○天川
参考人 御紹介いただきました天川でございます。
私は、
日本国憲法の制定の
経緯について、全般的な問題ではなく、第八章の「地方自治」を
中心に話をしたいと思います。
日本国憲法と大
日本帝国憲法、以下明治
憲法と申しますが、これを形式的に比較いたしますと、
日本国憲法になって新しくつけ加えられた章が幾つかあります。第二章の「
戦争の放棄」については最もよく知られている新しい章でありますが、第八章の「地方自治」もその一つであります。
「
戦争の放棄」の章については、さまざまな論議があるところでありますが、第八章の「地方自治」に関しては、地方自治の研究者や実務家の間では、この章が
憲法に設けられたことが戦後の地方自治の発展の上において大きな意義があったと評価しているように思われます。
以下、私は大きく
二つのことをお話し申し上げます。
一つは、
憲法の中にどのような
経緯でこの新しい「地方自治」の章が設けられることになったのかという、第八章の
制定経緯であります。それからもう一つは、
憲法に「地方自治」の章が設けられたことが、当時の
日本の
状況、とりわけ地方自治をめぐる
状況において、いかなる意義を持ち、インパクトを与えたのかということであります。
私自身は、
占領期の
歴史を当時の
資料を
もとに研究している者で、
憲法の条文そのものとか地方自治の全般的な問題を研究している者ではありません。したがって、このような内容の話になることをあらかじめお断りしておきたいと思います。
まず最初に、
憲法の第八章の
制定経緯に関してであります。
しばしば指摘されることではありますが、
日本政府の
憲法問題
調査委員会、
松本委員会で検討していた
憲法改正案では、地方自治の章を置くことは
考えられておりませんでした。内大臣府で
憲法調査を進めた近衛草案にも、民間の
憲法草案にもそういう
考え方はありませんでした。
日本側で唯一
憲法に自治の章を置くことを
考えていたのは、近衛案の作成を補佐した京都大学の佐々木惣一教授の案であります。
佐々木案では、新たに「第七章 自治」という章を設けて、三つの条文を置くことになっておりました。
佐々木氏は、この章を設けた理由を、「蓋シ自治ハ民意主義ニ依ル国ノ統治ノ基礎地盤ニシテ自治ノ健全ニ発達スルコトハ民意主義ニ依ル国ノ統治ノ実ヲ挙グルガ為ニ必要ナリ。」と
説明しております。具体的には、いわゆる団体の自治とか団体の構成員による責任者の
選任、そして「自治団体ノ構成組織権能責務其ノ他必要ナル事項ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」というような三つの条文を置くというもので、その内容を見れば、明治の自治制制定以降一九二〇年代末ごろまでに積み重ねられてきた自治制の経験と実績を
憲法に盛り込もうとしたものと見ることができるかと思います。
さて、一方、四六年の二月十三日に
日本側に手渡された総司令部案の中には、三つの条文から成る「Local Government」という章が第八章として置かれておりました。現行の
憲法に「地方自治」の章が置かれることになった直接の起源は、この総司令部案にあると言っていいかと思います。
それでは、総司令部案にローカルガバメントの章が置かれたのはどうしてなのかということでありますが、これに関連して三つのことを指摘しておきたいと思います。
まず第一に、
アメリカの占領政策が、
日本の非軍事化と
民主化とを基本としていたということであります。
アメリカの認識では、
日本が軍国主義化したのは民主主義的ではなかったからである、民意を反映する
政治システムに変えることが
日本が再び軍国主義化しない保障になると
考えていたわけであります。そして、この
民主化の一環として分権化ということが置かれていたのであります。というのも、
日本では地方の民意は十分に反映されておらず、地方行政は内務省が任命する知事を
中心とする中央集権的なシステムで動いているとの認識を持っており、これを分権化する必要があると
考えていたことによります。
ワシントンで作成されました
憲法改正の基準とも言える「
日本の統治体制の改革」、SWNCCの二二八文書でも、都道府県の職員は、できるだけ多数を民選するかその地方庁で任命するものとする、そう定めていたのでありますが、これは、内務大臣が都道府県知事の任命を行う結果として従来保持していた
政治権力を弱めることになろう、同時に、それは地方における真の代議政の発達を一層助長することにもなろうと指摘していたわけであります。
第二に、総司令部で
憲法草案の起草に関与した人の中に、
憲法に分権化に関する
規定を置くことを重視した人がいたということであります。
