○村田
参考人 ただいま御紹介にあずかりました広島大学の村田でございます。本日は、
衆議院の
憲法調査会にお招きいただきまして、まことにありがとうございます。
私は、若干私事にわたりますけれども、私の専門は、
憲法学ではございませんで、
アメリカの外交、日米関係史あるいは安全保障という問題でございますので、必ずしも極めて歴史的に実証的な
お話ができるかどうかわかりませんけれども、国際関係の文脈に即して、
日本国憲法が制定された当時の
政治過程について、幾つかの論点を挙げて
お話し申し上げたいと思います。
お配りいたしております資料に即しまして
お話をさせていただきます。
まず第一点でございますけれども、「
占領下の
憲法改正」という問題でございます。
これについては、既にいろいろな
参考人や御専門の方から
お話もあったことかと思いますし、あるいは違った見解があることも十分承知しておりますけれども、よく言われますところでは、一般に、一九〇七年のハーグ陸戦法規というのがございまして、この第四十三条に「国ノ権力カ事実上
占領者ノ手ニ移リタル上ハ
占領者ハ絶対的ノ支障ナキ限
占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スヘシ」ということでございまして、
つまり、
占領下で勝手に
占領地の法律を変えるべきではないというのがこの四十三条の趣旨でございます。これにのっとりまして、
占領下に、
占領地である
日本の法律、とりわけ最高法規である
憲法の
改正を
日本政府に強いるということはこの一九〇七年のハーグ陸戦法規第四十三条に違反するのであるという
議論がなされることがしばしばあるわけでございます。
ちなみに、比較という観点から申し上げますと、同じように
占領を受けましたドイツ、とりわけ旧西ドイツの場合でございますけれども、これはどうかと申しますと、御承知おきのとおり、ドイツ基本法というものが制定をされたわけでございますけれども、ドイツと
日本では大きな違いがございます。
と申しますのは、ドイツの場合は、
戦争が終わりました
段階でナチス・ドイツの中央
政府が崩壊をしております。したがいまして、これは、国際法で申しますところのデベラチオという事態だそうでございまして、デベラチオというのはラテン語で征服という
意味だそうでございますけれども、
占領される側の受け入れ主体である中央
政府が存在をしないというような場合には戦勝国が敗戦国を併合する権限を持っておるということでございます。実際、連合国は、ドイツに対しては、ドイツに対する最高権限の掌握宣言というのを出して
占領を始めております。
ところが、我が国の場合は、
先生方御承知おきのとおり、沖縄を除きましては一切本土決戦が行われておりません。
ポツダム宣言を受諾しました
段階で我が国には歴然と中央
政府が存在をしたわけでございます。この点では、ドイツと
日本では状況が違うということになります。
では、
日本の場合は、先ほど申し上げましたハーグ陸戦法規の四十三条が適用されて、
占領下の
憲法の制定あるいは
改正というものはこのハーグ陸戦法規に違反するというふうに考えるべきかということになるわけでございますけれども、私は、必ずしもそのような
議論は当たらないという考えでございます。
と申しますのは、我が国は、これも御承知のとおり、
ポツダム宣言を受諾しております。
ポツダム宣言の第十項には、「
日本国
政府ハ
日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的
人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」という項目がございます。我が国は、この
ポツダム宣言を受諾して
占領を受けたわけでございます。
そうしますと、これも一般に法律でよく言われることでございますけれども、個別法は一般法に優越するという原則に照らしますと、ハーグ陸戦法規は
占領に関する一般的な規定でございまして、
アメリカが、あるいは連合国が
日本を
占領したという個別の事態については、この
ポツダム宣言という個別法が優越するというふうに考えるべきではなかろうかというふうに私は思います。
日本政府が
ポツダム宣言を受諾している以上、連合国が、この場合
アメリカですが、
日本の民主主義的傾向の復活強化を
日本政府に求めるというのは、
ポツダム宣言にのっとって、法的根拠のあることであるというふうに解するべきではなかろうかというふうに私は理解をしております。
実際、
帝国議会で
憲法改正の審議が行われておりましたときに、当時の金森徳次郎国務大臣も、
政府といたしましては、
憲法に基づいてこの
憲法を
改正し、しかも
ポツダム宣言によっておる国際義務をもその中において履行する、それを現実の姿にあらわしたのが今回の手続であるというふうに答弁をしておられるわけであります。したがって、
ポツダム宣言による義務を履行するという観点から
日本国憲法が
占領下に
改正されたというふうに理解するべきであろうというふうに思われます。
高名な国際法学者の安藤仁介
教授も、ハーグ条約に定める以上の権限を国際取り決めによって
占領軍に与えることは一般に禁じられていないことにまず注目しなればならないというふうにその御論考の中で述べていらっしゃいます。すなわち、ハーグの陸戦法規が、
占領下で
占領地の法律をできるだけ尊重すべきであるというふうに言っているけれども、別の取り決めがあって、それ以上の、プラスアルファのことをするということをこのハーグの陸戦法規が禁止をしているというふうに解釈すべきではないということでございます。
今申し上げましたのが法律的な
議論でございますが、私は外交史家といいますか
政治学者でございますから、やや
政治的観点から若干つけ加えて申し上げますと、
占領下での
憲法改正であるからそのような手続は無効であるというような
議論がもし成り立つとすれば、
日本国憲法はその成立のときから違法であるということになるわけでありまして、それは、戦後の
日本の発展とか戦後の
