○櫻井
参考人 櫻井よしこでございます。きょうはお招きをいただきまして、ありがとうございます。
憲法調査会で二十一
世紀の
日本のあるべき姿を論じてほしいという依頼がございまして、お受けいたしました。
憲法については私は全くの素人でございます。
学者でもございません。いろいろなものを取材して書く立場でございますから、専門的な
論議というものはなかなか荷が重うございますけれども、
日本が二十一
世紀、どのような姿であった方がいいのか、またどのような姿になるように国際社会が動いているのかということについて、まずお話をしてみたいと思います。
正直に申し上げまして、二十一
世紀の
日本は、長い目で見れば大変すばらしい国になり得ると思いますけれども、当初は、少なくとも、ほかの国に比べて、より多くの困難に直面するのではないかという気がしております。これは、二十
世紀の後半にかけまして、私
たちの国が、改めるべきことを改めてこなかった、改革すべきことを十分には改革してこなかった、学ぶべきことを十分には恐らく学んでこなかったということが原因ではないかというふうに思います。
ただ、
日本の二十一
世紀のあるべき姿というのは、こうした課題を乗り越える姿でもあるのではないかという感じがしております。その乗り越えるときの私
たちの方法というのは、二十
世紀では及びもつかなかったような透明なプロセスをもって多くの問題を乗り越えていくべきであろうと思います。私
たちがデモクラシーと呼ぶ政治にふさわしいような、極めて透明なプロセスと公正なプロセスというものを何よりも大事にしなければならないというふうに感じております。夢を実現していくとともに、
日本を
日本たらしめている
文化や
歴史も大事にしていかなければならないと思います。
この点は、戦後の
歴史の中で、私
たちは、前を見過ぎるということによって、後ろを振り向くということを余りにもしてきませんでしたけれども、人間の営みというのは、きのうからきょうへ、きょうからあしたへというふうにつながっているわけですから、
日本自身が歩んできた
歴史というものをもう少し落ちついて考えてみることも必要だろうというふうに思います。
二十一
世紀の
日本がどうあるべきかという
論議は、この
憲法調査会で議論をなさっておられます
憲法のあり方にもかかわってくることでございます。むしろ、その根幹に横たわっているのが
憲法問題であろうかというふうに思います。
ただ、すべてのなすべきこと、取り組むべき課題が直接
憲法にかかわっているわけではございません。一部は
憲法に絡まり、他の部分は法律や条例で十分に対処できる部分もあろうかというふうに思います。根本の
理念というものは
憲法にあるにしましても、二十一
世紀の
日本が歩むべき道を切り開く手段というのは多層的に探っていかなければならないと感じるゆえんです。
二十一
世紀の
日本の姿は、二十一
世紀の国際社会の姿と密接に関連しているわけですから、国際社会がどのように変わっていくであろうかということを考えなければならないと思いますが、そのときに、象徴的に二十一
世紀の国際社会の政治を示すものがあるとしたら、九九年、私
たちが目撃したコソボ紛争の中にそれが凝縮されているように思います。
コソボ紛争は、
日本人にとっては何か遠い国の出来事のようでございました。ユーゴスラビアという多
民族国家の成り立ちが、私
たちにはよくわからない面がございます。地理的にも遠くにございます。しかし、このコソボ紛争こそが二十一
世紀の政治のあり方、国際政治のあり方の
一つの軸を示しているような気がしてなりません。
もう政治家の皆様方には釈迦に説法だと思いますけれども、コソボの紛争を極めて短く振り返ってみたいと思います。
コソボというのは自治州でございまして、およそ二百万人の住民が住んでおりました。その二百万人のうちの大体九五%くらいがアルバニア系と言われております。この上に立っていたのが旧ユーゴスラビア政府でございますけれども、ミロシェビッチさん、もう既に退陣をなさいましたが、セルビア系の政府でございます。
アルバニア系の住民
たちは、一九八九年にベルリンの壁が崩れたときから、
自分たちの独立の可能性を探り始めました。それに対して、セルビア系のミロシェビッチ政権は、大変な弾圧を加え続けました。NATOも
アメリカも、セルビア系の政府に対して、そのような力による弾圧は許されないとたびたび警告をしてきましたけれども、セルビア系の政府による弾圧は続きまして、八九年から九九年までの十年間に二百万人のアルバニア系の住民が百三十万人から百四十万人に減ったという統計が出ております。
六十万人から七十万人は一体どこに行ったのか。弾圧を逃れて近隣の諸国に逃げていった人々、及び虐殺されていった人々、それが六十万人から七十万人というすさまじい数になりました。
九九年の一月の中旬に、コソボのラカックという小さな村がございます、
日本でいえばこれは過疎の村のようなところなんですが、このラカック村の住民四十八名全員が殺されているのがわかりました。これが
アメリカ及びNATO諸国の態度を硬化させまして、ミロシェビッチ政権と交渉に入りましたけれども、この交渉は決裂して、それが三月二十四日の空爆につながっていったことは皆様方が御承知のとおりでございます。