総司令部の
民政局にいたラウエルは、四五年十二月の「
憲法についての準備的覚書」の中で、地方制度の面での中央集権というのを問題として取り上げ、「地方に責任を分与すること」という附属文書の中で、
憲法が改正される際には、都道府県及び市町村に一定の範囲内で地方自治を認める
規定を置くべきであるとしておりました。
彼は、民間の
憲法研究会が提案した
憲法改正案を高く評価していたのですが、それが地方自治に言及していないことを指摘し、都道府県及び市町村の主要職員の公選を
規定する条項を設けることが必要だとしております。彼はまた、二月八日に提出された
松本案に対しても、ほぼ同様のコメントを行っております。
このように、
民政局では、地方自治に関する条項を
憲法に設けること、そしてその骨子は、都道府県、市町村の主要職員の公選
規定であると
考えられていたわけです。総司令部の
憲法草案にローカルガバメントの章が置かれたのは、直接的にはこういうような人たちがいたからだと
考えられるわけです。
そして第三に、しかしながら、公選
規定以外の分権化の具体的な中身については、
民政局の中でもさまざまな
考え方があって、一致したものではなかったということも指摘できると思います。
このことは、
民政局で
憲法草案を起草するに際して、当初つくられた小
委員会の案が廃棄され、
ケーディスとかラウエル、ハッシーといった人たちの
運営委員会で草案をつくり直したことにもあらわれております。
最終的に
民政局の草案に置かれた「Local Government」の章は三つの条文で構成され、知事、市町村長、議員、それに主要職員を直接に公選する
規定、そして大都市、市、町の住民に憲章制定権など自治権を認める
規定、そして特定の地方に対する特別法を国会が制定することに対して住民投票を行うという
規定を置いていたのであります。これは、あらかじめお送りした
資料をごらんいただければと思います。
資料の1であります。
さて、以上が
民政局の中でローカルガバメントの章がつくられた背景でありますが、この草案が
日本側に提示された後、三月四日から五日にかけて
日本側と折衝を重ねていく過程で幾つかの
修正が加えられることになりました。ここでは四つのことを指摘しておきたいと思います。
まず第一に、
日本側は、総司令部案に「Local Government」という新しい章が置かれていることに対して、とりわけ違和感を持っていなかったということであります。その後の折衝でいろいろと条文の
修正の要求を行うのでありますが、第八章を置くこと自体を問題とはしておりません。
日本政府がこのような対応をとったということが、「第八章 地方自治」が設けられることになったもう一つの理由でもあると思います。
第二に、第八章に関する
日本側の対応の背後には、明治
憲法下での
日本の地方自治の経験との連続性が意識されていたと思われることであります。
具体的には、まず第八章の英文の表題を「Local Government」から「Local Self-Government」に改めることを求めて、認められております。総司令部案の表題は、当初の外務省の訳では「地方
政治」となっておりました。これを「地方自治」と改めるとともに、英語の表現も改めたのであります。
さらに、この章の頭に総則的な条文を追加することを提案し、これも認められております。新しい条文というのは、現行の
憲法九十二条の「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。」という条文であります。
ここで、「地方自治の本旨」ということに関連して、この条文を起草した佐藤達夫氏は、地方自治の基本精神を的確にあらわす方法はないものかということで、明治二十一年の市制町村制の上諭などを引っ張り出したりして、隣保協同の精神というような角度からの表現も
考えたけれども、結局、「地方自治の本旨」ということになったとしておられます。そして、そこでの「地方自治の本旨」とは、一般的に言われている団体自治と住民自治、この
二つを根幹としていることはおのずから明らかであると思うと書いておられます。
このように、明治以降の
日本の地方自治の経験を
もとにしてこの条文が置かれたのであって、そういう
意味では、期せずして佐々木案が目指していた内容の条文が置かれることになったのであります。
第三に、総司令部案では、府県だとか市、町という地方団体の種類が書き分けてあったのでありますが、それを「地方公共団体」と、一括した表現に改めております。
佐藤氏によれば、府県とか市、町とかいうような団体の種別を
憲法で固定してしまうことはいささか窮屈ではないかと書いておられますが、この
