○
池内参考人 おはようございます。名古屋
大学の
池内であります。
私は、宇宙物理学というおよそ世間と縁のないようなことをやっておるんですが、いつの間にやら、こういう場に引っ張り出されるようなことになりました。と申しますのは、そうですね、この十年間ぐらいで、
大学、特に
国立大学は非常に大きく変貌してまいりました。いろいろな
意味で変貌してまいりました。
例えば、いわゆる教養部がなくなって、
大学四年一貫制
教育というのが始まったわけですね。例えば私
たちの
大学では、重点化で
大学院、私は重点化によって
大学院の
教授ということになる。そういう形で、かつそういう
意味では
大学がいろいろな
教育を引き受ける
状況になってきた。その
意味では私の
学生時代の、例えば三十年前とは大いに異なってきたのは事実であります。
そういう
意味で現在
大学は非常な変革期であるのは事実であって、かつ、今回の
法案に出ております、例えば東京
大学とか九州
大学が
大学院を改組する、
研究部と
教育部に分ける、そういうような案が出ておりますが、ある
意味では、これは遅きに失したかもしれない。つまり
大学自身が、非常に限られたイメージの中でつくられた法の中で、長い間同じスタイルを保ってきた。無論その中でいろいろなスタイルがあってよかったにもかかわらず、そういうことがなかなかなされなかったというのが事実であります。それが現在行われているんですが、非常に私は残念に思っておりますのは、その進み方が余りにも拙速であるということです。
例えば、四年一貫制、名古屋
大学は六年ほど前に開始しましたが、その成果、つまり現実の
教育はどうあるのか。それから
学生自身も、
社会が変化するとともに
学生も、先ほ
どもありましたが、変わってきているわけですね。分数ができない
学生とかなんとか、そういうことも言われておりますように、いろいろな
意味で
学生の質も変わってきている。その中で
大学教育も変わっていく。その結果をどのように、私
たちがやっているのをフィードバックをかけながら進めていく必要があるんですが、余りにもその時間がないということが私にとって非常に残念であります。
無論、それが私
たちの、
大学の人間の
努力が足りないからだと言われればしようがないんですが、余りにも現在のいろいろな
制度改革が急速に進んでいく中で、私
たち自身がゆっくり考え、ゆっくりフィードバックをかける
状況が少ないということを、私は非常に残念に思っております。もうちょっとゆっくり考え、思考をしながら次のステップへ進むということがやはり必要であると思っています。それがまず第一点であります。
第二点目は、
評価機関について今回の
法案に出ております。それに関して私
たちは、はっきり言って、正直に言いますが、現在の基盤整備が十分なされないまま、例えば三年前に任期制が施行されました、今回は
評価機関という格好で、いわば一生懸命しりばかりたたかれているというのが正直なところであります。
これは御存じかもしれませんが、「ネーチャー」の一月六日号に、
日本の科学者よ、アクションすることを学べと書いてあるんですね。マスト・ラーン・ツー・テーク・アクション。これは要するに、あなた方は非常にすばらしい仕事をしているではないかと。例えばケミストリーでは
世界第二位、東京
大学が第二位、名古屋
大学は第四位。論文数、論文引用数等で判断するとそうである。にもかかわらず、あなた方の
研究場所はすごくひどいではないかというわけですね。これはアジアの特派員の方が、いろいろな
大学を見た中で、これほど劣悪な中で、これほどすばらしい仕事をしているのにもかかわらず、
大学のあなた方は何で黙っているのかということが書かれているわけです。
私
自身は、現実にそうである、確かにおっしゃるとおり。それならそれで、もっと
大学の
先生方は、皆さん、
国民の方に知ってもらうように言いなさいよと。そうです。我々はそうしなければならないと思っています。
現実に有馬前
文部大臣、彼が東京
大学の総長時代にそういうことが行われて、一定よくなったわけですね。ところが、それは途端に数年前からまた落ちてしまいました。今回、学術
会議のこの前の総会で、
大学の
研究施設整備をせよという勧告案が出ましたが、それにも、
大学のひどい
状況が書いてあります。にもかかわらず、やはり
それなりの仕事をしてきている、
それなりというか、誇っていい仕事をしていると僕は思っております。
それで、今度は三月二日号の、やはり「ネーチャー」なんですが、これは
日本の早稲田の
先生が書かれたものなんです。そのアクションをせよというのにこたえてアクションされたわけですが、英語で全
世界に、
日本の
大学の
現状で、
大学院大学に重点化でなりまして、
大学院生の数がずっとふえているわけですね。現在、十八万人ぐらいまでにふえている。
大学院の
学生数のふえ方と、
研究施設のスペースのふえ方を見事に書いて、見事にギャップが生じているわけですね。スペースのふえ方はずっとゆっくりしているのに、
学生数は急速に上がっている。かつ、これは二十五万人計画になっております。これはまだまだ上へ上がるわけです。
こういう大きなギャップ、施設整備とか基本的な部分での整備がなかなかなされていないにもかかわらず、いろいろな形での
改革を
