○
北岡参考人 御紹介をいただきました
北岡でございます。
このような機会を与えられましたことを心からうれしく思っております。
私、専門は必ずしも
憲法というわけではございませんで、
法律学ではなくて
政治学でございます。特に、
日本政治外交史といいますか、
近代日本の
政治、外交の歴史を専門にしております。戦前には
憲政史という言葉がございました。
憲法政治、
憲政史という言葉がございまして、すなわち
政治の最も基本的な枠組みを構築するものが
憲法であり、それにのっとった
政治がいかに行われるかという観点から、広く
日本の
政治、外交を研究してまいりました。
私は、特にこの
占領期を専門とするわけではございませんが、そうした広く
憲法と
政治のかかわりを研究してきた立場から、きょうは意見を述べさせていただきたいというふうに考えております。
お手元には、まことに簡単なレジュメ一枚と年表二枚がついております。と申しますのも、これまで既に行われました
参考人の方々、またそれをめぐる質疑の記録を拝見いたしまして、既に相当論点も煮詰まり、また
皆様方の理解も進んだというふうに考えたものですから、細部を余りいじるのではなくて大きな流れをお話ししたいと考えたからでございます。
最初に序論的な話を申し上げまして、それからきょうの本論でございます
日本国憲法制定の
政治過程というお話をいたしたいと思います。
後ろに3というふうに書いてございますのは、本来は
憲法を考える上でどういうことを念頭に置くべきかということについて私が考えていることなのでありますが、余り序論が長くなって、
抽象論が長くなりますと、
皆様方を退屈させるといけませんので、後ろに回しまして、時間がある範囲でそちらの話をつけ加えるという形で進めたいと思っております。
さて
最初に、いわゆる
押しつけ論と
改憲論ということの関係について、一言申し上げたいと思うわけであります。
押しつけというのは余り言葉が上品ではございませんが、外からの強要あるいは強制と言った方が正確でしょうか。私は、
最初に申し上げたいのは、
押しつけであったから直ちに改憲すべきだというふうには考えないわけでございます。
押しつけであったかどうかということと改憲すべきであるかどうかというのは、一応別の次元の問題だというふうに思っております。
しかし、これまでの御
議論を見ますと、どうもこれはやはり近づいてくるといいますか、必ずしも無関係に論じられているわけではないような印象を受けております。つまり、
押しつけだから改憲すべきだという
議論になりやすいし、他方では、護憲だから
押しつけではなかったという
議論が出てきているような感じがいたします。
ここで申しておきたいのは、例えば、
押しつけだけれども中身がいいからいいではないか、よい
押しつけだから構わないという種類の
議論をなさる方がございます。つまり、非常に高度な、高次の理想、適切な内容を盛り込んだものだからいいではないかと言う方があるのですが、これはまた別問題でありまして、中身がよくても悪くても、
押しつけであるかどうかというのはまた別に
議論ができる問題でございます。
また、これと似ておりますが、
押しつけられた方が
頑迷固陋で悪いやつだったから
押しつけられてもやむを得なかった、この種の
議論をされる方もあるのですけれども、これもまたちょっと次元の違う話でありまして、
押しつけられた方が
頑迷固陋であろうがなかろうが、
押しつけは
押しつけである、好ましいことではないというふうに考えます。
また第三に、その後
日本に広く定着したからこれでよかったんだ、
押しつけとは言えない、
国民の心の中にある願望に訴えたものだからいいというふうに言われる方もあるのですが、これもおかしいと思うのですね。定着したから
押しつけでなかったというのは、これはまた別の次元でございまして、
憲法は
国民に定着していたかどうかということをいいますと、例えば
大日本帝国憲法は
相当程度国民の中に定着していたわけでありまして、これまた定着していたからよかったというものではなかろうと思うわけであります。
さらにつけ加えますと、
制定過程を取り上げることに若干の留保をつけられる方もあったように拝見いたしました。
制定過程を検証することは余りやるべきでないということをおっしゃる方があるのですが、これもちょっとおかしいと思うのです。
制定過程がすべてだというのは問題かもしれませんが、国家の
基本法がいかにしてできてきたのかというのはやはり重要な問題でありまして、それはそれとして、歴史的事実としてきちんと押さえていただきたいというのは、歴史をやっている私としての
お願いでございます。それは直視していただきたい。かつて、
戦前吉野作造が
明治国家の成り立ちをいろいろ勉強しましたときに、
明治憲法の
制定過程を志した、それを主たる目的の
最初に置きました。これは非常に理由のあることであったと思います。その意味で、
憲法制定過程を改めて検証するというのは非常に重要なことだと思っております。
ただし、
最初に申しましたとおり、私は、
押しつけといいますか、外部からの強要、強制があったから直ちに無効あるいは早急に全面的に改めるべきであるというふうには必ずしも思わないわけでございます。
強要ゆえに無効ということになりますと、例えば一九一〇年の
日韓併合とか、
日本が中国に二十一カ条要求を提出しまして、その結果結ばれた諸条約、
南満州及び東部内蒙古に関する条約等々も全部無効ということになりますし、やや誇張を交えたジョークとお聞きいただければいいのですが、
アメリカ合衆国の成立とかオーストラリアとか、そうした国もあるいは根本にさかのぼれば無効かもしれぬという感じがするわけでありまして、そういうとらえ方は適切ではなかろうと思います。
他面、しかし
制定過程はどうでもいいということはないわけでありまして、相当問題のある
プロセスであったことは確かだというふうに私は感じております。したがって、非常に誇らしい
プロセスというわけではない、絶対護憲というのはその
制定過程を考えるといかがなものかなというふうに考える次第でございます。
以上が、1の「はじめに」でございます。
さて、本論に入りたいと思います。