修正によって、時々の立法政策によって何が地方公共団体であるかということを法律で決めることができるようになったわけであります。
佐藤氏は、具体的に書いておられるわけではありませんが、後に述べるような道州制の導入の可能性ということを想定していたのかもしれません。というのは、仮に道州制を導入して府県を廃止するような場合、あるいは府県の上に地方公共団体としての道州制を導入するというようなことを
考えると、
憲法で地方公共団体の種類が固定されているとすれば、そのような方策は
憲法の改正が必要になって、非常に困難になるからであります。
四番目に、総司令部側が重視していた長の直接公選について、
日本側は
修正のための折衝を行ったのでありますが、
修正要求は認められませんでした。
総司令部案では、長と議員と主要職員は直接普通選挙で選ぶことになっていたのに対して、
日本側は、選挙の対象を長と議員に限り、直接選挙を避けて、単に選挙をすることを求めたのでありますが、この要求は認められず、三月六日の
憲法改正草案要綱では、法律の定めるその他の吏員も直接これを選挙するという表現になったのであります。
憲法問題を担当しておりました
松本国務大臣は、総司令部案を
もとにして
日本政府案をつくる際の基本の態度として、先方の案は、いがのついたクリのようなものであるので到底そのままのみ込むことはできない、そこでまず、のみ込むことができる程度にいがを取り、そしてその後の折衝で渋皮を取っていこうとしたと
説明しておりますが、この
観点から見るならば、第八章では、長の直接公選というのは、いがの部分とみなされていたのかもしれません。しかしながら、このいがは折衝を通じても取れなかったのであります。
ともあれ、三月六日の
憲法改正草案要綱で、ほぼ現在の形での「地方自治」の章はでき上がりました。その後、四月に直接公選をめぐる再折衝を行ったり、英文の
修正、整理を行ったりしましたけれども、帝国議会でも何ら
修正はなく、現在の
憲法第八章ができたのであります。
憲法の第八章に関する限り、その
制定経緯を以下のようにまとめることができるかと思います。
まず第一に、
憲法に「地方自治」の章を置くことは総司令部案に起源があるが、
日本側も新しい章を置くこと自体には抵抗感がなかったこと。第二に、それを前提として、三月初めの折衝で、
日本側から提起した
修正要求の多くは、ほぼ
日本側の要求どおりに受け入れられていること。これによって、明治
憲法下で進められた自治の経験の延長線上に戦後の地方自治の展開が可能になったと思われること。そして第三に、総司令部側で重視していた長の直接公選制は、
日本政府側の要求にもかかわらず、そのまま
維持されたということであります。
さて、次に、狭い
意味での条文の
制定経緯ではなくて、この
憲法がつくられた時代の背景と、この
憲法草案、とりわけ政府が最もちゅうちょしていた長の直接公選の
規定が置かれたことが、当時の地方自治をめぐる動きにいかなるインパクトを与えたのかということについて見ておきたいと思います。
まず、この問題に入ります前に、
敗戦直後の
日本の動きを私がどのように見ているのかということを、
二つの点からお話ししておきたいと思います。
一つは、長い
戦争が終わって、戦時体制に対する反動が強く出てきたということであります。
政治や行政の側面で見ると、
敗戦後直ちに戦時から平時へという動き、言うなれば正常への復帰というべき動きが始まったことであります。
政治の面では、八月の末には衆議院の早期解散・総選挙の実施という方向が打ち出され、これに向けて新しい政党の結成の動きが活発になっていっております。
戦争中の議会の
中心勢力であった大
日本政治会は、九月の半ばに解散されております。行政機構について見ても、八月の二十二日には、軍需省とか大東亜省など戦時中の行政機構を廃止、再編する
閣議決定がなされております。
さらに、
国民の間で見るならば、
戦争が終わった安堵感が出てくるとともに、
敗戦に導いた指導者に対する批判あるいは責任の追及という動きが次第に強まってまいりました。占領政策でいう非軍事化と軌を一にする動きが国内でも始まっていたということであります。
もう一つは、戦後の復興、再建に向けての動きも始まったということであります。
八月十五日の終戦の詔書、いわゆる玉音放送でありますが、その中に「総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ」という言葉がありますが、新
日本の建設をスローガンとして、将来に向けての動きも始まったわけであります。どのような新
日本をつくるのかということに関して、平和国家だとか文化国家あるいは科学立国というさまざまな
