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参考人(
西部邁君) お招きいただきましてありがとうございます。
時間が限られておりますので、簡単なレジュメを皆様のお手元にお渡ししました。簡単過ぎますので了解は難しいかと思いますが、一応説明させていただきます。
私は、まず第一に、現
憲法が
敗戦日本における
押しつけ憲法だという言い方が長い間ありましたが、それは厳密には正しくない。つまり、
日本は一九五〇年代の初めにとうに独立しているわけでありますから、それ以後も
一言一句この
憲法を変えなかったというところを考えますと、この
憲法の
性格は、要するに、これは私、
冗談半分で言うのでありますが、押しいただき
憲法であるというふうに考えております。
つまり、
自分で内発的に、この内発的というのは
夏目漱石の
言葉でありますが、
自分たち日本国民が内部から内発的に
憲法はいかにあるべきかを考えたのではなくて、ありがたく
占領国アメリカからちょうだいしたそのままの
憲法が今の
憲法の
性格だと考えております。
それは、ほかでもない
日本国民のいわば
敗戦のトラウマ、
精神的外傷による
日本国民自身に対する
自信喪失、あるいは
日本の
歴史に対する
劣等視というものが、今なお姿、形を変えながら継続されている、そういうものの結果が現
憲法の存在だというふうに考えております。
さて、どういうものを押しいただいたかというと、第二に、これはほかでもない
アメリカニズムの
憲法だということであります。
アメリカニズムの説明は大変厄介でありますが、端的に言えば、いわば
個人的自由というものとそれから
技術的合理という、そういうツートンカラーの
価値観に従って
個人が生活し
国家が運営される、そういうものが典型的な
アメリカニズムということだと思います。そういうものをこの
憲法というものが盛大に受け入れたんだというふうに考えられます。
そうすることの
問題性というのは、第一に、
個人的自由のための
秩序というものがどこから来るかということをうまく説明できない。それからもう
一つは、
技術的合理というものをうまく回転させるためのいわば
国民の
良識、ボンサンスというものの
出所が明らかにされ得ないという、そういう重大な欠陥がある。これは私
個人の考えというよりも、後でも若干触れるかもしれませんが、例えばフリードリッヒ・フォン・ハイエクなどの
今世紀最大のいわば
政治社会哲学者と言われている
人たちの、今現在では
常識と化しているそうした
社会観、
国家観ではなかろうかと私は考えております。
さて、若干そのことをつまびらかにするために、戦後
民主主義と言われるこの
憲法に盛り込まれている
最大の
価値について考えますと、実は
デモクラシーを
民主主義というふうに訳すのは、これは厳密に言えば誤訳に近いんですね。つまり、
デーモスのクラティアでありますから、直訳、素直に訳しますとこれは
民衆の
政治というふうに訳さなければならない。つまり、
民衆というのはたくさんおりますので、
民衆という名の多数者が
政治的決定に参加し、そしてその中のマジョリティーディシジョン、つまり多数決で事を決する方式、これが
デモクラシーと言われるものにほかならない。
ところが、それを、これは戦前からではありますが、
日本語で
民主主義と訳したときに、つまり
主権という
考え方が明白に表面に浮かび上がってきている。
ところが、この
主権に関しましては
ピープルズの
サブリンパワー、
人民主権なのか、あるいはナショナル
ピープルの
サブリンパワー、
国民主権なのかという、そういう
論争が実は
フランス革命のときから続いておりますけれども、現
憲法では一応
国民という
言葉はうたってあるものの、
国民の
性格というものが明確に浮き彫りにされておりませんので、全体の
性格からいうと、
人民主権的なそういう文言の連なったそういう
憲法になっているかと思います。
つまり、
国民というのは読んで字のごとくでありまして、国の民でありますから、
国家の
歴史の
英知とでもいうべきものをいわば背負うのが
国民であると。というふうに考えますと、
国家の
歴史の中からいわばスポンテイニアスに、自生的に、おのずといわば成熟した形でもたらされているもの、そういうものがいわば自由のための
秩序となり、そしてその
合理のための
良識となるというふうに考えるほかない。
ところが、そうした
歴史というものの観点を薄らげさせているものでありますから、こういう
人民主権的な
性格を色濃く持った現
憲法においては、いわばその
価値前提というのは
歴史の
英知と切り離されたいわゆる人権などの普遍主義的な
価値観しかここには盛り込まれていない。少なくともそういう
傾きの強い
憲法である。
そこからもたらされるのは、これまたハイエク的に言いますといわゆる
設計主義でありまして、コンストラクティビズムでありまして、抽象的な普遍的な人工的な
観念に基づいて
国家というものをいわば人為的に設計するという、もちろん一番それの典型的なケースが