日本国憲法制定過程を考えるときに、まず
日本が降伏に至った事情、状況をある程度考えておく必要があると存じます。
第二次大戦は、我々にとりましては昭和二十年、一九四五年の八月に終わったものでありますが、
アメリカにとっては、これは五月に終わった
戦争であります。主たる敵は何といっても
ドイツでありました。その後、
日本も降伏させなくてはいけない、これが
アメリカ人の一般的な通念でありました。
アメリカはデモクラシーであります。
アメリカンボーイズの生命、そして
アメリカ人の財産、これをできるだけ守るということでありますから、なるべく早く
戦争をやめたいと
アメリカは考えたわけであります。
徹底抗戦を続ける
日本に対して、早く
戦争をやめさせる方法は何か。特別な手段が徐々に浮上してまいりました。
一つは、
天皇を利用する。
日本国民が強く執着している、また
日本の
政府指導者が強く執着している
天皇の地位を保障する。どの程度強く保障するかは別にしまして、保障することによって
日本人の抵抗を和らげよう。第二は、より大きなショックとして、ソ連を参戦させる。さらに、もう少し押し詰まってからでありますが、新しく開発された強力な兵器、すなわち原爆を使うというようなことによって
日本を降伏させようというふうになったわけであります。
この過程から出てきたのが、御
承知の
ポツダム宣言でございます。
ポツダム宣言の中には、
日本を降伏させるために
天皇を利用するということは明示的には書かれておりませんが、将来の政体は
日本国民の自由な意思によって決定されるということによって、
日本側が国体は護持されたと解釈することが不可能ではない含みを示しまして、それによって
日本の抵抗を和らげる、
日本の降伏をより円滑にするということがねらわれたわけであります。
私が申し上げたいのは、この
ポツダム宣言にあらわれた対
日態度というのは、
アメリカ人の一般的な態度よりはソフトなものだったということであります。すなわち、
戦争中の
アメリカの
日本に対する態度はまことに厳しいものでありました。
私は、
アメリカ留学中に、
戦争中の
アメリカの
戦意発揚、
戦意高揚映画というものを見たことがありましたが、
世界地図が出てまいりまして、ヒトラー、ムソリーニ、
ヒロヒトというのが三悪人として出てきて、それがいかに世界の広い部分を不当に占領していったかということが地図でわっと示されて、これは打倒しなくてはいけないというふうに訴えるわけです。そうやって
国民の意識をかき立てておいて、そして
天皇制を維持するというのは、なかなかできないことなのであります。
しかし
アメリカ人は、
ドイツが降伏した後は、もういいじゃないか、早く
戦争が終われるのだったら
天皇ぐらい許してやれよという気分も出てきたので、
ポツダム宣言は
アメリカの
戦争中の対
日意識よりはかなりソフトなものだったというふうに考えております。
しかし、
戦争が終わりますと、またもとのイメージに少し戻りまして、既に何度もこの会に出ていると思いますが、九月六日に制定されましたこのころの「米国ノ初期ノ対
日方針」というのは、かなり厳しいものでございます。
具体的にいいますと、
日本は、
日本が侵略したところの周辺の国々よりも高い
生活水準を許されるべきではないというのがその基本であったかというふうに考えます。これは、言うのは簡単ですが実は大変なことでございまして、
日本の周辺、
日本が侵入した国々というのは
生活水準の相当低い国々でありましたから、それ以下というのは相当ひどいことを意味したわけであります。
それは決して口先だけではございませんで、最もこれを典型的にあらわしておりますのは、一九四五年の十二月に来日しまして、その後提案を書きました
ポーリー大使の報告であります。ポーリー・ミッションというのは、
日本が
周辺国にいかなる
賠償をすべきかということを
調査するミッションでありまして、それは、
日本が
最低水準の経済を維持するための
産業施設はこれを認める、しかし、それを超えるものはこれを撤去して他国への
賠償に充てるという
施設賠償の考えでございました。
これは、何といいますか、
日本に対しては非常に痛い、そして同時に、
賠償をもらう国としてはそれほどありがたいものではなかったのですね。つまり、
日本に置いておけば動くところの工場や何かを持っていって、例えばフィリピンとかインドネシアに持っていってそのまま動くというものではございませんので、余り効率的なものではないのですが、とにかくこれはかなり厳しいものでありました。
そして、その
最低水準とはいかなるものかというのを、その
ポーリー大使を中心に検討した結果、何については何トン、何については何万トンというのが決められたわけなのです。例えば鉄鋼について見ますと、人口がだんだんふえておりますから、一人当たりに換算しての話でありますが、大体第一次大戦前の水準あるいは明治末の水準までに押しとどめよう、それ以上のものは撤去して持っていってしまおうという方針でありました。
御
承知のとおり、
近代日本の
経済発展の中では、
重化学工業は、第一次大戦及び
日中戦争のさなかに大きな飛躍を遂げております。この二つの飛躍をもとに戻そうというわけですから、これは相当厳しい
政策でありました。当時、
日本の識者の中で最も透徹した、また最も楽観的な予測をしておりました
石橋湛山は、それまで楽観的であったのですが、この
ポーリー大使の
賠償案を見て、これは予想より大分厳しいということを言っております。また、当時中国から帰国したばかりでありました、共産党の
指導者でございます
野坂参三も、この
ポーリー案が実施されたら
日本は大変なことになるということを言っているわけであります。
この
ポーリー案は間もなく緩和されましたが、御
承知のとおり、一九四六年、七年という
日本の復興の第一歩は、
傾斜生産方式といいまして、エネルギー、石炭に集中し、そこから
日本を発展させるということで、これはこの大変な撤去がなかったからできたのですね。この
施設撤去が大幅にやられておれば、これも難しかった。大変厳しい案でありました。それが、昭和二十年、一九四五年の年末から翌年年頭にかけてのものでありました。
さて、こうした