考え方が出されましたが、
政治上の主義として見るならば、
ポツダム宣言にうたわれ、そして占領政策でも強調された民主主義化ということが、次第に多くの人々をとらえていったのであります。
このように、戦後の
日本では、
敗戦直後から、戦時体制への反動、新
日本の建設という動きが始まって、占領政策にいう非軍事化と
民主化の受け皿ができ始めていたと言えるかと思います。
とはいうものの、
日本国内で始まっていた戦時体制への反動、新
日本の建設の動きと占領政策でいう非軍事化と
民主化との間には大きなギャップがありました。
これを端的に示しましたのが、一九四五年十月四日に出された、
政治犯等を釈放し内務大臣の罷免と秘密警察の廃止を求める、いわゆる人権指令、自由の指令であります。この指令が出されると、当時の吉田外務大臣は総司令部に駆け込んで、この指令は赤色革命を奨励するがごときもので、
国民にはショックを与えていると訴えておりました。東久邇
内閣はこの指令を受けて退陣し、十月九日に
幣原内閣が発足したのであります。
幣原内閣発足の日、外務省の中では「自主的即決的施策ノ緊急樹立ニ関スル件」という文書が作成されております。これは
資料2として配付しておると思います。この文書は、九月二十二日に発表された
アメリカの初期の対日方針という文書を分析し、今後の対応を論じたものであります。
これによれば、降伏後の
事態の進展を見ると、進駐軍は「革命勢力タルノ感アリ」としており、さらに、「連合国側ノ
日本統治方針大綱ノ意図スル所カ
平和主義ト合理主義ヲ基調トスル民主主義
日本ノ建設ニ在ルコトヲ明確且徹底的ニ把握シ
日本ノ変革更正ノ主体性ヲ回復シ自発的ニ統治制度ヲ初メ
政治、経済、文化等各般ノ分野ニ亘リ急速ニ施策要綱ヲ樹立シ之ヲ強力ニ遂行スルニ非ラサレハ事毎ニ進駐軍側ヨリ命令ヲ与ヘラレ、受動的ニ之カ実施ヲ余儀ナクセラレ」と、強い危機感を表明していたのであります。そして、我が方の自発的な発意による
日本の変革更正ということを強く求めておりました。
このように、占領政策の大筋の方向が具体的に明らかになりつつある
状況の中で、国内での
憲法改正の審議が始まったということであります。
さて、それでは、当時の地方自治をめぐる
状況はどのようなものだったのかということでありますが、これを
説明する背景として、戦時中に進められました地方制度に関する
二つの動きを指摘しておきたいと思います。
一つは、一九四三年に、昭和十八年でありますが、地方制度の大改正が行われましたけれども、その特徴は、地方制度の中央集権化を強化するものでありました。
市制、町村制が制定されて以降、何度か法改正が行われたのでありますが、それらは自治権の拡張ということを基本とするものでありまして、そうした流れの中で、昭和の初めには、政党が知事の公選論を取り上げるほどでありました。しかしながら、満州事変が始まった三〇年代以降はこうした傾向が逆転して、この四三年改正では、地方団体の自治権を拡張するどころか、市町村から部落会、町内会に至るまでを国策浸透の機関として再編する方向での改正が行われたのであります。
これを象徴するのが、市町村長の
選任の方法であります。昭和の初めから市長は市会で選挙していたのでありますが、この改正によって、市長は市会の推薦した候補者を内務大臣が勅裁を経て
選任することになり、市会が指定期日までに市長の候補者を推薦しない場合には内務大臣が市長を
選任できるということにまでなったのであります。
戦時中に進んだもう一つの動きは、府県を超える広域行政の制度、いわゆる道州制的な方向での制度化が進んだということであります。
広域行政化の背景はさまざまありますけれども、明治の中期につくられた現行の府県の規模が地方行政の単位としては狭きに過ぎる、そういうことが一つの理由でもありました。一九四三年七月には、全国を九つの地方に分けて、関係する府県とその地域の国の機関との間で行政の総合調整を図るための地方行政協議会という制度がつくられたのでありますが、これは、将来に本格的に道州制を導入する第一歩であるとみなす人が少なくなかったのであります。その後、四五年の六月には、本土への進攻、分断に備えて各地方で自立して
戦争が継続できるように、地方行政協議会を再編して地方総監府というものがつくられております。
このように、戦時中には、中央集権的な地方制度の再編と道州制的な広域行政の制度化という
二つの方向が同時進行していたのであります。こうした動きが、
敗戦によって始まる戦時体制への反動、新
日本の建設という新しい潮流の中でどのように変化したのかということが、次の問題であります。