日本の民主
政治というものを、原点に振り返って初めから無効であるという
議論になってしまう。そのことは、私は、
政治的に見ても決して生産的な
議論ではなかろうというふうに思います。そもそも、この国会という場が
憲法によってつくられているわけでありまして、その国会での
議論で
憲法そのものが初めから無効であると言うのであれば、国会における
議論もそもそも無効であるという自己矛盾に陥るのではなかろうかというふうに私は思います。
さらに、その
憲法の精神ということに関して申しますと、もちろん
押しつけ憲法論というものがございまして、私も、
憲法が
GHQの非常に強い影響のもとに制定をされた、そういう
意味では普通の
憲法の制定過程とは随分異なっているということは認めるにやぶさかではございませんけれども、しかし、
憲法に盛り込まれた精神というものがすべて
押しつけであったというふうに考えるのは、私は、いささか、
日本の歴史に対して、余りにも悲観的なといいますか、
日本の近代史を矮小化する
議論ではなかろうかと思います。
と申しますのは、我が国は、大正年間にいわゆる大正デモクラシーというのを
経験しております。そして、政党
政治が花咲いた時代があるわけでございます。したがって、戦前の
日本には戦後の
日本国憲法が規定するような民主主義的精神は全くなく、戦後に
GHQがやって来て
憲法を
押しつけられたから戦後の
日本が今日のような民主主義社会になったのだというふうに考えるのは、私は、余りにも安直な二分論であるように思います。
戦前においても、与えられなくても
日本人が自分たちの手で獲得し発展させていったデモクラシーの
経験を我々は持っているということに、我々
日本人はもっと誇りを持つべきであろうと思います。不幸にしてその大正デモクラシーは、その後の一九三〇年代の軍部の台頭に押し流されていきますけれども、二〇年代に私どもが民主主義を自分たちの手で持っていたということの
意味を私どもはもっと積極的に評価すべきではなかろうかというふうに存じております。
その点につきまして、やや示唆的なエピソードを御紹介いたします。
我が国がまさに
ポツダム宣言を受諾するという敗北のふちに立ったときに、
アメリカの当時の陸軍長官であったヘンリー・スティムソンという人、この人は、満州事変が勃発したときには
アメリカのフーバー政権の
国務長官でございましたし、それから、実は
日本には非常に因縁が深くて、広島、長崎への原子爆弾の投下を陸軍長官として決定をした人物でございます。このスティムソン陸軍長官のもとに、戦前に駐日大使を務めましたグルーという有名な
アメリカの外交官がおりますけれども、当時は国務次官ですが、このグルー国務次官が、戦後の
日本の処理に関する
アメリカ政府の基本的な考え方についてメモランダムをつくりまして、それをスティムソン陸軍長官に回覧をしているわけです。
グルーは、
天皇制温存と、
天皇制温存をはっきり打ち出せば
日本はむだな抵抗を続けずに降伏を受け入れるというので、
日本に対して寛大な態度をとるようにと、そういうメモランダムをつくるわけですけれども、そのメモランダムを見たときにスティムソン陸軍長官が述べた有名な
言葉は、
日本は幣原、若槻、浜口といった西洋世界の指導的
政治家と同等にランクされ得る進歩的指導者を生み出す能力を持っているということをスティムソン陸軍長官が言っているわけでございます。
ここで言われております幣原、若槻、浜口というのは、言うまでもなく、一九二〇年代に、今申し上げました大正デモクラシーの時代に英米協調の国際協調外交を展開した我が国の
政治家、幣原喜重郎は戦後も総理大臣を務めますし、若槻礼次郎、浜口雄幸、これも総理大臣を務めた人物でございます。
こうした
人たちのリーダーシップのもとで、一九二〇年代に
日本が、外に対しては国際協調路線、国内においては大正デモクラシーというものを積極的に進めてきた、そのような側面を無視すべきではないというふうに、当時の
アメリカの陸軍長官自身が、戦前の
日本の歴史を肯定的に評価している発言をしているわけでございます。
そのように、戦前と戦後を余りにも明確に裁断することは、私は、歴史認識として必ずしも正しくはなかろう、大正デモクラシーを持った
経験というものをもっと積極的に評価し、その精神が発展強化されて
日本国憲法にも受け継がれているのだというふうに考えるのが成熟した
政治観というものではなかろうかというふうに存じます。これがまず第一点でございます。
それから、第二点でございますけれども、お配りした資料では「
マッカーサーの戦略観」というふうに書いてございますけれども、これも
先生方御承知のとおり、
憲法を制定するときに、
マッカーサー元帥が
最初に
マッカーサー・ノートという
憲法改正に関する三つの基本原則を手渡すわけです。その第二の原則が
戦争の放棄ということでございまして、
マッカーサーが
最初に出した
マッカーサー・ノートでは、
戦争の放棄というのは、単に侵略
戦争の放棄だけではなくて、自衛
戦争までも放棄するという趣旨のことを、
マッカーサー元帥はそのノートの中で第二原則として提示をしたわけです。ところが、その後紆余曲折がございまして、侵略
戦争はともかく自衛
戦争までは否定する必要がないというふうに
GHQの立場も変わってくるわけでございます。
GHQのもとで
日本占領に当たった
占領将校たちの平均年齢が非常に若くて、いわゆるニューディーラーと言われる
アメリカの左派の改革主義的な
人たちが非常に多かったことはよく知られます。そういうニューディーラーが自衛
戦争までも
日本に否定させようとしたのならともかく、
マッカーサーのような軍人、
つまり戦争のプロ中のプロが、たとえ敗戦国とはいえ自衛
戦争までも放棄させるような指示を、初期の
段階に限ったとはいえ、そのような命令を
日本に与えようとしたのはなぜかということがよく言われるわけでございます。
これは、大きな
政治状況の中で申しますと、
マッカーサーは、恐らく、自衛
戦争までも
日本は放棄する、
つまり、それほど戦後の
