○進藤
参考人 御紹介いただきました進藤でございます。
歴史の節目に当たります、戦後五十五年目になるんでしょうか、二〇〇〇年、新世紀の出発点に当たって、国のあり方を規定した
日本国憲法自体のあり方を
議論する会に招請されましたことを大変光栄に存じます。
私、一九四六年に小学校一年生、ちょうど
憲法が生まれたときに私もまた新制小学校に入ったという経緯がございまして、私どもの世代にとっては、
憲法というのは、いわば人生の歩みとともに展開してきた、そんな思いがございます。だからといって、
日本国憲法を絶対に厳守すべきだとか
日本国憲法は絶対に廃止すべきだという考えは決して持っておりません。改めて
日本国憲法のあり方自体、特に
制定過程に焦点を当てて
議論する機会を皆さん方がお持ちになったことに対して、大変敬意を表したいと存じます。
私は、国際関係を
専門にしている者です。国際関係を
専門にしている者から
日本国憲法の条文あるいは
制定過程を見てまいりますと、
日本国憲法パセをおやりになっていらっしゃる方々とは少し違った見方があるいはできるのかもしれません。それは何であるのかということを考えてまいりますと、つまるところ、
憲法の持っている国際的な意味といいましょうか、あるいは国際的な位置づけというものに対して、やはりセンシティブといいましょうか、目をより注ぐという
感じでございます。
一体国際的な意味は何なのかということを考えてまいりますと、結局、
日本国憲法というのは、人類の長い
歴史の中でたどるべくしてたどった
一つの帰結点ではなかったのか、それはまた、たどるべくしてたどる今後の二十一世紀
世界に向けての出発点ではないのかという思いがするんですね。
よく、
日本国憲法は
アメリカ憲法のまねであるとか、
アメリカ人が
日本国憲法をつくったとか、あるいは密室の七日間で
日本国憲法が制定されたという
議論をするわけです。これはもう、
押しつけなのか
押しつけでないのかという
議論の中で、皆さん方が既に御
承知のたくさんの事実があるわけでございますが、私ども国際関係をやっている人間から見ると、
押しつけとか
押しつけでないという以前に、
日本国憲法が現在持っている国際的な位置づけに目が向いていきます。
日本国憲法、例えば前文、これは
アメリカ合衆国
憲法と似ている。もう明らかに
アメリカ合衆国
憲法から来ているし、それから同時に、国連憲章からも来ている。同じようなフレーズがたくさんあるわけですね。
それは、再び国際関係の流れの中で見ていきますと、
アメリカ革命によってでき上がった
アメリカ合衆国
憲法、フランス革命によってでき上がった
憲法、あるいは一九一八年の
ドイツ革命の後でき上がったワイマール
憲法、そして、かつて東大の宮沢俊義さんがおっしゃった、八月革命によってでき上がった私どもの
憲法、この
一つの非常に長い時代の流れの中で位置づけることができるのではないのかというふうに思うのです。
では一体、その時代の流れとは何だったのかということを見てまいりますと、これはもう三点に集約できると思うのです。
一つは、デモクラティゼーション、民主主義化です。それから二つは、脱軍事化、ディミリタリゼーションです。そして三つ目は、脱植民地主義化、ディコロニゼーションです。これは、詰めていけば、十五世紀から十九世紀に至る近代諸
国家がつくり上げてきた生き方の終結点でもあり、再び出発点でもあるわけです。
民主主義化というのは、君主主義体制から立憲君主主義体制への転換、それから立憲君主主義体制から
国民主権への転換、市民主義体制への転換、そういうふうに位置づけることができるわけです。
ですから、
言葉をかえて言うと、これは、二十世紀の末、二十一世紀の冒頭に当たって、私ども考えてまいりますと、アジア的な開発独裁体制、あるいは、かつての旧ソ連に見られたような共産党一党支配体制の終えんをいや応なしに促していかざるを得ない時代の流れだとも言えます。そのことが私どもの
憲法の中核に据えられている。市民的諸活力という
言葉を私はよく使うのですが、シビックキャパシティーズ、そして、それによってつくり上げられる先端技術、これが国の富を生み出していく、こういった新しい時代の流れを先取りしていると、まずは申し上げていいと思うのです。
二つ目は、脱軍事化です。
これは、十九世紀までの近代
国家が、巨大な軍事力によって軍事対決しながら、領土をとり、資源をとって、そして、先進国は巨大なテクノロジーを持っていますから巨大な軍事力を持つことができるわけですが、その巨大な軍事力を持った先進国が、途上国
世界に出かけていって、侵略し、征服し、植民地をつくって、そこで富を生み出していく、この構図が十九世紀までの
基本的な国際関係の構図だったわけですが、もうこれは立ち行かなくなったということを十九世紀末から二十世紀の中葉にかけて人々は知り始めるのです。これが脱植民地主義化ということで、植民地体制はもう終わりなのだと。
軍事力によって国際関係をつくるのではなくて、むしろ軍備のレベルを低くし、お互いに協調主義体制をとっていく。国境の壁を高くするのではなくて、国境の壁を低くすることによって相互依存を強めていく。人と物と金と通商と投資、テクノロジー、情報、その相互交流によって富を強化し、増大させ、平和をつくり上げていく。この構図が脱軍事化という形で二十世紀中葉に向けて強まっていくわけですね。これはもう、二つの
大戦を契機に人々がいや応なしに知らされた国際的な原則だったというふうに申し上げていいかもしれません。
二つの国際組織、国際連盟が生まれ、国際連盟が失敗し、国際連合が生み出されていく。普遍的な集団安全保障体制の
もとで、かつてのように一国平和主義ではなく、あるいは一国軍事主義ではなくて、あるいは同盟主義ではなくて、集団安全保障体制なんだという流れですね。しかも、それは、軍備の壁を高くするのではなくて軍備の壁を低くするのだ、国境の壁を高くするのではなくて低くするのだと。
