手段もはるかに発達して、日本という国の単位で物を考えるようになりました。これから二十一世紀においてはもっとそれが進化して、一瞬のうちに
世界じゅうに移動できる、コミュニケートできるという時代が来るならば、物の単位は、国の単位ではなくて世界の単位、人類の単位で考えなければいけない時代が来るであろう。そうすると、グローバライゼーションというのはやはり真っ正面から考えていくべきテーマになるであろうというふうに思うわけであります。
まず、情報に関する
基本的人権の点ですけれども、これは現在の憲法に触れられていない点、つまり、憲法ができたときには、まだ
コンピューターが世の中にほとんど機能していなかった時代、まだ発明の段階だったときですね。ですから、
日本国憲法の中には、
情報テクノロジーを前提とした条文が入っていないということですが、
基本的人権として加えるものとして、ネットに対する
アクセス権、情報に対する
アクセス権ですね。
インターネットで
世界じゅうが
情報伝達手段としてつながって、日々刻々と、毎日毎秒新しい情報が、人類がつくり出した知恵と知識がどんどん蓄積されていく。
先ほど
デジタルデバイドということを申し上げましたが、国家間における
デジタルデバイドだけではなくて、日本の国の中においても
デジタルデバイドが起きていくであろう。日本の国の中でも、
コンピューターをさわれる人、さわれない人、
インターネットを自由にさわれる人、さわれない人で、
情報収集能力、
情報分析能力、
情報伝達能力において百倍千倍の差が出てしまう。
これは、
義務教育を我々が現在の
日本国憲法の中で定めておるわけですが、同じように平等に、日本国に生まれた国民は何人たりとも平等に、空気を吸えるように、水を飲めるように、我々人類の最も重要な
知的財産であります情報に自由に、素早く、安く触れることができるように、伝達することができるように、もちろん
国家機密に相当するもの、あるいは
プライバシーに相当するものにおいてはこれを制限しなければなりませんけれども、それ以外のものに関しては、先ほど会長の方からございましたように、
フィンランドでも、あるいはそのほかの国々でもこういうことの議論が始まっておりますが、
我が国日本においても、当然二十一世紀における憲法においては入れるべきテーマではないかというふうに思います。
あわせて、このように情報の技術が進んでアクセスすることができるということになりますと、同じぐらい
プライバシーの保護ということに関しては、重要な、人間としての保護されるべき権利であろうというふうに思うわけであります。
情報ネットワークが進むということは、
クレジットカードできょう何を買ったのか、
クレジットカードも今よりももっと進むでしょう、恐らく
携帯電話に
クレジットカード機能がすべて備えられるということにもなるでしょう。そうすると、
携帯端末でこれを欲しいあれを欲しいと言っただけで、一瞬にして清算される。現金を持ち歩くというようなことは不要になる時代が二十一世紀にはやってくるでしょう。
そうすると、人間が活動するもの、買ったもの、今晩のおかずの中身まで知られてしまうということになりますと、
プライバシーの問題というのは
大変人類にとって、先生方も時々、もっと
プライバシーが欲しいと思うことがあるでしょう。私自身もそう痛感することがよくございますけれども、何人たりとも守られるべき
プライバシーの範囲というのはどこからどこまでである、人が勝手に報道していい内容はどこからどこまでだ、こういうようなルールにおいても、やはりもう少し我々人類がお互いを守るためにやるべきことであろうというふうに思います。これは、
情報時代が進むとなおさら必要なことであろう。車の
排気ガスが公害であるように、情報の力が公害のように人間が住みにくい時代にしてしまったのでは、全くこれは
本末転倒であろうというふうに思うわけであります。
次に、
インターネットが進むことによる最も大きなリスク、これに対するセキュリティーをもう一度考え直すべきであろう。
私は、二十世紀というのは、人間がつくった核爆弾だとかミサイルだとか戦車だとか鉄砲だとか、こういうことによって生み出された悲劇を至るところで見た歴史、そういう歴史が二十世紀の一つの大きな特徴であったのではないかというふうに思うわけですが、二十一世紀において最もあり得る、最も現実的なリスクというのは、もしかしたら、核爆弾よりもミサイルよりも、