この空爆は、
アメリカ、
イギリス、フランス、カナダ、
ドイツ、イタリアなどが中心となりまして、ほかのNATOの諸国はお金などを出してこれを支援いたしました。
このNATO十九カ国による空爆は、今までの国際紛争に対する介入の仕方とは大変異なっておりました。国連の総会で一度も討議しないで、国連の決議を得ることがなしにこの空爆が行われました。これがイラクに対する多国籍軍の空爆とは大きな違いでございました。
あの多国籍軍の空爆は、国連総会で何度も討議をいたしまして、十二本の国連決議を通しました。十二番目の決議はイラクに対する最後通牒ともいうべきもので、これに対する反対は二カ国、キューバとイエメンでございました。棄権したのが一カ国、中国でございました。ロシアも含めて賛成をしたのがイラクに対する空爆でございましたけれども、コソボに対する空爆は国連の決議なしで行われましたので、国際法の手続からいうと、これはとんでもない空爆でございました。にもかかわらず、この空爆を圧倒的に
世界じゅうが支持したことの意味を私
たちは読み取っていかなければならないと思います。
この空爆に反対いたしました国は二カ国ございました。中国とロシアです。中国には、チベット問題を初めとする少数
民族弾圧の問題がございます。ロシアにも、チェチェン
民族に対する弾圧を筆頭に、国内の少数
民族に対する大変厳しい政策がございます。そのようなこともあっての中国及びロシアの反対かとは思いますけれども、国際社会の圧倒的な数の国々がコソボへの空爆を支持したということは何を意味するか、これが二十
世紀の国際政治と二十一
世紀の国際政治の非常に大きな違いであると私は解釈しております。
二十
世紀の国際政治の中では、ある特定の国における少数
民族の弾圧であるとか、デモクラシーのじゅうりんであるとか、人道主義の踏みにじりというものはその国の国内問題である、内政
干渉をほかの国々はすべきでないというふうな態度が許されたのが二十
世紀です。しかし、コソボに対する空爆が国連の決議なしで行われ、それを国際社会が圧倒的に支持したということは、二十一
世紀の国際政治を動かす価値観というものは、もはや、人道主義のじゅうりんであるとか民主主義を無視するような手法は一国の内政問題では済まなくなるということを示していると私は思います。
では、このことがもっと大きな意味で示しているものは何かと思いますと、人類は国境を越えて、人類共通の価値観の実現に向かって力を尽くしていくのが二十一
世紀の国際政治の
一つの側面だと思います。それは民主主義の擁護であり、人道主義の重視であり、一人一人の人間を大事にするという価値観であろうかと思います。
では、ここで、このことを
日本に当てはめてみるときに、
日本に求められているものは何かということを私
たちは考えなければなりません。これこそが、二十一
世紀の
日本のあるべき姿の
一つの側面になると思います。
私は、
日本は明らかに、二十
世紀において、人間というものを考える姿勢において非常に弱かった面があると言わざるを得ないと思います。
日本の立ちおくれは、人道的な配慮であるとかデモクラシーを徹底させるという面にあったということも言えるのではないかと思います。ですから、このコソボ空爆を敷衍していったときに、
日本が身につけるべき新たな価値観というのは、例えば難民を受け入れるであるとか、例えば政治亡命者を積極的に受け入れるとか、例えばお隣の国の中国に対して、チベットに対してどういう政策をとっているんですかと問いただすなどということが
日本に求められてくるのではないでしょうか。
チベットのダライ・ラマ法王は今インドに亡命して亡命政権をつくっておりますけれども、ダライ・ラマ法王が
日本にいらしたときに、我が国はどのような態度をとったでありましょうか。外務省はダライ・ラマ法王に対するビザの発給にさまざまな
条件をつけたと伝えられました。ダライ・ラマ法王御自身が、
日本政府は中国に余りにも遠慮し過ぎているのではないでしょうかということをおっしゃいました。
世界の先進国の
国会で、もしくは議会で、中国におけるこのチベット問題を
論議していない国は
日本国だけであると言われております。チベット問題をどうするのか、このことを考える、議論するということが、例えば私が今申し上げた人道問題を政治に反映させるということの
一つのあり方ではなかろうかというふうに感じます。
チベットの
歴史を見ますと、チベットは一九四九年に中国に占領されました。それ以前、チベットはずっと中立国でございました。チベットの
人たちの話を聞きますと、中国のチベットに対する弾圧といいますかコントロールというものにはかなりのすさまじいものがあり、一九四九年に中国に国をとられて以来、九九年までの五十年間に、六百万人の総人口のチベット人の国に中国本土から七百二十万人の中国人が移住してきたといいます。これはチベット人の血を薄めるやり方でございます。私
たちはこのことなどを忘れてはならないのではないでしょうか。
とはいいながらも、このコソボ紛争は、ある意味ではこのような人類の目指すべきすばらしい理想というものを示していると同時に、もう
