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太田(昭)
委員 この間、
中教審の答申ですか、ありまして、少子化という中での
教育ということなんですが、私もかねがねそう思っていまして、
子供の問題というのは親の問題。私は昭和二十年生まれですが、
子供が非常に少なかった。それからすぐ、団塊の世代が来た。それが進んでいく。三十年代からテレビというのが入ってくる。そして、世の中が高度成長というようなことになってくる。高度成長
時代、あるいはその情報、
環境。
つまり、
教育というのは常にそうした、
子供たちから大人に至るまで、どういう社会が待ち受けていて、そこの中でどういうように展開されるか。そして
教育体制、その中でどういう
教育が施されたのか、そのときの親というのはどういう心象風景であったのか、社会というものがどう変化していったのかという、そういう相互的な作用の中での
教育ということを展開する必要性が当然あろうと思います。
昭和二十年代に生まれた人たちを、どういう社会が待ち受けていたのか、どんな
教育体制であったのか。三十年代は明確に、また待ち受けていた
教育体制というものと社会というものが違う。
文部省も徐々に徐々にそれは変化をさせてきたのでしょうが、特に団塊の世代の
子供たちが非常に数が多いということで、あるいはタイミング的に言いますと、団塊の世代の
子供たちがどういう
教育を受けて
日本再建というものに立ち向かうか、私は、そういうタイミングというのは非常に大事だと。この機を逸した場合には、これから親もなかなか
教育がうまくいかないときかもしれない。
親が少なかった三十年代、昭和三十五年ごろは一番少なかったわけですね。それから団塊の世代の
子供たちがふえた
時代がある。そして、ずっと少子化傾向になってきた。
教育というと、少子化というものにどう対応するかということも大事だが、団塊の世代の
子供たちというのは二百万人にも及んで非常に多いわけですから、ここにどういう
教育というものを、
日本全体で数が多いわけですから、ここがしっかりしてもらわなくてはならない、社会学的な
観点かもしれませんが、私はそういうことが必要であろうというふうに思っております。
子供というだけでなくて、親が一体どういう親なのか、いつ生まれ、どういう社会が待ち受け、どういう
教育が行われ、どういう
価値観が強いられたのか、こういうことの分析の中から、私は、団塊ジュニアというのをバックアップしようということが、今
日本全体ということからいきますと数が多いわけですから、大事だなという気がしております。
そういう
意味では、
子供の問題は同時に親の問題ですから、この親の問題ということに焦点を合わせた場合に、私はその生涯
教育というのはますます大事になると思います。どうも親が、大人の幼児化傾向ということがずっと言われますね。
この間、ちょっと昔の私の切り抜きなんかを見ていたら、昭和五十二年、このときの新聞の切り抜きが出てきまして、大人の幼児化傾向、雑文
文化なんということが書いてあるわけです。
私はそのころ盛んに論文を書いたりしまして、一九三〇年代のファシズムの中におけるドイツのフランクフルト学派、アドルノとかベンヤミンとかそういう中で、大衆社会化
状況においてどういうふうに人が幼児化傾向をもたらすかというようなことで、よくヨハン・ホイジンガなんかについて私は論じたことがあるのですが、同じように、今はもっと、ローレンツが言うような幼児性の
指摘、ヘルマン・ヘッセなんかも雑文
文化ということを言っているのですが、どんどん——どんどんというわけではきっとないのでしょう、上の世代から見ると非常に、ロゼッタストーンの
時代から、今の若者には困ったものだなんということが書かれていたということがあるわけです。
しかし、それにしても、
文化というものがヘルマン・ヘッセが言う雑文
文化というようなことに現実には確かになっているでしょうし、幼児化傾向というもの、その辺のことをどういうふうにしていくかというようなことが私は非常に大事な問題ではないかと思います。
なかなかお答えにくいかもしれませんが、そうした思想的、哲学的な、大人の幼児化傾向、大人になり切れない、こういうことについてどんなふうにお
考えなのかということをお聞きしたいと思います。