社会主義でありましたが、
社会主義はもろくも失敗しましたけれども、これは
社会主義が失敗したかどうかというよりも、
社会主義の失敗から学ぶべきものは、そうした
国家を人為的な
理念に基づいて設計するという、そうした
社会哲学、
政治思想のいわば
根本的誤謬というものをそろそろ
日本人は学ばねばならないというふうに私は考えております。
さて、若干もうちょっと詳しく言いますと、いわば戦後においては
権利という
言葉とか
観念がいわば大流行のまま半
世紀たっておりますけれども、もともと
権利というのは法律的に定義いたしましてもいわば法によってなすことを許されている自由の
可能性ということでありましょうから、問題はいわば法というものがどこからやってくるかということであります。
大まかに言いますと、法のいわば
出所というのは三
種類ございまして、
一つは、そこに書いてありますように、いわば
ピープルの
欲望が法の
根本となるのか、あるいはその
ピープルの中の特殊な人種である広い
意味での
知識人が人為的に考え出した理論、
理念というものがいわば法の
前提となるのか、はたまた長い何百年、何千年という
歴史のいわば
流れが分泌、成熟、堆積させてきたウイズダム、
英知とでもいうべきものが法の
根拠となるのかと、こうした三
種類の
考え方があろうかと思いますけれども、私は結論的に言えば最後のものしか、これは私が考えるというよりも、もう百年がとこ前から
世界の言ってみれば
歴史哲学あるいは
法哲学の主流はそうした
歴史の
英知こそが法の
根本前提となるのだという強い
傾きのもとに
流れている。ところが、残念ながらそれが
日本の
知識人においては一向に敷衍も普及もさせられていないというところが問題かと思います。
つまり、例えば現
憲法の第一条に、
天皇の
地位は
国民の
総意に基づくというふうに書かれておりますが、ほかでもないその
国民の
総意というものをどういうものと考えるべきか。現在、たまたま紀元二〇〇〇年に生存している
人々の多数の
意見がその
国民の
総意をあらわすのか、あるいは何十年、何百年あるいは何千年、あるいは今後とも、将来も予想される
国民の
歴史の
流れがいわば方向づけるものが
国民の
総意なのかというふうに考えた場合、私はやはり後者をとるべきだと思います。
したがって、
天皇論に限定して言うならば、
天皇の
地位を支える
国民の
総意というのは、今現在、多数の投票がどうということではなくて、
日本の
歴史の
流れが示す
総意であると考えれば、ほかの普通の
言葉で言えば、
天皇の
地位は
日本の伝統の
精神に基づくというふうに書かれているのだと
解釈すべきであるというふうに私は考えております。
ついでまでに、本当に
知識人の
知識というのは進歩しているのか退歩しているのか全く怪しいことでありますけれども、かつて明治の初めに
福沢諭吉は
権利という
言葉を
日本語でここに書いてありますように
権理という字を使ってやったんですね。ここに示唆されている
意味は、実は
権利というのは人間の
欲望からくるのではなくて、やはり
ことわりを持った、つまり正当な
根拠があったものが、それを
人々が
自分の行動とか欲求とした場合に、そういう場合にその
権理となるのだと。つまり、
ことわりはどこからくるかということを議論しないままに、
人々が切実に欲することが
権利だとすれば、それは単なるいわば
人民の
欲望の解き放ちにしかなり得ない。そして、現
憲法にはそういうふうに思わせる強い
傾きがあるのだということをそろそろ確言すべきだと思います。
ついでまででありますが、語に及べば、
国家という
言葉自体この国ではまだその
解釈が定着しておらない。例えば、これは現政権に対する批判のようで恐縮で、ちょっと
見当違いの
発言かもしれませんけれども、
日本を
電子国家にするという、そういうテーゼが
知識人の勧告、提案のもとになりましたが、ほかの国では
電子国家という
言葉を使うとしても
エレクトロニクスステートという
言葉を使っているんですね。
ステートというのは、この場合
政府というメカニズムあるいはインスティチューション、機構のことでありまして、しかしながら
日本語で
国家と言ったときには、やはりここに書いておりますように、何というか
国民と及びその
国民のつくり出す
政府というそういう両方の
意味がある。
そうすると、そういうことを含めて
電子国家と言ってしまうと、これまた
冗談みたいな話でありますが、これから
電子国民になりましょうと。私は、これは小さい声で言いますけれども、
電子国民と聞いて思い出したのは、やはり
ヘッドギアをつけたそういう
人々のことでありまして、よくもまあそういう
国家という
言葉一つ厳密に規定しないままに、
日本の
知識人なり、小さい声で言いますが
政治家の
皆さんは
電子国家などという途方もない
言葉をこの国にはやらせるものだと。これもまた
憲法の中にそういう病原があるのではないかというふうに私は思っております。