コンピューターによって生まれるウイルス、
コンピューターを使ったハッカー、テロ行為、こちらの方がもっと現実的に起き得る社会的リスクではないかなというふうに思うわけであります。
先日も、フィリピンかどこかの一学生がアイ・ラブ・ユーというウイルスをつくりました、こういうふうに報道されておりますが、事実かどうかは知りませんけれども、アイ・ラブ・ユーという日本以外の国でつくられたウイルスが三日間で
世界じゅうに蔓延した。日本でも、私自身の
コンピューターにもこのアイ・ラブ・ユー・ウイルスが来ました。
私ども
ソフトバンクでは、私どもの業界の人たちは
コンピューターに毎日触れております。私自身の
コンピューターに、一週間に大体平均三件から四件ウイルスがやってきております。幸いにして、私どもは、日本でも最も早くアンチウイルスというものに仕事として取り組んで、もうその株は上場して売っておりますけれども、ウイルスということに対して最も積極的に取り組んだのは、私自身その一人だったんではないかと思いますので、よく知っております。結果、私ども
ソフトバンクでは、アンチウイルスの対策用のソフトをいっぱい入れておりますので被害は最小限にとどめられておりますが、それでも、ウイルスがやってくる頻度は、私自身の
コンピューターに週平均三回来ております。それは頻度がふえております。去年は月一回ぐらいでした。現在は週三回です。しかも、より悪質なウイルスがどんどん開発されているんですね。
この間愕然としたのは、青山の本屋さんで、夜の十二時ごろたまたま本を買いたくて行ってみたら、何とそこに、ウイルスのつくり方という本が四種類か五種類日本語で出版されておるんですね。日本語でウイルスのつくり方、ばらまき方に関する本が四種類も五種類も出版されて売られていて、だれでもが千円、千五百円で買うことができる、二、三時間でウイルスをつくることができる、ばらまく技術を教えてもらえる。もしこれが、核爆弾のつくり方という本が四種類も五種類もつくられていて、一学生がパソコン一台で、その辺に売っている灯油かガソリンで核爆弾がつくれて、三日で
世界じゅうにばらまくことができたならば、我々は何をしてみずからの生命をプロテクトしたらいいのか、恐ろしくて生きていけないというぐらい、心配で生きていけないというぐらい、皆さん心配されると思います。
このウイルスが、つくり方の本までできて、たった一人の学生がたった一台のパソコンで三日で世界にばらまけるという事実があるのに、まだ何も明確な手が打たれていない。サミットで首相が、大統領が話をするならば、冷戦が過ぎた今、私はこれが最重要テーマではないかとまさに思うわけなんです。
しかも、原子爆弾をつくってばらまいたならば、恐らくどの国の法律に照らしてみても、これは厳罰に処せられる。恐らく終身刑、国によっては即刻死刑ということになるんではないかと思うんです、原子爆弾をつくってばらまいたならば。ウイルスをつくってばらまいて、今の
日本国憲法で、このつくった学生がどのくらいの罰に処せられるのか、私にはよくわからないんです。ウイルスをつくってばらまいた人、つくり方の本を書いて印刷して出版した人がどのような罰に処せられるのか、今の
日本国憲法でまだはっきり明確にわからない。それはそうですね。
日本国憲法がつくられたときには
コンピューターウイルスという言葉もなかった、
世界じゅうどこにも
コンピューターウイルスなんというものは存在していなかった、だから
日本国憲法には書かれていないということですね。
ということは、我々は一刻も早く、日本国のためだけではなくて世界のために、また、
日本国憲法で定めるだけでは不十分で、どこかよその国でつくられたウイルスも、よその国で行われたこういう悪さも、一瞬にして、
コンピューターの
ネットワーク、
インターネットの
ネットワークで日本が危ないということがあり得るということですね。
ぜひこれは、日本国から人類史上最悪の犯罪者を出さないためにも、
日本国憲法でみずから早くそれを制定すべきだろう。それに対する道徳教育も、一刻も早く、小学校一年生の段階から、そういうことをしてはいけないよということを先生方が
子供たちに教えるべきであろうというふうに思うわけであります。こういうことは大変重要な、我々人類の基本的ルールであろうというふうに思うわけであります。
次に、電子投票制度でございますけれども、この間