軍備に金をかければかけるほど国力は衰えていきます。これが、ソ連体制の崩壊の意味であり、
アメリカ・レーガノミックスの意味であり、今日のクリントノミックスのルネサンスであるわけですね。
アメリカが、なぜ今日これだけ巨大な帝国の復権のごとき興隆を見せているのかということを考えると、これは、一九八五年から比べてペンタゴン受注高を三分の二減らすわけです、軍事予算に関しては三分の一、
兵力に関しても三分の一。十兆円単位の産業を
一つ、これを全部捨ててしまうわけですね。この冷戦終結の果実が今日の
アメリカの豊かさを引き出しているのだというふうに考えていただければ、脱軍事化というのは、二十世紀の中葉から二十一世紀にかけての
一つの非常に大きな時代の流れだったというふうにお考えいただけるのではないかと思うのです。
ちなみに、冷戦が終わって、
ドイツは東西両独を合わせた軍事力を半分に減らしました。フランスは一〇%弱、イギリスは二十数%、イタリアも同じぐらいで、NATO全体で三割近く減らしております。それぞれ軍縮の果実、冷戦終結の果実を手にすることによって、EUの興隆を生み出し、
アメリカのルネサンスを引き出している。
私どもが脱軍事化の原則というものを改めて国際関係の原理に据えなければ、近隣諸
国家とも、あるいは
世界の他の諸
国家とも、互いに伍し、そして国力を増大させていくことはなかなか容易ではないだろうという
感じを持ちます。
三つ目は、脱植民地主義化です。
これは先ほど少し申し上げましたけれども、途上国を支配、征服して、そして領土と資源を獲得して、領土を広げることによって、例えば大
日本帝国をつくり上げた、
日本の国土の今日の二倍から三倍の国土を自国の領土にした。例えば、満州国は
日本の国土の三倍はあります。こういったところを自国の領土にし、朝鮮半島を領土にし、台湾を領土にし、樺太、千島を領土にして、それを東南アジアまで広げて富を生み出すことができると考えたのだけれども、これはできないのです。
途上国ナショナリズムというのは、先進国のナショナリズムによって、軍事力によって屈服させることは不可能なのですね。このことを、十八世紀以来一世紀、二世紀にわたる途上国と先進国とのこのせめぎ合いの中で、私どもは知るわけです。これが、一九四五年を軸にして、第二次
世界大戦終了後、先進国の
政治家たち、言論人、あるいは
経済人の間の共通の認識へと変わっていく、これが私どもの
憲法の中に反映されているというふうに申し上げていいと思います。
領土を逆に囲い込むわけです。自国の領土を囲い込んで、そして途上国ナショナリズムと共生し、共生することなくして物を売ることもできません、資本を投資することもできません、投資し、通商を拡大し、それによって商業
国家、通商
国家、投資
国家としての富を増大させていく、そのことが逆に国富の増大につながっていく。
先ほど私は、シビックキャパシティーズ、市民的諸活力とテクノロジーという
言葉、これが今日の二十一世紀に向けた国の富を増大させるキーワードだったというふうに申し上げましたけれども、まさに、脱植民地主義化によって、国を囲い込んで、教育を強め、教育に力を注ぎ、ハイテク第三次情報革命に対応できる高度な職業人を育成していく、市民の諸活力を逆に強めることによって国の力を強めていく、これが二十一世紀初頭の私どもの置かれた位置ではないかというふうに思うのです。
ちなみに、改めてそのときに、
日本はGDPのわずか〇・七%しか教育予算に使われていない、
アメリカは一・二%ですか、
ドイツは一・五%も教育費がGDPの中から捻出されている、この彼我の違いというもの、私どもがかつてのこの三つのDから一体どこまで学び取っているのかということに対する私どもの素朴な問い返しというのか、それを懸念せざるを得ないというふうに思います。
そこで、一体そういった三つのDがどんなふうに今の
憲法体制に生かされているのかということを考えてまいりますと、これはやはり底流としての、
日本国憲法制定の事実上の生みの親と申し上げてもいいと思うのですけれども、これも括弧つきですけれども、事実上の生みの親である
アメリカ側の
動きというものに目を向けてみます。
このときに、
アメリカはもう既に一九四二年、三年、四年段階で
日本国憲法の骨格をつくっているのです。
憲法というのはコンスティチューションですね。コンスティチューションというのは英語で骨格という意味です。つまり、国の形を、既に四二年、四三年、四四年と三カ年にわたる国務省内の討議、それから軍部とのやりとりの中でつくり上げるわけです。
その細かな
プロセスは省きます。これは昨年私が出した「敗戦の逆説」という筑摩新書の中に詳しく書いておりますけれども、
基本的な軸として言いますと、要するに
アメリカ側の
動きとしては、古い自由主義派、オールドリベラリストから、ニューリベラリストへの転換だと。それは何なのかというと、
政治的自由を重視する
立場から、社会
経済的条件の強化を重視する
立場を国の形の主軸に据えようとする
動き、力が主軸になっていくんだと。その彼らの見方が
日本国憲法の国の形の骨格をつくり上げていく、
アメリカ側の
動きの中で骨格を変えていくというふうに申し上げていいと思うのです。
これは、四四年、
戦争が終わる一年以上前に、戦後計画
委員会、PWCというところでつくられたPWC—一〇八文書、正確に言うとPWC—一〇八b「
アメリカの対日戦後目標」文書というのがあるのですけれども、この中に集約されている。それともう
一つ、それを少しブレークダウン、解題したものとして、PWC—一五二「軍国主義の排除とデモクラシーの強化」という、これもbの文書の中で結節、焦点を結び合うわけです。この中を読んでいきますと、私どもは、今日、
日本国憲法を
議論するときに、
憲法のほぼ大枠がこの中でできていたなということが見えてくるのですね。
これは、再び私の