さて、先へ進まなければいけませんが、焦眉の課題である第九条については、これはくどくど言う必要がないかもしれませんが、
根本的な問題は第二項にございまして、この第二項は
皆さん御存じのように、「
前項の
目的を達するため、
陸海空軍その他の
戦力は、」「これを認めない。」というふうに書かれておる。
ところが、
前項の
目的とは何かといったら、これは言うまでもなく、
パリ不戦条約、
ケロッグ・ブリアン条約の全くもう
世界に普及した
解釈といたしまして、
侵略戦争はしないという
意味である。そうすると、第二項の
意味は、
日本語を素直に読めばというよりも、どこをどう読んでも普通の
日本語の理解からいえば、
侵略戦争をしないためにいわば
陸海空軍その他の
戦力はこれを保持しないという文章としか読めない。
ということをもう一押し言うと、実は
日本人には
侵略といわば
防衛、
自衛というものを区別する能力がないか、あるいは仮に区別したとしても
日本人というものは
自衛を口実にして必ず
侵略に持っていくという、何というか極めて好戦的な
民族であるということをみずから認めるか、あるいは
日本人は
侵略と
自衛を区別できない極めて愚かしい
民族であるということを認めるか、仮にそうだといたしましても、そういうことを
憲法のど真ん中に宣言して独立しようというのはとんでもない
国民だということを、私は高校生のころからでありますけれどもつくづく考えておりますが、もう
還暦を過ぎましたけれども、よくもまあこうした
日本語が半
世紀間も続いているものだというふうに、私は実に嘆かわしいと思っていますが、しかし、半
世紀も続いたものを今さら嘆いてもしようがないので、私の
還暦を過ぎた心境から言えば、もうほとんど九九%あきらめの境地で生きているという、そういう
知識人であります。
さて、あと論ずべき点は本当にたくさんあるのでありますけれども、時間が限られておりますから、さらに先へ先へと……。
その前に、今のことに触れて言えば、次のことぐらいはそろそろもう
常識として、
良識と言わなくても全くコモンセンスとして押さえなければいけないのは、例えば
個別的自衛が
集団的自衛と
関連していないわけはないし、集団的な
自衛が
世界全体におよそかかわるいわゆる
国際警察と
関連していないわけはないし、この
関連というのはもちろんストレートであるかどうかというのは時代とか状況によりますし、またそのかかわりがどういうものであるかということも状況依存的ではありますけれども、しかしながら、
個別的自衛は認めるが
集団的自衛は認めないとか、
集団的自衛までは認めるが
国際警察はどうのとか逆はどうとか、これは真っ当な大人でありましたならば、この三者の
関連をいわば検討することが何というかアルファでありオメガであるのだと、これを分断するということそれ
自体の中に戦後
日本人が
自国の
防衛というものを真剣に考えていないということが示されているのではないかというふうに考えております。
それから、ここには書き忘れたかもしれませんが、私は、九条を改正する
段階には、はっきりと
日本国民には
国防の
義務これありということを明記すべきだと思います。これは全くこれまた
常識に属することだと思いますが、それを
兵役の
義務とかという形まで特定化する必要は毫もないかもしれませんが、しかしながら、
国防の
義務という、何というか
兵役につくかあるいはそれを後衛から助けるか云々、あるいはいわば
社会奉仕としてそれに参加するか、いろんな場合はありますでしょうが、いわば
考え方といたしましたら、
日本国民である以上
自国の
防衛に貢献する
義務これありと、そのことを明記しないで国を建てようというのはやはりとんでもない
国民であるというふうに考えております。
これは五〇%以上
冗談で言うのでありますが、こういうことを考えますと、戦後
国民の大多数の傾向というのは、
英語で言うと
ノン・ナショナル・ピープルかというふうに私は考えておりますし、
ノン・ナショナル・ピープルを
日本語に直訳してみれば非
国民ということになるのかなというふうに心の中でひそかに考えておりますけれども、これ以上言うとまた野党の
先生の
皆さんから後で絡まれるかもしれませんので
冗談はこれぐらいにしておきますけれども。
先へ進めまして、あと五分で終わらなきゃいけないんですね。いろんな論ずべき点はありますが、私は第二十条について、いわゆる
政教分離ということにつきましては次のように考えております。
もちろんこれは、
欧米であろうがアジアであろうが現実的な
意味で、例えば
国家と教会が、
政治と
宗教がいわば現実的な
政治活動で合体したり濃厚に直結するということはこれは当然避けなければならないことでありましょうが、少なくとも
憲法論議の
段階で言うのならば、
憲法というのは
国民の
規範を示すものである。当然ながら、
規範を示すためには
価値を論じなければいけない。そして、
宗教とは何ぞやといえば、いろんな
宗教はございますでしょうが、少なくとも
国民が持つべき
価値は何かということに関して論じるのは、