一つ、
世界の価値観は、とどのつまりはダブルスタンダードであるという厳しい
現実の一面も示していると私は思います。
例えば、
アメリカ政府は、コソボに軍事介入しましたときに
三つの理由を説明いたしました。その第一は、このコソボに対する軍事介入が
アメリカの国益に合致するかどうかということでございます。第二点は、同盟諸国が賛同するかどうかという点でございます。第三点は、軍事介入が効果を上げるかどうかという点でございます。
この
三つの点が満たされたときに
アメリカは介入するということでございますけれども、逆に言えば、この
三つの
条件が満たされない場合、民主主義がじゅうりんされようが人道主義がじゅうりんされようが、介入はないだろうということにもなります。
人類共通の価値観であります人道主義、民主主義というものに、
国家の国益、
一つの国の国益が先行するときもあるということをこのことは示しているのではないでしょうか。つまり、グローバルな価値観とそれぞれの国の価値観がより切実なせめぎ合いの要素となり得るのが二十一
世紀でもあろうかというふうに思います。
さて、
アメリカは今
世界戦略を質的に変えつつあります。このことが
日本の二十一
世紀に大きな影響を及ぼすと思います。この
アメリカの戦略が変わるということは、いや応なく
日本はそれに対処しなければならないということです。
では、
アメリカはどのように変わろうとしているのか。
今
アメリカではブッシュさんが次の大統領になるのかゴアさんがなるのかということで、まだ最終的な確定がなされていないようでありますけれども、共和党政権ができようが民主党政権ができようが、多分次の政権が
日本に対して提案してくる政策はこのような方向のものであろうということがこの十月に発表されました。両党間のブレーン
たちが十六名ほど
一緒になりまして、政策提言いたしました。タイトルは「日米成熟したパートナーシップに向けて」というものでございます。もう皆様方多分お読みでいらっしゃいましょう。私が今さら説明するのもおかしいとは思いますけれども、ざっと振り返ってみたいと思います。
この「日米成熟したパートナーシップに向けて」という政策提言をつくった十六人の人々の中には、例えば、共和党政権ができれば国防長官になるであろうとうわさされているリチャード・アーミテージさんであるとか、レーガン政権時代の国防次官補でありましたポール・ウォルフォウィッツさんであるとか、もしくはレーガン政権時代のホワイトハウスの
日本課長を務めておりましたトーケル・パターソンなどが入っておりました。民主党の側からは、クリントン政権の国防次官補としてあの有名なナイ報告を書きましたジョセフ・ナイさん、もしくは国防次官補代理でいらしたカート・キャンベルさん、もしくは民主党系の外交評議会研究員のマイケル・グリーンさんなどが名前を連ねております。この名前を見ましても、これがいかに
アメリカの有力なブレーン
たちが
一緒になってつくったものであるかということがおわかりいただけるかと思います。
この「日米成熟したパートナーシップに向けて」という政策の基本となっておりますアジア情勢の分析、
アメリカが見たアジア情勢というのは、決して楽観を許さないものになっております。アジアの分析は非常に厳しい内容で、アジアの危機は極めて大きいのである、だからこそ、
日本と
アメリカが緊密なパートナーシップを築いて、二十一
世紀のアジアに安定をもたらさなければならないという考え方でございます。
それを象徴するものが、例えば日米関係、二十一
世紀の日米関係は、現在の米英関係にモデルをとるべきだという
言葉なのではないでしょうか。
アメリカと
イギリスの関係というのは、
アメリカがもともと
イギリスから分かれてできた国でございますし、血のつながりという意味では非常に濃い両国でございます。両国の外交政策を見ましても、どんなときにも
アメリカと
イギリスは対等な立場に立って、互いに緊密な協力関係というものを築いてきました。そのような関係に日米関係もなっていくべきだというのがこの政策提言の大前提として書かれております。
そして、
アメリカが指示していることは、この中で言っていることは、二十一
世紀の日米関係の妨げとなる要素は、例えば
日本が集団的自衛権の行使を認めないことだという記述がございます。具体的には、
日本の集団的自衛についての
規制は同盟関係の障害となっている、この
規制を外せば安全保障上の協力は一層緊密かつ効果的になるというふうに書いてございます。
それと同時に、
日本にとっては直接的に大きな影響を及ぼすと見られます基地問題についても、
アメリカは意味深長なことをこの政策提言の中に書いております。
例えば、
日本における米軍の足跡を減らす努力をすべきであるということです。特に沖縄の海兵隊について、より柔軟性のある配備と訓練の選択肢を選んでいくべきだというふうに指摘しております。これは、事実上、海兵隊員の削減という可能性を示したものではないかと私は読み取りました。
実は、この一、二年、沖縄の米軍基地のあり方をめぐりまして、私も日米双方いろいろなところで取材をいたしました。その取材の過程の中で、海兵隊を大幅に削減するという案を