要求されていくということに対して、正直言ってフラストレーションを感じているというのが私の正直な気持ちです。
例えば、この施設整備の中でも、実は私は全国五つの
大学をめぐり歩いてきたんですが、京大、北大、東大、阪大、名大と五つ、旧七帝大の五つを回ってきたんですが、この七帝大と言われている、
日本では一流の大きな
大学ですが、その中でもやはり大きな格差がありました。
かつ、私はいろいろな
大学に集中講義に出かけるわけです。三十
大学ぐらい今まで回ってきましたが、地方の
大学あるいは単科
大学等に来ると、さらに条件としては厳しい。はっきり言って、建物
一つ見ればわかりますね、どのような条件にあるかと。そのような、非常に大きな格差が残されたままであるということ。
この二つの点に関しては、私は、はっきり
現状を、文教
委員の皆さんには
状況を知っておいていただきたい、押さえておいていただきたいというふうに思います。
そのような中で、今回、
第三者評価機関というものが出てきました。私は
評価を拒むものではありません。ある
意味では、積極的に
評価に関してはやるべしというふうに考えてまいりました。例えば三年前の任期制のときにも、私はこう言ったんです、我々は動くべきであると。しかし、お上に言われて動くというのは何たることか。
大学の
先生として恥ずかしくないのか。我々
自身の手で現実の厳しい
評価をできるような
大学にしなければならない、そのような
大学人でなければならないというふうに思っております。
その
意味で、今回の
第三者評価機関も、我々
自身がこの中身をいかに有効にするかということを真剣に考えねばならないと思っています。にもかかわらず、今回のこの資料集を見ますと、いろいろな面で私は問題があるというふうに感じているわけです。
実は
評価というのは、特にそれは資源配分等にはね返るということになっておりますが、
評価は、本質的には、そこで学んでいる者、あるいは我々のような
研究、
教育を行っている人間に対してエンカレッジする、力づけるものであるべきであろうと思っております。ディスカレッジする、つまり、優劣あるいはランクづけを行って、おまえさんはだめだ、おまえさんはいいということをしていくものではなくて、
現状はこうであって、ここにいろいろな問題があるが、ここはこうすべきであろうというような形でのエンカレッジしていくものでなければならないと私は考えております。
その
意味では、先ほど言われましたが、質を
評価するというふうにおっしゃいました。実はこれは非常に難しいことなわけですね、質というのは。我々は肉を表面から見ただけではわからないわけです。食べてみないとわからない。だから、基本的には今まではやはり、先ほどおっしゃいましたように数量、論文数とか引用数とかインパクトパラメーターとかいろいろな数値がありますが、そういう定量化するもので判断しております。これはいわば肉をはかりにかけるとか、体積、密度がどれだけとか、そんなものを調べているようなものでありまして、やはり本質的には、それはいい肉か悪い肉かは食べてみないとわからない。
つまり、質を判断するのは、そこの最も近い
現場の人、ここではピア・レビューという言い方をしておりますが、つまり同僚者批判、
評価なんですが、その
評価をするということになっております。それ
自身は実は、少なくとも私
たちの理系
分野では既に十分行われてきている側面があると私は思っています。無論、後の公開の問題、これはこれから言います。
つまり、例えば私
たちは
科学研究費補助金というのをもらっておるわけですね。これはせいぜい長くて三年、通常は大体二年とか一年です。それを常に出していくわけですね。それが当たらないと、なかなか
研究費は保障されない。
あるいは、この数年間、特に科学技術基本計画ができてからいわゆる競争的資金といっていろいろ新しい事業に、
文部省なり科学技術庁なりいろいろな省庁が事業を行って、いわゆる競争的資金というのがたくさんあって、これも我々が常に応募しているわけです。いろいろな形での応募という格好で、既にいろいろな面での
研究評価はなされているわけですね。
あるいはいろいろの面で、例えば私はさっき五つ
大学を回ってきたと言いましたが、それはいずれも公募でありまして、私は延々と履歴書を書き、論文のリストを書き、
研究計画を書きというふうに、これによってレビューされているわけです。
その
意味では、
評価というものを単に
評価機関で
項目を決めてやるのではなしに、例えば今のような実質的に行われているものを
参考資料にする。あるいは、
人事というのは基本的に公募であり、その公募によって客観
評価が行われるべきものである。そういう日常的に行われるもの、通常行われ得る事柄を各
大学が通常的に行いなさいということを明確にするというような方が、私は重要であるというふうに思っております。
無論これは、
一つの
評価機関という格好というよりも、むしろ日常的な
大学の業務、仕事の中でそういうものを厳しく
評価し合う風土というのですか、学風をつくるということこそ最も重要なことであり、そのような雰囲気をいかにつくり上げるかということを本来考えるべきではないかと私は思っております。
それから、先ほどの
教育に関する
評価というのは、確かにこれは特に難しいというふうに思っています。ここの資料では、例えば