アメリカの
政策、
ハードピース、峻厳なる平和と言っておりますが、
ハードピースのラインは以上のようなものでありましたが、このとき
日本の
占領政策の中心におりましたのは、言うまでもなく
マッカーサーであります。
マッカーサーは何を考えていたか、彼の
政策はどういう判断から割り出されていたかということを次に考えたいと思います。
マッカーサーがやろうとしたことは、効率的な占領を早く終えて、早く
アメリカに帰りたい、そうして、できれば
大統領選に出るというのが彼の野心でありました。個人的な野心だけではなくて、事実としてこの
日本の
統治をそんなに長くやるつもりもありませんでしたし、それを早く済ませたいと思っておりました。
そのためには、幾つか必要な条件がございます。
まず第一に、余り
日本人が抵抗しては困るのですね。
日本人が抵抗すれば余分な兵力が必要です。厳しい
統治、余分な兵力が必要です。これは
アメリカ本国で非常に嫌われる
政策であるわけです。また、
日本経済が余りめちゃくちゃになっても困るわけです。
日本経済が余りめちゃくちゃになりますと、
アメリカが援助をしなくてはいけない。これは
アメリカのタックスペイヤーから非常に嫌われる
政策でありまして、
アメリカの立場からいえば、なるべく
アメリカの負担が少なくて、負担の軽い
統治をやりたい。しかし、そこでなるべく
日本を変えていきたいと思ったわけであります。
こうした観点から、最も有効な方策は何か。それは、
天皇を利用することであるというふうに
マッカーサーは思い至った。これは無理もないことであります。
すなわち、
マッカーサーは軍人でございますから、これまで
日本軍がいかに果敢に抵抗したかを知っている。その軍人が、
天皇の一声で武器を置いた。これは大変な威力である。
天皇を自分の側につけるか、敵の側にするかというのは、大変なことであるわけです。
マッカーサーがなるべく
天皇を味方につけたい、
天皇を利用することによって円滑な
統治を進めたいというふうに考えたのは、まことに
十分理解のできることでございます。
こういう思惑がありまして、有名な九月二十七日の
天皇・
マッカーサー会見が行われたわけでございます。この会見では何が話されたかというのは、実は正確なところはまだわかっておりません。
マッカーサーの
回想録にはいろいろ書いてございますが、
マッカーサーの
回想録は、後でも触れますとおり、甚だうその多いものでありまして、必ずしも信用できません。しかし、そこに何と書いてあるかといいますと、皆さん御
承知のとおり、
天皇が
命ごいにでも来たのかと思った、そうしたらそうではなくて、責任は自分にある、
国民に罪はないと言われたので
大変感銘を受けたという趣旨のことを
マッカーサーは書いております。
本当にそうであったかどうか、資料は今のところございません。ただ、会ったときの
最初の印象や、それから帰るときの様子などを見ると、穏やかな話し合いが行われたことは間違いないであろうと思われます。
その内容の一つに、
天皇が
アメリカの占領に積極的に協力する、むやみな抵抗はしない、協力するということがあったことは確かだろうと思うんです。その反対に、恐らく
マッカーサーの方も
天皇陛下に対して何か親切な、あるいは冷たくないことを言ったのではないかと思います。
ともあれ、こうして
マッカーサーは
天皇を支持し利用しつつ、支持と利用はちょっと微妙なんですけれども、
マッカーサーはとにかく
天皇を利用しつつ
統治を進めたいということに確信を持ったのが、この九月二十七日の会談ではないかと思います。それはできると思ったんだろうと思います。
さて、具体的に
日本の改革を進めるという場合に、その担い手はいかにあるべきかという点については、
マッカーサーはまだよく知りませんでしたし、
日本のことはよくわかりませんでした。無理もないわけであります。
そのまだはっきりしない手探りの
プロセスの中で、例えば有名な
近衛元
総理大臣との会談が行われた。そこで
マッカーサーは
近衛元総理に対して、あなたはまだ若い、
日本の改革の
リーダーシップをとるべきだと激励した。
近衛は、それですっかり自分は
マッカーサーに信任されたと思い、
リーダーシップをとって
憲法改正を進めようとした。
京都帝国大学の
佐々木惣一名誉教授の手をかりて進めた。そのために
近衛は
内大臣府
御用掛に任命された。これは非常に当時の仕組みとしては正統なやり方でありまして、つまり、
明治憲法は宮中から出てくるわけですから、
内大臣府に掛をつくって、そこで起草していくというのは、旧
憲法からすると正統な
プロセスなわけであります。
ところが、当然、
アメリカ本国その他、
日本のことをよく知っている
人たちから、
近衛が戦後の
リーダーになるなんというのはとんでもないという反発が出てきました。これはなかなか深うございます。
近衛さんの御子息は
アメリカの
プリンストン大学というところに留学しておられたのですが、数年前、この
プリンストン大学で
近衛文隆さんを記念する
奨学金をつくったことがあります。つくったときも、やはり最終的には
近衛という名前を外したんです。それほどやはり
近衛という名前には少々アレルギーがあったんですね。ということが数年前にもあったぐらいですから、あるいはもう十年たつかもしれませんが、当時
近衛が
リーダーになるというのは、やはりちょっと考えにくいことでありました。
内閣の方からも反発がありまして、
憲法は新しい時代は内閣でつくるべきだというので、内閣の方でつくり出した。それが
松本烝治国務相を中心とする動きであったというのは御
承知のとおりであります。
その他、民間でもいろいろな動きがありました。これもよく知られておりますが、これは
日本では別に初めてのことではありませんで、
明治憲法ができる前にも民間でさまざまな
憲法草案がつくられた、その伝統からすれば当然のことであります。
さて、そうした
日本側の動きを見ながら、しかし、
マッカーサー、
GHQの方でも考えたわけでありますが、彼らはやはりそうした動きでは不十分だと考えたわけであります。ですから、
自分たちで
憲法をつくるということを考え始めた。
