○脇雅史君 実績としては余りよくわからない部分もあったんですが、いずれにしても
建設省としては住民の
方々の意見を幅広く聞こうと、こういうふうに世の中に言っているわけです。その反動と言ってはおかしいんですけれ
ども、それを受けて、これからは私たちの意見も聞いてもらえるというふうに非常に期待を持った
方々が多いわけです。そして、ある
意味では、お金を使ってでも
河川を勉強して、みずから計画論にも参画をしたいというふうに言っている方も多いわけで、生兵法大けがのもとということがあって全面的に全部が全部それがいいというわけではないんですが、その姿勢は極めて貴重なわけで、そういうものをうまく生かしていかなければいけないんです。
ところが、なかなか世の中というのはうまくいかないので、余り大事だ大事だと言いますと、物すごい自分が主役になったような気になる方がいるかどうかわかりませんが、
大臣とさしでやるんだ、計画は二人で決めるんだと。ところが、ではほかの人はどうするんだと。その方は
一体どういう立場で来ているのか。反対派の
方々の代表で来ているのか、どういうお立場なんですか、住民の代表の方なんですかと言うと、そうではなくて、やはり一部の方の代表でしかない場合が多いわけです。
ですから、住民の方の意見を聞くというのは非常に口当たりのいい、耳ざわりのいい言葉なんですが、やはりそこには民主主義としてのルールがなければいけない。意見を
大臣としてお聞きになるのは非常に大事なことですからどんどんお聞きになりますけれ
ども、
大臣と意見を言い合って私たちの意見が通らなかったらその会はおかしいんだというような進め方をするというのは、やはり誤解ではないかな、民主主義の誤作動ではないかなというような感じもいたします。
やはり
建設省として、住民の
方々の意見、流域の
方々の意見を聞くと言った以上、実績を踏まえてきっちりとしたルールをつくりながらやっていかないと要らない誤解を住民の
方々に与えるおそれもあるので、その辺、今後
工夫をしながらやっていただきたいと
思います。もう返事は結構なんです。
それから、あと
一つ大事な話で、
治水というのはやはり重たい伝統を持っているものですから、非常に大事な、これだけは外してはいけないというような点が幾つかあると思うんです。
日本というのは、いわゆる
河川がつくった平野、沖積平野ですけれ
ども、そこに五〇%の
人間が住んでいて七五%の資産があると言われているわけです。川が
流れて平野ができるということは、もともと水が
流れていたところ、言いかえれば川だったところに住んでいるわけです。
ただ、水が来るといけないので、洪水のときでもできるだけ来ないようにしたい。言うならば、川を狭い
範囲に閉じ込めてきた。折り合いをつけるわけですけれ
ども、ここは川でないぞと
人間側が主張して、本来自然の
河川である部分をも
河川でない格好、それを法律という格好でここが川だと言っているわけですね。それはもう随分無理をして狭い
範囲に、利根川、何川でもみんな押し込めて現在の姿があるわけです。
ですから、言いかえれば、洪水のときに本来水が来るところに来なくて川の中に全部集まりますから、水位が非常に高くなっているわけです、
日本の川というのは。そこの縦断図というのをかいてみるとわかるんですけれ
ども、洪水時の水位というのが二階屋のてっぺんとかそんなところにまで来るようになってしまっている。ですから、
日本の川、沖積平野の
治水、堤防で守るというときに一番大事なことは、水位を上げないということなんです。まして人工的に構造物をつくったりして水位を上げるということはあり得ない話なんです。これは譲ってはいけない点なんです。
冗談めいた話で恐縮なんですが、例えばこの間「あすか」というテレビ番組があって、あそこに禄さんという非常に頑固な職人がいて、和菓子の心は何か、一期一会とか言いながら、自分の娘であるとか周囲の
人間がつくる売らんかなという菓子はだめだと。非常に頑固にこれだけは外せない点だと、職人として和菓子はここを外してはいけないということを主張して、万事最後はうまくいく話だったわけです。
治水の歴史をしょっている
大臣、いわばしにせの
大臣、しにせの主人なんです。ですから、もし世間様が間違ったことがあれば、道を外すことがあれば、
治水はここだけは外せませんよと言わなければいけないわけです。それは第十堰でいえば水位を上げるということなんです。もう既にうんと上げているわけですから、これをさらに上げるなんということはあり得ない。