日本は平和主義に徹するのであるということを国際社会にアピールする、そのことによって、
日本の
占領をできるだけ速やかに終わらせ、そして
天皇制を守ろうという大局的な意図がそこにあったことは間違いがございません。
同時に、余り知られておらないことで、最近歴史家が研究していることを若干申し上げますと、そこには
マッカーサーの当時の戦略観というものが反映をされていたということが最近の研究で言われているわけでございます。それはどういうことかと申しますと、
マッカーサーは、その当時、核兵器に非常に依存する戦略計画というものを考えていたということなのでございます。
私のお配りした資料の冒頭に、「将軍たちは過去の
戦争を戦い、外交官たちは過去の講和を論じる」ということを書いてございますけれども、これはよく歴史の教訓に関して言われることでございまして、歴史の教訓を学ぶというのは簡単なようで実は大変難しい作業でございます。
しばしば人間は、安直に、直前に
経験した非常に大きな出来事を短絡的に歴史の教訓というふうに考えがちである、したがって、軍
人たちは、前に戦った大
戦争、それと同じような大
戦争がこの次にもあるだろうと想定しがちである、外交官たちは、前に話し合った講和
会議、それと同種類の講和
会議というものがこの次も開かれるであろうというふうに考えがちであるということでございまして、実際、第二次世界大戦が終わったときの
アメリカの軍部も、過去の
戦争を戦う、
つまり、第二次世界大戦型の米ソ全面
戦争というものが恐らく第三次世界大戦として戦われるであろうというのが
アメリカ軍部の基本的想定であったわけでございます。
そういう
意味では、一九五〇年に
朝鮮戦争が勃発をいたしましたときに、それは
アメリカ軍部の意図するところでは全くなかった。あのように局地的な限定
戦争が戦われるということは、当時の
アメリカ軍部の想定を超えているところであったわけでございます。したがって、ワシントンの
アメリカ軍部も、そして
マッカーサーも、来るべき次の
戦争は米ソ間の世界全面
戦争であろうというふうに想定をしていたわけです。
そのときに、では、ソ連を相手に
戦争いたしますときにどのような作戦を立てるべきかというので、
アメリカ・ワシントンの統合参謀本部は、ピンチャー・シリーズという作戦計画をずっと改定を重ねながらつくっておりました。その前提となる
調査では、ソ連に決定的な結末を与える、そのためには百九十六発の原子爆弾が必要であるというふうに当時
アメリカ軍部は想定していたというふうに最近の研究は指摘しているわけでございます。
百九十六発の原子爆弾というのは、これは大変な数でございまして、実は、
アメリカが当時どれぐらいの原子爆弾を持っていたかと申しますと、一九四五年の末で、
アメリカは原子爆弾を二発しか持っておりません。実際、広島、長崎に落としまして、長崎に落としたのが当時の
アメリカの核兵器のストックの最後でございまして、長崎以降は、もし
戦争が続いていても
アメリカは当面核兵器は持っていなかったのでございますけれども、四五年末にはさらに二発つくった。それから、四六年の七月
段階で九発、四七年七月で十三発、そして四八年の七月に至ってもまだ五十発しか
アメリカは核兵器を持っておらないわけでございます。そうしますと、ソ連に決定的な結末を与える百九十六発というのには、これははるかに足らない数字になるわけです。
そうしますと、そもそも核兵器が足りませんので、ワシントンの統合参謀本部は核兵器に依存しない形で米ソの全面
戦争を戦う戦略を考える必要がある、
つまり、通常戦力の強化であるということになるわけです。
当然
アメリカ自身が通常戦力の強化をしなければなりませんけれども、
アメリカの同盟国にも通常戦力の強化を求める。さらには、
アメリカの
占領下にある旧の敵国であるドイツや
日本にも将来的には再軍備を求めるという発想が、当然ここから出てくるわけでございます。したがって、ワシントンの
アメリカ軍部は、
日本に再軍備をさせたい。それは、核兵器が足らず、通常戦力を増強しなければ米ソ全面
戦争に対応できないという認識があったからなのでございます。
それに対しまして、
マッカーサーのもとの
アメリカ極東軍は、全く別にベーカー・シリーズという作戦計画を立てていたそうでございます。冒頭に申し上げましたように、
マッカーサーは、ワシントンとは違いまして、核兵器の威力を非常に高く評価いたしまして、核兵器に依存する戦略を立てようとしていた。
このベーカー・シリーズの想定に基づきますと、米ソ全面
戦争が起こりましたときに、極東のソ連軍はおよそ三十日の間に四十個師団を動員できるという想定に立っているわけでございます。四十個師団の極東ソ連軍は、あっという間に朝鮮半島を席巻し、北中国を席巻し、さらには北海道や九州にも侵攻してくる可能性があるというふうな見通しを持っていたわけでございます。
それに対して
日本を守らなければならないわけでありますが、
マッカーサーの参謀たちが考えた計画では、
アメリカが極東において四発の原子爆弾を用いる。百九十六発でなくてもよいのであって、四発でよい。その四発の核兵器によって、ウラジオストク、釜山、旅順、大連というこの四つの町を先制攻撃でたたく。そうしますと、この四つの町は当然核汚染されてしまいますから、極東ソ連軍は、当面の間、そのウラジオ、釜山、旅順、大連を越えて先に進めないということになるわけでございます。
マッカーサーの参謀たちの考えた計画では、この間にソ連軍をアジア大陸の内部に約九十日間足どめを食わすことができるという想定なのでございます。
実は、この
マッカーサーの計画では、米ソ
戦争が始まりましたら、朝鮮半島は直ちに放棄して、南朝鮮に駐留している米軍は
日本に帰ってくる。そして、今申し上げた四カ所に核兵器を落として、ソ連軍をアジア大陸に九十日間足どめする。そうしますと、単純な計算でございますけれども、ソ連軍が動員をかけるのにそもそも
最初に三十日かかり、核兵器によって九十日間足どめを食わすことができるということになりますと、合計で百二十日間ソ連軍は動きがとれないわけでございます。その間に