アメリカ側が考えているという情報をとりまして、それの裏づけをとろうと思っていろいろなところにそれを当ててみましたが、
日本側も
アメリカ側も、公式にはこれを肯定する人がだれもおりませんでした。
それで、私は、確認がとれませんでしたから、私自身はこのことを記事にはしませんでしたけれども、ことし七月、沖縄でサミットがございましたときに、各新聞社が大変な量の沖縄報道を伝えました。その中で、朝日新聞が同じ情報を、ほんの少しですけれども、書いてございまして、私は、この朝日の報道を見たときに、朝日も同じ情報を得ているんだなと思いまして、なるほどと思いました。
この「日米成熟したパートナーシップに向けて」という政策提言の中には、同じトーンの記述がございます。今日に至りましても、海兵隊削減というものは、だれに聞きましても正面から行けば否定する要素でございますけれども、二十一
世紀の日米安保条約の中で、海兵隊削減は
現実の可能性として私
たちは安全保障政策の中で考えておいてもよろしいのではないのかなと私は感じます。
さて、いろいろな提言がこの「日米成熟したパートナーシップに向けて」の中に書かれておりますけれども、彼らが言っていることは、バードンシェアリングを進化させてパワーシェアリングにすべきときが来ているということです。つまり、日米は対等の立場に立って力を分担していくべきだという考え方であろうと思います。これは、かつてブレジンスキーさんがフォーリン・アフェアーズに、
日本は事実上
アメリカの保護国であると書きました。デファクトプロテクトレートと
日本は書かれてしまいましたけれども、その当時の
アメリカの対日認識と、少なくとも現在この政策提言の中に示されている対日認識の間には大きな質的な変化があると言わざるを得ません。
アメリカがこれから求めようとしているのは、
日本にダイナミックな
防衛上の役割をともに担ってほしいということではないでしょうか。これを私
たちが受け入れるにしても、受け入れないにしても、
アメリカは恐らくこの議論を
日本にしてくるのは間違いないと思います。それは、本質的に
憲法を問う問いかけにもなっていかざるを得ません。この
憲法に対してどのように私
たちが考えていくかということが、この面からも非常に重要になってくると思います。
さて、私は、先ほど、
日本は二十一
世紀のスタートに当たって、恐らくほかの国よりもより多くの試練を体験しなければならないだろうというふうに申し上げましたけれども、この
日本の課題というのは、
一つは、
日本人の人間としての質の問題にもかかってくることなのではないかというふうに思います。
私は、
日本人は、いろいろな面から考えて、すばらしい資質を数々持っていると思っております。勤勉さはどの国の
国民と比べても引けをとることはありませんし、
日本人はまじめな
国民の集合体でございます。それから、働くことをよしとしますし、優しさも十分に持ち合わせています。一生懸命に貯蓄をする性質もありますし、技術も大変にすばらしいものがあります。
しかし、にもかかわらず、
日本人は何か質的な問題を抱えている。それは、
日本人の中に、ある意味では、問題をキャッチしてその問題から深く考えていく能力というものが不足しているのではないのかという気がいたします。つまり、論理力をはぐくんでこなかった、考える能力をはぐくんでこなかったような気がしてなりません。
この論理力、考える能力をはぐくむためには一体何をしたらいいか。論理力というのは全体像を見る能力ということにもなるわけなのですけれども、
歴史も含めて、
日本の社会の現状も含めて、すべてについて考える能力をはぐくんでいかなければならない。その決め手となる情報ということについて、私
たちの国ほどナイーブで無防備で考えなしで来た国は、
世界広しといえども珍しいのではないでしょうか。
例えば、私
たちが今ここで論じようとしている
憲法についてですけれども、
憲法を作成したときに、
日本には厳しいたががはめられておりました。
日本に軍隊を持たせないというふうな考え方そのものは、一九三〇年代以降の軍国主義の
日本に対する深い警戒感があったわけでございます。この一九三〇年代の軍国主義、それはどのように加速していったかということを見てみますと、非常に興味深いことが見えてきます。
満州事変の始まりとなりました柳条溝事件は関東軍のしわざでございました。しかし、関東軍はこの情報をもちろん隠しました。隠して
日本国の本国に報告をいたしました。外務省はこれをおかしいと思いましたけれども、外務省も
決定的な情報を突きつけることができませんでした。
そのときに大新聞はこれをどのように伝えたかということをちょっとここで引用してみたいと思います。
ある大新聞は、この柳条溝事件について、極めて簡単明瞭な構図であると断じました。支那側、この支那というのは私の
言葉ではございませんで、当時の新聞が書いた
言葉でございますので、使うのをお許しいただければと思うのですが、よろしゅうございましょうか。
この大新聞が伝えたのは、支那側軍隊の一部が満鉄線路のぶっ壊しをやったから、
日本軍が敢然として立ち、自衛権を発動させたというまでだと報道いたしました。これはある大新聞の