アメリカで大統領選挙のときに、パンチカードに穴があいているのかあいていないのかということで大騒動がございましたけれども、いまだに
アメリカでパンチカードを使っていたのかということに私は驚いたわけです。あれはもう四十年ぐらい前の
テクノロジーですから驚いたわけですが、それよりも日本はもっとおくれていて、わざわざ紙に先生方の名前を間違わないように書かなければいけない。漢字が一文字間違っただけで無効票になってしまう。だから、しようがないから、先生方が息子に名前をつけるときは、娘に名前をつけるときは、平仮名でつけようなんということになる。これは
本末転倒じゃないかと私は思うのですね。
平仮名で名前をつけなくてもちゃんと投票が間違いなくできるように、しかも、それを大勢の手間暇をかけて何日もかけて投票結果が見られるという状況ではなくて、電子投票制度になれば当然そんなものは一瞬にして結果が出る。もちろん、無効票も間違いもないということになるであろうということで、当然二十一世紀においては、紙をベースにしたものではなくて、電子投票をベースにしたものになっていくんだろうな、なるべきであろうなというふうに思うわけであります。これを
インターネットでつなげば、一瞬で結果がわかる。
もう一つ、これはセンシティブなイシューでございますけれども、仮にそういうふうに国民が一人一人自由に投票できるというふうな時代が来たならば、国民が国民のリーダーを直接選べる、そういう時代がやはり来るべきなんだろうなというふうに思います。
この選挙制度の歴史を見ますと、ある時期は男性しか投票権がないという時代があった。その少し前は、ある特権階級の人にしか投票権がないという時代があった。現在においては、特権階級の人だけが投票するとか男性だけが投票するなんということは、憲法において定められて、間違っているということになったわけでございますが、特定の人のみが日本国のリーダーを選ぶというのはやはりおかしいんじゃないか。
今から五十年、百年たった後に、我々日本国民の子孫が考えてみて、ああ、あの時代までは特定の何人かの方々が日本国のリーダーを選んでいた、そんな時代があったんだなというふうに振り返って笑う時代が来るのではないかというふうに思うのです。日本国の将来の運命は、日本国の現在のあり方は日本国民が選ぶ、こういうことがより当たり前のこととして語られるようになるのであろう、こういう時代が来るのであろうというふうに私は思います。
センシティブなイシューでございますので、先生方ではない一般市民の私が差し出がましいことを言うのは、しかも
コンピューター屋の私が言うのは出しゃばり過ぎだという話になろうかと思いますが、日本国民の一人として申し上げさせていただきたい。
ちなみに、私は、生まれながらにして日本国民なのではなくて、生まれたのは日本ですけれども、育ったのも日本ですが、後々、今から七、八年前ですか、初めて、自分で望んで、自分で意思決定をして、お願いして、申し込んで、日本国籍を得た人間の一人でございます。
多くの日本国民が、生まれながらにして自然に日本国民になれる権利を持っていて、その日本国民の権利を行使しない。日本国民として日本国のあり方について考えない、投票にも行かない、そういう人が多くいるということに私は何か不自然さを感じて、かつ、ぜいたくな、せっかく与えられている権利、自分の幸せを放棄するということ、自分の国民としてのアイデンティティー、国籍としてのアイデンティティーまでも場合によっては放棄しているんではないかと思えるような、最近の成人式の問題でもありましたが、私は悲しい現象だなというふうに思います。
もし、一人一人の日本国民が自分の直接投票で自分たちのリーダーを選べる、こうなったならば、もう少しは関心が行くんではないかな。もしかしたら、今は、どうせ自分が投票しても自分たちのリーダーを決められないということが何か間接的な原因になっているのかもしれないなとさえ私には思えるわけであります。
ともあれ、私は、より自然な姿として、よその国がどうだからではなくて、日本国のために、日本国民のためにそうあるべきであろう。しかも、そんなものは電子投票を使えば一瞬にして集計もできるということであります。
