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参考人(
西村正雄君) もちろんしております。
当然御存じのことだと思いますけれ
ども、ちょっとつけ加えさせていただきますと、水島前会長は確かに興銀出身でございますけれ
ども、これは
そごうに興銀から派遣されたのではなくて、彼は
そごうの一族だったわけです。三十三年に
そごうの
経営がおかしくなりまして、一族の
要請で興銀をやめていったわけです。そして、副
社長で行きまして三十七年に
社長になりました。したがいまして、興銀と取引が始まりましたのは、当時ゼロでございまして、たしか四十六年から興銀との取引が始まったわけです。
先ほどちょっとビジネスパートナーという表現がございましたけれ
ども、私
どもは必ずしもそういうことではなくて、むしろ水島氏は
そごうの
再建に成功されまして、それから多店舗展開を始められたわけでございます。あの方は博士号を持っていたんではないかと思います、たしか法学博士。非常に法曹界でも有名な方でいらっしゃいますので。そこで
千葉そごうを実質的な持ち株
会社というような形にしまして、
株式会社そごうというのは別にあるんですけれ
ども、これは東京と大阪と神戸の三店だけでございまして、
千葉そごうを中心としてあとほとんどの店を展開されたわけでございます。それで分社
経営をやってきたわけです。そういうような非常に複雑な
資本関係で、完全に
株式会社そごう以外の店は水島氏の株の支配下にあったわけでございます。
ちょうど八〇年代の後半はバブルの時期でございまして、非常に景気もよかったし、地価も上がっておりましたし、その多店舗展開が一時的には成功しまして
百貨店業界のトップの
売上高になったというようなことであったわけでございます。
したがいまして、私
どもといたしましても、
株式会社そごうというのは当然上場しておりますから実態はわかりますけれ
ども、それ以外の店につきましては、取引をしている店はある程度非上場であっても資料はありますけれ
ども、取引をしていない店も三分の二ございますのでそれは入らない。それで、一体的にこれを把握する必要は絶対にあるといろいろ努力はしたわけでございます。
そごうの一番の特色というのは、今申しましたように水島氏がオーナーであるということと、もう
一つは求心力が非常に強いということですね。一種のカリスマ性と申しますか、あるいは非常に人情の機微といいますか、そういうことで組合も全部完全に水島氏が掌握をされていたわけでございます。
それで、九三年に業績がおかしくなりまして、先ほど申しましたように九四年から興長銀から副
社長を派遣いたしまして、そこで初めて私
どもある程度
グループ全般の数字をつかむことができるようになったわけです。それと同時に、相当、先ほどビジネスパートナーという言葉が必ずしも適当ではないと申しましたけれ
ども、それ以後かなり水島氏には厳しいことを申し上げたわけです。
先ほど申しましたように、
経営会議に水島会長が出てきたのでは従来と少しも変わらないから、
経営会議にはあなたは出ないで
経営会議は
社長以下で全部やるようにしてほしいというふうに申し上げましたし、それから人事権についても岩村
社長に完全に一任するようにしてほしい、あるいはまた海外につきましても興銀から行きました名取副
社長に全権をやる。ともかく
経営会議中心の
経営体制というものをやってほしいということを随分申し上げた。
それから、引き続きいろいろ新店舗の開設、これにもまだ執着をされている面がございましたけれ
ども、そういうことにつきましては私
どもとしてはお断りしていたわけでございます。
一例が、立川の例で申しますと、これはJRとかなり話が進んでいたわけでございまして、水島氏はそれに相当執着をされておりましたけれ
ども、ある日、当時のJR東日本の
社長が私のところに参りまして、あなたを信じたらいいのか水島会長を信ずればいいのか、どっちだと言うので、それは当然私を信じろということでもってその立川の店はできなかったと。そういうふうなことで非常に厳しいことを言った。
ただ、例えば九五年の一月の神戸大震災、これは神戸というのは一番のもうけ頭なんです。そういうときになりますと、やはりああいう方は、八十歳を超しておりましたけれ
ども、これはちょうどダイエーの中内さんもそれと同じようでございますけれ
ども、物すごくやっぱり中心になってやるものですから、ここでまた、かなり
経営会議中心になりかけてきたところに、またぐっとそっちの方に求心力が移ってきたというようなことでございまして、私
どもといたしましては、できる限りはそういうことを申しました。
しかし、やはり
銀行の限界がございまして、
千葉を中心とする非常に複雑な株式
関係、これを完全に整理してくださいと言っても、これは本人がイエスと言わなければできないことでございます。ですから、そこのところは結局、私
どもとしては、そこまでやった上でなければ完全に新しい体制にならないということではありますけれ
ども、遺憾ながらそれはできなかった。そういう
意味では、私
ども力不足といえば力不足ではございますけれ
ども、ある
意味では
銀行の限界であったということを御
理解賜りたいと思います。