社説で書かれたことでございます。
ほかのもう
一つの大きな新聞は、やはり
社説で
日本軍の中国への攻撃をこのように書きました。機を誤らざりし迅速なる措置と持ち上げたのでございます。軍が機を逃すことなく迅速なる措置をとったことについて、この
社説は、満腔の謝意を表すると書き、へりくだりました。
つまり、このように満州事変については情報がゆがめられ、
国民から隠されていって、その後のあの大きな大きな過ちへの坂を
日本は転がり落ちていったわけでございます。情報を知らないことによって、もしくは情報をゆがめられることによって
日本全体がどんな過ちを犯してきたかということは、満州事変以降のあの
戦争のときだけのことではございませんで、現代でも、情報の欠落による多くの過ち、犯罪的な事象というものは起き続けていると思います。
例えば薬害エイズでございます。薬害エイズについてはもう多くの皆様方が御承知でございますけれども、非加熱製剤が危ないという情報が入っていたときに、それを、一〇〇%確かではないけれども危ないという情報もあるのですよというふうな、情報公開をする仕組みが担当所管省庁としての厚生省のどこかにあったならば、あれほど多くの犠牲者が出るはずはなかったと思います。そして、この非加熱製剤が危険であるという情報が隠し続けられて、ずっと続けられて、多くの感染者が出て、裁判が起こされたときでさえも、情報は隠され続けました。
どの党と言って責める気持ちはございませんけれども、歴代の自民党の厚生大臣は、この薬害エイズに関して常に厚生官僚の側に立ちました。一人、二人、数人の非常に問題
意識の鋭い自民党の政治家の
皆さん方は問題だということを言っておられましたけれども、政府全体としてはこの薬害エイズの情報というものを出すことはございませんでした。これは、民主党の菅直人さんが厚生大臣になって初めて、あの膨大な
資料が出てきたわけでございます。
薬害エイズの民事訴訟においても、情報公開ということを原告側代理人の弁護団はどれほど求めたでございましょうか。どれほど求めても求めても、
資料はないのであります、
資料は確認できないのでありますという厚生省側の言いわけによって、情報公開は行われませんでした。
ですから、情報公開をしないことによって、かつて
日本は大変な誤った道を突き進んでいってしまいました。そして今は、薬害エイズを初めとして、多くの
国民たちに犠牲を強いるような結果となっているケースが多々ございます。
このことを考えましても、情報公開を徹底させることがいかに大事であるかということを、どうぞ皆様方、
憲法調査会の皆様方にも知っていただきまして、もし
憲法に何か新しいものを書き加えるということがございましたら、情報こそは
国民の考える能力を引き出す道具なのだと考えてくださって、この情報公開を徹底させるということをぜひ書き込んでいただきたいというふうに思います。
さて、
日本は二十一
世紀何をすべきかということを考えなければなりませんが、二十一
世紀の国際社会の変化というのは、例えば、国際社会がいろいろなところで発揮する力を、ハードパワーとソフトパワーに分けてみたいと思います。
このソフトパワーという
言葉は、ジョセフ・ナイさんが初めに国際環境論の中で使った
言葉なのではないかと思うのですけれども、ソフトパワーというのは、国際世論に影響を与えたり、情報を発信する力のことでございます。ハードパワーというのは、例えば
相手に直接的に働きかける軍事力であるとか経済力のことだというふうに理解をしていただければと思います。
二十一
世紀は、紛れもなくソフトパワーが非常に重要になる
世紀でございます。二十
世紀はハードパワーが中心の
世紀だったと思いますが、二十一
世紀は紛れもなくソフトパワーの時代になると思います。その意味で、
日本は余りにも大きなおくれを既にしてしまったと思わざるを得ません。
例えば、
アメリカは軍事的にも超大国でございます。これはハードパワーの大国でありますけれども、その
アメリカは今、私
たちが気づかないうちに、もしくはもうだれの目にも余りにも明らかで、余りにも明らか過ぎて考えないうちに、ソフトパワー大国へとなりつつあるのではないでしょうか。
例えば、私
たちが国際社会、いろいろなところに旅行して、ホテルに行って、ニュースを見るときには何を見るでしょうか。CNNのニュースを見ます。このCNNのニュースは
英語で伝えられます。
アメリカ人の価値観で編集されたニュースです。知らず知らずの間に、私
たちは国際社会のさまざまな出来事を
アメリカ的価値観の枠の中で見ている。これこそすさまじい
アメリカのソフトパワーの一例だと思います。
この
アメリカの強さというのは、情報を発信する強さ、例えば今申し上げたCNNです、また
英語で話す強さということです。
また、
アメリカのもう
一つの強さは、知的な強さ、パワーです。
今、留学生にどの国に留学したいかと尋ねますと、大概の
大学生や院生
たちが、
アメリカと言います。
日本には残念ながら余り多くの学生が来てくれません。この
アメリカに集う学生
たちは、
英語で学び、
アメリカのプロフェッサーと交流し、
アメリカ的な
文化の中で生活し、
アメリカに多くの
友人をつくって、