もう一つセンシティブなイシューを申し上げますと、投票の事実上の義務化ということでございます。投票率が低いから偏った票の結果があらわれるというふうに思います。国民の正規分布、国民の声が正比例して投票の結果にあらわれるならば、もう少し違った結果になるかもしれない。特定の団体、特定の偏った人たちは投票率が高い、三無主義になっているような無気力層の人たち、あるいは無言の多数の人たちは投票結果にあらわれていないとするならば、本当に国民の声が正規分布として投票結果にあらわれているんだろうか。
これを、もし事実上の投票の義務化——この事実上のというのは、義務だというと義務を押しつけられるのは嫌だという人はたくさんおりますので、例えば、投票した人には運転免許証を上げます、投票した人にはパスポートを上げます。それが言い過ぎならば、投票した人はパスポートが十年、運転免許証が六年、十年、投票していない人は次に投票したらまた切りかえができます、こうなったならば、今の現実主義の若者の世代というのは、もう急いで投票に行きます。投票率は九九・九%になるでしょう。
おれは国の世話になっていない、そういう不届きな、成人式で酔っぱらうような人たちは国の世話になっていないと思っている若者でしょう。本当に世話になっていないと思うなら、運転免許証要らないんでしょう、パスポート要らないんでしょう。国家があるがために、どれほど我々人間は幸せな生活を送れているのか。国家があるがゆえに、どれほど我々はみずからの生命を、生活を保護されているのか、便利になっているのか、教育も受けることができているのか。こんな当たり前のことがわからない人には、私は、運転免許を取る手続が面倒くさくなるとかいうことをちょっと体験させた方がいいんじゃないかと思うわけであります。そうすると、義務だと言わなくても、自動的にほぼ投票率は九九・九%になるでしょう。そうすると、先ほどの正規分布になる。
しかも、それが、わざわざ公民館に行って投票しなきゃいけない、小学校に行って投票しなきゃいけないというのではなくて、家庭のパソコンから
インターネットで投票できる、家庭のテレビのリモコンで投票できる、コンビニで投票できる、こうなれば、はるかにこれは簡単になるであろうということであります。そうすると、若い世代も余り文句を言わないだろうということであります。
もう一つ、先進国の中で日本と韓国だけが投票権は二十歳以上というふうに定めているということであります。日本と韓国だけが二十歳未満は投票権がない。国の方向を定める選挙の投票権がないということは、まだ考える能力がないと言っているに等しいことだと思いますが、お年寄りで八十歳、九十歳を超えても、一回二十歳を超えてしまえば永遠に投票権があるわけですね。この間聞いたら、病気になって、あるいは思考能力における病気になった人にも投票権はある。でも十八歳、十九歳で、運転免許証も持っていて、立派に仕事もしている人、税金も納めている人に投票権はない。
税金も納めて、仕事もして、そういう人に投票権がない。これは本当に国民の正規分布と言えるんだろうか。先ほど申しましたように、投票していない人、構造的に投票できない人、十八歳と十九歳の人たちはその正規分布の中に参加できない。先進国の中でたった二カ国、そのうちの一つが日本だ。この事実は、もう一度やはり見直すべきではないかと私は思うんです。
そういう人にも投票権があったならば、NTTの
インターネット接続料金が高いとかいうような声も、日本は世界一高い国の一つだというような声も、もっと選挙結果にあらわれるのではないかなというふうに私は思うんですけれども、そういう意味でも、この点はぜひ考え直すべきであろう。
もう一つセンシティブなイシューで、集団自衛権ですけれども、これも憲法論議の中には出てまいりますが、冷戦が過ぎた今、みずからの意思決定で攻撃をするというのは私はやはり行き過ぎなのではないかなというふうに思います。私は基本的に平和主義者であります。ですから、みずからの意思決定で攻めていくということはやはり行き過ぎだろう。せっかくこれだけ
コンピューターの技術が進んで、コミュニケートする手段もこれだけ進んで、
世界じゅうのトップが一瞬にして集まれる、コミュニケートできるという時代が来たのだから、やはりミサイルを撃つ前にキーボードを打つ、この方がはるかに平和的だろう、話し合いもより解決するんだろう、私はそう思うんです。
そういう意味で、みずから攻めるのは反対。仮に世界のどこかの悪い国が世界を破滅させるような悪いことをしようとしている、それは人間社会ですから間違ったことは起きます。そういうときに、警察のような形でこれをとめなきゃいけない。人間を攻撃するのは最小限にして、相手の武器を破壊する、こういうようなことは時には必要かもしれません。でも、そういうのに参戦するのは、あくまでも国連軍にのみ参加する。
