○山本正和君 きょうは、二十世紀もあとちょっとですが、歴代の
官房長官に私の方からずっとお願いし続けておることですけれども、二十世紀の我が日本の国の最大の問題は第二次大戦下における侵略戦争、敗戦ですね。その中で、今なおその傷跡を負っている日本
国民が、あるいは日本
国民との
関係者がたくさんあるということを何とかこれは早く解決していかなければいけないという思いで私はいっぱいでおるものですから、そのことを、これは野中さんのときからずっと続けて言っておりますけれども、旧満州の開拓団の問題なんです。
これは何遍も申し上げますが、国の国策として、当時、一番初めには若い青年を、青年といいますか、まだ未成年の男の子ですけれども、開拓義勇団というものを
編成した。さらには、今度は農家の次男、三男の者を募集して、いわゆるソ満国境にずっと配置をした。一たん有事あれば戦えということなんです。屯田兵と一緒なんですね。そういうことで、国策として満州国境にずっと配置した。ところが、戦争がだんだん厳しくなってきて関東軍の主力もほとんど南の方へ行くという
状況の中で、開拓団におった成人男子はことごとく徴兵されて、ほとんどの者がまた南の方の戦線に持っていかれた。残ったのは年寄りと女子と子供だけで、そこへ敗戦という
事態が来た。関東軍は知らん顔して逃げたわけですよ。逃げたというよりも、いわゆる戦略がありますから、おらぬわけです。じゅうりんに任せたわけですね。その中で残されたのがいわゆる残留孤児なんです。赤ちゃんもおれば、大きい子で小学校の二年生、三年生ぐらいまでの子がおった。その
人たちがずっと今なお中国の東北地区におった。この事実が私は痛ましくてならないんですよね。その
人たちを国がどう扱うのかということです。
これは、
官房長官、私はお父様とかつてこういうことでお話ししたことがありましたけれども、いわゆる大日本帝国当時から国の
あり方等を考えてずっと苦労してきておられた方々はまだこのことに記憶があるんです。ところが、だんだん入れかわってきます。なくなってくるんですね、もうそういうのが。何としてもこれをやっていただきたいということでお願いしてきたんですが、そうしたら歴代
長官も、また続
総務庁長官も、これは何とかしなければいけないなというお話はいつもいただいているんです。
しかし、今度また、これはやっぱり法律をつくるときにはみんなが想定しないことが出るわけですね。要するに、法律をつくって、そういう残留孤児が我が国に帰ってくるときに何とかしようという法律をつくったわけですね。ところが、それは残留孤児が今大きくなって、四十歳、五十歳あるいは六十歳の者もおるんですけれども、そういう人が日本に帰ってくるときに、その
人たちの家族は一緒に帰ってきてもいいですよ、どうぞ日本国籍を取得して帰ってきてくださいと、こういう格好で援護しようとなったわけですね。来るときはだからみんな家族を連れて来るわけですね。
今度、朝日新聞にも報道されたんですけれども、帰るということで厚生省からちゃんと連絡が行った、旅費も払いますからと。そこで、安心してもう向こうで全部現地の財産を売り払ったわけです。そして、いよいよ帰る準備をしておったら、本人が死亡してしまったんです。もう六十歳ですからね。死亡してしまった。そうしたら、その家族が、だから奥さんと子供です。この
人たちがもう帰る用意をしておったんです。日本
政府も旅費を払いますと言ってやっておった。ところが、本人が死んだら、法律上これは国が世話を、面倒を見られなくなっちゃった。これは法律上の私は不備だと思いますね、そういうことを想定していなかったものだから。
しかし、何とかしたらいいじゃないかと、こういうことで厚生省の方もいろいろと苦労してもらっておるようだけれども、結局、日本国籍を取らなければだめですとかなんとかいうような格好で、しかし大変残念なことですという丁重な手紙を厚生省の方からは本人のところへ送ってあるんです。これも私も調べまして、そして朝日新聞の方の取材の方にも聞いてやったんですが。
ところが、現地の中国ではやっぱり問題になっておるわけですよ。日本の国はそうやって面倒を見てくれるというのを、そこまでしてくれるというのがもうだめになるのか、そんなことでと。現地の中国人はわからぬですよ、
意味が。何でそんなひどい目に遭わすのだろうかと、こうなる。
そこへもってきて、この前から私がお話ししていますように、中国で日本人の子供を育ててくれた養父母、貧しいんです、みんな。貧しい中で日本人の子供を育ててくれた。その
人たちは、日本に帰ってくるときに一緒に来た人もいますけれども、残っている人も大分おるわけです。その
人たちに対して、我が国から、本当に
御苦労をかけました、お世話いただきましたということでのお礼の気持ち、これが最初に約束したのがもう二十何年前ですから、十三万円なんです。養育料十三万円払ってちょんなんですよ。あと何やかんやちょこちょこありますけれども、ほかのものが。現実に渡すお金はそれだけなんですね。そういうことでいいんだろうかと。
日本という国が二十世紀、こうやってやってきて、いろんなことがあるけれども、
経済的には
世界の大国です、
経済大国です。その国が、しかも二度とこういう戦争なんかせずに平和な国にしていこうと言っている国がこんなことでいいんだろうかというのが私が
懸念されてならないことなんです。
私どもも、私も実は旧制の中学が満州の奉天一中というところで、先輩には東大の向坊さんという学長もおれば、あの衞藤瀋吉さんもみんな私どもの先輩です。私の中学の同級生というのは、先ほど
警察の話があったけれども、第一線の
警察で、帰ってきたものですから、もう陸軍士官学校がだめになったから行くところがなくて
警察に行ったんです。一人は築地の
警察署長で定年で退職して、一人は四日市の南署で定年退職した。これはノン
キャリアで一生懸命やった。
キャリアもおるんですよ、一人。長野の本部長をして、もう偉い人になって、参議院に出るとかと言ったんだけれども、それはやめちゃったけれどもね。そういうのがおるんですよ。そうしたら、私どもにとってはそういう自分
たちの青春の思い出とかかわって、この国が
一体どうしてくれるんだ、こういうことはという思いに駆られてならないんですよ。
これは、なぜこれが払えないかという理由を今から援
護局長が説明してくれると思いますから、それを聞いていただいて、これは
官房長官と
総務庁長官、ひとつ何とか、これは法律が、有権解釈というのがあるんだから何とかできぬだろうか、有権解釈で
一つは。どうしてもだめなら法改正するか何か特別
措置を講ずるか、
政府としての
政策の中でできぬだろうかと、こういうことをちょっと
冒頭にお
伺いしたい。
それで、援
護局長の方からちょっとその辺のことを説明してほしいと思います。