それがまずいということは、かなりそう思っていたんですね。
GHQがつくるのはまずい。まずいというのは、いろいろ理由はありまして、例えばこれまでのお話でも、
ハーグ陸戦法規に違反するとかいうようなことも既に述べられたと思います。また、
ポツダム宣言に違反するわけですね。
日本国民の自由な意思で将来政体は決まることになっているのに、それを
GHQがつくるというのもおかしいと。ですから、ぐあいが悪いわけであります。
他方で、これまた既に出ておりますが、
極東委員会というものがだんだんできてくる。そうすると、
マッカーサーの権限も制約されてくるというので、時間を急ぐわけです。それで、
GHQの中で、
憲法草案、大体こういうものをつくれということを言って、それを
日本政府が自発的にやったことにして、それを
日本人が決めたという形でやらせる、そういう形をとったわけであります。
先ほども触れましたとおり、
マッカーサーは
天皇を利用したいと言いましたが、利用するためには
天皇の
影響力を残さなくてはいけません。しかし、
天皇に対する
アメリカ国内の認識、批判は厳しい。世論は厳しい。他の
連合国も厳しい。そこで、
憲法改正によって、
天皇は続くけれども
天皇制はすっかり変わったんだ、また、後に九条になる条項によって、
日本はもう軍備を撤廃し、
戦争をしない国になった、
日本はもうすっかり危険でない国になったということを示すのが最も有効な近道だ、こういうふうに考えたわけでございます。これは、
政治過程を追っていけば、常識的にそれが見えてくるわけでございます。
さて、
日本側が自発的につくったということに彼はこだわったわけでありますが、その中でも大変よく知られておりますのが、九条がどうやってできたかということについての
フィクションであります。これはだれがつくり出したか。実は、幣原が九条の
発案者であるというのは、
フィクションといいますか、かつてかなりそういう理解があったんですが、今日、それが
フィクションであるということは既にかなり知られております。
しかし、あえてもう一度繰り返せば、
マッカーサーの
回顧録には次のように書いてあります。
風邪でしばらく休んでいた幣原首相が、一月二十四日に、風邪が治った、そのための薬をいろいろもらったことなんかのお礼でやってきた。それで、何かを言いたそうにしている。もじもじしているので、何でも自由に言ってくれと言ったら、幣原は、軍人のあなたにこういうことを言うのは申しわけないけれども、こういう大きな
戦争が起こるのも、
戦争というものがあるからだ、
戦争はもう一切しない、軍備も持たないというふうに決めてしまえば、こういう
戦争は起こらない、それしかないということを言って、
マッカーサーは、思わず立ち上がって手を握り締めて、すばらしいアイデアだと言ったというんですが、これは真っ赤なうそでございます。
それがうそであるという理由は、後にだんだん出てきたんですが、まず、もし幣原が一月の下旬の段階で
戦争放棄、軍備の否定という考えを持っておりましたら、後に出てくる、完成して
GHQに提出されたのは二月の八日でありますが、松本草案、政府案にそれが入らないはずがない。全く入っておりません。
それから、
GHQの案を見せられたときに、
日本側があれほど驚いたはずがない。
第三に、幣原はこれと全く矛盾する
議論を
マッカーサーとしております。
すなわち、これもよく知られておりますが、二月の二十一日、これは
GHQ草案が渡り、その内容を確認するという意味で幣原首相が
マッカーサーに会ったときでございますが、そのとき幣原は、こうした高度な理想を掲げて
戦争を否定する、軍備を持たない、それについて疑問を呈したわけであります。
マッカーサーは、
日本はこういう高次の理想によって世界にモラル
リーダーシップをとるべきだということを言いました。幣原は、そのとき、そういう
リーダーシップをとっても、だれもついてくる者はないだろう、ノーフォロワー、フォロワーはないだろうということを言った。そうすると、
マッカーサーは、フォロワーがなくたって、何の失うこともない、なくてもともとであると言って反論した。
つまり、そういう
議論があったということは、幣原が
発案者であればあり得ないことでありました。
さらに、細かいことは省きますが、後にも
日本の政府筋から、軍備とか戦力を持たないというのは、本当はどれぐらい以上がいけないのだろうかという打診が何度か行われていたのですね。それで、打診しても、だめと言われているわけであります。そういうことからして、幣原が
発案者であるということはあり得ないわけであります。
ただし、これは全く推測でございますが、後にも触れますが、九条一項、すなわち、これは一九二八年の不戦条約を起源としておりますが、国際紛争解決の手段として武力の行使や武力による威嚇は行わないということを幣原が指示していた可能性は十分あります。それを言ったかもしれません。あるいは、もしかして、
憲法の中にこれは入れてもいいということは考えていたかもしれませんし、言ったかもしれません。しかし、前後を見ますと、戦力を持たない、軍備を持たないということを幣原が考えていた、ましてや、それを申し出たということはとても考えにくいことでございます。
さて、
発案者をめぐる
議論は以上でございますが、
GHQの中で
憲法起草が始まりましたのは、既に西先生を初めとしていろいろな御紹介があったと思いますが、二月になりまして、二月三日に
マッカーサーが、次の論点は必ず入れてくれと言って、
マッカーサー・ノートというので三点を挙げて、これを踏まえて
憲法をつくるようにというふうに言いまして、二月四日に着手いたしまして、二月十日、
GHQの民政局がつくりました民政局草案ができたわけであります。この間、四日から十日ですから、七日間でできた。前後を加えても九日ぐらいであります。
その
マッカーサー・ノートの中には、一つ目になかなか興味あることが書いてあるわけで、
天皇は国の最上位にある。
天皇はヘッド・オブ・ザ・ステートとは書いてあります。エンペラー・イズ・アット・ザ・ヘッド・オブ・ザ・ステート、
天皇は国家のヘッドの地位にあると書いてあるのですね。元首だとは書いていないのですが、微妙な表現で、割合
