○東(祥)
委員 外務大臣、研究はどんどんやっていただいていいのです、もう何十年とやってきているわけですから。
ただ、僕が申し上げているのは、
外務大臣個人に申し上げているのですが、現行の憲法解釈というのはそういうふうになっているのです。みんな、それはそれとして、共有しているのですよ。ただ、問題は、もう一度虚心坦懐に戻って、その当時、そういう現行の憲法解釈が行われる背景というのがあるわけです。
小泉総理も言われているとおり、国際事情は激変しているのですよ。当時はまだソ連からひょっとして
日本に侵攻してくるかもわからない、そういう
状況下で、いろいろ国際
状況も全く違ったわけです。今は、もう私が申し上げるまでもなく、世界に冠たる第二位の
経済大国になった。国際
社会に対してもそれなりにちゃんとした、国際の平和活動に対しても参加、協力していかなくちゃいけない、また、そういう息吹というのは
国民の中からどんどんわき起こってきている。また、ミサイルが飛ぶ時代、必要最小限度云々という、もう既に何十年前にでき上がったその解釈で、本当に
日本の
安全保障というのは守れるのですか。そういう時代に入ってきているのですよ。
そのときに、改めて、息子さんにぜひ憲法九条を見させてあげてくださいよ。そのときにどういうふうに読むかということですよ。どこに自衛権、自衛権というのはこれは当然の権利ですから、やられたらやり返す、それに対して、集団であるいはだれかに手をかしてやっちゃいけないとどこに書いていますか、どこから引き出されるのですか。
自衛権は認められるのは当然だ、しかし、集団的自衛権は行使することができない、憲法上。私は、それは政策的判断でそういうことをやっているんだろうというふうにとらえるわけですよ。もう一度虚心坦懐に考えて、憲法上、自衛権は認められるんだ、
自分自身が攻撃されたときに反撃することができる、でも、
自分の極めて緊密な
関係にある国が攻撃されたときにそれはやっちゃいけないとどこから引き出されるのですか。
そういう前提のもとで、今日もう一度改めて考え直してみたときに、私は、憲法解釈、つまり憲法で許されるものと、それから政治的、政策判断としてできるもの、これが常に一緒になって動いているんです。こんなばかなことはないと思いますね。憲法上できるというふうにしておいて、
日本の政治判断としてやらないということはできるわけですよ。やるものはこれですということはできるわけですよ。
そういう考え方というのは、
外務大臣、
外務大臣は極めて頭が柔軟だというふうに僕自身、他人はどうであれ、私はそういうふうに思っているんです。したがって、周りのいろいろな——まさにそこに、僕は本来の、官僚がつくり上げてきた本質的な
安全保障問題における骨幹があるんだと思うんですよ。政治家が真正面からそれに対してメスを入れていないんですよ。小泉
内閣が本当にこの問題に対してやるというならば、それこそ過半数を制しているわけですから。他の連立
政権政党は知りませんけれども。
それから、自民党内においてもこの問題というのはまだまとまっていない。何十年議論するのですか、何十年研究するのですかと。それはまさに
内閣における最大の、
国民の生命と財産を守る、それは官僚との戦いになってきますよ。ぜひ
外務大臣、そこで僕は頑張ってもらいたいという秋波を送っているのですよ、その意味で。できるかどうかは別ですけれども。
でも、普通に考えたときに、虚心坦懐に考えたときに、憲法九条を読んで、どこから文理上そういうものが出てくるのですか。
内閣法制
局長官を呼んでくれば、何百時間にわたってずっと言いますよ、積み上げられてきたことを。そんなこと聞いたとしても、
国民は全然わからないはずです。なぜ私たちは個別的自衛権だけ認められていて、集団的自衛権を行使することができないのですかと。
やるやらないは別ですよ。できるというふうにしておいて、前に、わかりやすい例で
お話ししました。人間
関係でいくならば、だれかがやられている、僕は、他人であったとしても助ける権利、あると思いますよ。行使する行使しないというのは僕自身が決めます。相手が強過ぎる、僕もずたずたにやられてしまう、出ない方がいいかな。しかし、ひょっとして本当に、殴られっ放しで、この人を助けないと大変なことになってしまう、助ける権利、あるはずですよ。
そこまで私は集団的自衛権の論理を拡大するつもりはありませんけれども、
基本的に、憲法九条というのを虚心坦懐に読んだときに文理上、法学者に聞いてもいいですよ、どこに文理上明確な根拠があるんですかと。だれも答えられないと思います。それは政治の判断で、官僚がそのように決めてきた、それを追認してきただけですよ。
やるやらないは別として、憲法上ちゃんと認められる、
内閣がそういう判断をすることによって、もし
内閣法制
局長官が、おかしい、今までの積み上げによってそれを変更することはできないと。首をかえればいいじゃないですか。まさに新
内閣、聖域なき改革断行をやろうとしているわけでしょう。それこそまさにタブーなんですよ。
だから、そこまでいっちゃうと
外務大臣には重荷になるかわかりませんけれども、僕が申し上げていることというのは、これは不自然ですか、論理的におかしいですか。
外務大臣個人として、それによって、それがまた報道されるということはないと思います。
つまり、改革しようとしているのですから、そこにメスを入れない限り、個別具体的なところに何かいったとしても、もとを正していかなくてはいけないわけですから。その部分について、
外務大臣、どのようにお考えですか。