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小田参考人 本日は、お招きいただいて恐縮でございます。存じ寄りを述べさせていただきます。
本日の午後の法務
委員会の審議では、神戸幼女・小学生連続殺人事件の被害者土師淳君の父君、山形マット殺人事件の被害者の父君児玉昭平さんの両父君が
参考人として
出席して、遺族の立場から
参考人陳述を行うことになったようであります。ようやくここまで来たかというのがこの報道を聞いた国民の大多数の
意見だろうと思います。
少年法改正について、平成十二年六月にテレビ朝日の「ニュースステーション」が行った電話調査では、
少年法のより厳しい方向での
改正を望む世論は九三%に達しておりました。どの調査でも、八〇%を割っているものはありません。これは、本年に入ってからの衝撃的な
少年事件の影響であるとは言えないのでありまして、新情報センターが長崎功子氏の依頼によって平成十年に行った調査では、全国千三百五十人の成人中、
現行少年法を寛大過ぎるとする者が七五・一%、
改正すべきだとする者は七三・六%に上っていたのであります。
およそ、一般の国民の沈黙の多数派、政治的にはこれはサイレントマジョリティーというんでしょうが、その声と
少年法学者、弁護士団体、一部の
精神科医、教育評論家、一部大新聞の論説など、識者と称する人たちのような、これは政治用語ではないので私の造語ですが、声高な少数派、ノイジーマイノリティーの声がこれほど根本的に食い違っている争点は少ないと思います。
では、多数国民の
意見は理性を欠いた感情的な発言にすぎないのでしょうか。過去四十年間、医療
少年院、
少年鑑別所の技官として、あるいは
精神鑑定人として、及び
犯罪精神医学
研究者として、
実務と
研究に携わっていた
経験から、現在述べられている論点について検討してみたいと思います。
まず、個々の事件をとらえて
少年法の
改正を論じるのは短絡かということです。
少年による凶悪事件を契機にしてこの問題が論じられていて、法制審議会
少年法部会が問題を提起してから既に四半世紀以上を経過しています。そのたびに、いわゆる識者の声ばかりが大きく報道されて、問題点は封印されて、有効な対策は封じ込められてきました。決して唐突に浮上してきた問題ではないんです。
第二に、
少年犯罪はふえていないという報道が、最近、キャンペーンとして多くなされているんですが、第二次世界大戦後、
少年犯罪は、二十六年をピークとする第一波、三十七年をピークとする第二波、五十八年をピークとする第三波、これを記録しておりまして、そのたびに、第一波より第二波、第二波より第三波とピークが高くなっています。平成八年以来の第四波はまだ上昇の傾向にあって、これを現
時点で阻止する必要があるのです。
さらに、この
改正案は、
少年犯罪全般に対して重罰を企図するものではありません。犯行が重大で、被害者及び遺族の打撃が深い事件について条理にかなった処分ができないという現状に
対応するのが主眼であります。しかし、
改正によって、
少年犯罪であっても、従来のように二十歳になるまで何をしても大丈夫という
少年犯罪に対するいわば自由通行証を与えられているという錯覚を
少年たちから取り去るという、信号作用というんですが、そういう効果は十分に期待できると思います。
それから、
改正案は
少年法制定の趣旨に反するかということなんですが、反対論の立場に立つ者は、
現行少年法制定当時の
立法、運用に携わった
学者、
家庭裁判所関係者、矯正職員等のうち、
改正反対の立場に立つ人たちを捜し出してこのような発言を引き出して、これらの人々の
意見を聞けと主張するのですが、しかし、その一人である元
家庭裁判所の判事さんは、
現行法が、
GHQの中のリベラル派によって、米国でも行われていないほどの無罰主義の実験を行おうとしたものであるという経緯を図らずも明らかにしています。
現行法が
参考としたと思われるのはイリノイ州法でありますが、一九八〇年代の
少年非行の激増、悪質化に伴い、各州は続々と法
改正を行って、
少年犯に対する強硬政策、タフポリシーと彼らは呼んでいるようですが、に転じています。
我が国の場合、
昭和二十年代の
少年非行対策は、戦災
孤児、貧困、周囲の理解欠如、欠損家庭等、まず理解と
保護が必要であるとされたんだ、そういうことには理由があるのですが、その後の情勢変化、つまり
少年非行が年少化して、一般化して、そして思春期が早発化して、例えば十三歳でも従来だったら十七歳で起きたような
犯罪が起きる。それから、青
少年犯罪の原因が快楽追求的、愉快犯的、劇場
犯罪といって、むしろ
犯罪が報道されることが本人にとって快楽であるという
犯罪になっておりまして、これらは
保護一点張りの方法にはなじみにくいと思います。
さらに、
少年たちは成人以上に情報人間化していまして、これはもうITの普及なんかを見てもよくわかりますが、この程度の行動に対するどの程度の処分があるかという相場にはむしろ成人以上に敏感です。