専門の特権を生かしまして、国際関係論をやっている
立場から見ますと、国際関係の流れとしては、自由放任主義的な資本主義はもうだめなんだ、だからといって共産主義的な社会主義路線もだめなんだ、そうじゃなくて、資本主義を修正させて計画性を入れて、自由放任型の資本主義ではなくて修正資本主義によって国の形をつくり上げ、
国家間の関係をつくり上げていくというこの流れが、実は、一九三二年、その三年前の一九二九年に始まる
世界恐慌の後、三二年に
アメリカの大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトの
もとに
アメリカの力が結集していくわけです。このフランクリン・ルーズベルトの
もとで、いわゆるニューディール
政策が展開されるわけです。
このニューディール
政策は、イギリスの労働党の
政策にも共鳴するし、それから北欧のミュルダールとか、あるいは北欧の社民主義の流れとも結び合うし、
ドイツのかつてのワイマールの流れとも接点を持つというようなことで説明できるかと思いますけれども、ともあれ、このニューディール思想を体現した流れが
アメリカの
政治の主軸になり、彼らが対日
政策の策定に当たっていくという
プロセスが、四三年、四四年にかけて展開していくわけですね。
年齢的にいえば、四十代を軸にした若い世代が対日
政策に関与していくということになるわけですけれども、かつてのライシャワーさんとか、あるいはヒュー・ボートンとかケーディスとか、たくさんの
アメリカの知日派と呼ばれる
人たちがこの
過程で
日本を分析し、そして
日本をどうすべきか、どうすれば
日本を平和的でかつ豊かな国にするか、我々とつき合うことのできるような国にするかということを彼らは
議論し始めるわけです。
そのときに出るシナリオがほぼ二つありまして、
一つは脱軍事化のシナリオですね。
これは、長い間私どもは、
憲法第九条の神話というのか、
憲法第九条は
日本が軍事力を持つことを一切許さずというふうに解釈してまいりましたけれども、そうではなくて、この時点で既に、
日本は軍事力、自衛力を保持せざるを得なくなるだろうことを想定して、大臣には文民が就任しなければいけない、
軍人は大臣に就任してはいけないという原則を四四年の五月のこのPWCの中に書き込む、そういった
歴史的な
過程を展開するわけです。ですから、私のレジュメに書きましたように、ミニマムな自衛力の保持を想定した上でシビリアンコントロールをするという、この原則が既に出ているというふうに申し上げていいかと思います。
もちろん、その前提として、四五年まであった
日本の軍部主導型の体制を解体させなきゃいけない、植民地も放棄させなきゃいけない。ミリタリズムを除去し、そして、二つ目のシナリオとしての民主化のシナリオというものを打ち上げていくわけですね。
この民主化のシナリオも、
歴史の原点をたどって見てまいりますと、意外と、私どもが目をみはるような事実が今日の時点から見ると出てくるわけです。
例えば、ここに書きましたけれども、労働組合とか信用組合とか消費者協同組合のような民衆の諸組織を奨励していくんだという項目が書き込まれるわけですよ。これはシビックキャパシティーズですね。今流に言うとNPOです。これを強めることによって
日本のデモクラティゼーションが強められていくんだと。
日本のデモクラティゼーションを強めることによって、デモクラシーとデモクラシーが互いに協働して国際関係をつくり上げることができるんだという、この原則です。
それから、二つ目として彼らが強調したのは、単に中央政府を主軸にしたかつての政財官の一体化構造じゃないんだ、そうじゃなくて地方自治体を強くすることなんだ、市町村レベルに至るまで自治体を強化し、そうすることによって初めて
日本のデモクラティゼーションは強められていくんだ、これを抜きにしては
日本のデモクラシーというものは健康な形で展開しないというふうに彼らは強調するわけです。
私は
もともとアメリカ専門にずっとやってきた
アメリカ屋なものですから、
アメリカ専門家の
立場からいきますと、これは至極当然なんですね。と申しますのも、
アメリカのグラスルーツデモクラシーの伝統、原則というのは、地方自治がデモクラシーの学校であるというのがキーワードなんです。地方自治がデモクラシーのキーワードである、これが、既に四四年五月のPWC—一五三の対日
政策の条項の中に、
日本の国の形を彼らが構想した
基本原則の中に書き込まれるということになるわけです。
そして最後に、戦時下にあって
アメリカ側がどんな対日
政策を考えていたのか、つまり、どんな
日本の国の形をつくろうとしていたのかということを考えてみますと、これはもう象徴
天皇制に尽きるわけですね。
しかし、この点に関しても注意しなくてはいけないのは、単に旧体制における象徴
天皇制ではなくて、新しい体制における象徴
天皇制なんだと。
それは何なのかというと、実際
アメリカは、既に一九四〇年代の初めから象徴
天皇制という
言葉を使っているんですよ。
アメリカにとってエンペラーというのはシンボルであり、そして、
アメリカのいわば保守派にとって、守旧派という
言葉を使った方がいいかもしれませんが、共和党系の守旧派にとって象徴
天皇制というのは、
明治憲法体制の
天皇制もまた象徴
天皇制としてとらえるのです。これは私の本の中で展開している
議論であり、それから、資料がその中にたくさん入っておりますので、ごらんになっていただけばわかります。
私どもは、象徴
天皇制があたかも戦後生み出された新しいものというふうに考えがちなんですけれども、実は既に
アメリカ側にあっては、グルー、スティムソンたちは、
戦前日本の
明治天皇体制下における
天皇制も、形を変えて若干の手直しをすることによって、これを象徴
天皇制として位置づけることができるのだという考えを打ち出すのですけれども、四三年から四四年にかけて、それでは不十分なんだ、
