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山本(孝)
委員 田中先生、ありがとうございます。
これまで出ている
判決の中で
解決済みというものはありませんし、そして
大阪高裁は
憲法十四条に違反する
疑いもあるというふうに言いまして、私
たちは、
司法から発せられている
メッセージを、
立法府として、これは
虎島先生ともいろいろ御相談させていただきながら、
国会としてきっちりこたえていかなければいけない、そういう
思いの中で、残念ながらスタンスが違いまして、私
たちは私
たちの案を出させていただいたということだと
思います。
やはり、
原告らのこれまでの訴えをしっかりと受けとめていきたいと思っておりますし、きょうは
資料ということで、「
在日の旧
植民地出身者元
軍人・
軍属の
当事者・
遺族の
思い」というものを
皆さんのお席に配付させていただいています。
私がそれをお読みしても、
当事者のこれまでの長い長い
期間の御苦労、私が拝察するに余りあるところがあって、決して、しっかりと
皆さんのお
気持ちをお伝えすることはできないと
思いますけれども、
資料をお配りしても残念ながら
議事録に載りませんので、多少時間をおとりして恐縮でございますけれども、これは
与党側の
先生方にとっても、
法律の出し方は違っても、同じ、お一人お一人のお声として受けとめなければいけないということだと
思いますので、若干はしょりながら御紹介をさせていただきたいと
思います。
滋賀県にお住まいの
姜富中さん、きょう後ろの席でも傍聴にお越しになっておられるのですけれども、
私
たちに対して
補償をしていただけることはたいへん喜ばしいことですが、現在論議されているわずかな一時金による
補償ではとても納得がいきません。また、これまでの苦難の生活をふりかえると怒りすら感じます。
国会議員の
皆さん、戦後五五年もほったらかしにしておいて、このような
補償が人道的といえるでしょうか。これでは問題
解決にならず、新たな差別をつくり出すことにしかなりません。
私は、
日本人と同等の
補償と
謝罪を求めています。このことなくしては私の
戦争は終りません。
私
たちは、やはりこの声にこたえたいというふうに
思いました。
陳慶一さん、これはお亡くなりになった陳石一さんの御
遺族でございますけれども、
私の父は、一九三九年十九歳の時、船員として乗船していた船ごと、海軍に徴用され
軍属となりました。四五年二十六歳の時、航行中、連合軍の攻撃を受け、左足を(膝下三分の一を残し)失いました。
敗戦後、自分の意志とは関係なく
日本国籍を喪失し、何の
補償もないまま、九四年五月十四日七十五歳でこの世を去りました。
歴史を振り返ってみますと、侵略
戦争をおこし他国を植民地にし、その国民を自国民として徴用した国は、
日本だけでなく多数あったようですが、事後の
補償問題で
植民地出身者と自国民を差別しているのは、地球上で
日本だけだと聞いています。
片足を失って、約五十年の人生を振り返り、父は「私にとって
日本という国は何だったのか?また、
日本にとって私は何だったのか?」と、疑問を残しています。父のこの疑問に対して、
日本政府は人間らしい対応で、また、歴史に恥じない
解決がなされることを切望いたします。
と切々と述べておられます。
私が一番心を打たれましたのは、これは
恩給法の問題で今
訴訟になっておられますけれども、李昌錫さんのお嬢さんからのお
手紙でございます。李昌錫さん、一九二五年生まれ、七十五歳。今京都市内の病院に入院中で、最高裁まで
裁判が続いております。長くなって申しわけありません、お配りしたお
手紙は若干省略をされておりますので、できるだけいただいたお
手紙に即して御紹介をしておきたいと
思います。
まずはじめに、私は、
軍人恩給を求めて係争中である、京都在住の李昌錫(小林勇夫)の娘の小林泰恵(二十六歳)と申します。
父の言葉に「
日本政府に対して恨みがあるわけではありません」とありますが、これが、父の本当の心からの
気持ちであることは、父を知れば知る程、伝わってきます。父は朝鮮民族の誇りの上に、
日本軍人の誇りを合わせ持ち、時代の流れに逆らわず、誇りだけを保って生き抜いてきた人です。父は
日本軍人に志願し、二年の軍隊生活、八年のシベリアでの抑留生活、生まれてから起こったこと全ては、「時代の流れで仕方がなかった」とよく言っていました。当時は、黒パン一切れでも
日本人と分け合った仲と、自分だけが辛い経験をしたとは思っていません。
日本政府に対して、恨みつらみが爆発した提訴ではなく、何十年もの間、ひとりの人間として、平等を願う、自分の存在を認めてほしいという
思いの提訴でした。戦後という時代が流れていく中、
国籍という引かれた線の溝に、すっぽりはまって誰にも気づいてもらえなかった父が、提訴という形で世間にやっと気づいてもらえました。父は「見えない人」から「見える人」になりました。けれど、今なお父は、その引かれた線の溝にはまっています。一刻も早くその深い溝から父を救い上げてほしいです。そして、その線の内側へ父を導いてほしいです。何とか、父のひとりの人間として平等を求めるささやかな願いをどうか叶えてほしい、そう思っています。
私もまた、
日本に対して憎いとかくやしいとか考えていません。どちらかというと情けないという感情でいます。これまでも、これからも、生きる
日本に対して、自分が属する
社会だからこそ、憎むというよりも、よりよく住みやすい
社会になってほしいと考えています。だからこそ、一刻も早く父を救ってほしいです。父の問題は、
日本の戦後
補償を見直す
最後のチャンスであると強く感じます。そしてそれは、
日本人にとっても、私
たち在日にとっても、この
日本で共存していく人間として、誇れる
社会を、誇れる
日本を取り戻すことができる
最後の希望にも感じられます。どうか、よろしく
お願い致します。
というお
手紙をいただいて、二十六歳という年齢で、
戦争ということは全く知らない、
日本の教育の中で、余りその時代のことは教えられていないと
思います。しかし、お父さんの生きる姿を見て、何とかやはりこの
思い、
日本人と同じようにしてほしいんだと。
虎島先生も、この間
お話をしていたときにおっしゃいました。多くの方が同じように
日本人の名前になって、
戦争に
参加をして同じ砲弾の飛び交う中をくぐり抜け、シベリアでこの方の場合は八年も抑留をされて、大変に苦労されてようやく
日本に帰ってこられて、戦後ずっと
日本人と同じように生活をしてきて、何ら
補償されてこなかった。ようやく今それが動こうとしているときに、
台湾の例はありますけれども、その例と同じ形でこたえることしかできないんだろうか、私は、
立法府として、我々
国会議員として、もう少し考えようはないのかなとやはり思うんですね。
先生方が御苦労いただいたことも私よく存じ上げておりますけれども、やはりこの言葉、あるいは
大阪高裁の
憲法十四条に違反するのではないかというこの疑念、提示されたことをどう受けとめられて今度の
与党案という形になっているのか、ぜひお聞かせをいただきたいというふうに
思います。