河川管理というのはなかなか世の中に見えていかないんですけれ
ども、例えば橋を一本かけるときでもだめだと言うんです、
河川屋は。なぜか。橋をかけるとピアが立って洪水のときに邪魔になり、あるいは水位が上がる。それが原因で、たかが一センチのことで堤防が壊れて大水害が起こることがあるからなんです。
そういうことでやってきたわけですから、いつかの
お話の中でもありましたが、現在の堰を温存してそして堤防を少しでも上げればいいじゃないかと。これは知らない人が聞けばもっともに見えるんですけれ
ども、あり得ない話なんです、これは本来
治水として。そのあり得ない話をあり得ないんだぞと、それをしにせが言わなかったらだれが言うんだと。それを本気で言わなければ国民の
方々も信じませんね。そういう案があるんだと、お金が高いからこっちはやめようじゃないんです。それは初めからあり得ない話なんです、白紙に戻すとかなんとか言いますが。ですから、それを国民に対して言うのは、まさに水を預かる
建設省ののれんの社長が、雇われ社長でも何でも言わなければいけないわけですから、そこはやっぱりきちっと声を大にして言ってほしいと思うんです。
また話が変わって恐縮ですけれ
ども、阪神・淡路大震災、私は東京にいたんですけれ
ども、あのテレビを見ていたら高速道路が倒れた映像が出てきました。本当にびっくりしました。高速道路が地震で倒れるということはあり得ない、みんなそう言っていたんです。ところが、よく冷静に考えてみたら、むしろ技術屋として考えてみれば倒れたことに驚く方が驚くべきことなんです。当たり前なんです、ある
意味では。当然外力を想定して、その外力に合うように設計したわけですから、それをはるかに超える力が来たら壊れるのが当たり前。むしろ、ああ壊れたかと、大変な力が来たんだなと思うのが技術屋の本来の姿で、非常にある
意味で謙虚な気持ちを持っていれば当然に壊れ得るものだというふうに思うはずなんです。
自然を相手にする、そういう土木工学の世界ではまさにその謙虚さが一番大事なのであって、今回も吉野川で百五十年に一度と言うと、そういうありもしない洪水を出して住民をおどしてといったような表現の新聞がありました。これまた驚くべきことで、阪神・淡路大震災は何百年に一回の確率の地震ですけれ
ども、何百年に一回でも起これば何をやっていたんだと言うし、百五十年に一回の安全を保ちましょうと言うと、それを何かつくり話のように言われてしまう。非常に謙虚さのない話だと思うんです。
謙虚に自然現象に対応するとすれば、まさにこの吉野川の第十堰でいえば水位を上げられない。ほかのどこの場所で言っても水位を上げてはいけないんだと。ですからそれは、話し合って納得して議論して決める話とは違うはずなんです。
だから、そこのところが、私も一人の市民として、随分テレビでもラジオでもやられました、新聞でも言われました。聞いていて、そういうことが
建設省側からも伝わってこない。これでは、一般の人も多分そういうものだというふうには思わないんじゃないか。
日本における
治水の大事さということ。みんなめったに起こらないものですから安心し切っておりますけれ
ども、やはりここはきちっと
建設省の方で主張していただきたい。
それからまた、もう
一つ余分なことを申し上げますが、これは水をためる話ですけれ
ども、アメリカで、ダムは要らないと六、七年前に開墾局の
局長さんという方が言われたことがあるんです。それは、アメリカの開墾局ではもう長年の歴史がありますから必要なダムはつくったんです。ですから、これ以上つくらなくても今ある施設を合理化すれば足りるということでそういう話が出た。
それを聞いて、さて
日本のダム反対論者は喜んで、アメリカが要らないと言っているから
日本も要らないんだと、こう言ったわけですが、考えてみてください。私がうちへ帰って、おい飯だと言ったら、隣のうちは晩飯終わったからあなたも飯はないよと言われたらどうするんだと。大事なことは自分が今飯を食わなくちゃいけないのかどうかなのであって、そういうことを一切論評せずに、水を使おうと思ったらためるしかないんです。安全度が高いか低いかを議論するならいいんです。ただ単に、だれかが要らないと言ったら要らないんだといったような風評に惑わされるようなことでは、二十一世紀の
日本は本当にどうにもならない事態になってしまう。
これはちょっと話が外れましたが、そんな
意味で、要するに原理原則というものをきちっと言っていただかなければいけないということで、ひとつ御決意をお聞かせいただきたいと
思います。