日本の象徴
天皇制というのはやはり根底から変えなきゃいけないのだと。
どんなふうに根底から変えるのか。
それは、デモクラシーの原則を突き詰めてまいりますと、君主制というのはデモクラシーの原則とぶつかり合うわけですよ。なぜかというと、デモクラシーというのは、御
承知のようにデモスのクラチア、民衆の権力ですから。では君主制と民主主義をどう折り合いをつけるのかということですね。これはもう君主から
政治的な実権を剥奪することなのだ、取り上げることなのだ、実に純粋に国事行為のみを行う象徴的な存在にすべきなのだ。国のいわばアイデンティティーといいましょうか、国の文字どおりのシンボルとしてのみ、儀礼的行為のみに収れんさせていくのだという考え方が、一九四四年から四五年にかけて、
アメリカの対日
政策の
政策決定者の間の主流的な考えになっていく、そしてそれが、
日本のコンスティチューションの形として
アメリカ側で構想されていくわけですね。
私がなぜこんなに長々と戦時下の
動きを申し上げたのかと申しますと、決して、
日本国憲法というのは密室の七日間によってつくられたんじゃないんです。密室のコップの中の七日間によってつくられたのではありません。これは非常に長い
歴史的な背景を持ち、もっとフォーカスを当てるにしても、少なくとも四二年、四三年、四四年ぐらいから用意され、そして、これから申し上げます土着化と国際化という二つの外側からの入力によって
日本国憲法の普遍性が生み出されたのだというふうに御
理解いただきたいと思うのですね。そう
理解することなくして、
日本国憲法の制憲
過程における本領といいましょうか、本質を
理解できないというふうに思います。
どんなことなのかと申しますと、やはり国際関係、
政治史をやっておりますと、大体外国人が
憲法をつくっちゃいけないということを皆さんおっしゃるわけですね。たくさんの方がおっしゃるわけです。これは、外国人でなきゃ
憲法をつくれない場合というのはあるわけですよ。
例えばジャン・ジャック・ルソーの本を読んでまいりますと、彼の本の中には、立法者という観念が出てくるわけです。ある
政治体制が、いわゆる革命を経ずして体制、国の形を変えようとするなら、だれが変えることができるのか。それは、かつての
政治体制に依拠していた
人たちによって変えることはできないのだというのですね。では、だれが変えるのか。それは外国からやってきた賢者なのだというわけですよ。これを立法者という概念で彼は位置づけるわけです。これはギリシャの時代から行われていた
憲法制定の慣例であり、同時に彼自身もその慣例に従ってジュネーブ
憲法をつくり、ポーランドの
統治論を展開しているわけですね。
そう見てまいりますと、外国人の賢者が
憲法制定に関与したとしても、これは全然おかしいことじゃないというふうに改めて強調したいと思います。
だから、私が申し上げたいのは、密室の七日間、これはいわばマジックワードとしてよく使われますけれども、物事を見るときに、皆さん方のような大変見識のある方々にこんなことを申し上げるのは大変失礼かと思いますけれども、一部の
日本の
憲法学者が主張するように、密室の七日間の狭いコップの中に制憲
過程を閉じ込めてしまうと、
憲法の全体像が見えなくなります。
さてそこで、私たちは何をしなけりゃいけないのか。二つのことをしなけりゃいけませんね。
一つは、時間の軸を外すわけですよ。二つ目は、場の軸を外すわけですね。コップから外に出すわけです。
時間の軸を外しますと、まず、先ほど来申し上げました一九四二年、四三年からの
動きが
一つ出てまいりますね。さらに焦点をつぼめてまいりますと、四五年十月から
GHQは、御
承知のように
日本は
占領下にありますが、
占領行政はハーグ規定に拘束されながら、同時に、ハーグ規定が許容した改憲への
動きを始動させるわけですね。
ポツダム宣言という国際
条約に従って、
GHQ、つまり
占領軍は改憲へと
動き始めるわけです。そこで、四五年十月からこの
動きを始動させる。
そのとき、いち早く
アメリカ側の
動きを察知して、
日本から、これは皆さん方何度もお聞きになっていらっしゃることかもしれないけれども、まず
近衛文麿さんが
動き始める。
近衛文麿さんが
動き始めて、そして佐々木惣一さん、大石義雄さん、私も大石義雄先生にお習いしたのですけれども、京都帝大の先生を起草者にして、箱根の山の中で新しい
憲法をつくるわけです。しかし、これは
明治憲法と全く一緒ですね。ほとんど変わりない。文言も変わりない。
その後、
アメリカ側は今度は
幣原内閣に期待し、
幣原内閣はそれを受けて、松本烝治さんという東京大学の商法学の先生、商法学の先生が同時に国務大臣になっているわけですが、この松本烝治氏に
幣原氏は委託して、
憲法制定に踏み切らせるわけですね。しかし、この松本案は、これはもう既に何度もお聞きになっていらっしゃると思いますけれども、甲案、乙案があって、甲案は全く古くて、乙案は若干新しいけれども、いずれにしても
明治憲法と
基本的に同じ
憲法案であることを
GHQは知るわけですね。
同時に、
GHQ、
占領軍が行ったことは何かというと、二つのことをするわけです。
一つは、
GHQは、では在野の
動きはどうなんだというわけですよ。
日本の民衆の
動きはどうなんだ、
日本の野党の
動きはどうなんだ、あるいは知識人の
動きはどうなのかということに目を向けるわけです。そうしますと、十月、十一月、十二月に向けて、
日本の知識人あるいは
政治家たちを
中心にして、
戦争に負けて、新しい
憲法をつくるんだという
動きが始まったことを彼らは知るわけですね。
知りながら、同時に、彼らの
意見を聞き、彼らの
意見を取り入れて、そして、
日本の国の形を再び、かつてのPWCの原理に依拠しながら構想し始めるわけですよ。
これは日付順に申しますと、早くも十一月五日に
