○柳沢
委員 自由民主党の柳沢伯夫でございます。
ここ二十年ばかりの間に、
日本国憲法のここをこう改めるべきだという有識者の提案が幾つか積み重なってまいりました。
現行憲法が使用している法律用語の誤りの指摘を初め、個別に特定の事項を取り上げたものは枚挙にいとまがないと言ってよろしいかと思いますが、
憲法前文の修正案、改正案をまとめたものも、私が偶然手にし、保存しておいたものだけでも、昭和五十八年の竹花光範先生のもの、五十九年及び
平成三年の中川八洋先生のもの、
平成三年の西部邁先生のもの、
平成六年の読売新聞社のものと、四点に上っております。これらの労作において、私どもは、
憲法改正論なるものがどんな事項を問題にしようとしているか、改めて俯瞰することができると考えます。
何点か例を挙げますと、統治機構の問題としては、
主権の所在、天皇の地位、参議院のあり方、
首相の権限、
憲法裁判所の新設、緊急
事態宣言の制度などでありまして、片方、
人権のカタログとしては、人格権、プライバシー、
環境権、知る
権利などであろうかと思います。これらはいずれも重要な事項でありまして、これらの事項について
論議することを私は軽視しようとは思いません。
しかし私は、今回の
憲法調査会の
論議で避けてはならない最も
基本的な
テーマは、やはり第九条であると考えております。
そもそも、私がさきに挙げました包括的な
憲法改正案の発表時期からも明らかなとおり、
憲法論議の大きなうねりは、
我が国の
安全保障のあり方の問題性を浮かび上がらせるような
国際紛争を契機として生じてまいりました。
すなわち、昭和五十四年十二月末に
ソ連のアフガニスタン侵攻があり、この事件は、
ソ連が侵略的な国であることを事実において示したものと受け取られました。
国会は、その翌年、昭和五十五年の通常
国会で、
共産党を除く全野党の賛成のもとで衆議院
安全保障特別
委員会を設置しました。有識者の間にも
論議が起こりました。清水幾太郎、江藤淳らが
現行憲法を批判し、猪木正道や上山春平氏らがこれを擁護しました。
そして、いずれにせよ、この事件を境に、
我が国民の
安全保障問題に対する考え方は総じていわゆる現実主義的になり、
憲法論議がタブーでなくなったのであります。
次は、イラクのクウェート侵攻に対して、
平成三年一月に開始された多国籍軍によるイラクへの軍事的制裁がございます。
このとき私は、偶然ワシントン訪問中で、連邦上下両院において行われた徹夜の全員演説を終えたばかりのビル・ブラッドレー上院
議員と面会しました。そして、平素あの思慮深い物言いをする同氏から、
日本を同盟国として信頼してきたのに、我々がこれほど苦渋の決断をするとき何もしないとは何事か、全く失望したという趣旨の率直な言葉を聞いたのであります。
言うまでもなく、今回の本
調査会での
論議は、湾岸
戦争において
我が国がとった
立場をめぐる
論議の延長線上で始められたものと考えてよかろうかと思います。それだけに、私は、
安全保障の問題、すなわち第九条を真っ正面から論じることなしには本
調査会の使命は果たされないと考えております。その見地から、今の段階で備忘的に二、三のことを指摘しておきたいと思います。
一つは、九条は
一つの
条約であるとの指摘があることに関連してであります。
私は、今回も、九条の改正を行うとすれば、それについて、先ほどの
達増さんのお話とはちょっと違いますが、国際
社会の理解を得なければならないという
意味で、本条項のような
憲法規定はどうしても
条約的性格を免れないのではないか、それを覚悟して
論議をスタートしなければならないのではないかと考えております。そして、そのことは、改正のタイミングや手続に今後大きな影響を及ぼさざるを得ないということだと考えております。
二つは、
憲法九条は二十一
世紀の
国家の理想的あり方を先取りしたものだという一部の指摘に関連することであります。
私は、一国の
安全保障はあくまで現実に立脚すべきであり、実験は許されないと確信しております。
安全保障の方法としては、私自身は、勢力均衡、抑止力、さらに補完的な
意味では相互依存という三つがこれまで人類が獲得した経験済みの知恵でありまして、
我が国も、これらをどう組み合わせてみずからの
安全保障を得るかを構想し、
憲法改正に臨むべきだと考えます。
三つは、日米安保体制、すなわち日米同盟との
関係です。
第一に、
アメリカが今や地球上唯一のスーパーパワーであることとの関連であります。
弱い国と同盟しても有効でないとは
国際政治学上の定理でしょうが、同盟の相手国が余りにも強力であるために、
我が国がモラトリアム
国家あるいは父性なき
国家に陥るということであります。奴隷の平和あるいはごっこの
世界という疑念を呈する人さえいます。しかも、この矛盾あるいは堕落からは、仮に集団的自衛権の発動を合憲として同盟
関係を双務的なものに転換したとしても、強過ぎる
アメリカが攻撃されることはあり得ないとする以上、本質的に救われないのではないかということです。
第二は、
アメリカがパックス・
アメリカーナのもとで事実上
世界の警察官の役割を果たしているために、集団的自衛権を認めた場合、単なる集団的自衛権にとどまらなくなってしまう懸念があるのではないかということであります。
この関連で、今回の
憲法論議の発端となった湾岸
戦争とそれが提起した問題は、実は集団的自衛権の問題ではなく、むしろ集団
安全保障の問題であるということを確認しておきたいと思います。
以上であります。