自分の国に帰っていき、
自分の国のある意味ではパワーエリートとなっていく仕組みです。この知的なパワーは、ボディーブローのように、時間がたてばたつほど大きな力を発揮すると思わざるを得ません。
もう
一つ、
アメリカが強い理由というのは、それぞれの分野で大変な数のプロフェッショナルを抱えているということでございます。
例えば、今
日本では司法改革も進行中でございますけれども、この
日本の司法改革は何ゆえに起こったのか。
アメリカが余りにも司法という意味で強くて、
アメリカ的な司法の価値観というものを身につけることなくしては
日本も立ち行かないとわかったからこそ、今
日本は司法改革に懸命になっているわけでございます。
司法にしても、公認会計士にしても、技術者にしても、
アメリカにはすさまじいほどのプロの軍団が
存在しております。こうしたものが
アメリカの国力を支えているわけでございますから、
日本は
日本なりのソフトパワーというものを築いていかなければならないと思います。
日本のソフトパワーも、情報発信でありましょうし、プロの育成でありましょうし、知的パワーの構築でございましょうけれども、こういった面で一朝一夕に追いつくということはなかなか至難のわざでございます。でも、今のままでも、比較的短時間に
日本が国際社会に向けてリーダーシップを発揮して、ソフトパワーを輸出して、そして多くの国々に喜んでもらえるような分野というのは少なからずございます。その最も先鋭的な部門が、私は環境の分野ではないかというふうに思います。
この狭い国土に多くの人間がひしめいて、多くの車が走って、多くの産業が興されて、私
たちは幾つか大変深刻な環境汚染というものを犯してまいりましたけれども、その環境汚染という失敗を重ねた分だけ、環境を守っていく技術もまた他方では開発してきたと思います。幾つかの危機をそれなりにきちんと乗り越えてきた面もございます。私は、
日本がこの環境面で国際社会のためになし得ることを決意をしてやっていくということが、
日本のソフトパワーを強めていく
一つの道であろうかというふうに思います。
では、具体的にどうしたらいいかということなんですけれども、オランダのハーグでCOP6という
会議がございました。三年前の京都
会議、COP3の延長線上にございまして、三年前の京都
会議では、この地球の温暖化を進めている二酸化炭素であるとかさまざまな種類の温暖化ガスを排出
規制しましょうということが京都で決められました。九〇年の水準に比べて、二〇一〇年までに、
日本は六%、
ヨーロッパ諸国が七%、
アメリカが八%削減したレベルにまで戻しましょうということを決めました。ハーグでは、これを具体的にどのような方法でやるということを決めるはずだったのですけれども、残念ながらCOP6は決裂をいたしまして、半年後にもう一回
会議をしましょうということになったようでございます。
私は、今の
日本の政府がこの環境問題をどのくらいの比重で受けとめているかということを問うてみたいと思います。環境、環境と言う割には、本当に
日本国政府はこの環境問題の持つ深刻さを理解しているのでしょうか。この環境問題を
日本国が率先して解決していくという決意をしたときに、どれだけ大きなインパクトを国際社会に与えることができるかを理解しているのでしょうか。
例えば、環境庁長官は民間の女性でございます。川口順子さんという、私も尊敬申し上げる大変に有能な女性でございます。私は、あのような有能な女性を環境庁長官に据えたからには、
日本国政府はこの有能な女性が力を発揮できるだけの枠組みを用意しなければ大変に失礼な結果になるのではないかと思っております。民間から、しかも女性を登用したということで、この内閣は開かれた内閣なのですよという
一つのアリバイに使っていると思われても仕方がないと思います。
環境庁にどれくらいのお金と人間が割り当てられているか、予算をきょうの午後電話で問い合わせてまいりました。平成十二年度の予算を、環境庁と建設省で比べてみたいと思います。環境庁は、平成十二年度九百三十二億八千五百万円だそうでございます。何と少ない額でございましょうか。建設省は六兆六千六百八十九億円だそうでございます。
建設省のもとでは、役に立たないような道路が多くつくられていないでしょうか。それは雇用を生み出すために必要だという理由もございましょうけれども、雇用を生み出すのであるとしたならば、キタキツネしか通らないような北海道の原野に道路を通すよりは、もっと多くの人々に喜ばれ、もっと多くの国々に喜んでもらえるような環境技術の開発のためにお金を費やし、そこに雇用を創出していくような発想を持っていただきたいと思います。
ちなみに、環境庁で働く官僚の数は千二十七人でございます。建設省は二万三千百七十七人だそうでございます。この大きな違いを何とかして建設的な方向に構成変えしていくような知恵を発揮することが、
日本のソフトパワーを強めていく有効な手当てになるだろうと思います。
例えば、私、先日、あるトップクラスの企業の方に聞きました。公害対策、環境対策では大変すばらしい実績のある企業でございます。どのくらいのお金があれば、