憲法研究会が設立され、高野岩三郎、森戸辰男、岩淵辰雄、今中次麿、木村禧八郎、鈴木安蔵、こういった中道レフトの人々を
中心にして
憲法制定の
動きが始まる。同時に、
日本文化人連盟というものが十月末にできるわけです。ここには芦田均を初めとする何人かの保守
政治家もこれに関与していく。この
日本文化人連盟と
憲法研究会が相互に連動し合いながら、新しい
憲法、在野、
民間憲法の
動きをつくり上げていく。この結節点が、十二月二十七日、
GHQは森戸草案と呼ぶんですけれども、そういった形で出てくるわけですね。
憲法研究会案として、クリスマスが終わった翌々日、これを
GHQに提出するわけです。
それと前後して、高野岩三郎氏は、
憲法研究会案は依然として第一条に、
天皇主権というのかな、
国民主権なんですけれども、しかし
天皇制を置いていると。高野岩三郎氏は、フランスに留学し、
アメリカへ行って勉強しておりますから、彼は、もう君主主義は時代おくれなんだよ、だから我々は本当のデモクラシーを手にしなけりゃいけない、デモクラシーというのは、フランス革命も
アメリカ革命もそうだったし、
ドイツもそうなんだ、かつての
中国の辛亥革命だってそうだということで、共和体制の
憲法原則をつくり上げるわけですね。これは高野岩三郎案としてでき上がるわけです。
それから、それと前後して、政党の
動きもありまして、十一月十一日には共産党案というのが出てまいりますね。これは主権在民、民主主義議会、人権を軸にしたものです。それから一月二十一日は
日本自由党案が出てくる、二月十四日には進歩党案が出てくる、二月二十四日には社会党案がでてくるという形で、政党もそれぞれ相互に競合しながら
憲法の制定に向かっていく。このあたりは、もう皆さん方は十分お聞きになっていらっしゃるので、私はきょう詳述いたしません。
ただ、私がここで強調したいことは、
GHQの文書を見ていくわけです。私も十年近く、
占領政策の研究をずっとやってまいりましたものですから。なべて言うと二十数年たっているんですけれども、やってまいりまして、
アメリカの各地、イギリスの文書その他をほぼくまなく見ているんですが、例えば、スタンフォード大学にラウエル文書というのがあるんですけれども、ラウエル文書の中に入っておりますのが、例の植木枝盛
憲法案ですよ。植木枝盛の
憲法案、
日本語の片仮名まじりの文書を英語に翻訳させて、ラウエルはその植木枝盛案をいち早くキャッチし、
日本の
明治時代からの制憲
過程の
動きの中にこういったデモクラシーの
動きがあるんだ、共和体制化への
動きがあるんだということを察知するわけですね。それがちょうど、十二月二十七日に出てきたいわゆる森戸草案、
憲法研究会案とほぼ近いということを彼らは知るわけですね。それを基軸にして、新しい
憲法構想へと踏み出していく。このあたりは
政治過程ですので、いろいろな
動きが錯綜してまいりまして、
日本の保守党の
動きに関して言うと、私が資料につけさせていただきました「芦田均日記」なんかを見ますと、非常にビビッドに、鮮やかに出てまいります。
ともあれ、時間の軸をまずずらす、広げる。
それから、さらに場の軸を広げてまいりますと、この二つの作業をしてまいりますと、
憲法研究会案が出て、それから
GHQ案が出て、
憲法制定が進められ、それが
幣原内閣に提出されて、
幣原内閣でどんな
議論がされたのか、それを見てまいりますと、
幣原内閣の中に、保守
政治家の中にやはり二つの流れがあったことを私どもは知るわけですよ。
一つは保守派の、守旧派の流れ、
一つは
改革派の流れ。保守派の流れの巨頭が松本烝治であり、あるいは三土忠造であり、
改革派の流れの
中心が学習院の院長をやっていた安倍能成であり、芦田均あるいは
幣原なんですね。この二つの派が、同じ
幣原内閣の中で、
GHQ案に対してどう対応するのか。これは同時に、松本案に対してどう対応するのかという
動きと連動するわけですよ。
安倍能成あるいは
幣原、芦田たちにとって、松本案なんというのは、あれは
内閣案では決してないんだ、あれは松本個人の案であって、「松本案は松本案であつて決して
内閣案ではない、」と私引用させていただきましたけれども、この
言葉が出てくるわけですね。我々はもっと新しい時代の流れをくみ取っていかなきゃいけないということを彼らは強調するわけですね。
そこで、第二回目か第三回目の閣議のときに、芦田均氏がワイマール
憲法のことに言及して、松本さんは一月ぐらいでは書けないと言うけれども、ワイマール
憲法だって、ドクター・プルースは三週間で書き上げたじゃないかと。ワイマール
憲法だって戦勝国の圧力下でつくらされたんじゃないか、しかし、それが戦後の
ドイツの出発点になったではないか、なぜ我々がそれをしちゃいけないんだという反論を加えるわけですね。
この点に関してさらに
一つ二つ申し上げますと、これも何度か
議論になっていらっしゃると思いますけれども、
憲法改正案が出た後、議会に上程される。これは、選挙が四六年の四月に行われて、そこで、今流の改憲じゃなくてかつての改憲勢力、
明治憲法体制を変えるべきだという勢力が
国民のかなりな支持を得て、第二十二回選挙を経て、第九十帝国議会へ上程されて、その後、枢密院を経て、議会でのいわゆる百日間審議が開始されるわけですね。
特に、六月二十八日に
憲法改正案特別
委員会が構成され、さらに、その中で十四名の法律
専門家たちを
中心にして
憲法改正小
委員会が衆議院で持たれ、その
委員長に芦田均氏が就任して、ほぼ一月近く、七月二十五日から八月二十日、この暑いさなかに彼らは
議論をするわけですよ。それも、既に何度か皆さん方、御
議論になっていらっしゃると思います。
実は、これは時間がございませんので、はしょりますけれども、既に一九八〇年代に森清さんという自民党の代議士さんが、
アメリカの文書を
もとにして秘密会の議事録を起こしまして、邦訳しまして、出版されているんです。しかし、九五年九月に、初めて