天皇の高い地位を認めていると言っていいと思います。
第二番目が非常に問題でありまして、
日本は、国権の発動たる
戦争は廃止する、紛争解決の手段として、さらに、みずからの安全維持の手段としても
戦争を放棄するというのが出てきたわけであります。つまり、自衛のための
戦争までも否定する内容を
マッカーサー・ノートは含んでおりました。
これを
GHQ民政局が
憲法を論議しつくっていく過程で、ケーディスという大佐、これは大変有能な人でありますが、彼はそれを読んで、自衛のための権利まで否定するというのは
憲法として行き過ぎである、そういう
憲法はあり得ないと。これは私流に比喩的に申し上げれば、あたかも正当防衛を認めないようなものでありまして、そういう法律はないと。したがって、その部分を削除した。意図的に削除し、それについて上の方で何も文句を言わなかった。したがって、少なくともケーディスの頭の中では、自衛のための戦いというのは当然
日本に許されるというのが彼のアイデアでありました。起草者の意思をどれほど認定するかどうかというのはまた別問題でありますが、少なくともケーディスはそういうふうに考えていたわけでございます。
なお、ケーディスというのは、いろいろ欠点もございますが、大変有能な法律家であったと私は思います。少人数の素人集団というふうに考えられる方もあるかと思いますが、その分、結構視野の広い、知識のある人が大勢——大勢といいますか、二十人ちょっとでありますが、集まって、
議論をしてつくった。非常な秘密のうちに行われました。
日本国憲法、新しい
憲法をつくるわけですから、当然
参考書が要ります。これも、一カ所から集めてきたのでは秘密が漏れるというので、いろいろなところから分けて借りてきました。
憲法起草作業が行われていることは
GHQの中でも秘密でありました。そうして、これは
明治憲法の改正という形をとったものですから、構成等々はかなりの程度それに似た形をとっているわけであります。
こうした
マッカーサー草案があり、これをケーディスが修正していって、特に、
最初は八条でありましたが、後に九条になる
戦争放棄については、これを修正して進めていったわけでございます。そして、それができると直ちに
日本に渡す。
日本に渡し、
日本側がこれを翻訳したり検討したりして持ってきたのが、年表にも書いてございますが、
GHQが渡したのが二月十三日でありまして、
日本がこれをいろいろ検討して持ってきたのは三月四日であります。そこで早速、では今から細部を詰めていこうというので徹夜の作業になりまして、五日にはもう確定してしまった。最後は非常に大変な協議であったわけであります。そして、三月六日にはもう政府案の要綱が発表されたということになっております。
このときのスケジュールについて、もう一度年表をごらんいただきたいのでありますが、このとき、帝国議会は四五年の十二月に解散されております。四五年の十二月に解散されて、当初は選挙の予定日は一月の二十日前後、二十一、二十二日あたりが予定されておりました。ところが、これがずっと延期されまして、結局四月の十日まで延期されたわけであります。こんなに選挙が長いとさぞ大変だろうと先生方は思われるのではないかと思いますが、とにかく十二月から四月まで選挙をやる。非常に新しい選挙で、これは婦人参政権もある新しい制度でありました。
そして、その選挙の前に政府案の要綱が示される。しかも、政府の案として発表されたわけですね。そうすると、その選挙で当選してきた
政治家、またその選挙で投票した人々は、ある意味でこの政府の
憲法改正案の要旨を知って投票した。建前ですよ、建前で、知って投票したと言えないこともないわけです。そうすると、それを知って投票した
国民、知って当選してきた
人たち、まだ帝国議会ではありますが、その
人たちが審議して決めれば、これは
日本人が自発的に決めたという
フィクションはさらに強化されるわけであります。これが選挙の期間をここまで延ばした大きな要素ではなかろうかと私は思うんですね。
政治的な、戦略的な考えをすれば、当然そのことはやるだろうというふうに思うわけであります。
この際、
日本は受け入れに際していろいろ抵抗はしておりますが、大変著名なものは、
最初アメリカの案が一院制だったのが、松本さんが非常に抵抗して二院制にした。
アメリカ側が一院でいいではないかと言うのを、いや、熟慮のために二院制がいいんだということを言って、そういうふうに松本が得意になって演説すると向こうはなるほどと言って、松本先生は大変得意になって帰ってきたのですが、御
承知のとおり、これは
アメリカはちゃんと読んでおって、
日本はいろいろ提案するだろう、あるいは反論するだろう、そのときに少しは
日本にも譲ってやらぬといかぬと。国際交渉でよくあることでありますが、幾つも論点があって、これは譲る球、これは維持する球というのでちゃんとそこを譲って、
日本は若干得たような気がして帰ってきたのでありますが、
アメリカが絶対譲らなかったのは
天皇のところでありまして、最も
議論になったのはここですね。それに比べると、九条関係は余り
議論にならなかったと言ってよいと思います。
このとき、結局
日本側はこれを受け入れたわけであります。幣原
総理大臣、そして、松本
憲法担当国務相を別にすれば、吉田外務大臣がやはり重要でありました。この二人はこれを受け入れたわけであります。
先ほど来申しておりますように、
アメリカ、
マッカーサーの方が、なるべく乱暴でない、効率のよい
統治をしたいと思ったと同時に、
日本側も
天皇を守りたいと思ったんですね。あるいは、できるだけこの苦境を早く通り過ぎたい、何とか立ち直りたいと思ったわけであります。
当時の状況はどういうものであったかと申しますと、年表に書いてございますが、ちょっと拾ってきました。
例えば、昭和二十年の十一月一日あたりには、このころは全国で餓死者が続出したというふうな記事がございます。年表なんかに書いてございます。上野駅というのはそういう人が多かったわけでありますが、上野駅で一日六人死んだことがある、そういう大変な苦境でありました。これは、海外からの引揚者、気候条件もよくなかったし、それから肥料が調達できないというわけで、農業生産も非常に悪かったわけであります。この昭和二十年、二十一年というのが