こういう意味で、私は、今まで藩の単位、県の単位から国の単位になったように、これから二十一世紀においては、グローバリゼーションということで、
世界じゅうのトップが話し合う。
世界じゅうのトップが話し合う場として、国連のポジション、世界銀行のポジション、IMFのポジション、こういうものをもっと重く日本国は見るべきであろう、
世界じゅうが見るべきであろう、そういう時代が来るであろうというふうに私は思っておるわけです。
ですから、一個人の判断で悪い人を撃ち殺してはならない、攻めてはならないというように、一会社の判断で決めてはいけない、一家族の判断で決めてはいけない。そうではなくて、国によって定められた警察によってそういうのを取り締まるように、国際社会のルールで定めた国連にのみ参加するということで攻撃はする。
ただし、自衛ということに関しては、攻められたときは、国連の意思決定を待っていたらもう国が滅びていたということでは、これは手おくれですから、自分の国を守るときだけはみずからの判断でできて当たり前であろう。参戦するのは国連にのみということで、基本的には、平和主義者の私としては、みずからの意思決定、みずからの判断で勝手に攻めないということは、やはり憲法でもう一度明確にすべきであろう。中途半端なあやふやはよくないのではないかというのが、私の勝手な個人的意見であります。
そういう意味で、先ほど申しましたように、国連の位置づけをもっと大きくとらえて、たまたま私は、先日から、ODAに関することで国連の委員に選ばれまして、
アメリカのルービンさんだとかあるいはメキシコの元大統領だとかヨーロッパ、アジアから私がたまたまどういうわけか声をかけられて行っておりますが、見ましたら、国連というものに対する日本の関与の仕方、世界で二番目にたくさんお金を払っていて、しかもほとんど
アメリカと同じぐらい払っていて、何か
アメリカは時々支払いも滞っているなんという話がある中で、もしかしたら実質的に一番払っているかもしれない日本が、安全保障の理事会の常任理事国にもまだ入っていないということに私は驚きました。
せっかくお金を払って、せっかく世界で二番目の
経済大国としてこれだけのポジションにあるんだから、日本の国の中だけでリーダーシップを発揮するんではなくて、世界でもっと発言する。国連の場に、常任理事国として当然もっと積極的に関与して、先ほどのような
インターネットにおけるセキュリティーの問題、国際的な
コンピューターを使ったハッカー、テロ、これに関しても、もっと積極的に日本がリーダーシップを発揮して発言すべきだし、平和のためにも日本がもっと積極的に、唯一原爆を体験した国として、常任理事国として、国連のあり方として、もっとリーダーシップを発揮してそこで発言すべきだろう。
だから、当然のポジションとして常任理事国にも入るべきだ。そして、その重要なポジションとして、先ほどのように国際的な紛争にはそこを経由してのみ参戦する。そこに重要なメンバーの一人として入っていれば、当然その中でいろいろな発言もできるということになるんであろうというふうに思います。
もう一つは、国際社会への貢献ですが、ODAその他、いろいろ日本はたくさんお金を出している国であるにもかかわらず、本当に応分の認識が世界でされているのだろうか。それから、それは、本当にフェアな形で、本当に世界の平和のために、世界の人々の幸せのために貢献するということにちゃんとなっているんだろうか。単なる政治的駆け引きだとか、あるいは一産業分野の駆け引きだとかということに偏った形に使われたり、あるいは認識されたりしていることが時としてあるんではないだろうか。
そうすると、もう少し世界銀行だとかIMFだとかあるいはユニセフだとか、そういうものに積極的に日本がリーダーシップを発揮して関与することによって、世界からもう少し応分の尊敬を集め、応分のリーダーとしてそこにパーティシペートするということになるんではないか。
そういう意味でも、世界銀行にも、何か専務理事のようなポジションの方がいつも欧米の方だ、日本からは一度も出ていない。この間、国連にも行ってきましたけれども、世界銀行にも行ってまいりましたけれども、なぜかそういうものは全部ニューヨークとかワシントンにある。なぜ東京で一度もそういうようなものができないのか、東京を中心にそういうものが議論の場として行われないのか、私には不思議です。