アメリカの本土から
アメリカ精鋭の二個師団が
日本防衛のために来援するというのが、
マッカーサーの基本的な戦略計画であった。
このように考えますと、有事の際にも、ソ連軍を四カ月も足どめを食わすことができて、その間に本土から米精鋭二個師団がやってくるという
マッカーサーのような想定に立てば、
日本再軍備ということは当面全く必要のないことであったわけです。
つまり、米軍の来援によって
日本は守れるという想定でございます。したがって、
マッカーサーがワシントンの米軍部と違って
日本再軍備に対して決して熱心ではなかったというのは、このような彼自身の戦略的な計算に基づいていたということになります。
そのような考えに立てば、
アメリカの
日本占領が続いている限りにおいて、
日本が
憲法で自衛
戦争まで放棄していたとしても軍事的にさして危険ではないというふうに
マッカーサーが考えたとしても、これは驚くに当たらないわけでございます。
このことは、私は単なる歴史のエピソードにはとどまらないと思います。
マッカーサーが
憲法が制定された前後にそのような戦略観を持っていたということは、その後の
日本の安全保障の考え方に、私は少なくとも
二つの
意味を持っておると思います。
一つは、戦後
日本の平和主義というものが、まことに皮肉ではあるけれども、その出発点から
アメリカの核戦力というものを前提にしなければ成り立たないものであったということを、まず第一点申し上げたいと思います。
それから第二点に、この
マッカーサーの構想では、米ソ全面
戦争が起こりますと、南朝鮮から米軍はすぐに
日本に撤退してくるということになりますから、したがって、
日本の防衛というものを、朝鮮半島の安全保障であるとか、北東アジアの、
日本近隣諸国の安全保障と関連づけて
日本の安全保障というものを考えるという習慣を
日本人から奪う、そういう影響も持っていたのではなかろうかというふうに思うわけでございます。
いずれにしましても、
マッカーサーが核兵器の力というものを非常に高く見て、そのような戦略計画を持っていたということでございます。
実は、当時、
憲法改正の枢密院の
会議で、これは朝日新聞に報道がございますけれども、三笠宮様も同じような認識を示しておられたようでありまして、新聞からの引用を読み上げますと、「
戦争形態の大変化である。世界のどこからでも原子爆弾を持った飛行機が無着陸で任意の目的地に攻撃を加える時代となった。ゆえに海岸に要塞があれば安心とか、満州や南洋を
占領していれば本土は安全とかいう時代ではない。 従って新
憲法前文にあるごとく「我等の安全と生存をあげて平和を愛する世界の諸国民の公正と信義に委ね」ねばならないのである。」というふうに枢密院の発言で三笠宮様は述べておられるわけでございます。
これは、ある
意味で
マッカーサーの考え方と非常に近いのであって、核兵器の出現というものが世界の戦略観というものを根本的に変えてしまったのであるから、したがって、
日本はもう自衛
戦争というようなことを言ったって
意味がないというのが三笠宮殿下のここでの御発言の趣旨だと思います。
マッカーサーは、核兵器の出現というのは非常に大きいから、
日本に再軍備を促さなくても
アメリカの核によって
日本を守れるというふうに考えた。やはり、この当時の
人たちが、新しく出現した核兵器というものを、非常に大きな決定的な
意味があるものというふうに見ていたということであろうというふうに思います。
次に、第三点でございまして、「「侵略
戦争」の定義」ということについて若干
お話を申し上げたいと思います。
これも
先生方御承知おきのとおり、極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判で、東条英機以下の戦犯が平和に対する罪というので裁かれたということはよく知られているところでございます。
この平和に対する罪というのは何かと申しますと、「宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略
戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル
戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。」というのが極東国際軍事裁判で示された平和に対する罪ということでございます。
ここでも侵略
戦争という
言葉が出てまいります。しかしながら、この東京裁判では最後まで、では侵略
戦争は何かということについては明確な定義は示されなかったわけでございます。実は、その後の歴史の中でも、国際法は侵略
戦争に対する明確な定義を示してはいないのでございます。
このことは、
憲法九条を考える場合に非常に大事なことであろうと思います。と申しますのは、後でももう一度申し上げますように、
憲法九条の解釈について、九条第二項、いわゆる「前項の目的を達するため、」という芦田修正が入った結果、
憲法九条は、侵略
戦争は否定はしているけれども、自衛のための
戦争まで否定するものではないという見解が広く持たれているわけでございます。私も、基本的にこれが正しいというふうに考えております。
侵略
戦争と自衛
戦争を分けて考えるときに、私どもが国際社会で明確な侵略
戦争の定義を持っていないということの
意味は非常に大きいのでございます。すなわち、侵略
戦争の定義がない以上、侵略
戦争と自衛
戦争を分けて、
憲法九条は前者は否定しているけれども後者は認めているということのロジックを立てることは、非常に困難になってくるわけでございます。
ここが非常に
議論の分かれるところでありましょうけれども、
日本の戦前の歴史に対する評価というものと関係をしてまいります。少なくとも満州事変に始まって一九四五年の
ポツダム宣言受諾で終わる太平洋
戦争の終わりまで、昔は歴史家はよくこれを十五年
戦争というふうに言っておりましたけれども、最近はアジア太平洋
