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参考人(
植野妙実子君)
中央大学の
植野です。座って話をさせていただきます。
意見陳述の
機会を与えていただきまして大変ありがとうございます。
私の方の報告は、
レジュメを用意させていただきましたが、
レジュメでかなり細かく述べておりますけれども、かいつまんでまずお話しさせていただき、そして
質疑応答の中で補完させていただくという形をとりたいというふうに思います。
まず第一に
確認をしておきたいことは何であるかといいますと、
日本国憲法の中には、十三条に
個人の
尊重というものがあり、十四条に法のもとの平等、しかもその法のもとの平等の項目の中には
性別における
差別の
禁止ということが明示されているわけです。しかしながら、この
憲法の
条文がありながら、実は、一九八〇年代以降になってから大きな
女性問題の
解決に対するうねりというものが見られますけれども、それまではなかったといいますか、そのままであったという
状況、それがなぜあったのかということを
確認しておかなければいけないと思うんです。
本来であるならば、
憲法が
性別による
差別の
禁止を明示しているのであるならばそれで十分であったわけで、そこから
男女平等ということの明確な確立ということが成ったはずであったわけです。
そこで注意をしなければいけないのは、実は
解釈というものにおける
限界というものがありまして、これは実は今日までも続いている
解釈なのでありますけれども、
合理的差別を容認すると。
合理的差別を容認するということは、異なるものを異なるものとして取り扱うということは
差別ではない。このことを
男女に当てはめますと、
男性と
女性では肉体的な差がある、そのほかの差がもし認められるとするならば、そこから異なるものとしての取り扱いということを幅広く認めてしまうという結果になりかねないことであったわけです。そして、それが今日まで実は続いていたということになります。
もう
一つは、私
人間への
人権規定の直接
効力の否定ということがあります。これは、
憲法で書かれてある
人権規定というのは歴史的な経緯からして専ら
国家の権力を規制するものである、したがって私
人間においては、私
人間ということは、例えば
家庭の中であるとかあるいは
労働者と
企業、
使用者との間の関係ということにもなりますけれども、そういう中では直接的な
効力は持たない。したがって、十四条が書かれてあっても、それらは優先されるのは
私的契約という概念であって、そして直接的な
効力は持たない。しかしながら、間接的には
効力を持ち得るとするのが多数説でありまして、間接的に
効力を持ち得るということは、直接的には
効力はないけれども、それを実現する
法律があったときにそれを通して実現されるとするということです。しかし、これは
ワンクッション置くということになりますから、直接的な
効力を持っているということからするとどうしても弱いものになります。
それから、
男女平等についての判例というものは、専ら
解決を図る場合に十四条というものに言及はいたしますけれども、直接的には
民法の
規定の公序良俗というものの違反であるというような形で、やはりこれは
ワンクッションを置くというような
解決方法をとってきたわけです。こうした
解釈上の
限界があったということなんです。
それから、もう
一つ申し述べておきたいと思いますのは、
憲法には同時に二十四条に
家族生活における
個人の尊厳と
男女平等というものがあります。しかし、この
条文といいますのは、これは方針であるという
考え方が非常に強い
解釈としてありまして、具体的な
権利というものを導くものではないという
考え方が長い間とられてきました。しかしながら、今回のように
民法の
改正ということが浮上したときには、この二十四条というものを援用して、ここから
家庭の中における両性間の平等や
個人の
尊重というものを確立しようというような動きが出てきているということです。したがって、
憲法上においても、実はこの十四条や二十四条の
解釈がある意味では曲がり角に来ているというふうに考えられるということです。
こうした
解釈上の
限界というものをいわば吹っ切るような形になったのが
女性差別撤廃条約だというふうに思われます。
この
女性差別撤廃条約の意義を私、
四つにまとめて書いておきました。
妊娠、
出産のみが
男女の違いであって伝統的、固定的な
男女の
役割分担の廃止が不可欠である。それから、
差別的法律のみならず、偏見、慣習その他のあらゆる
差別的慣行の
撤廃を目指す。そして、
条約の
実効性が確保され、アファーマティブアクションも承認されているという形になって、いわば法上の平等からさらに進んだ実質上の平等というもの、事実上の平等を確保するという手だてが明示されていたわけです。中でも、
妊娠、
出産のみが
男女の違いであるということは、これまで
憲法研究者の
解釈として
男女の違いと言って述べられておりましたものが、私の方で資料として、これはジュリストに
憲法の性による
差別というものについて書いたものをお持ちいたしましたけれども、それの中にも見られますように、
肉体的条件の違いのみならず
生理的条件の違い、果てはさまざまな
条件の違いをここに持ってくる
研究者がいたわけでありますけれども、そうしたものがようやく吹っ切れるという形になり、
妊娠、
出産のみが
男女の違い、そういう形で事実上
国内法の整備なども進められ、そして今回
労働基準法の
改正とかそういうものにも結びついているということが見られるわけです。