日本側の秘密会の議事録が公開されたんですね。この議事録の公開されたものと両方突き合わせていきますと、
アメリカ側の文書に欠落した文章も出てくる。そこから、新しく私どもは何を読み取ることができるかというのが
一つのポイントなんです。
そういったことを軸にしながら、お手元に一枚の紙がございますけれども、「
憲法改正小
委員会速記録公開」、これは共同通信配信で、全国の地方紙に配信された私の文章なんです。この秘密議事録が出たときに、これは何を意味するのかということをここに書いておりますので、どうぞ、この後時間がございましたら、お読みいただければと思います。
ポイントは何かというと、十三日間の
議論というのは、私の手元に、かばんの中に今入っておりますけれども、これはもう大変質の高い
議論ですよ。今の
憲法学者たちはこんな
議論ができるのかと思うぐらい、当時の
政治家の質の高さ。
当時の、
政治家といっても、
政治家の十四人の半分が外国留学者なんですね。ハーバード大学とかソルボンヌとかベルリン大学とかに留学している連中が集まって、それから、西尾末広さんのような労働経験者も集まるし、保守
政治家も入っている。
その
議論の中で、十三日間、
議論が闘わされるわけです。朝から晩までやるわけですよ。この
議論の質の高さというのは、私は、改めて九五年に解禁になった文書を見て圧倒されました。ぜひ、先生方にも
お願いしたいんですが、
議論の質を高めていただきたいなというふうに改めて思う次第です。
ともあれ、この後、貴族院に移され、十月七日、衆議院本
会議で可決されて、十一月三日公布、そして翌年五月三日に施行される。その間、第二十三回総選挙があって、
憲法が事実上、
国民の支持によって、
国民によってオーソライズ、是認、承認されたという、法的手続をとって施行されるわけですね。
さて、私はこの
プロセスを二つの
言葉で要約しているんです。
一つは、だから
日本国憲法というのは土着化の
動きがあるんだと。これを古関彰一さんは
日本化という表現を使っております。でも私は、
日本化と言ってもいいんですよ、
日本化と言ってもいいんですけれども、同時に、要するにジャパナイズしたということ。しかし、その前提には、
日本化という
言葉を使いますと、
アメリカ製だということになるわけですよ。いや、僕は、
アメリカ製だっていいんだということを申し上げている。同時に、
日本化ではなくて、むしろ土着の中でいかに生かしていくかということが
憲法制定論者たち、制憲
過程に携わった人々の
中心的な考え方なんですね。
それを、私のレジュメの冒頭の引用に出ておりますけれども、四六年八月一日の秘密速記録を見てまいりますと、芦田
委員長が、ワイマールのことに言及するわけですよ、ワイマールという
言葉をもう言わないでくれということを、これはやりとりがあるんですけれども。ワイマール
憲法がなぜ流産したのかというと、これは
ドイツの国情に沿っていなかったから実効力がなかったという形で、だから、
自分は
日本の
憲法をワイマール
憲法のようにさせたくないんだと。
それに対して、鈴木義男氏、これは法学博士ですけれども、彼はまた、ワイマール
憲法は、いや、実は民主戦線ができなかったからだとか、だからナチスにやられてしまって骨抜きになってしまったという反論を加えたのに答えて、芦田
委員長は、だからこそ、我々は
日本国民が実行し得る
憲法をつくっておかなければならない、こういう問答のやりとりがあるわけです。これはほんの
歴史の一こまでありますけれども、当時の
日本の
憲法の土着化に向けての作業
過程を集約させた非常に象徴的な会話だというふうに思いまして、ここに載せさせていただきました。
さて、そこで、時間が少しずつ迫ってまいりましたので、私は、時間の軸と場の軸を広げたときに何が見えてくるかという二つ目のポイントというのは、これは国際化された
憲法だということですね。
私が国際関係をやっているから国際化ということにこだわるわけじゃありませんけれども、実際、十二月の段階で
極東委員会がワシントンDCにできる。
極東委員会ができて、この
極東委員会と東京とが競合し合う形で
日本の国の形をつくり始めるわけですよ。したがって、
マッカーサーの
動きは、
日本国憲法をニューディールの原理に従って
自分たちの
政治的イニシアチブの
もとにつくり上げるという
動きを軸にしていくわけですけれども、同時に、
極東委員会によってその
動きは制約されざるを得ないわけですね。それが一九四六年の五月、六月、七月、八月と続くわけです。どんな形で。つまり、
日本国憲法ができ上がったものをワシントンは一々それをチェックするわけです、
極東委員会は。
極東委員会にはソ連も入っておりますし
中国も入っておりますし、オーストラリアも入っておりますしニュージーランドも入っている。そういった
国々が入っている中で、一体
日本国憲法は本当にこれからの
世界をつくる、かつてのあの巨大な、しかし若干凶暴、いや大いに凶暴であった、しかし正直言って、本当の意味で決して豊かではない、その国の形をどうやって変えることができるのかということを彼らは
議論して、そのときに、
議論の
中心になるのが二つあります。
一つは主権ですね。国の主権はどこにあるのかという
議論、これが明確ではないのではないかということ。それから、もう
一つは軍事力の問題です。軍事力をどうコントロールできるのか、
日本の軍事大国化をどうコントロールできるのかという問題です。
主権の問題に関しては、たまたま議会で
議論になったときに、これは
歴史を見ていきますと出てくるのが、共産党の
野坂参三氏が六月二十九日に
議論するわけですね、実は今出された
憲法案の中にある文言は主権を明記していないではないのかと。この
言葉遣いは少し違うのではないかと彼は指摘するわけですよ、ここで議場騒然となるというやりとりがあるわけですけれども。