日本の企業という企業が環境産業に競って乗り込んでいってすばらしい技術を開発していくことができるようになるだろうかと聞きましたら、一兆円もあったらあっという間に
日本はすばらしい環境先進国になりますとおっしゃいました。建設省から一兆円持ってくるなんということも不可能ではないのではないかと私は思います。これを決めてくださるのは、政治家の皆様方でいらっしゃいます。
さて、ソフトパワーのもう
一つの側面は、人間に対して優しいということです。これは、
日本国民に対して優しいということだけではなく、
外国の方々に対しても優しいということです。優しいというのは、しかし、ただ単に優しくするということではなくて、
外国の
人たちをちゃんと受け入れていくということでございます。
冒頭にも申し上げました。
日本は難民を受け入れない国として有名ですが、このようなことはあってはならない。
日本は、亡命者を受け入れない国として有名ですが、このようなこともあってはならない。
日本は、どちらかというと
外国の人を排斥する力が働きがちですけれども、これもあってはならない。できるだけ多くの
人たちを抱きとめながら、この国を立派な国にしていく努力が必要であろうかと思います。
さて、
日本人が
外国の人をきちんと受け入れていくためには、
自分自身の足元をしっかりと固めておかなければなりません。
自分自身を確立することなく他人を受け入れる人というのは、
自分をなくして他人に同化していくということにもなりますから、
日本国は
日本国の足場というものをきちんと固める必要があると思います。そして、このことは、戦後の五十年余りの
歴史の中で余りにも無視されてきたことでもございます。
私は、
日本がもしくは
日本人が、戦後の
日本という国や
日本人を正面から受けとめるのにややちゅうちょせざるを得ないような心理に陥るのは、あの第二次
世界大戦に対するいわゆる罪の
意識といいますか、そのような気持ちがあるからであろうかと思いますけれども、よいことも含めて、悪いことも含めて、もう一度
日本人は
歴史というものから学んでいく必要があるのだろうと感じます。
ここで一冊の本を御紹介したいと思うのですけれども、お手元に配りましたたった一枚のメモ書きの、レジュメとも言えないレジュメの一番最後に、ロバート・スティネットという名前が書いてございます。これは、京都
大学の中西輝政先生が多分
日本に最初に紹介なさった本だと思うのですけれども、ロバート・スティネットという人が書いたデー・オブ・ディシート、これはまだ
日本語になっておりませんで、間もなく
日本のどこかの出版社から
日本語になって出ると私は思っておりますが、このスティネットさんが書いた、欺きの日、欺瞞の日という本でございます。
これは、今まで真珠湾の攻撃はルーズベルトの陰謀であるというふうなうわさが流れておりました。これは幾多の人々が論じたことですので今さら申し上げませんけれども、このスティネットさんの欺きの日という本は、今までうわさとして言われていた、
日本軍の動きがすべて筒抜けになっていたということを、五百九十五点に上る
アメリカの政府の文書を使うことによって証明している本でございます。第二次
世界大戦のときのさまざまな機密情報が
アメリカの情報自由法によって、あのときから五十年、六十年を経て今ようやく大量に公開されつつありますけれども、スティネットさんは十数年をかけましてこの本を書きました。
スティネットさんというのは、前の大統領、ジョージ・ブッシュ大統領が海軍の軍人だったとき、第二次
世界大戦のときに、ジョージ・ブッシュ中尉のもとで働いていた海軍の軍人でございまして、百回ほども戦闘功労勲章を受けたという人なんですが、戦後はジャーナリストになりまして、ずっと記事を書いておりました。そして、
世界の
戦争の専門家といいますか大変な権威でございまして、この方、八四年にジャーナリストから引退いたしまして、第二次
世界大戦に集中をして、
アメリカの情報自由法をフルに使って情報をとってこの本を書いたものでございます。
さて、それだけのことならば、このスティネットさんの本は何も目新しいことはないわけでございまして、この本のすごさというのは、第二次
世界大戦のときの
日本軍の暗号であるとか電報が全部解読されたなどということにとどまらず、
アメリカは一九四〇年九月の段階で対日開戦促進計画というものを作成していたということなんですね。一九四〇年九月といいますと、真珠湾の攻撃よりも一年以上も前のことでございます。
これは海軍情報部のアーサー・マコーラムという人物が中心になってつくりました八項目にわたる対日開戦促進計画でございまして、八項目は例えばこのようになっております。
イギリスの太平洋諸国における軍事基地、特にシンガポールの軍事基地を
アメリカが使えるようにする。例えば第二段階は、オランダがインドネシアに持っている軍事基地を
アメリカが使えるようにする。このようにしますと、
日本は当然軍事的な脅威を感じるわけでございます。
アメリカは八段階にわたって、どのようにすれば
日本をいら立たせることができるか、怒らせることができるか、追い詰めることができるか、どのようにすれば
日本が追い詰められて無謀な
戦争に走っていくであろうかということを研究して、八つの段階におけるこの戦略というものをつくりました。