戦争というふうに呼ぶことの方が多いようでございますので、私もここでは便宜上アジア太平洋
戦争というふうに言わせていただきますけれども、このアジア太平洋
戦争が侵略
戦争であったか否かという問題が、実は非常に大きな問題であろうかと思います。
もちろん、長期にわたってさまざまな局面を持った
戦争でございますから、この
戦争全体を侵略
戦争であるとか、この
戦争全体が侵略
戦争でないとかいうふうに論ずることは、私は余り生産的ではないと思いますけれども、しかし、個別の局面において、あの
戦争で
日本がやったことに侵略性があったということは、私はこれは認めざるを得ないというふうに思います。
もし、あのアジア太平洋
戦争が、全面的に、全く侵略
戦争でないという歴史認識に我々が立つならば、
憲法九条が侵略
戦争と自衛
戦争を分けているという
議論は、あのアジア太平洋
戦争でも解釈によっては自衛
戦争と解釈できるのだということになれば、我々が新たに
憲法九条をもって侵略
戦争と自衛
戦争を分けたことの
意味合いがほとんどなくなってしまうということになろうかと思います。
したがって、私どもが、戦前の、アジア太平洋
戦争の少なくともある局面について侵略性があったということを認めるという前提に立たなければ、実は戦後の
自衛隊のレジティマシーというか正統性を私ども自身が掘り崩してしまうことになるのではなかろうかというのが、私の申し上げたいことでございます。
このことは、実は法的にも
意味のあることでございまして、我が国が
占領を終えて独立を回復いたしましたサンフランシスコの対日平和条約、一九五一年九月の八日に締結されたものですが、この対日平和条約の第十一条に「
日本国は、極東国際軍事裁判所並びに
日本国内及び国外の他の連合国
戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、」という一文が挿入をされているわけでございます。すなわち、我が国は、独立を回復するときのサンフランシスコの
講和条約において、東京裁判の歴史観を
政府として公的に国際条約上受け入れているということを、私どもはまず認識する必要があろうかというふうに思います。
そのことについて、実は文芸評論家の山崎正和先生は「歴史の真実と
政治の正義」という非常に示唆に富む御論考を最近お書きになっておりまして、若干それを引用させていただきたいと思いますけれども、山崎さんはこういうふうに言っておられます。
「法は現在に生きる人間のためにあるものであり、そのために法的な真実は時間というものに強く制約されている。時間のかかりすぎる裁判は学問的に誠実ではあっても、法的な正義の実現にとっては無
意味であることが多い。だとすれば、同じく現在に生きる人間に奉仕し、時間に制約される
政治はこの法の精神にこそなじみやすい。学問的真実と法的真実の
二つの真実があるとすれば、
政治的正義は後者の実現をこそめざすべきなのである。」
つまり、やたらめったらに時間がかかる裁判というのは、時間をかけて検証すればするほど、真理に近づくかもしれませんけれども、その間に、例えば被害者の
人権を救済することはできない。それでは法の正義に当たらない。
政治というものも、そのような現実的、時間的な制約のもとである種の妥協的正義を図るというのが
政治の知恵なのであるということが山崎さんの言いたいことであります。それに対して、歴史研究とか学問の真実というものは学者が幾ら時間をかけてもいいのであって、そういうものと
政治や法律の正義というものを混同してはならないということであります。
それを受けて山崎さんはこのように言っておられます。
「この納得を具体的にいえば、「東京裁判」の描いた
戦争の姿はまさに法的真実であって、戦後の
日本はそれを
政治的正義の立場から受けいれたのであった。世界の平和とより大きな秩序のために、より小さな真実の細部は不問に付することを認めたのである。たしかにあの裁判は法理的に不備のある裁判だったし、その進め方にも問題は多かったが、
日本はそのことを含めて
政治的に受けいれた。サンフランシスコ
講和条約の条文のなかに、
日本は「東京裁判」の判決を否定しないという誓約を明記した。それを前提にして
日本は新しい国内体制をつくり、旧敵国とさまざまな条約を結び、結果として平和で豊かな社会を楽しむことができた。思えば
戦争直後に獲得した
天皇制の保持、
占領軍による直接統治の回避、
日本通貨の維持などを手始めに、戦後
日本の独立の継続と回復は、いわばあの裁判での司法取引の成果だったと見ることができるのである。」というふうに山崎さんは言っておられる。
つまり、東京裁判で示された歴史観が歴史の真実としてすべて正しいわけではもちろんない。したがって、それは今後も、
日本だけではなくて、
アメリカでも中国でも韓国でも、あるいは北朝鮮でも台湾でも、世界的に歴史家が、あるいはその他の学者が歴史の真実を究明していけばよい。しかしながら、我が国は独立を回復するときに、サンフランシスコ条約によって、法の正義あるいは
政治の正義として、そのような東京裁判で示された解釈を有権解釈として受け入れたのである。その結果、戦後の
日本の国際社会への復帰と繁栄と安定があったということを我々は理解しなければならない。そうすると、東京裁判での歴史認識を、とりわけ公的立場にある人間がひっくり返すことによって戦後の
日本の正統性を覆すということは決して賢明ではないということが、恐らく言いたいことではなかろうかというふうに思います。
これは、きょう
お話し申し上げることの全体にかかわることでありますけれども、
憲法ができた
経緯や解釈というものを法律論の観点からだけ論ずるということは、決して生産的ではないと私は思います。特殊な
政治状況のもとでつくられたのであって、それを含めて今日の
憲法があるという認識を持つべきである。例えば、吉田茂首相も当時の
貴族院の本
会議で、「
憲法論、国法論以外ニ現在ニ於ケル国情、国際ノ情況等ヨリ」判断してこの
憲法の審議をされたいということを言っておられるわけでございます。
日本が大きな