日本の最も苦境の時期であったろうと思います。それは、二十二年の二・一ストを克服するころまでは、
日本は本当にどうなるかわからないという状況だったと思います。
少し後になりますが、四六年の四月には総選挙があり、そして五月に吉田内閣ができるのでありますが、吉田内閣ができるまで、選挙から実に一月以上かかっているわけであります。そして、このとき、五月の初めに鳩山一郎が
総理大臣になりそうになったわけでありますが、これはパージされまして、そして鳩山の代理ということで吉田が首相になりました。このときも、鳩山パージから吉田内閣の成立まで実に十八日かかっているのですね。今回は大変空白のない政権異動でございましたが、このころは大変に時間がかかった。
これは、吉田も時間稼ぎをしたわけです。吉田は何の時間稼ぎをしたかといいますと、
GHQ、
マッカーサーが
自分たちを本当にサポートしてくれるか、そうでなかったら餓死者が続出するというので、いわばその交渉だったわけですね。吉田は、
マッカーサーがこれこれの何万トンの援助をしてくれなければ
日本に大量の餓死者が発生する、何十万の餓死者が発生するということを言いまして、そして協力を取りつけた。取りつけるまでいわば消極的な抵抗をしたわけですね。
後に
マッカーサーが、
日本にそんな餓死者は出なかったではないか、おまえ、うそをついたなと吉田に言いましたら、吉田は、いや、それは
日本の統計が不備であって、我々の統計がそんなにすぐれていたら
アメリカと
戦争なんかしないと言って
マッカーサーに一矢報いたと言っておりますが、そういうふうに、弱者の恫喝のような、次々に混乱が起こってもいいのかと言うしたたかさをやはり吉田は持っていたわけであります。
そういう流れの中で見ていきますと、
GHQが
憲法草案をのめと言ってくる。のめば
マッカーサーも助かるわけです。
天皇を利用した有効な改革が、効率的な改革ができる。
日本の方はどうであるかといいますと、
日本の当事者は、
天皇は守りたいと思っていたわけですね。
お断りしておきますが、私は、当時の人々が
天皇だけは守りたいと思ったことが正しかったかどうかを
議論するつもりはございません。そうでないという
議論もあるでしょうし、それは正しかったという
議論もあるでしょう。それはちょっと別の問題なのでわきに置きます。
少なくとも当時の
政府指導者が
天皇を守りたいと思っているときに、こういう案を持ち出す。
マッカーサー元帥は
天皇をぜひ守りたいと思っているけれども、本国にはいろいろな意見もある、
連合国にはいろいろな意見もある、だから必ずしも自信はない。したがって、
天皇の地位もすっかり変わったし、
日本は軍備を持たない国に生まれ変わる、もう悪い国ではない、危険な国ではない、こういう
憲法をのめば一番
天皇を守りやすいのですよと言われたら、これはまことに有効な、脅迫といいますか強要だったのではないでしょうか。
しかも、当時、間もなく東京裁判が開かれることになっているわけです。東京裁判の裁判所条例というのが、これまた年表にございますが、一月十九日に承認され、発表されております、極東国際軍事裁判をやると。そのときに
日本側で最もきゅうきゅうとしたのは、これに
天皇が被告として連れていかれるのではないか、あるいは証人として呼ばれるのではないか、これに大変危惧を持っていたわけです。数年前に出て以来話題になりました「
天皇独白録」という文書がございますが、これも恐らくこの時期に裁判対策で用意されたものではないかというふうに言われております。
そういうこともありまして、
日本側はこれをのんだわけですね。特に九条関係では、どうせ占領下で軍備なんか持てない、したがって、ここで抵抗してもしようがない。吉田茂は元来、
戦争に負けて外交で勝った国はある、負けっぷりをよくすることが大事だというふうに持論として言っていた人でありますので、ここはあっさりこれを受け入れて、そしてそのかわり
GHQの協力を引き出すという方向に進んだわけであります。
つまり、ここでは、
マッカーサーの側と幣原、吉田の側に、ある種の黙示の共演があったかのような気がいたします。
マッカーサーは、
天皇制は維持して
天皇の地位も保障するかわりに
憲法をのめと、
日本側は、
憲法をのむことによって
天皇制を維持し、そして何とか最小限の経済援助を引き出して、
日本国民を飢えさせないでこの難局を乗り切るということであったかと思うのですね。ですから、私は、その当時の
指導者の心境を考えるに、この
憲法の内容には私は幾つか不満もあるのですが、これを受け入れたことを一概に批判はできないという気がするのですね。それほど当時の
日本は厳しい状況にあった、こう考えるわけでございます。
ある意味で、これは
憲法というよりは条約のようなものでございまして、外国と条約を結ぶときにいろいろ利害を交渉しますが、最後はお互いの立場を考えて妥協します。相手が強ければ、かなり押されたところで妥協をいたします。しかし、それを国会に批准にかけるときには、政府はこの条約を擁護するわけです。この条約でいいんだと、これで我々の国益は守られると言って議会を説得するわけですね。
実は、この帝国議会における吉田茂
総理大臣の立場は、外国と結んだ条約を擁護する
総理大臣という立場でありました。ですから、今日から見ると、後の吉田さんの行動からは考えにくいほど弁護的、擁護的なものであります。
少し先を急ぎたいと思います。
さて、そういう中で、この
憲法の中の九条に手を入れたのは芦田さんであります。既に何度も出ておると思いますが、芦田さんは、「前項の目的を達するため、」という一句を挿入して、そうして芦田修正というものを実現したわけであります。芦田さんが、「前項の目的を達するため、」つまり、国際紛争を解決する手段としての軍事力の行使や威嚇は行わない、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」というふうに変えたのは、前項以外の目的のためなら軍事力を持ってもいいという反対解釈を可能にするためだと後に芦田さんは言っておりますが、この修正をしたときにそれを念頭に置いていたかどうかは確証はありません。