要するに、
天皇の文言に関して、「
日本国民至高ノ総意」という
言葉が、入江私案の中で、法制局長官入江氏の文言の中で変えられていくわけですね。本来あった
国民の「主権
意思」という、この「主権」という
言葉が消えてしまうわけです。それを野坂氏が指摘し、そして
アメリカのジャスティン・ウィリアムズという
憲法を担当していた法律の
専門家が、
政治学の
専門家がこれをただし、そしてケーディスがこれに気づき、一体、本来あった外務省案、あるいは本来あった主権の
言葉がどこに行ったのかということを問いただすんですね。このことがやはり同じ形でワシントンの
極東委員会でも
議論される。行き着くところ、主権の存する
国民の総意にある、主権は
国民にあるというこの
国民主権論の原理が
憲法の中に規定され、
天皇の法的根拠が、主権の存する
国民の総意にあるというふうに明記されるという
プロセスをとるわけです。これが
一つです。
もう
一つは、例の芦田修正にかかわることです。
御
承知のように、もう何度も、けさも東大の
北岡さんが御
議論なさったと思いますけれども、例の第二項のただし書き、これをどう解釈するかという問題なんです。
これは、お手元にございます「芦田均日記」の私の解説文を、終わってからでもお読みになっていただければありがたいと思います。同時に、日記自体もお読みになっていただければありがたいと思いますけれども、長い話を短くしまして、二つポイントを申します。
芦田氏は既に二月十九日、
幣原内閣に
アメリカの
憲法案が出されたときに、これは別に衝撃を受けるに足らないということを記す。二月二十二日、お手元の
憲法論議第二日目というところです。
最初の五ページぐらい、これは間違ってコピーしましたので、ずっと
戦争の後のことは省いてください。八十ページですね。そこで芦田均氏は、上段中ごろから少し
後ろの方です、私は次のように言った、
戦争廃棄といい、国際紛争は武力によらずして仲裁と調停とにより解決せらるべしという思想は、既にケロッグ・ブリアン協定において我が政府が受諾した
政策であって、別に目新しいものじゃないんだと。つまり、
憲法第九条の規定は別に目新しいものじゃないんだということを彼は言うわけですよ。これは既にあるんではないか、なぜこれを受けるのがおかしいのかということを、彼はここで既にこういう形で反論するわけですね。
その後、芦田均氏はナショナリストでもありますし同時に
外交官出身でもありますし、
外交史の
専門家でもありますし国際法の
専門家でもあります。その彼が、先ほど申しました七月二十五日から八月二十日までの
憲法小
委員会の中で、七月三十日だったと思いましたけれども、そこで彼は、例の有名な「前項の目的を達するため、」という一項を書き入れるわけです。これをめぐって、これがどういう意味なのかということもさまざまな
議論があるわけです。
私もずっとこの「芦田均日記」を編さんし、同時に、九五年に解禁になったこの小
委員会の秘密議事録を読み解いてまいりますと、やはり結論として言わざるを得ないのが、芦田均氏は
歴史に対する非常に深い読みを持って、戦後、
日本が独立
国家となったときに自衛力を持つ事態を想定し、これはもう
世界の常識なんだ、軍事力なくして国際関係は成り立たないし主権
国家は成り立たないんだ、そのときを想定して、我々はどういった条文を、
憲法第九条をつくらなければいけないのかということをこの時点で彼は考えたんだと申し上げてまず間違いないんじゃないかというふうに現在私は思っております。
その後、さらに九月に入ってからは、貴族院の議場で彼は審議を聞くわけです。この日記に出てまいります。審議を聞いて特に彼が関心を引かれたのが、先ほど申しました佐々木惣一氏とかあるいは、私の解説のところに書いてありますけれども、第一巻の解説四十七ページ、後からつけ加えたものですけれども、沢田牛麿、九月十三日佐々木惣一、牧野英一、高柳賢三、こういった
人たちが、
日本の軍備の可能性を第九条の解釈の範囲の中でなお残すべきことを示唆し、主張するわけです。彼は、そのことを聞いたということを日記で書くんですね。それ以上踏み込みませんけれども。そこで彼は、第九条二項の修正の意味をとらえ直して、ケロッグ・ブリアン協定の系譜の中で位置づけ直していたと考えても決しておかしくない。
だからこそ、
憲法公布と同時に出版された「新
憲法解釈」、ちょうど九月の段階で彼は執筆しているに違いないんですが、この段階で執筆したこの「新
憲法解釈」の中で、ただし書きの真意というのは、実は、
日本が自衛力を持つことを許容し、しかし、その自衛力を持ったときを想定して、
日本の軍隊がどういった目的に使われるのか。これは決して二十世紀の大きな流れである脱軍事化の流れに反するものであってはならないんだ、脱軍事化の流れの中で、主権
国家として
日本がミニマムな条件を手にするために我々は考えていくべきであって、交戦権は否定されるんだ、海外に自国の富を拡大するために出かけていくことは否定するんだ。しかし、ミニマムな自衛力は手にするんだ。それが同時に、例の文民条項の中に、彼はいわばその再保障といいましょうか、それを見出していくというふうに申し上げてよろしいかと思います。
時間がそろそろ参りましたので、最後に、私は、だから、
極東委員会を
中心にした国際化の流れと土着化の流れという二つの入力の中で、
日本国憲法の制憲
過程が規定されていった、あるいは場の軸が広がり、時間の軸が広げられていったんだというふうにとらえていただきたいと思うのです。
それでは、私たちは二十一世紀に向けてどういうことを考えていくのかということを、時間を五分ほどいただいて申し上げさせていただければと思います。
憲法の解釈に関して、私は、レジュメの最後のIIIの「制憲のかたち」の中で、脱軍事化条項、社会
経済条項、それから主権条項という三つの
日本の