戦争を引き起こし、そして大きな敗北を迎え、
アメリカを中心とした
GHQに
占領されておる。そして、我が国が一日も早く独立を回復したい。そのときに、恐らく当時の多くの
日本国民が
天皇制の存続も望んだ。そのような目的を達成するために、
日本が、あるいは理不尽と思われるところでも譲るべきところを譲って、その結果として
日本の独立と戦後の発展があったのだという認識を持つべきではなかろうかというふうに存じます。これが第三点についてでございます。
第四点に、「文民条項」についての
お話を若干申し上げたいと思います。これは既に、これ以前の
参考人がより細かく、実証的に
お話しになったかと存じますけれども、大変大事な点でございますので、繰り返し申し上げたいと思います。
先ほど申し上げました芦田修正というものが、芦田小
委員会で加えられます。
憲法九条の第二項に「前項の目的を達するため、」という一文が加えられたわけでございます。
これも御承知おきのように、
憲法九条第一項の「国際紛争を解決する手段としては、」という文言は、一九二八年のパリ不戦条約にのっとった
表現でございます。このパリ不戦条約による「国際紛争を解決する手段としては、」というのは、侵略
戦争という
意味でございます。したがって、
憲法九条の一項は、侵略
戦争を遂行する目的としてはというふうに解釈すべきである。それを受けて、第二項の冒頭に「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」というふうに続くわけでございます。
したがって、芦田が意図した解釈と申しますのは、侵略
戦争のための戦力は持てない、しかし、自衛のための戦力であれば必要最小限のものは持つことができる、そういう意図を込めて、芦田小
委員会でこの「前項の目的を達するため、」という一文が入れられたということになるわけでございます。
この芦田修正に対しまして、
極東委員会が強く反発といいますか、危惧の念を持ちます。
つまり、芦田修正の結果、
日本は、侵略
戦争はともかく、自衛のための戦力なら持つことができるというふうに
憲法九条の第二項を解釈することができる。そうすると、
日本が今後再軍備をする可能性が出てくる。そのときに、もし戦前の
日本の軍部大臣現役武官制度のような制度がとられれば、
日本が再び、いつか来た道、軍国主義の道に走るのではないかという危惧を、
極東委員会の一部、オーストラリアや中国あるいはソ連の代表が持ったわけでございます。
極東委員会は、芦田修正を受けて、そのような懸念を払拭するために、
憲法にシビリアン条項を入れるべきであるというふうに強く要求をしてまいります。
極東委員会の圧力を受けまして、
GHQ、
つまりマッカーサーの
占領司令部でございますけれども、
GHQは
日本政府に対して、シビリアン条項を
憲法に盛り込めという指示を下します。
当初
日本側は、このシビリアン条項を入れることに対しては非常に消極的でございました。なぜならば、
憲法九条でもし我が国が一切の戦力を持てないというふうに解釈するならば、戦後の
日本国憲法のもとでは我が国には軍隊は存在しないのであって、軍隊の存在しない国ではすべてがシビリアンでございますから、わざわざ改めてシビリアン条項などというものを入れる必要はないというふうに当初
日本政府は考えた。ところが、
極東委員会の圧力を強く受けた
GHQから、そのような条項を入れることを指示されるわけでございます。
そこで
日本政府は、当初、
GHQがこのように言ってくるのは、恐らくある種の公職追放的な観点からこのような条項を挿入すべきであると言っているのであろうというふうに解釈をいたしました。
このシビリアンというのを
GHQが求めた条文は、プライム ミニスター アンド オール ミニスターズ オブ ザ ステート シャル ビー シビリアンズというものでございますけれども、問題はこのシビリアンの訳語であったわけでございます。
つまり、当時の
日本語にシビリアンに相当するボキャブラリーが存在をしなかったわけでございます。
これは、ある
意味では示唆に富むことでございまして、シビリアンとかシビルという
言葉が戦前
日本で
日本語のボキャブラリーに定着したのは、私どもが今日着ております背広、この背広というのはシビルがなまって背広になったものでございます。
つまり、軍人が軍服、ユニホームを着ているのに対して、民間人は背広を着ておりますから、シビルは背広という
日本語を生んだにとどまるわけでございまして、戦前
日本では文民というような
日本語を生むことはなかったわけでございます。
これは、
日本の近代史を考える上でなかなか示唆に富むことかと思います。
と申しますのは、幕末、明治維新に、例えば福沢諭吉ですとか西周ですとか、多くの先達が、西洋の非常に高度な概念、例えばポリティックスとかエコノミーとかいう概念を、
政治だとか経済だとか、哲学とか倫理学とかいう難しい
日本語に
翻訳して、新しい
日本語のボキャブラリーをつくってきたわけです。しかし、戦前
日本はついに、シビルに相当するボキャブラリーをつくることはなかったわけでございます。恐らく、シビルであるということが積極的な
意味を持つことが戦前には余りなかったからではないかと私は思いますけれども、少なくとも、敗戦の後に
アメリカによる
占領を受けて
憲法改正という事態に至るまで、シビリアンに当たる
日本語を我々は持たなかった。
これが大きな問題でございまして、では
憲法の中でこのシビリアンというのをどういうふうに訳すのかというので、今申し上げましたように、
政府は、このことを一種の公職追放的な
意味合いのあるものというふうに解釈いたしましたから、「総理大臣その他の国務大臣は、武官の職歴を有しない者」というふうな訳語をつくりまして、これを
貴族院の
委員会に送付することになるわけでございます。
ところが、この総理その他の国務大臣は武官の職歴を有しない者という訳語に対しましては、
貴族院の帝国
憲法改正特別
委員会の
委員たちの間から、非常に強い不満、反論が出てまいります。
と申しますのは、これは