地方制度に関して戦後最初にとられた措置は、戦時機構としての地方総監府を廃止することでありました。しかしながら、
戦争が終わったからといって広域地方行政の問題がなくなったわけではありません。広域の調整を行うため、地方行政事務局というものがこれにかわって置かれたのであります。このように、広域行政を行う道州制的な制度が必要であるという
考え方は、
戦争が終わった後にも依然として継続していたのであります。さきに挙げました外務省文書にも、「
国民経済ノ諸
条件ノ変移ニ応ジタル地方行政区制ノ改正ヲ行ヒ且ツ地方自治制ヲ強化スルコト」という一文があります。
他方で、戦時中には逼塞していた、自治権の拡張を基本とする地方制度改革を求める声が上がり始めてまいりました。この動きは、戦時中に行われた制度改革への批判だとか新しい政党の結成の動きなどとも関連いたしますが、中でも、昭和の初めに出されていた知事の公選論というのが急速に地方制度改革の焦点となってまいりました。
一例を挙げるならば、降伏文書が調印された翌日、一九四五年九月三日の読売報知新聞には、「燃えあがる知事公選論」と題する記事があります。「かつての政党時代にしばしば取上げられた地方長官公選論—ひらたくいへば都長官や府県知事を選挙によつて決定しようといふことが
戦争終結とともに平和への建設
国民政治の活気を呼び戻さうといま胎動してゐる政界に再びクローズアツプされてゐる」というふうに報じております。
地方行政を担当いたします内務省は、奥野先生おいでになりますが、地方
政治の刷新策として、当初は民間人を知事に登用するという人事の刷新による対応措置をとっていたのでありますが、十月の末には知事の公選制度を導入することに踏み切りました。
翌々月、四五年十一月十二日の毎日新聞では、知事公選の方法いかんということをテーマとした世論
調査の結果を発表しております。これは、全国二千名の男女を対象とした
調査でありますが、その結果は、五五%が住民による直接公選を希望しており、間接公選が望ましいとする者二五%を上回っております。
ところが、内務省が
考えていた知事の公選案というのは、戦前の市会等でとられていた間接選挙の
考え方で、県議会で知事を選ぶというものでありました。
念のためにつけ加えておくならば、内務省がこのような知事公選制度の導入に踏み切ったのは、占領当局の指示を受けて始まったというよりは、国内の動きに対応したものであります。むしろ占領軍からの指示に先んじて、自主的に改革を進めようとしたものでありました。その
意味では、さきに見た外務省文書の精神と同一のようなものであります。明治
憲法の制定に先んじて地方制度の整備が進められた、これと同様に、
憲法の改正に先立って地方制度の改革を進めようとしていたのであります。
さて、長々と背景を申しましたが、こういうような動きが国内で進んでいる中で、四六年の三月六日に、長の直接公選を含む
憲法改正草案要綱が発表されたのであります。それは、既に始まっていた地方自治をめぐる動きにいかなるインパクトを与えたのかということであります。四つの点を挙げておきたいと思います。
まず第一に、
憲法改正草案要綱というものは、内務省が
考えてきた知事の間接公選構想に影響を与えずにはおかなかったのであります。この改正草案要綱の作成に内務省は関与していなかったのでありますが、直接選挙を行うとするならば、多額の費用が必要で、よほどの資産家でないと立候補できないので立派な人が選挙に出にくいとか、絶対多数をとるのは困難で、決選投票が必要になり手続が煩雑になるとか、そういう理由を挙げて、間接的な公選が可能になるように
憲法草案を
修正することを求めたのでありますが、これは認められなかったのであります。したがって、政府は、知事の直接公選を前提とした地方制度改革案を作成し、五月の末に、
憲法を審議する第九十回帝国議会に提出したのであります。
第二は、地方制度の改革案が議会に提出される前後の時期に、宮城県の各市に始まり、北海道から九州に至る全国の二十余りの市で市長を公選で選出しようとする運動が展開され、実際に仙台や川崎など十の市では事実上の市長公選が行われ、新しい市長が選ばれたということであります。当時の市の数は二百四でありますから、約一割の市でこうした公選を求める運動が起こったということであります。
これは、この年の一月に公職追放の指令が出されて、翼賛選挙で推薦を受けて立候補した者は四月十日に行われた総選挙で立候補ができなかったのでありますが、しかしながら、市長とか市長を推薦した市
会議員に対してはこのような措置はとられておらず、戦時中の市長とか市
会議員がそのまま在職していたわけであります。したがって、これらの指導者に対する批判とか責任追及が何らかのきっかけで始まり、住民の間から、新しい市長を住民が直接に選ぶという試みが進められたのであります。
