○久間
委員 先般来、
参考人の皆さん方のいろいろな御
意見を聞くことができまして、現
憲法の
制定の経緯等については大変参考になったわけでございます。
ただ、正直言いまして、私
たちの
世代以下の人
たちは、もう物心ついたときから大きな、あるいは小さな家かもしれませんけれ
ども、その家の中に住んでおるわけでございまして、そういう
意味では、こういう設計図で家をつくれ、あるいはまたでき上がったこの家に入れと言われたおやじやおふくろの
世代とは、若干趣が違うわけでございます。むしろ、現在のその家が現在の
時代に合わなくなったならば、どういう形で変えたらいいのか、あるいはまた全く新しくつくりかえたらいいのか、そういうような
議論をすべきじゃないか、そちらに力点を置いて、もっとそういう方面から真剣に
検討していったならば、今の
時代、あるいはこれから十年、二十年先の
時代に合った
憲法ができてくるんじゃないか、そういう思いの中でいろいろと
意見を聞いておりました。
そういう
意味で、これから先、
憲法調査会が中心になられて、現在の
国民、あるいはまたこれから先の
国民の輿望を担って、どういう形の
憲法にしていったらいいか大いに
議論していただく、こういう機会ができたことは非常にいいことだと思っております。
そこで、現在の
憲法を今度変えるに当たっての、
自衛権は
憲法に明記すべきであるとかそういうような
意見等も、今も開陳されましたが、先ほど石破
委員が言われましたように、
自衛権の問題というのは、
憲法で仮に否定的な表現で書いたとしても、国の存亡にかかわることについては本来あるわけでございますから、これは書こうと書くまいと、存在するのは変わりないわけでございます。ただ、今まで、個別的な
自衛権はある、しかも行使していい、集団的
自衛権は、持っているけれ
ども行使できないみたいな
議論があるために、あるのかないのかわからないわけでございます。
そもそも集団的
自衛権といえ
ども、どこかと同盟を組んでいるからといって、その国が戦ったから一緒になって戦っていいということじゃないわけであって、
自衛権という以上は、そこがつぶれたら次は自分の国もつぶれるんだ、言うなれば、毛利元就が尼子から攻められたときに、隣の藩がつぶされたら次は自分の番だというときには、その藩を助けるというのは自分のためにやったわけでございまして、こういうのが集団的
自衛権ならば、それは当然あるし、行使できるわけでございます。
そこで、問題になるのは、国連との
関係です。国連は、広い
意味では集団的
自衛権に包含されるのかもしれません。しかしながら、国連というのは、
日本国憲法ができたときには
我が国は入っていなかったわけでございます。その後に
我が国は入ったわけでございまして、そのときにそういう整理をしていなかった。広い
意味での集団的
自衛権になるかもしれぬけれ
ども、そこに
参加しなかったからといって
我が国の存亡にかかわるかというと、必ずしもそうはならない。現に、そうならない状態で、国連に入っていなくても
我が国は存続してきたわけでございます。
そういうことを
考えますと、国連の一員として外国で行動する場合、戦闘行為に
参加する場合には、やはり現在の
憲法ではちょっと無理じゃないかというような気が私はしております。そういう
意味では、これについては何らかの形で明らかにした方が、これから先、国連の一員として、加盟した以上はその義務を果たしていく、そういう国の義務としては、これはやはり
憲法上もきちんとできるようにしておくことが大事じゃないかなというふうに思います。
それともう
一つは、よく内閣法制局の解釈によってもっと広げたらいいじゃないかという
議論がございますけれ
ども、これもおかしな話でございます。そもそも政府というのは与えられた
憲法と
法律に従って行政をやるわけでございますから、その政府の一機関が解釈を広げることによっていろいろなことがやれるということを
国会の場でおっしゃる方がおるということ自体がおかしいわけでございます。むしろ、政府は限られた解釈の中で行動すべきである、そういうことを立法府が言うべきであって、政府の一機関である内閣法制局の解釈をもっともっと変えろ、そういう
発言を
国会からすること自体が非常におかしいんじゃないかなと思います。
そういう
意味で、これから先、こういう問題等も踏まえながら、
憲法調査会で少し時間をかけながら、やはりこれから五年、十年、あるいは二十年先まで見通したような
憲法をつくっていく、あるいは変えていくことができれば非常にいいと思っておるところでございます。
以上でございます。