先生方御承知かと存じますが、英語のシビリアンと申しますのは、軍人でない者という
意味でございます。
つまり、
マッカーサーですら、退役して軍服を脱げばシビリアンでございます。アイゼンハワーは
アメリカの大統領になっておりますけれども、退役後でございまして、軍服を脱げばシビリアンなのでございます。
つまり、今軍人でない人はすべてシビリアンというのが、英語のシビリアンの本来の
意味でございます。
ところが、
政府が
貴族院に送った訳では、武官の職歴を有さない者という
意味になります。そうしますと、今武官でなくても、さかのぼって過去において武官であった者は総理大臣にも国務大臣にもなれないということになるわけでございます。
政府は公職追放的な
意味合いをそこに読み取りましたから、このような訳語をあえてつくったわけでございます。
しかし、それに
貴族院が反発をいたします。例えば、当時の
憲法改正特別
委員会の
委員でありました、当時の東京大学法学部
教授の宮沢俊義
教授はこういうふうに言っております。「たとえていえば、五だけ制限しろと注文されたのに対して一〇制限しようとするものである。総司令部の注文に応じて行う修正である以上、その注文の範囲だけ修正すればいいので、それ以上におよぶ必要はない。」
つまり、
GHQはシビリアンということを求めてきたのであって、それは今軍人でない者ということにすぎない。ところが、
政府案では、過去にもさかのぼって軍人であった者を排除しようとしている。これは、
GHQが五求めているのに
日本が自発的に十も制限するということであって、本来の趣旨にかなわないというふうに
貴族院は考えたわけでございます。そこで、
貴族院は、
政府提案を退けまして、単純にシビリアンを全く別の
日本語に置きかえようとしました。
ところが、先ほど申し上げましたように、シビリアンに相当する
日本語がないという問題が出てまいります。そこで、いろいろな珍案が出てまいりまして、例えば、文官という
言葉が出てまいりますが、官というのは非常に官僚主義的でよろしくないというので、文官は退けられます。それから、珍妙な訳がいろいろ出てまいりまして、地方人などという訳が出てまいりますが、一体どういうことがあって地方人というのが出てきたのかわかりません。もっとひどいのは凡人というものがございまして、もしこれが採用されておりましたら、総理大臣その他の国務大臣は凡人でなければならないということになって、
先生方は、もし入閣を求められても甚だ不本意に思われるであろうというふうな、そのような訳語も出たわけでございますが、いろいろな漢字の組み合わせを考えまして、結局
貴族院は文民という
言葉をつくったところでございます。
しかし、宮沢が言いますように、
貴族院は、広く武官の職歴を有する者から国務大臣になる資格を奪うのは妥当でないと考えて、
政府の
意見を排斥して、シビリアンをそのまま文民と訳して六十六条二項とした。
つまり、文民という
言葉をつくった当時の
帝国議会の専門家たちは、文民というのは単に軍人ではないという
意味でこの条項を入れたのであるというふうに言っているわけでございます。
いずれにしましても、この
経緯から、私は二点申し上げたいと思います。
第一点は、
極東委員会が、芦田修正に対して非常に危惧を感じて、将来
日本が再軍備をするのではなかろうか、そこでシビリアン条項を入れろというふうに
GHQを通じて
日本に要求したということでございます。
つまり、
極東委員会は、
憲法九条を読めば
日本が再軍備できるというふうに解釈したということ、これが第一点。これは非常に大事なことであります。
もう
一つ非常に大事なことは、そのように解釈したにもかかわらず、
極東委員会も
GHQも、芦田修正を取り除けとは要求していないわけです。そうではなくて、もしそうなれば再軍備の可能性があって、将来
日本が軍備を持つことがあるから、そのかわり文民条項を入れろというふうに
極東委員会も
GHQも要求したのであって、芦田修正そのものをチャラにしろというふうには、当時国際社会は要請していなかったわけでございます。
その後、
憲法九条の解釈にしましても、文民条項の「文民」の解釈にいたしましても、
日本政府の答弁も歴史の中で何度か揺れ動きますし、
憲法学者の間でもさまざまな解釈があることは、
先生方御承知おきのとおりでございます。しかし、私は、健全な常識にのっとれば、このときに
極東委員会と
GHQが示した判断というのが実は最も真っ当なものなのではなかろうかということを申し上げたいところでございます。
それからもう
一つは、この六十六条二項をつくりますまでに、我が国にシビリアンというボキャブラリーがなく、その定義をめぐっても
政府案と
貴族院の考えが対立をする、そして文民という新しい
言葉がつくられる、このような文民条項の成立の
経緯から「文民」という概念が混乱する。そのことは、実は、その後の
日本のシビリアンコントロールというものが矮小化され、あるいは、必ずしも効果的に機能しない側面が出てくるということの源になっているのではなかろうかというふうに私は存じます。
これは、申し上げる時間はございませんけれども、我が国が
憲法を制定した当時、実は
アメリカでも、一九四七年に国家安全保障法という法律がつくられております。この法律はその後も何度かにわたって
改正をされておりますけれども、この法律によって初めて、今日の国防省がつくられ、国防長官という職がつくられ、そして国防長官と陸海空軍長官との関係を規定したり、統合参謀本部の法的な役割を定めたりというふうに、シビリアンという概念を
日本に輸入しようとした、あるいはシビリアンコントロールという考え方を
日本に教えようとした
アメリカ本国でも、戦後一貫して、シビリアンコントロールをめぐってさまざまな試行錯誤があったということを付加的に申し上げておきたいと思います。
幸い、若干まだ時間がございますので、つけ加えて、「その他」について申し上げたいと思います。
それは、個々の
憲法の条文や、あるいは
憲法ができた
経緯についての