憲法の中で、そういうことに関してももっと積極的に、日本国民は世界に対して、世界の平和のために、世界の幸福のためにその重要な一員としてリーダーシップを発揮し貢献していくというようなことについても、もう少し明確に触れていいんではないか。そうすると、当然、このような世界的アクティビティーにも積極的に関与するということに、より日本国民が目覚めるんではないかというふうに思う次第であります。
次に、教育ですけれども、先ほど申しましたように、
コンピューターが人間の能力を超えるかもしれないという時代がこの二十一世紀にはほぼ間違いなくやってくるであろうというときに、従来の日本国の教育のあり方のように、丸暗記が九〇%の労力として配分されている。物を工夫する、物を考える、道徳的なことを議論する、物を創造する、助け合う、こういうような人間らしいことについて費やされるのが恐らく一〇%以下で、公式丸暗記型、歴史の丸暗記型、その他さまざまな棒暗記、こういうのに九〇%使われて、入学試験もそういうことばかりテストするという教育のあり方はやはりおかしいんだろう。
人間が
コンピューターを道具として使えるならば、例えば、もし入学試験の会場に、腕時計を学生が持ち込み自由なように、
インターネットの
携帯端末を自由に持ち込めるようになったならば、恐らく二十一世紀には、すべての腕時計の中に
コンピューターチップが内蔵されていて、すべての腕時計は
インターネットにつながっているという時代が来るでしょう。そうなったならば、望む望まないにかかわらず、人間は肌身離さず
インターネットに二十四時間触れることができる。
こうなったならば、丸暗記型の教育よりも、もっと問題解決型、そういうものを道具として使って問題を解決する、人々を助け合う、より幸福を求めて創造していく、そういう時代が来るんではないか。そういう教育のあり方に教育の中身を変えるべきであろう。六・三・三の議論なんか、僕に言わせればどうでもいいことじゃないか、教育の中身を議論すること、この方が百倍も大事だというふうに思うわけであります。
英語においては、どこの国がつくった言葉だということをもう議論するのはいいんじゃないか。もともとイギリスがつくった言葉かもしれないけれども、
アメリカ人は使っているわけですね。
アメリカは最初植民地のようだったわけですけれども、自分の国でつくった言葉じゃないものを平気で使っている。アジアの国々でも、もうそれを使っている。
だったら日本も、せめて第二外国語として、しゃべれる英語、国際社会でリーダーシップを発揮するのでも、棒読みするのではなくて、お互いに議論できる、会話ができる英語教育を小学校一年生からやっていいのじゃないか。ここにおいて国粋主義である必要はないのじゃないか。もう道具だ。
コンピューターも道具、
インターネットも道具、人間がしゃべる言葉も道具、こういうふうにとらえていいのじゃないだろうか。ここに思想というのは余り関係ない、道具としてとらえて教育したらどうかというふうに思うわけです。
そろそろ時間ですが、もうちょっとだけよろしいでしょうか。
移民の必要性であります。
人口がどんどん減っていく日本国。これから一五%も日本国民が減っていく。国の経済は、人間が減ったら、大きくなるということは難しいですね。極端に言えば、日本国民が一人しかなかったら、どんなにその人が頭がよくても賢くても、日本経済は伸びないですね。消費がないですね。一人分の消費では、食べる量だって、車の量だって一台、限られますね。やはり、人口というのは経済の大変重要な基本の一つだ。だから、日本国民が子供を産みたい国にならなきゃいけないし、急にたくさん産めないならば、賢い人間をどんどん積極的に移民として受け入れる。
ITビザ、IT国籍、こんなものがあってもいいのじゃないかというぐらい、シリコンバレーはIC革命と今言われております。IC革命というのは何かというと、インド人とチャイニーズ、その頭文字をとってIC。つまり、シリコンバレーの新しい
テクノロジー、先進的
テクノロジー、この技術者は、最近は大半がインド人とチャイニーズの技術者になってきております。
残念ながら日本国民は、日本民族はシリコンバレーの中では数少なくなっておりますが、
アメリカ人のすごいところは、そういう自分の国に生まれたわけではない人間をどんどん移民として迎えて、あのシリコンバレーの活力を保っている。