それから、
少年の心を理解し、カウンセリングを導入することはもちろん必要ですが、重大
犯罪を起こしたような事例では、事後に検討してみても、例えば神戸小学生・少女殺傷事件が典型的ですが、従来的、一般的なカウンセリングの方法では
犯罪を防止できません。児童相談所でのカウンセリング続行中に土師淳君の殺害が起きております。これには法
改正を伴う専門的方法が必要で、
現行法をそのままにする口実にカウンセリングの必要性を持ってくるということは妥当とは言えません。
非行
少年を安易に刑事罰にして、刑務所に送って刑務
作業をさせる、これは
一種の切り捨てじゃないかというのは時に専門家からさえ聞かされる
意見ですが、これも実情を見ての
意見であるということはできません。一般に非行生活を重ねた上で収容されることになる特別
少年院と、場合によっては初犯で、しかも重大
犯罪を犯した者が収容される
少年刑務所では、後者の雰囲気が格段に穏やかであります。収容期間が長いために十分な処遇が可能であることはよく知られています。
例えば、岡山県長船町で発生した、十七歳の高校生による金属バットを用いての母親と下級生の殺傷事件の場合、特別
少年院送致という処分は、恐らく本人にとって最も残酷な処遇で、
少年院の方が本人の心理状態を酌み取っての専門的な処遇ができるという家裁決定に対する賛辞が寄せられたのですが、実は、家裁が
検察官の逆送
意見を無視して、一連の重大な
少年事件についてあたかも意地になってでもいるように不送致決定を続々と出しつつあることについてのいわば
改正反対派の勝利宣言だ、それにすぎないと言ってもいいと思います。
重大事件についての原則逆送の規定は修正されるべきか。この
意見はあるのですが、しかし、この規定は今次
改正案の背景で、この点を欠いては今次修正案はほとんどその意義を失うと言っても過言ではありません。法制審議会、植松正部会長の
少年法部会が
少年法改正案をまとめた際、
少年非行に対する
検察官先議の是非をめぐって最高裁家庭局と法務省との間に所轄の争いが生じ、
改正反対運動の中で家裁
関係者の中に意識変化が行われていたとおぼしいのですね。
検察官の送致
意見と家裁の決定がはさみ状に開いてくる傾向は既に始まっています。
例えば、
昭和五十七年ですが、
検察官は年長
少年の殺人、強盗事件、凶悪事件について四六・五%の
検察官送致
意見をつけ、家裁は二〇・二%についてこれを認容していますのに、平成十年では、検察が二四・二%について逆送
意見をつけているのにすぎないのに、家裁は、これは年長
少年で、しかも殺人と強盗なんですけれども、八・二%しかこれを認容していません。つまり、一九九〇年代後半に、
検察官は、これを幾らつけてもむだだというので
検察官送致
意見をつけるものの比率を急激に引き下げているのです。にもかかわらず、家裁による認容数は上がっていません。
名古屋家裁は、あの五千万円恐喝事件の主犯格の
少年でさえ中等
少年院送致、つまり、これはせいぜい一年ないし長くても二年で出てくるのでありますが、そういう処分にしています。
殺人、強盗のような凶悪犯についても、年長
少年の結局一四から一七%しか正式裁判を受けていません。殺人、強盗を犯しているのに、実はその半数前後が
少年院にさえ送られることなく、そのまま
社会に出ているのです。とりわけ、おやじ狩りと呼ばれる強盗傷害事件に対する処分が法外に軽いのは、家裁が非行進度と呼ばれる独善的な概念を用いて、おもしろ半分でやったという非行
少年を見逃すのが
少年保護だとしてきたからではないでしょうか。
一連の重大な
少年犯罪が多発し、それについての処分が軽過ぎます。
少年法自体、
保護主義に凝り固まっている上に、その運用そのものが、世間の憤激や被害者の怨念に少しでも耳をかすのは古風な応報主義だとする
少年法学者や家裁
関係者などの、いわば現行
制度になじみ過ぎた人たちの主張に操作されてきたからではないでしょうか。僕はこういう人たちを家裁マフィアと言っています。
改正少年法によって
少年非行を実際に減少させるためには、家裁そのものの再検討、
関係者の再教育が必要になってきているのじゃないかと思います。
厳罰主義は
犯罪を減少させないかという問題なんです。
厳罰主義は
犯罪を減少させないということはあたかも自明のように言われているのですが、それはたとえどんな権威の口から出たものであっても、どんな尊敬すべき方がそのことをおっしゃっていても、最近の
犯罪研究の結果も実践も無視した考え方です。
米国の事例で最も顕著だったのは、
犯罪のるつぼであったニューヨーク市の市長選で、前の連邦
検事であったルドルフ・ジュリアーニが当選した後の変化です。彼は
犯罪、非行に対するタフポリシー、強硬政策を採用することを公約して、それを実践しました。実は、米国の
精神医学や心理学の学説はそれ以前から水面下で変わっています。従来多く唱えられていた欲求不満攻撃説、つまり欲求不満があるから人は攻撃に出る、欲求不満を取り除くべきであるという力動心理学的な、