芦田さんの発言自体を見ると、発言にはそういう意図は出てこないのですね。しかし、発言にそういう意図が出てこないからそういう意図がなかったとも言えないわけであります。つまり、当時の審議は全部翻訳されて
GHQで見られておりまして、
GHQはどこまで許してくれるのかというのはわからない。ですから、極力これは何でもないふりをしてやっているわけであります。
私は、実は、
最初から芦田さんはそういう意図でやったのではないかなと思っているのです。というのは、芦田さんの
最初の修正は、軍備を持たないというのが先にありまして、そして前項の目的を達するために
戦争は放棄するというふうになっているのですね。よく読めば、これは論理的におかしいのです。余りうまくいっていないのです。
最初にうまくいっていない案を出して、よく読むと変ですね、では入れかえましょうという格好で今の形にしたんではないか、だから、
最初から念頭にあったんじゃないかというふうに思っておりますが、これは推測でございまして、余り確かな根拠はございません。
しかし、この芦田修正が議会で確定したころには、芦田さんは、この修正によって、反対解釈によって、自衛のための軍事力は持てるという確信をかなり既に持っていたのではないかと思います。つまり、この案を芦田さんは直ちに
GHQに持っていっているわけです。それで、ケーディスに会って、こういうふうに変えたいんだがというふうに申し入れている。
ケーディスが来日しましたときに私はその話を聞いたことがございますが、ケーディスによれば、芦田さんがやってきて、ちょっと言いにくそうに、かなり深刻な顔をして、実はこういうところを変えたいんだがと言ってきた、自分はすぐその意味はわかったと。これは、つまり反対解釈によって自衛のための軍事力は持てる、そういう余地を残すための工夫だなということはすぐわかったと言っていました。わかったけれども、それは、彼が
マッカーサー・ノートを修正したときに既に明らかなように、彼は当然のことだと思っていた。したがって、それでいいと言ったと。
さらにつけ加えてケーディスは言っておりました。「国の交戦権は、これを認めない。」ということも、これを外したいと言ってきたら自分は認めるつもりだったと言っております。ただ、それは言ってこなかったので自分からは言っていないということでありました。
しかしながら、御
承知のとおり、直ちに他の
連合国はその含意に気がつきまして、こういうことをすれば自衛のためと称して
日本は軍隊を持てるではないか、それは危険だという
議論が出てきて、その妥協として、いわゆる文民条項、国務大臣はシビリアンでなくてはならないというものが入ってきた。軍隊を持てないはずの
日本の
憲法に、軍人は大臣になれないという規定ができたという矛盾がそこにあるわけで、将来、軍隊が持てるようになるかもしれないから、それに備えてつくったということであります。
ケーディスさんというのは、私は、大変有能な人だと思いますし、恐らく魅力的な人だったんだと思います。しかし、彼は、晩年まで、長年
日本には来ませんでした。
日本の学者のインタビューは何度も受けましたが、
日本には来ませんでした。そして、九三年ごろだったと思いますが、やっと来まして、私も会ったんですが、テレビに出ておりまして、自分にいろいろ聞かれるけれども、その後
日本人も自由に審議したんだから、
日本人の審議の記録をもっと見てくださいよ、我々にそう聞かれても全部責任があるわけじゃないから困るというふうなことを言ったんですね。
日本人は自由に審議したじゃないかと言ったら、私、たまたま家でテレビを見ておりましたら、後ろの方に座っておりました、亡くなりました京都大学の高坂先生が、そんなんうそやと叫びました。自由にやっていたんならどうして文民条項が入るんだと後ろから叫びまして、ケーディスさんはそれに反論ができなかった。審議は全部チェックされていたわけであります。
これまた既に出たかもしれませんが、当時の占領軍の検閲はまことに強力でありまして、亡くなった江藤淳先生が書いておられますが、大変強力かつ検閲をしていること自体がわからない検閲をしておりました。中でも、検閲の対象の一つは、
憲法が外国製であるということをにおわせたりすることは一切まかりならぬという検閲をやっておりました。
先ほども触れました吉野作造は、当時の課題は、
日本における「民主主義的傾向ノ復活強化」でありますから、戦前の民主主義的な部分を復活しよう、そうすると、最も思い出される知的遺産は吉野作造であります。したがって、吉野作造の本は戦後直ちに復刊されているんですが、それも巧妙に検閲がされております。
戦前の検閲は、乱暴なようでばか正直なところがありまして、例えば、××××とあると、例えば帝国主義とか、××を打倒せよというと、これは
天皇だとか、その字数だけ×を打ったんですね。それで何か推測ができる。そうではなくて、
GHQの検閲は、検閲した跡がわからないような検閲をするのでありまして、この辺のは、まことに厳重にチェックされておりました。
ケーディスさんは恐らく、これは推測でありますが、自分が正しいと思ってやった方向は必ずしも正しくなかったのかなという感じと、それからもう一つ、デモクラシーの国である
アメリカ人の進歩派の自分がよその国の
憲法をつくってきたということについての若干の後ろめたさ、そういうこともあって長年
日本に来なかったんじゃないかなというのが私の感じた印象でありますけれども、これは印象でありますので、特に絶対固執しようと思っているわけではございません。
かように考えてきますと、私は、
押しつけであったかなかったかという話を
最初に申しましたが、かなり強烈な
押しつけはあった、しかし、それを利用してといいますか、それに応じて、何とか当時の
日本を救うというために、これをある程度積極的に受け入れていったということではないかなと思っております。それゆえに、実は幣原さんは、
憲法九条は
押しつけでないということを書いています。私もそう思っていたということを書いている。この本が出されたのは、実は、
日本が講和条約を結び、独立する直前のことなんですね。それまでは、恐らく
マッカーサーとのそういう約束で、