宗教である以上、私は、
根本的な
次元で言うのならば
政治と
宗教というものが当然つながっていないわけはない。
ということは、逆に言いますと、仮にいわば
政教分離を論じるといたしましても、いわゆる現
憲法の二十条における
宗教活動の禁止のこの場合の
活動というのは、
英語の
草案でいいましても、この
草案を出さなければいけないというのはばかげたことでありますが、ともかく
草案でいきましても
アクションという
言葉になっておりまして、レリジアス
アクションということになっておりまして、
アクションという
言葉は言うまでもなく能動的な、積極的な
活動ということを指す。
つまり、具体的に言うのならば、
宗教教育とかその他のいわゆる洗脳、今風に言えばいわゆるマインドコントロール的なそうした積極的な
活動を指して
宗教活動、そういうものは当然ながら禁じなければならないということでありましょうが、いわば
憲法的次元における
価値論、
規範論として
宗教論議を持ち出していけないということは、結局のところ
政治の
世界からいわば
価値論争というものを放逐するものでありますから、そうした
価値論争を抜きにした
政治論議というのは、しょせん戦後
デモクラシーの世の中ではその時々のいわば多数のしかもいっときのファッションにすぎないことが、極めて多い世論なるものに
政治全体を売り渡すという
意味で、いわば
デモクラシーの堕落を招く
一つのきっかけにもなるというぐらいのこととして
憲法二十条論議を私は始めていただきたいというふうに切に思っております。
さて、あと三分で終わらなきゃいけませんが、第十二条、第十三条あたりにおいては、自由というものを制限するものとして、いわゆる公共の福祉、公共の福祉に反しない限り云々といった文章がありますが、ところがこの
憲法において大問題なのは、一体この公共の福祉というものの
前提なり
根拠なりがどこにあるかということが一切明記されていないどころか示唆されてもいない。そうなってしまうと、現
憲法の全体的な
性格からいいますと、公共の福祉というのはその時々の
国民のいわば多数派の
人々が
欲望することが公共の福祉になるというふうにしか
解釈できない。これこそいわば衆愚
政治の始まりであります。
結論だけ言いますと、私はパブリッククライテリオン、公共的基準というのはどこから来るかというと、その時々のいわば生存しているジェネレーションの
意見とか
欲望が公共の福祉を直接に指し示すものではなくて、むしろやはり先ほど最初に申しましたように、その国の
歴史のあり方というものが基本的に指し示す方向、それがパブリッククライテリオンとなるのだと。もちろん、そういう
歴史が指し示すものがどういうものであるかを論じるのは現在世代のみでありますけれども、しかし、その現在世代の議論の内容が、そうした
歴史的なことに言及しないような、そういうことに、繰り返しそこから出発し、そこに戻っていかないような議論から公共の福祉が論じられるような戦後の風潮というものは全く嘆かわしいというふうに考えております。
あと一分、もう過ぎたかもしれませんが、あと、例えば緊急事態に関する
根拠が示されていないとか、あるいは地方自治がうたわれているけれども、一体その地方自治とは何ぞやと。
結論だけ言いますと、私は、今現在この国にいわばしょうけつのように荒れ狂っている一方におけるグローバリズムと他方におけるローカリズムの両極分解ぐらい危険なものはない。
はっきり申しますが、
世界に対しては
日本人はあくまで、
英語で言えばインターナショナルな、つまり国際的な構え方を持つべきものだと私はまず思う。つまり、グローバリズムとインターナショナリズムというのは実は全く違うものなんですね。インターナショナリズム、
日本語に訳して国際的というのはこれは読んで字のごとくでありまして、異なった国があって、その間のインター、間柄をどうするかという、あくまでそういう各国の
国民性というものを重んじたのがいわばインターナショナリズムでありまして、そういうものを重んじないのがグローバリズムだとやはり考えざるを得ない。現に、ヨーロッパではそういうふうに
解釈すべきだという
意見が日増しに強まっていると私は受けとめております。
これは実は国内においてもそうでありまして、ローカリズム、地方主義といいますけれども、地方がほかの地域と連結、関係していないわけはないわけでありまして、そうなら論ぜられるべきは、ここに書きましたように言ってみればインターリージョナルな関係こそが論じられるべきであって、そしてインターリージョナルな関係を全体としてどうするかというのはあくまでいわば中央
政府が強かれ弱かれかかわらざるを得ない問題である。
そうした要素を排除して、言ってみれば
国家分解をもたらしかねないような、言ってみれば分権主義としてのローカリズムというものをこの
憲法に基づいて吹聴するのは、やはり
国家観なり人間観なり
歴史観なり文明観なりの
根本的誤謬であると私は深く確信している次第であります。
時間が来ましたので、ありがとうございました。