憲法のキー、かぎとなるものを
中心にして解釈論を展開できるというふうに考えておりますけれども、主軸は、この解釈の前提になるものは、やはり九五年に解禁になった秘密議事録じゃないかなというふうに思いますね、集約していけばですよ。
これを見ていきますと、
GHQ案になかった社会
経済条項の強化、あるいは
国民の義務教育の無償化とか社会保障の強化とか、あるいは
憲法二十五条に規定されている健康で文化的な市民生活の享受とか、こういった条項の多くは
GHQ案になかったのですね。それをこの秘密小
委員会でつけ加える。だれがつけ加えたのか、主張したのかというと、これはやはり森戸ですよ、それから鈴木義男たちですよ。この
議論を見てみますと、本当に当時の
憲法制定権者たちの、いわば
憲法制定に携わった
人たちの持つ時代の流れに対する鋭敏さといいましょうか、国際性といいましょうか、時代の流れを先取りしていくその姿勢に非常に私は感銘できるんじゃないかなというふうに思いますね。
そして、最後に申し上げたいことが二つあります。
一つは、こういった
憲法の
動きというのは、同時に、四五年の八月以降に進められた
日本の国の形のつくりかえと連動し合っているのですね。
例えば宗教
改革。今まで宗教が否定されていて、国教制度、国の宗教が制定されていたわけですよ。これはいけないんだという宗教
改革。それから農地
改革。これは、
国民の半分、六割が小作、四割が自作農だけれども、その四割から三割の自作農がお米の半分以上を手にする、七割か八割を手にするという、具体的な数字は私の「敗戦の逆説」の中で御確認いただきたいと思うのですけれども、とにかく、今流で言うと、途上国
世界によくある大土地所有制度ですよ。メキシコもそうだ、フィリピンもそうだ。あるいは形を変えて、途上国
世界は多かれ少なかれ大土地所有制度ですね。こういったところで国の富は増大しないわけです。
シビックキャパシティーズを拡大させるためには、強めるためには、農地
改革を進めなきゃいけない。宗教
改革が必要だ、教育
改革が必要だ、労働
改革が必要だ、財閥解体も必要だ。ついこの間も、韓国のIMF危機の中で勧告された財閥の解体ですね。それから皇室
改革が必要である、警察
改革が必要だということで、次々に旧体制下における国の形の主軸をつくりかえていくわけです。
これもやはり単に
アメリカ側からの
動きだけじゃないのですね。農地
改革に関して言えば、松村謙三さんという富山県選出の代議士が
中心になって、和田博雄さんたちと一緒になって農地
改革を進めていく。教育
改革も同じですね。土着化と国際化という二つの流れが競合し合って新しい国の形をつくり上げていく。これが今日の戦後
日本の繁栄を生み出したというふうに申し上げていいと思います。
逆に言うと、戦後
日本の衰退、私はこの間も韓国に行ってまいりましたけれども、韓国の若者たちの熱気といいましょうか、市民の活力というのか、これは圧倒されました。僕は大学で教えておりますけれども、今の
日本の大学生というのはやる気がない。ほとんどの大学がそうですよ。小学校は教室が崩壊している。これは
日本の二十一世紀というのは見えないですよ、率直に言いまして。先生方だって、今学力低下が問題になっているのです。学生の学力も低下している、先生の学力も低下している。これが二十一世紀
日本に対する非常に暗い見取り図しか描きにくいということなのですけれども、一体どうしたらいいものか。
僕は第二の敗戦という江藤淳さんの
言葉が大変好きなのです。
日本はやはり第二の敗戦ですね、一九八五年、プラザ合意の後。やはり
アメリカにいいようにされているんじゃないかというふうに一面で言えるし、同時に、
自分で
自分の国の形をつくる、この形、指針を失っているのではないのか。戦後
日本の原像にもう一回立ち返っていいのではないか。それは何なのか。それは市民的諸活力をいかに強めるかですよ。
残念ながら、間接単独
占領という
占領形態を
日本は受けたわけです。これは一見非常に豊かな
日本を急速につくり上げるのに役立ったのです。単独
占領です。分割
占領じゃありませんでした。間接
占領です。したがって、
天皇から市町村に至るまで、すべての
国家機構が残された形で間接
占領が進められました。非常に効率的でした。しかし、残念ながら、そのために旧体制、
戦前の旧体制の核にある官僚制
改革に手をつけることができなかったのですね。今
日本のトップから下まで、新聞のスキャンダルの種になっている警察にしろ何にしろ、ほとんどすべてがこの官僚
改革の挫折の帰結ですよ。私どもは、ここでデモクラティゼーションの
動きをとめてしまったのですね、残念ながら。
ですから、私どもがやらなければいけないことは何なのかというと、もう一回戦後の原点に返って、二十一世紀を見据えて新しい制度をつくりかえていくこと、つくり上げていくことだ。それから、地方自治の強化ですよ、官僚
改革ですよ、あるいは地方分権化です。あるいは本当の意味での労働
改革であり、皇室
改革であり、警察
改革であり、形を変えたとにかく第二の戦後
改革の時期に差しかかっているのではないのか。
残念ながら、私は、
憲法改革、
憲法を変えることがいいのか悪いのかということに対する判断は、とりあえず留保させていただきたいと思います。
ただ、
一つだけ言えることは、制度を幾ら変えてもしようがないと私は思います。これはたくさんの
歴史的な先例があります。どんなに民主的な制度をつくっても、どんなにすばらしい制度をつくっても、仏をつくっても魂が入らなければ、つまり
政策がなされなければ、
一つ一つのレベルにおいて、
一つ一つの段階にあって、領域において、デモクラティゼーションが、デコロニゼーションが、あるいは二十一世紀型社会への取り組みがなされなければ、その国は栄えることはないでしょうというふうに、改めてこの失われた十年の今日、思います。
これをもって終わります。(拍手)