そして、この国際的な
観念というものは、
男女平等の
観念の
明確化、それが
男女がともに
社会的責任と
家族的責任を果たすというものであって、違いというものは
妊娠、
出産だけであるという形でそれが次々に
確認されてきているということになります。
さらに、第四回
世界女性会議の中でも、
四つに私はまとめさせていただきましたが、
女性の
経済的自立、
女性の
労働の
男性と同等の正当な評価ということが
確認され、
人権としての
女性の
権利、それからリプロダクティブヘルス・アンド・ライツ、
性的自己決定権を含むかどうかは別な話ですけれども、そういうものがあることの
確認、そして平和と平等、その基本としては
人間の
安全保障の
考え方、この
最後のことも非常に重要なものであって、実はこれは九四年の
人間開発報告書の中で述べられていることなんですけれども、
国家を中心とする
安全保障から
人間を中心とする
安全保障へという道筋がありまして、そうしたことの延長として
社会的な不安定要因をなくすことが平等というものであり、そしてさらには平和の確立につながっていくんだという
考え方が明示されているということです。そして、この北京の
女性会議の中でとられた宣言と行動綱領の中でもアファーマティブアクションが承認される分野として
労働、教育、
政治という分野が挙げられているわけです。
日本の
現状と
課題ということについてはちょっと置かせていただきまして、実は私、
大学の方でも
フランス法、公法を教えております。
フランス法も専門としておりますところからこうした話もさせていただきたいと思います。
先ほどの
岩本先生の
意見陳述の中でも出てきましたけれども、
フランスは最近まで決して高い
女性の地位があったというわけではありませんでした。しかしながら、一九九四年に、私、
中央大学の中で
日本比較法研究所というところがあるんですが、そこの
女性の
権利グループを主宰しておりまして、そこで東京
女性財団からお金を援助いただきまして九四年に
調査をいたしました。そのときの
調査の題目というものは、専業主婦に対する保護政策の批判的検討、日仏比較を通してということでありまして、専業主婦に対する保護政策が
女性問題の
解決を阻害しているのではないかということに着目して日仏比較をしようというふうに試みたものでありました。
その結果、実は
フランスではどこでも聞かれることは、法的平等というものは達成した、残るは事実上の平等、すなわち意識の上での平等である。その平等を達成した
現状というのは、保育それから介護というようなことの制度の充実、とりわけ私
たちが注目いたしましたのは、寝たきりの高齢者を抱えてもキャリアウーマンが休むことなく自分の仕事というものに邁進できるというような状態がある。それから、オプションでつけられるものはあるけれども、最低限の介護というものに関しては自分自身の年金で賄うことができるというような
現状も見ました。
そして、さらに重要なことは、その保育をする側あるいは介護をする側といった、そうした人
たちの
権利の保障ということも十分に考えられている。すなわち、どういうことであるかというと、
労働時間の短縮それから休暇の充実、そういうものによって補完ができるという部分があるということです。さらに、フレックスタイムなどの導入というのも
企業で図られておりまして、父親の
家族的責任というのも十分に図られるようになっているということです。
しかしながら、当時でも
政治の場における
過少代表ということは問題になっておりました。しかし、これについては、私
たちの方からは小
選挙区制が弊害なのではないかというような質問の矛先を向けますと、返ってくる答えは、いや、そうじゃない、
政党内改革の問題なんだ、
政党内で
男女平等というものが成り立たない限り平等というものは
政治の場において出てこないという力強い言葉というものを受けたわけであります。
そして、最近ではようやく、先ほどの話にもありましたように一〇%以上になったということですが、まず注目すべきはどういうことであるかといいますと、組閣のあり方、これが違う。発足時、ジョスパン首相のもとでは二十六人中八人ということでありましたけれども、現在は十人になっております、
女性閣僚。しかも重要な点は、
女性に向いているというような職域の大臣に
女性を入れるということではなくて、非常に
政治の重要
課題となっているところに
女性大臣を入れている。例えば法務大臣、
労働大臣、環境大臣といったような
課題の
解決が非常に重要であると思われるところに入れているということです。しかも、ジョスパン首相は、もとよりパリテというようなことについて公約をしておりました。このパリテというのは
男女同数という
考え方であります。
実は、「
フランスの動向」の中の三以降について書いてありますところがこのことにかかるわけなんですけれども、このパリテの関係する条項、すなわちパリテという言葉自体を実は使ってはおりませんけれども、パリテ条項というふうに言われるものが昨年の七月、
憲法改正になりまして、
改正として入っております。
男女同数という
考え方が入っているということです。
こうしたような、このパリテの
考え方が入ったということによって、これまで
日本では、先進国の中では
フランスが比較的
政治における
過少代表があるということで、昨年の
男女共同
参画白書などにおいても
フランスとの比較をしている部分というのが随分あったわけですけれども、これによってかなり
状況が変わってくるだろうということが想像できるわけです。この