事実上の市長公選が始まる具体的な
事情とか公選の方法は各市によってさまざまでありますが、長の直接公選ということを
規定した
憲法草案が発表されていたことがこのような運動に正統性を与えたということは指摘し得るかと思います。
憲法草案は、民意に基づいて新しい指導者を選びたいという
国民の意欲にこたえ、また、それを後押ししたのであろうかと思われます。
市長の公選運動が行われていた当時の
状況について、若干の補足をしておきます。
四月の十日には総選挙が行われて自由党が第一党になりましたが、絶対多数ではなくて、次期の政権をめぐって政党間で駆け引きが続いておりました。さらに、総理に就任するかと思われていた鳩山自由党総裁が追放され、
事態はさらに紛糾したわけであります。そして、吉田茂
内閣が発足したのは五月二十二日であります。実に一カ月余りも
政治の空白期間があったわけであります。
一方、当時の
国民はといえば、食糧の遅配が深刻で、各地で米よこせのデモが行われるなど、混乱が続いておりました。当時の混乱した
状況を示す一つの
資料を紹介しておきます。これは、五月の九日に内務省の警保局が作成した
資料であります。少し読ませていただきます。
食糧は正に危機寸前である。東京は既に欠配七日、神奈川も略々同様、山梨、青森は勿論北海道は既に数十日の欠配である。各地に暴動の前兆とも云ふべき
事態が現れて居る。
一日の猶予は一日の危殆を増すのみである。官僚の当面の仕事には限度がある。今にして政局安定せず、真の具体策樹立せられなければ悔を千歳に残すであらう。
中央の背景なき地方官吏は窮地に立つて居る。それは生産地も消費地も同じである。県民と全同胞とを如何に救ふかの真の板挟みである。少くとも政府において此の責任を採らざる以上各府県が孤立することは明瞭であり此の儘で行けば恐らく各町村各部落が孤立して遂には食糧を通じて国家形体は破壊せられるであらう。
ということまで書いておるわけであります。
実際、五月の十二日にはデモが皇居に押しかけるような
事態にまでなっておりますし、五月十九日の食糧メーデーには、二十五万人が皇居前広場に集まり、食糧に関して
天皇に対して、適切な措置をお願いするという趣旨の上奏文を決議しているほどであります。そして、今では
記憶している人が少ないのでありますが、五月二十四日には、食糧問題に関する
天皇の第二の玉音放送が行われておるほどであったわけであります。
当時の地方の
状況を具体的に示す
資料として、当時、神奈川県の官選知事でありました内山岩太郎氏の日記がありますが、四月から五月にかけてはほとんど食糧問題の記事で埋め尽くされております。五月の四日には「食糧問題で陳情が多くなった。食えない結果で致し方がない。乱暴をしないデモなら多いにやるがよいと思う。県民には籠城のつもりで頑張れと励ましている」と書いております。五月十九日の食糧メーデーの日には「県庁でも一日六組に及ぶデモと陳情で中には一組一時間以上を要するものもありほとんど仕事をする暇もなく、自然に高い声も出したくなり夕方には声がかれてきた」と書いてあります。政府が動かないものでありますので、内山知事は独自に米軍に食糧の放出を懇請していたのであります。
さて、話を戻しまして、知事の直接公選が与えました第三のインパクトでありますが、これは政府が提出していた地方制度の改革案が衆議院で
修正されたことであります。
政府が地方制度の改革案を
憲法改正案を審議する議会に提出したのは、
政治の
民主化は地方
政治の
民主化を基礎とするという理由からでありました。ところが、政府案では、知事は直接に公選するが、その身分はこれまでの知事と同様に官吏とするということになっておりました。その理由というのは、府県は自治団体であると同時に中央政府の地方機関としての二重の性格を持っており、しかも後者の性格が強い、そして、国家の行政を行うのは官吏でなければならないということでありました。
食糧問題だとか治安問題などが深刻で、公選知事を官吏とすることによって、国家的な要請と地方の要求との間の調和を図る必要があるとしていたのであります。当時の言葉では、府県ブロックあるいは府県の割拠でありますが、府県の割拠の弊害を避けるためには官吏にしておく必要があるということであります。
しかしながら、衆議院では知事を官吏にしておくことに対する反発が強く、結局、政府案は、「改正
憲法施行の日まで官吏とする。」と
修正が加えられたのであります。このような
修正は、総司令部がこれを求めたということもありますけれども、当時の世論や政党が、新
憲法の