世界じゅうから日本国の進化のための知識、日本国の発展のための知識、こういうものはもっと積極的に取り入れるという移民政策についても、もっともっと取り入れるべきであろう。
ちなみに私は、先ほど申しましたように、六、七年前に日本国籍をみずから望んで取りましたが、その前十年間近く、私は日本で運転免許証を持っておりませんでした。
アメリカに学生としていたときは、毎日、
アメリカのカリフォルニアの免許証を持って運転をしておりました。二十二歳か二十三歳で日本に戻ってきて、それから十年間、なぜ運転免許証を持たなかったかといいますと、いずれ私は日本国籍が欲しい、しかし、今までの日本のルールでは、もし私が運転中に事故を起こして、あるいはスピード違反をして、運転免許証の経歴の中にそういうことが記されたならば、私は一生日本国籍は取れないということを知っていたから、用心のために運転免許証を取らなかったのです。
ちなみに、私の弟は、日本で立派に大学教育を受けて、会社も始めて、そして今四百人ぐらい社員を雇って、二十代ですけれども、
インターネットを一生懸命やって、税金も納めて、まだ日本国籍をもらえていません。彼はもうあきらめています。なぜかというと、運転免許証で、スピード違反で一回捕まった。だから、もう自分は一生日本国籍はもらえないと。
スピード違反した日本国民はたくさんいますよね。もちろん、スピード違反がいいとは言いません。スピード違反は悪いことです。悪いことですけれども、スピード違反をしても、成人式を迎えて、日本国籍として投票権も持って、堂々と日本で生きていける日本国民がたくさんいる中で、自分の親の代、おじいさん、おばあさんの代から日本に育っていて、もう何十年も日本にいて、日本で教育を受けて、日本で税金を納めて、でも、たった一回スピード違反をしたために、ほかの友達はみんな日本国籍を持っているのに自分は一生あきらめなきゃいけない。そういう狭い了見で本当にいいのかな。ただでさえ一五%国民が減る日本で、もっと人間をふやさなきゃいけないのに、そういう狭い了見、純血主義でいいのかなと私は思うわけです。
そういう意味で、外国国籍の人に参政権を与えるよりも、何人たりとも、日本国民になりたいと望む人に、しかも資格のある人に、悪いことをしていない人に対しては、日本国籍を与えるということを妨げない。日本に生まれた人だけではない、日本に先祖がいる人だけではない、この国を愛する人には平等に日本国籍を与えるということを
日本国憲法に明確にうたうべきであろう、私はそう思うわけであります。その方が日本国を愛する人がもっとふえるのではないか。
日本国籍を取るときに、漢字で日本国の名前に変えなきゃ取れない。私は日本人で初めて孫という名前のままで日本国籍を取った人間です。これもルールがおかしいのじゃないか。闘って初めて自分の先祖の名前のままで日本国籍を取れる。
日本の先祖の名前のままで外国で大統領にまでなった人がいます。立派にその国で活躍して、日本国の先祖の名前のままで立派にほかの国々で国籍を取って、日本国の名誉を、日本国民の名誉を広げている人々、活躍している人が
世界じゅうにいます。同じように、
世界じゅうからすぐれた人を日本国民として迎えていいのではないかというふうに思うわけであります。
最後に、独占禁止法ですけれども、まだまだアンフェアな状況がたくさんあります。私は、独占企業はいかなる会社もその存在を認めない、それが電力であろうが通信であろうが
交通手段であろうが水道であろうが何であろうが、いかなる企業にもその独占たる地位は認めないということを
日本国憲法に定めるべきであろうというふうに思うわけです。それはさまざまなアンフェアな状況を生む元凶になる。日本国民は決してそれによってより安い、よりよいサービスを受けることにはならないというふうに思うわけであります。
そういう意味でも、私は、独占禁止法というものをもっと重くとらえて、人間が特定の人間に特権階級を認めないように、特権階級の会社があるということはおかしいということが二十一世紀の憲法では明確になるべきであろう。生まれながらにして特権階級の人間があってはならないように、生まれながらにして特権階級の会社があってはならないということを憲法の中に明確にすべきであろうということであります。
以上、私の話を終わらせていただきます。二十一世紀の憲法、よろしくお願いいたします。(拍手)