押しつけというようなことは言わないことになっていたんだろうというふうに考える次第でございます。
さて、
最初に、もし時間があれば3のところをお話ししたいということを申し上げたところなんですが、あと五、六分あるかと思いますので、その要点をごく簡単に触れさせていただきたいと思います。
「自然法と
憲法と条約と法律」とややこしいことを書いてございますが、私は、確かに
憲法というのは、成文法としては最高の規範だと思いますが、我々はそれを超える何らかのモラルなり規範なりをどこかに持っているというふうに考えるわけであります。
例えば、世界の中には、何々教が国教である、国の宗教はこれこれと決めている国もございます。男女は平等でない、ないとは書いていませんが、男女の平等は明らかに否定されている文言の国もあります。ですから、そういうところに行って、私が仮にそこの
国民になったとしたら、やはり、男女は平等にしたいと思うし、宗教の自由は得たいと思う。我々は良心まで
憲法で縛られるものではないだろうと思うんですね。より高次の、人類の理想なり良心によって判断する、そういうのをあいまいに自然法と申しましたが、そうしたものに照らして
憲法は考えていくべきものだ。
憲法は国の基本でございますが、これは、そうした自然法、国家の本質、国際関係の本質、そういうのに照らして解釈していくべきものだと思っております。
条約は、
日本にはなぜか
憲法上位説の方が多いのですが、世界には条約上位説もございます。条約も物によるわけでありまして、例えば国連憲章というような非常に高い権威を与えられたものと
憲法とどっちが上かというと、これは一概には言えないわけで、明らかに
憲法が上とは言えないはずであります。そうした国際的に確立された規範というのは、やはり非常に重視して考えるべきものでありまして、それを我々は条約の遵守義務として
憲法の中にも持っているということでございます。
それから、法律。法律も非常に重要なものであります。
憲法は重要でありますが、法律も重要であります。
といいますのは、例えば
憲法でよく言われるのは、君主主権か人民主権かというようなことを言いますが、人民主権の中からナチスとかスターリニズムが出てきたわけであります。だから、主権がどこにあるということを言っただけでは、人民主権と言っただけでは安心ではないんですね。その中にどういう
統治機構をつくっていくか、法律、慣習、運営、それら一つ一つが重要である。だから、
憲法に何々を盛り込めばそれでうまくいくということは決してありませんで、それを具体的細部まで実施することが必要であります。現実を見ますと、今の内閣法というのは、例えば
総理大臣の権限は
憲法に定められたよりも小さくしてあると思います。ですから、やはり、法律でどう決まっているかも極めて重要であります。
二番目に、「
大日本帝国憲法と解釈改憲」というのを触れてあるんですが、先ほど申しましたとおり、帝国
憲法を、我々の明治以来の先人は、より高次な理想や、それから、国家の当然の必要な要件というものに照らして解釈し、再解釈していったわけであります。
大日本帝国憲法をそのまま読めば、
天皇は
統治権を総攬し、何でもできるということになっております。しかし、それではいけないと。
その中でも、やはり立法府の議会、特に
国民から選ばれる衆議院の声を重視していけというのが美濃部解釈なんですね。美濃部さんは、
天皇は独裁ではいかぬ、例えば大臣とかいろいろな輔弼機関、助言機関の言うことを聞いていくのが正しい解釈であると。一方の上杉解釈の方は、どっちかというとそのままの解釈で、
天皇は
統治権を総攬するのだから何でもできるという解釈なんですが、それではいけない、助言者の意見を聞いていくんだ、中でも
国民の声が反映する衆議院の声を最も聞くべきだという格好に美濃部
憲法学はなっていった。
これは、
明治憲法をそのまま読んだのでは出てこない解釈でありまして、先ほど来言っておりますような、より高度な理想や国家の本質に照らして解釈し、一種の解釈改憲を施した結果だと私は考えております。
最後に、「不戦条約、国連憲章、
憲法九条」ということを書きました。
国策の手段としての
戦争はこれを否認するというのが、一九二八年に締結されましたケロッグ・ブリアン・パクト、いわゆる不戦条約の中身であります。これが
議論されたときに、
アメリカでは、これは自衛権を制限するものかどうかという大変な
議論になりまして、結局、自衛権には関係がない、自衛の行動はこれによって制限されないという解釈で来たものであります。ケーディスさんは、実はこのことをよく覚えておりまして、ですから、自衛権を制限するのはおかしいというのが彼の立場でありました。
この不戦条約は国策の手段としての
戦争を否認したわけでありますが、
日本が、
日本だけではありませんが、満州事変とか支那事変といって、あれは事変であって
戦争ではないのでこの不戦条約違反ではないという抗弁を国際社会に対してしてきた。そういう抜け道があってはいかぬというので、
戦争ではなくて、軍事力の行使や軍事力による威嚇それ自体を否定するように変えていったのが、
憲法九条前段であります。その前の年には、既に国連憲章によってそういう内容が盛り込まれております。
したがって、
憲法九条の前段は、不戦条約以来の長い伝統を持つ。不戦条約というのは、さらに言えば、国際連盟の国際協調による平和という考え方の発展的にできたブランチであります。
こういうふうに考えてきますと、第一次大戦後の大正デモクラシー期を担った例えば幣原喜重郎というような
人たちが戦後また復活してきた、そういうときに、不戦条約の拡大バージョンであります
憲法九条一項が出てきたというのは不思議ではないというようなことを村田さんはこの間の会議で言っておられますが、しかし、二項はそうではなかろう。二項は、やはり世界に非常に例の乏しいものだろうと思います。
憲法九条を世界に輸出すべきだという
議論の方がよくいらっしゃるんですが、一項は、別に輸出しなくても世界は既に持っておる、二項は、相当の輸出補助金をつけてもどこも輸入してくれないであろうというのが私の理解でございます。
ほぼ一時間お話をさせていただきました。どうもありがとうございました。(拍手)