学生の就職とかいろいろな面でやはり定量化する、一流会社へ行けば五点、二流で三点とか、そういう定量化も僕は非常に恐れているわけですが、そういう定量化できるものが結局使われていくのではないか。
学生のエバリュエーションというのは確かに非常に重要でありまして、その点では、先ほど言いましたように、日常的に
大学自身でやるべきことの中で、その
評価そのものをやはり公開する、オープンにするということが我々は非常に重要な基本的な原則ではないかと思っています。
例えば、
学生の
評価を張り出せばいいんですよと僕は言うんです。つまり、五十人の
学生がいて、その六割の
学生が、この
先生の
授業はおもしろくない、
先生は勉強していないということを指摘したら、これは当たっているわけですね。五十人のうち二人だったら当たっていない。しかし、六割だったら大体傾向は正しいわけです。そういうような形での個人の
研究、
教育に対しての厳しい
評価、あるいはそれがさらされるということは、僕
自身はやってもらって構わないと思うし、それは当然やるべきだろうと思っています。そういう形のものこそ重要でありまして、
評価項目を決めて、これに何点何点とつけていくような
評価そのものは、私は形式に流れるだけであるというふうに思っております。
それからもう一点は、今回の
評価機関の
教育及び
研究評価で、五年周期で、かつ結果が資源配分の
参考になるというふうにこの資料には書かれておりますが、私はこれは非常に問題が大きいと考えております。
特に今念頭に置いているのは
研究評価なんですが、
教育にも実際わたっていると思いますが、
研究の場合は、例えば
評価というのはこれまでの仕事に対してなされるんですね。しかし本来的には、萌芽的、あるいは今後長い時間で見てすばらしい、独創的な仕事というのは、これまでの
研究業績だけでははかれないわけですね。
単純に、こんなことは言わぬ方がいいかもしれませんが、私はこの年になりましたから、例えば私の仕事は萌芽的というよりはこれまでの
研究業績の中で総合的に見るとか、そういう側面になると思います。だから、例えば三十歳の若手の
研究者にとっては、まさにこれからなわけですね。あるいは三十五歳の方、そういう若手の
研究者と違うわけですよ。そういう場合に五年周期でそういうものをはかられた場合どうなるであろうか、あるいはまだ現在仕事を構想している中でまさにそういう
評価というものが進められたらどうなるであろうかということを、私は非常に心配しているわけです。特に若手に対する、若い
研究者が
大学に残らないのではないかということを非常に心配しております。
それから五年周期というのは、果たして
研究というもの、あるいは
教育というものが五年の期間ではかれるものか。それ
自身が特に長期的な仕事を必要とするもの、私
たちのような天文学のような
分野、あるいはフィールドに出るような
分野ですね。フィールドもそうなんですが、あるいは発見法的な、例えば考古学上で大発見があったといいますけれ
ども、あれは初めから考えてあったわけじゃなしに、偶然あるようなわけですね。そういうような仕事にとっては、いつどのような新しい発見があるかわからない。読めないわけです。
そういう
分野にとっては、むしろじっくりとそういう時期を待つ、あるいはそういうことがあったときにすぐ対応できるような
体制をつくっておくということが重要でありまして、その
意味で、五年周期で、かつそれが
研究費あるいは人員等にはね返っていく、資源配分にはね返っていくということは、いざというとき、そういうときには非常に問題を生ずるのではないかというふうに思っております。
そろそろ時間ですが、もう
一つ、この
文教委員会等で議論していただきたいのは、直接この
法案に
関係ないことを申し上げて申しわけないんですが、私
たち大学の人間にとって、やはり
概算要求等で新しい計画を進めていっているわけです、あるいは大きなプロジェクトを進める。いろいろな機関から出していくわけですが、
現状では、
文部省及び大蔵省の最終的な予算
要求で決まっていくわけです。
ところが、やはり大きなプロジェクト、特に十億円を超すような大きなプロジェクトは、本来国会のこういう
文教委員会で——
アメリカでは科学技術
委員会というのがありますが、そういうところで大きなプロジェクト等を議論して、いろいろ、こういう
研究者を呼んできて、仕事の
内容を吟味した上でプロジェクトが進められていくわけですね。実は、
日本にはそういう
システムはない。残念ながらありません。せっかく
国会議員の方々がおられて、そういう新しいプロジェクトを進められる、考える
機会をつくり得るんですから、私は、この
文教委員会というのは本来そういうことをやっていただきたいというふうに思っています。
最近
アメリカのブラウンという議員が亡くなったんですが、彼は
アメリカの科学技術
委員会を三十年ぐらい務めた人で、「ネーチャー」にちゃんと弔辞が出て、彼がどういうことをやったかというのが出るわけですよ。
そういうふうに、
日本の、特に大きな
研究プロジェクトに関しては、やはりこれは国家の
一つの重要な仕事でありますから、そういうものをちゃんと議論する場、まさにそれは
評価する場であると思いますが、そういうものをこそちゃんとしたものにしていただきたいというふうに思っています。
ちょっと出過ぎたことを申し上げましたが、私の
意見とさせていただきます。(拍手)