精神物理的な考え方だったのですが、これは衰退しています。一般に
精神物理的な考え方が衰退して行動主義が表に出ているのですが、人間はその行動によって期待される正のインセンティブ、これは賞ですね、それから負のパニッシュメント、罰によって支配されるという行動主義心理学の方が優勢になりました。
ジュリアーニ市長は行動主義心理
学者のブロークン・ウインドー・セオリーを採用しました。つまり、ガラスにハンマーで一撃を加えて都会に放置しておきますと、例えばビュイックのような上等な車を放置しておきますと、その車はあっという間に略奪されてスクラップになります。窓に一撃を加えなくたって、い
ずれ車上盗に遭いますが、まずこの車からやられる。窓の小さな穴がより大きな穴を呼び込むのでありまして、
犯罪についても同じで、懲罰と摘発が
犯罪を制するというので、ニューヨーク地下鉄の落書きやかっぱらい、おやじ狩り行為など、
少年がよくやる軽い
犯罪に対しても一斉検挙が命じられたのであります。
これは従来のリベラル派的
少年犯罪とは正反対の方針でありますけれども、これによって
少年犯罪も凶悪
犯罪も、そして
犯罪一般も急減しました。殺人事件は、ピーク時の一九九〇年は二千二百六十二件あったのが、九八年には三分の一強の六百二十件。ジュリアーニ市長は、ニューヨークは人口百万人以上の都市の中で最も安全であると胸を張っています。その結果、郊外に脱出したミドルクラスの都市へのUターン、観光客の増加で税収も増加し、市の財政は黒字に転じています。
犯罪率の低下は、麻薬の封じ込め、警官の増員、連邦、地方政府の
犯罪撲滅への強い政策が背景にありますし、その効果は全米に波及しておりまして、米国は一九六〇年代の
社会の安全性を回復しつつあると言われています。
それから、やはりこの「だけでは論」というのが問題なんです。
この期間は米国では、一方では、米国民統合の象徴であると
アメリカの政治
学者が言うところの大統領、そのころはクリントン大統領なんですが、そのスキャンダルに注視していた時期でありますし、当時のギングリッチ下院議長が指導する
アメリカの約束という政策で福祉予算の少々乱暴な削減が行われた時期でした。
これらはい
ずれも望ましくないことであることは確かですが、
犯罪・非行対策だけでは
犯罪はなくならない、
大人がまず身を慎むことが大事だという「だけでは論」に対する反証にはなり得るだろうと思います。
大人が身を慎むことも、福祉的な
社会をつくることも、それ自体望ましいことであるかもしれませんが、
理想的な
社会ができるまで非行対策はむだであるというのではかえって
社会の崩壊と解体をもたらします。福祉
社会のスウェーデンでは、
犯罪白書によりますと、人口当たりの
犯罪率は実は先進国中最も高いのであります。
犯罪、非行、触法
精神障害者に対する対策はそれ自体として行わなければなりません。タフポリシーはそれ自体有効であるということが示されました。
米国における
少年数の減少を
犯罪・非行率の減少は上回っています。経済の好況に原因を持っていくことも実はできないのです。好況によって減るのは窃盗を中心とする財産犯でありますが、
少年犯罪、凶悪犯は減らないというのは従来の通例で、今回はそういうことはなかったのであります。
今後の問題点なんですが、与党三党は、低
年齢化をする
少年犯罪と
対応して、十分な捜査と処遇が行われるように、刑事罰可能な
年齢を十四歳に引き下げることを
提案していらっしゃいます。
思春期が早発化して、それによる
少年犯罪の態様が変化しています。これは十三歳の
少年の
犯罪が続発した二、三年前の状況を考えてごらんになったらおわかりになると思いますが、これは児童自立支援施設、厚生省管轄、旧教護院の現況でそういう凶悪な
少年を処遇することは非常に困難であるということに配慮して、この困難であるということは私は
自分で診察して知っています、下限の
年齢は十三歳でもいいと思われますし、
精神医療が必要な事例に入院や通院の義務を課するという医療的
保護観察の
制度を導入することも望ましいと思われます。
犯罪の
責任を自認させ、自覚を促すという
意味で、
少年法の二十二条「
審判は、懇切を旨として、なごやかに、これを行わなければならない。」という規定を
改正するというのは極めて妥当なのですが、厳正かつ和やかにと修正した方が望ましいと思いますし、六十一条の実名報道禁止の規定を、特に公益上必要であると考えられる場合を除いてと限定する案も検討されることが将来考えられると思います。
何より重要なのは、被害者及び遺族から検察
審査会法に基づく請求ができ、それによって、
検察官不送致となった事例を含めて再検討の可能性を開いておくことでしょう。被害者
保護といっても、それはカウンセリングの名のもとに、被害者を言いなだめて復讐心理を捨てさせるものにすりかえられてはなりませんし、情報が与えられても、それに対して遺族はそれ以上何もできない、手も足も出ないというのでは、被害者遺族の無念と歯ぎしりの種は増すばかりだからです。
どうもありがとうございました。(拍手)