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参考人(
岩井忠熊君) 私は、
昭和の日制定に反対する
理由を述べます。
昭和は、一八六八年、
明治元年に始まる一世一元制による単なる年号で、
一つの
時代を示す言葉ではありません。封建身分制を廃止した維新に始まる
明治期やデモクラシー
運動の顕著だった大正期と違い、六十三年余の
昭和を
一つの
時代とする
歴史学的な根拠はないのです。
一九四六年の
日本国
憲法制定で、
天皇主権の国から
国民主権の国に変わり、議会制民主主義が確立され、国の名前も大
日本帝国から
日本国に変わります。それまで
国民の半分を占める女性には参政権がなく、
参議院も存在しませんでした。まさか
参議院を貴族院の連続とは言えないでしょう。
戦前歴代内閣の総理大臣は、資料一を見るとあるとおり、重複を二人と数えて、
明治期十四名中五人が軍人、大正期十一名中五人が軍人、
昭和期、敗戦までは十七名中実に半数以上の九名が軍人です。
昭和戦前期とは、つまり軍人が政治にも大きな支配力を持った軍国主義の
時代でした。総理が国会で指名される今日とは大きな違いです。
今、国会は国権の最高機関です。
戦前昭和期とその後の
日本をひっくるめて
昭和で一括するのは、国会みずからが自分の権威を引き下げる行為にほかなりません。
一九三七年、
昭和十二年には、浜田国松代議士が軍の政治関与を攻撃したため、寺内陸軍大臣が強硬に解散を主張して内閣は倒れ、広田内閣は総辞職しました。資料二。
一九四〇年、
昭和十五年には、斎藤隆夫代議士が戦争政策を痛烈に批判したため、軍部の圧迫で衆議院が除名するに至りました。資料三。
気に入らぬ内閣は、軍部大臣現役制を盾にとって倒すことも、
成立を妨害することもできたのです。
明治、大正期には見られなかった軍部の政治支配が、
戦前昭和期に極端になりました。旧
憲法の帝国議会も機能不全に陥ったのです。議会演説さえ圧迫されたのですから、選挙や言論は官憲の厳重な監視と干渉を受けました。演説会場には警察官が臨監し、しばしば弁士注意や中止を命じています。内務省警保局は、全国警察の取り締まり報告を集約して内閣に報告をしました。今も残る公文書に明らかです。資料四。
政党と議会は、軍人の関与が見られた相次ぐテロ事件や、時にはそのうわさにまで脅かされて、自由な政治活動を展開できなくなります。真っ向から戦争反対を掲げた
日本共産党やその他の反戦
運動は、治安維持法、出版法、
新聞紙法等によって弾圧されました。こうして反対勢力を封じ込めておいて、
昭和初期から軍国主義の大陸侵略が急速に活発化します。
一九三一年、柳条湖事件以後の大陸侵略は周知のことですからあえて述べません。
対米英戦以後はアジア民族解放戦争だったと言う人がいますが、四三年の御前会議決定は、マライ、ジャワ、スマトラ、ボルネオ、セレベスを帝国領土として決定しています。
シンガポールには、英国の侵略を代表するラッフルズの名を
記念するラッフルズ広場が現在もあります。その広場に、皮肉にも
日本軍の住民虐殺を悼む数十メートルの高さの
記念碑が建てられ、毎年、その碑の前で、独立したシンガポール人による追悼の式典が続けられています。
中国は、香港、マカオの植民地支配を非難し続けましたが、武力を使うことなく、条約期間の満了を待って平和的に復帰を実現しました。
日本を盟主とする大東亜共栄圏なるものを軍事力で実現しようとした
歴史と余りにも対照的です。
アジア諸民族は、悪夢のような記憶の残る時期を、
日本が今さら
昭和の日にひっくるめて
祝日とすれば、それらの民族からまたまた
日本の
歴史認識を問われるのは明らかだと
思います。
昭和の日が
昭和天皇の
誕生日にちなんだことは明らかですが、死者の命日はともかく、死者の
誕生日を
記念したり祝う風習は古来からの
日本にはありませんし、亡くなった
天皇の
誕生日を祝った先例も近代以前にはもちろんありません。他国では、
昭和天皇をただ第二次
大戦との関係で記憶しているだけです。
第二次
大戦で
日本と同様に敗戦国になったのはドイツとイタリーです。ドイツには敗
戦前と現在を断絶としてとらえる
歴史認識が定着していますから、
昭和の日のような発想も
記念日もありません。もしつくろうとしたら、
国民及び周辺諸国の猛烈な非難にさらされるでしょう。
イタリーには戦時中にレジスタンス
運動があり、バドリオ政権後は連合国に加わったという経過がありますので
日本、ドイツと事情が違いますが、戦後に
国民投票で、ムッソリーニに協力した王制が廃止され共和制となりました。ですから、王制
時代と戦後を一くくりにした
国家的
歴史認識は生じ得ませんし、あるのは共和国宣言
記念日となります。
昭和期は
激動の
時代だったという言い方は正しくありません。
激動というのは、本体が変わりのないまま、ただ激しく揺れ動いたという
意味です。実際は、
日本という
国家・
国民にとってその
時代は、
天皇主権の大
日本帝国から
国民主権の
日本国
憲法への劇的な変化、激変の
時代だったのです。敗戦直後の政治史家は、悠久二千六百年と言ってきた
日本の
歴史も幕を閉じたと断言しています。資料六。
このような激変を挟んだ時期を、年号が同じだからと言って
一つにくくって
祝日をつくるのは、
国民の
歴史認識を誤らせ、後世に災いをもたらすことになるでしょう。
国民の休日をふやしたいのなら、事情を説明して新しい休日を制定すれば済むことです。無理な理屈と
歴史認識を
理由とすることは、
国民主権のもとにおける国会の権威を失墜させる結果となるのではないかと恐れます。
忘れてならないのは、世界の
人々は、柳条湖事件が火種となって戦争が連鎖反応的に広がり、第二次
大戦になったことを記憶していることです。謀略をやった当の軍人も、火元が自分たちの起こした事件だったことを語っています。資料七。
その結果、世界でおよそ五千五百万人の死者、三千五百万人の負傷者、三百万人の行方不明者が出たと推定されています。
日本では約百二十万人の戦死、官民にも約七十万人の死者、ほかに戦災の罹災者が八百七十五万人に達したと言われます。大変な犠牲者です。
私はいわゆる学徒出陣で海軍に入り、敗戦時に海軍少尉でした。私の乗った船は
アメリカ海軍の潜水艦に撃沈され、私は三時間泳いで僚艦に助けられましたが、生き残れたのは二割弱です。血だらけになった
人たちが甲板上でのたうち回っていた光景が、今も脳裏にまざまざと刻まれています。私は、水上特攻隊員として任地の石垣島へ送られる途中でした。
そのような経験を持つ私にとって、戦中、戦後の区別は、自分の生死を分かつ痛烈な体験と結びついているのです。今生きている、しかも近代
日本史を研究してきた自分にとって、あの時期と戦後をひっくるめて
一つの時期とした上で
昭和の日を制定するということは、理性と感情の両面から容認できることではありません。その道理は多くの
国民の共有するところでもあると確信する次第です。
以上です。