憲法改正に伴いまして、ことしに入ってから
候補者リストにパリテを適用する
法律の採択というようなものにも至っております。
実は、ここに至るまでの経緯というものがありまして、これは決して簡単なものではありませんでした。後ほど御質問があれば詳しくお話ししたいというふうに思いますけれども、八二年に実は市町村の
候補者リスト、
議員の
候補者リストの中に、いわゆる
フランスではディスクリミネーションポジティブ、
日本語に訳しますと積極的
差別というふうに訳せるんですけれども、アファーマティブアクションということです。これを入れた
法律というものが実は
フランスでは違憲判決を下されてしまったわけです。
すなわち、
政治の場面で何とかこの
状況を打破したいというふうに思ったんですけれども、まず
地方からということで入ったにもかかわらず、そうした
法律が違憲判決を受けてしまったということに対して、これはどうしたものかということで、にわかにこのパリテ、同数という
考え方が入ってきたんです。
アファーマティブアクションであるとどういうような面が問題になるかといいますと、アファーマティブアクションというのは、三〇%にするのかあるいは四〇%がいいというふうに目標数値を設定するのか、これは甚だ実はあいまいなわけです。実は人口比率からいいますと、
フランスでも
女性の方が過半数を占めているわけです。人口比率で過半数を占めていながら、実際上そうしたアファーマティブアクションでパーセンテージは開きがあるということをどのように説明するのか。
それから、アファーマティブアクションというのは、これは暫定的な措置というふうに言われるわけですけれども、じゃ、暫定的な措置ならば、達成したというふうに見られるときは一体いつだというふうに判断をすべきなのか、判断をした場合にはその
法律は引っ込めるというふうになるのかどうなのかというような、そうした難しい面をいろいろと抱えているというようなことで、これは平等ということを推し進めている方からもいろいろと疑問があった点であったわけです。
そして、むしろそうであるならば、
代表性というものに着目すると、
人間というものは女と男しかいないんだ。そういうものからすると、女と男が同数程度
代表されているということになれば、それは本当の意味での平等ということを確保できるのではないだろうかというような
考え方が非常に広まっていったということです。
しかし、このパリテというものを実際に
法律に入れるということに関しては、
女性団体などもかなり運動を繰り広げておりましたけれども、なかなか
法律学者の中ではパリテでもやはりもちろん難しい、すなわちどういう形でそれを取り入れるのかというようなことについて疑問がある、あるいは
憲法のよって立つ根拠
条文をどうするのかなどというようなことに非常に疑問があったわけです。しかしながら、今回、
憲法改正という形で入りました。
これは、ある意味ではジョスパン首相の公約がある程度結実したというような形になるわけですが、そういうふうな形で成ったと。そして、
日本においてこれを引き比べて考えますならば、やはり
フランスのようなある意味ではカンフル剤というようなものが
日本においても必要ではないのか。
日本ではよく時期尚早というような言葉が使われますけれども、平等というものはある意味でつくり上げてこなければならないわけです。なぜならば、やはり
差別意識というものは固定化して長い間あるものなわけです。アファーマティブアクションというものも決して平等達成になるというふうに
確認されているわけではないわけですけれども、しかし、このようなものを用いるということによって、
女性がさまざまに今まで受けていた固定
観念、そうしたものを排除する、そういうようなことになっていくだろう。
私は、考えますならば、このアファーマティブアクションに対しては、
日本の憲
法学者ももちろん容認しているわけではありません。こういうようなことについても御質問があればお答えしたいというふうに思いますけれども、いろいろな難しさもあります。それから司法の場においても、平等ということに対して、先ほども言いましたようになかなか難しい面があるというようなことを打破しなければいけない。
もう時間が過ぎましたから
一つだけ申し上げておきたいと思いますけれども、司法の場で考えておかなければいけないことは、これまで
男女平等ということが成り立ってきたのは国際的な動向を受けてということが大きかったわけです。しかしながら、立法の部門でもそうかというふうに思いますけれども、司法の部門でもなおのこと国際的な動向を受けてこういうふうにしなければいけないんだというようなことは出てきておりません。
すなわちどういうことであるかというと、司法の分野においては国際法規というものの重要性というようなことはまだ非常に消極的にしか考えられていない。弁護士さんの方では国際法規にのっとって弁論を展開するということもございますけれども、しかしながら、それを裁判官の側が受け入れるというようなことは極めて限られた場面でしかない、非常に少ないというふうに言わざるを得ない。むしろ国際的な動向というものによってやはり
日本も変わらざるを得ないし、本当の意味での平等確立のためにはこういうようなことをしなければいけないんだ、そういうような認識が必要であるというふうに思います。
男女共同参画社会基本法ができたところでありますけれども、ここの五条に
政策決定過程への
参画ということが書かれておりますが、ここのところで何らかのもう少し強い文言が欲しかったところだなというのが実は私の感想であります。
以上であります。ありがとうございました。