もとでの公選知事が官吏であるのは適当ではないと強く主張したからであります。
この
修正が行われた結果、新しい
憲法の
もとでの府県は、基本的には市町村と同様の地方公共団体としての性格を持つこととなり、これを
規定する地方自治法の制定に道を開くことになったのであります。
なお、つけ加えておくならば、最初の知事公選は、
憲法と地方自治法が施行される直前の四七年四月五日に行われました。知事選挙の平均投票率は七一・二%で、ほぼ同時期に行われた衆議院の総選挙の投票率六七・九%、初めての参議院議員の選挙六〇・九%を上回っております。官選の知事から公選の知事に立候補して当選した知事が多かったのでありますが、岩手県では、官選の知事に対抗して立候補した地元の篤農家が当選したり、北海道では、道庁の係長で組合の
委員長であった方が当選するなど、任命制の知事時代には
考えられなかったような新しい動きもあらわれてきたのであります。
最後に四番目に、知事の直接公選と道州制の導入との関連はどうだったのかという問題であります。
地方制度の改革を審議した議会の
議論でも、当時の学者や実務家の
議論でも、府県が完全自治体になるとすれば、国の地方行政区画としての道州制を導入すべきであるという
考え方が一般的でありました。例えば、知事の官吏制が議会で問題になっていた四六年の八月十日の毎日新聞の社説には、このような主張が載っておりました。
公選知事を一挙に公吏にすると、勢ひ自県第一主義となり、食糧供出その他に弊害を来すと懸念するものもある。この点、一応は傾聴すべきであるが、しかしそれは府県そのものが経済単位として狭きにすぎるのである。むしろ、そのためには内政全般の地方分権化をねらひ、道州制といった広域行政の実現によつて、解決すべきであらう。
という主張であります。
しかしながら、実際には、地方自治法の制定後にも道州制問題は棚上げされたままで終わったのであります。その理由は、現実の課題としていえば、内務省の解体問題が出てきたのに加えて、さらに四九年にはシャウプ勧告が出されるなど、むしろ自治体としての府県と市町村を強化する方向が進んだからであります。
道州制導入の具体的な論議というのは、五七年の第四次地方制度
調査会での「地方」制の導入が答申されるまで行われなかったのであります。しかも、この「地方」制の答申というのは、新たに設けられる「地方」という広域単位の長が公選制ではなくて総理大臣による任命制であるということで、世論の強い反発を受け、実現することなく終わったのであります。
このように見てまいりますと、
憲法第八章が与えたインパクトとしては、皮肉なことに、
日本政府の指導者が最後までちゅうちょした長の直接公選制の採用の影響というものが最も大きかったように思われるのであります。政府の指導者は、住民の直接選挙によって
政治の安定が脅かされるのを危惧したのでありますが、
国民は、
民主化の推進という
観点からこの制度を受け入れ、
自分たちのものにしていったのではないかと思われます。
さらに、
憲法の条文の上では地方公共団体の種類は固定化されなかったのでありますけれども、長の直接公選制を媒介として、明治以来の府県と市町村という二層制の地方制度が、その性格を変えて固定化することになったというふうに
考えておる次第です。
最後に、本日の私の話の全体のまとめをしておきたいと思います。
まず最初に、
憲法の
制定経緯を見るに際しては、全体をマクロに見ていくという方法も必要でありましょうけれども、ミクロに個別具体的な条文を見ていく方法も必要ではないかということを私は
考えております。第八章に関しては比較的簡単な経過で条文が固まったのでありますが、ほかの章では必ずしも同じような
経緯をたどったわけではありません。それらの差異を無視して一括して
制定経緯を特徴づけ、結論づけるということは、少なくとも学者の
議論としては、単純に過ぎると思われるからであります。
また、第八章の検討を通じて最も鮮明にあらわれるのは、
憲法と、
憲法を実現するための法律の関係という問題であります。
憲法は変わったけれども、それを実現するための法律は本当に変わったのか、あるいは変わらなかったのかという問題は、
憲法の
制定経緯の一部をなすものとして、あわせて検討するに値するのではないかと私は
考えております。
憲法の審議が始まった四六年の七月に臨時法制
調査会というものが発足し、
憲法の改正に伴って必要となる法律の制定あるいは改正についての
議論を始めております。この
調査会は十月二十六日に十九本の法律案の要綱を答申しましたが、その多くが
憲法の施行に間に合うように制定、改正されているのであります。
憲法の附属立法といいますか、これらの立法作業を非常に短期間に進められておる、そうであるがゆえに、この