では、ルーズベルトはなぜこのような戦略をつくったのか。当時のルーズベルトは、
イギリスの苦境を助けたかった。
ヨーロッパにおける戦線に
アメリカが参戦して、
イギリスを助け、民主主義を助けるということをしたかった。しかし、
アメリカの世論は、
伝統的にいつも外に出ていくのを嫌います。
アメリカは大国ですから、何か私
たちは非常にあの国は国際的だというふうに考えておりますけれども、
アメリカは自国でほとんどすべて自給できるような国ですから、意外に視線は国内に向いておりまして、海外に出ていくのを非常に嫌がる
国民性が強うございます。
あのときも、
アメリカが
ヨーロッパ戦線に参戦することに対して、
アメリカの世論は九〇%が反対でございました。ルーズベルトは、これを参戦に賛成するような方向にどのように世論を誘導することができるか、あの
日本をして無謀な、
世界のどの国もが
批判するような卑劣な
戦争を始めさせることができれば、
アメリカの世論はいきり立つであろうから、それによって
アメリカは参戦することができるというのがルーズベルトの戦略でございました。
八項目にわたる戦略を読んでみますと、
日本人としては全身の血が逆流するような思いにもなっていきます。
アメリカの読みどおりに
日本は反応し、怒り、追い詰められ、いら立ち、あの無謀な
戦争へと走っていきました。
例えば、
山本五十六元帥は、私の卒業いたしました新潟県長岡高校の大先輩でございます。
山本五十六連合艦隊司令長官の神わざにも似た真珠湾攻撃の成功というものは、長い間
日本人が、あの第二次
世界大戦は非常に間違ってはいたけれども、でもあの真珠湾攻撃はすごかったというふうに、ある
一種のハイライトとしてとらえられていると思いますけれども、あの真珠湾の快挙と言われた軍事行動でさえも、
日本の連合艦隊が一九四一年十一月末に千島単冠湾から出発したときから、その動きを逐一
アメリカ軍に捕捉されていたということがわかります。ハワイの近海に
日本の連合艦隊が近づいたときには、きょうはここまで進んだ、きのうはここまで進んだと、毎日のように
日本軍の動きが把握されております。
となりますと、あの戦いは一体何だったのかと私
たちは考えなければならないわけでございます。これもあれも、情報力の欠落ゆえに起きた悲劇ではないでしょうか。私
たちは、第二次
世界大戦で犯した
日本の過ちを反省し、そして二度と繰り返さないようにすることが大事であると同時に、なぜ私
たちがあのような
戦争を始めてしまったのかということを冷静に客観的に分析することも大事でございます。
その軸となるのは、我が国は、我が新聞は、我が政府は、我が
国民は、情報というものをどのように把握し、分析し、それを共有してきたかということを振り返ってみることではないでしょうか。
私
たちは、第二次
世界大戦のときも、情報の欠落によってあの満州事変の軍部の動きというものを許してしまいました。第二次
世界大戦で負けてしまって、
憲法をつくった折も、実はこの
憲法は
日本人がつくったものではなかったにもかかわらず、
アメリカがつくったものでありましたにもかかわらず、一般世論の間ではこのことに疑問を提起することさえもなく、これをすばらしいものだとして受け入れました。
日本国憲法には確かにすばらしい面は多々ございますけれども、当時
アメリカが
日本に対して厳しい検閲制度をしいていたということは、皆様方の御承知のとおりでございます。亡くなりました
江藤淳さんが、このことを非常に詳しく書いてございます。余りにも厳しい検閲があって、この検閲があるということさえ
国民には知らされませんでした。
憲法は
アメリカによってつくられたということさえ知らされませんでした。
私は、
憲法が国の土台であり国の姿であると思っておりますので、どのようなものをつくるにせよ、
国民が
一緒に議論することが必要だと思っております。しかし、それを経ずしてつくられたこの
憲法、それも情報欠落のゆえであったかと思います。
そして今、二十一
世紀になろうとする今日、先ほど申し上げましたように、
アメリカから新たな超党派の政策提言がございました。「日米成熟したパートナーシップに向けて」がそれでございます。もう既に申し上げましたけれども、この政策提言の中で色濃く打ち出されているのは、
日本国の
憲法改正でございます。
私
たちは、今こそ情報というものを、政府も政治家も官僚も
国民も、多くの
人たちが共有して、この国のあり方はどうでなければならないのかということを論じなければ、再び
外国のプレッシャーによって私
たちの国の根幹である
憲法をいじるというふうなことになるのは余りにも悲しいのではないかと思います。
そういう意味で、私は、この
憲法を論じることになっても、変えることになっても、どのようなことになっても、あらゆる情報を
国民に伝えつつ、透明なプロセスで、非常にわかりやすいプロセスで、公正なプロセスを心がけながら、この
論議を進めていっていただきたいと思います。
もとニュース番組で仕事をしておきながら、三分三十秒時間をオーバーしてしまいました。お許しをいただきたいと思います。
ありがとうございました。(拍手)