憲法が持っておるさまざまな可能性というものがどれだけ実現されたのか、あるいはそれが閉ざされてしまったのかということは、
憲法の条文とあわせて検証する必要があるのではないかと思う次第です。
しかしながら、私にとっては、個々の条文の
制定経緯を見ていく方法の最大の意義は、総司令部案を基礎としたとはいえ、この
憲法を
日本の
憲法としようとした当時の人々の努力を理解することができると
考えるからであります。
話の中で引用いたしました佐藤達夫氏が一九五七年にお書きになった「
日本国憲法誕生記」という本が、昨年、西修教授の解説つきで文庫本として出版されております。佐藤氏はこの本の最後に、
憲法大臣として苦労をともにした金森徳次郎氏が書いた以下のような言葉を引用して、
自分の本の結びとしておられます。それは
メモに引用しておきましたが、
人々は
憲法制定について、当時
日本国民がどんなに真剣であったか、苦心努力したかを忘却しかけた。そして
憲法を鬼子として取扱うような傾向が高まったらしい。それも一つの見識であるが、私はたまたま議会の速記録や当時の新聞紙も読み、苦難の
条件の下で
国民が如何に心血をそそいで考慮を尽くしたかを察し珍らしく緊張した。私にとっては大抵の文学書を読むよりも興奮した。民族発展の前途を
考えて、
国民は真に血みどろの苦心をした。そして、
政治史上の稀な記録を残したのである。
と書いておられます。
憲法制定当時のことを直接に知る人が少なくなった現在、当時の人々の苦心と努力を理解することは困難ではあるわけでありますが、個々の条文に即して
制定経緯を見るということによって、当時の人々がこの
憲法に何を求めて苦心をしたのかということを、ある程度は推察、理解することができるのではないかと私は
考えておる次第です。
第二に、
憲法の
制定経緯を見るに際しては、単に条文がどのようにつくられたのかという狭い
意味での立法過程を見るだけではなくて、それがつくられた時代の背景との関係を見ていく必要もあるだろうということであります。
一九四六年の二月一日に毎日新聞が政府試案のスクープをして、それが総司令部で
憲法草案を起草するきっかけになったと指摘されております。その翌日の同紙のコラム「硯滴」は次のような指摘をしておりました。これは前の小
委員会報告書にも引用してあることでありますが、
憲法改正調査委員会の試案を見て、今更のことではないが、あまりに保守的、現状
維持的のものにすぎないことを失望しない者は少いと思う。
つまり
憲法改正という文字に拘泥し、法律的技師の性格を帯びた仕事しかできないので、新国家構成の経世的熱意と
理想とに欠けているからである。今日の
憲法改正は単なる法律的の問題でない。それは最高の
政治である。
こういうことが書かれておるわけであります。
このコメントは、
松本委員会の関係者の作業と当時の
国民意識との乖離を如実に示しているように私には思われます。
当時、
憲法論議を行った指導者が、国際情勢を考慮することが少なかったということはしばしば指摘されるわけでありますが、私は、それとともに、この人たちは、
戦争がもたらした
国民生活と
国民意識に与えた大きな変化というものを十分に考慮していなかったのではないかというふうにも
考えるわけです。いわゆる総力戦の時代、あるいは
国民が総動員された戦時下で、
国民は、苦しい毎日の生活を送りながらも、将来の
日本、あるいはあるべき
政治のあり方について、ひそかに思いをめぐらせていたのではないかと思われるからであります。
一九四六年八月二十七日の貴族院本
会議で、高柳賢三議員は、この
憲法改正案は、
日華事変カラ太平洋
戦争ニ至ル東亜ノミナラズ
世界各地域ニ於テ流サレタ内外人ノ血ト涙、軍ト官僚トノ
政治的、経済的圧迫ニ苦シンダ
日本国民ノ隠レタ自由ヘノ要求、ソレ等ガ此ノ改正案ノ背後ニアルノデアルト考ヘル
と指摘しておられます。
憲法制定当時の
日本は、経済的には貧しく疲弊した
状況にあり、
国民はその日の食糧にも困るような時代ではありました。しかしながら、惨めな
敗戦を乗り越えて、新
日本の建設を願って前途に希望を見出そうとする時代でもあったと思います。
国民は、
松本委員会の
憲法改正案よりも、総司令部案を基礎としてつくられた
憲法草案の方が、
自分たちの自由への要求を満足させ、将来への希望を託するに足ると
考えたのではないでありましょうか。長の直接公選という限られた角度からの考察ではありますが、私にはそのように思われるのであります。
以上で私のつたない話を終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。(拍手)