お話からは少しそれるわけですけれども、
憲法の
表現と申しますか、あるいは
憲法の奥にある精神というものについて若干申し上げたいと思います。
これは、もう随分前にお亡くなりになりました高名な文芸評論家の福田恒存さんという人がいろいろなところで言っておられることで、私は非常に示唆に富むなと思いますので、若干御紹介して私の話を終わらせていただきますが、まず、
天皇は象徴であるといったときの「象徴」という
言葉についてでございます。
長々と引用することは避けますけれども、福田恒存は、象徴ということは本当は一体何を
意味するのであろうかということを言っておられるわけです。
つまり、果たして生きた人間が抽象的な象徴というものになり得るのであろうかということなのでございます。
とりわけ、国民統合の象徴というものを生身の人間に求めるというのはどういうことであろうか。
つまり、
日本国内には
天皇制に賛成する人も
天皇制に反対する人もいるわけでございまして、それを含めて、生身の人間が国民統合の象徴になるということはあり得るのであろうか。
憲法の前に
天皇の人間宣言というものがなされておりますが、一見、
憲法一条の象徴
天皇制と
天皇の人間宣言というのは非常に論理的に結びついているように思われるけれども、福田に言わせますと、もし
天皇を人間というふうに規定するのであれば、生身の人間が果たして抽象的な象徴たることはできるのだろうか。
つまり、生身の人間は元首になることはできる。そして、生身の人間が元首である場合、個々の国民は、君主制に反対したり賛成したり、あるいは、個別の君主が好きであったり嫌いであったりという嗜好を持つことができる。しかし、
天皇は、そのような元首ではなくて、抽象的な国の象徴というふうに規定をされ、しかも、「国民統合の象徴」というふうに規定をされている。果たして、そのことは一体どういう
意味を持つのであろうかということを言っておられるわけであります。
これは、
憲法の制定のときに、
政府側の
松本烝治博士が、
GHQの示した
憲法草案の中に、この象徴、シンボルという
言葉を見まして、何かしら文学の
表現のようであるというので非常に反発したというふうに言われますけれども、果たして、この象徴ということをどれほど考え抜いた結果
憲法は規定しているのであろうかということを、福田さんは問題提起をしておられるわけであります。
アメリカの有名な
日本史家のジョン・ダワーという人は、最近の本の中で、この象徴という
言葉はスキャップ——スキャップ(SCAP)と申しますのはシュープリーム・コマンダー・オブ・ジ・アライド・パワーズの略でございまして、当時の連合国軍最高司令部でございますが、連合国軍最高司令部が象徴という
日本語を与えたんです、
つまりこれは、スキャップがつくった
日本語という
意味でスキャパニーズというものであるというふうに言っておられます。
いずれにせよ、この象徴という文言が、果たしてどれほど深く考え抜かれた結果であるかということについては疑問のあるところであるということでございます。
それから、もう時間がございませんので、
憲法の前文についてでございますが、これも、福田は非常に示唆に富むことを言っております。これは若干引用させていただきますが、「
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷属、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと務めてゐる国際社会において、名誉ある
地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 これも変種の命令形である事は言ふまでもありません」というふうに福田は言います。
「それにしても「名誉ある
地位を占めたいと思ふ」とは何といぢらしい
表現か、悪戯をした子供が、母親から「かう言つてお父さんにあやまりなさい」と教へられている姿が眼前に彷彿する様ではありませんか。それを世界に誇るに足る平和
憲法と見做す大江」、これは大江健三郎氏のことですが、「大江氏の文章感覚を私は疑ひます。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」といふのも、いぢらしさを通り越して涙ぐましいと言ふほかは無い。この場合、「決意」といふ
言葉は場違いでもあり滑稽でもあります。前から読み下して来れば、誰にしてもここは「保持させて下さい」といふ
言葉を予想するでせう。 といふのは、前半の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」といふのが途方も無い事実認識の過ちを犯しているからです。これは後に出て来る「平和を維持し、専制と隷属、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」といふ一節についても言へる事です。例の座談会」、これはNHKの座談会だそうでございまして、小林直樹氏、これは
憲法学者、大江健三郎氏、亡くなった京都大学の高坂正堯氏、同じく
憲法学者の
佐藤功氏、そして福田恒存氏の座談会で、「この虚偽、」
つまり憲法前文の幾つかの想定がそもそも間違っているという「この虚偽、或は誤認」をやゆして、福田さんが、「刑法や民法の如き国内法の場合、吾々は同胞」、
日本人ですが、「同胞に対してすら人間は悪を為すものだといふ猜疑を前提にして、成るべく法網を潜れぬ様に各条項を周到に作る、それなのに異国人」、
つまり国際社会「に対しては、すべて善意を以て
日本国を守り育ててくれるといふ底抜けの信頼を前提にするのはをかしいではないかと言つた。第一、それでは他国を大人と見做し、自国を幼稚園の園児並みに扱つてくれと言つている様なもので、それを麗々しく
憲法に織り込むとは、これ程の屈辱は他にありますまい。処が、小林氏は、あれは嘘でも何でも無い、当時は国連中心主義の思想があつて、そこに集つたグループは反ファシズムの闘争をした諸国と手を握り合つて行かうといふ気持ちだつた、その諸国の正義に信頼しようといふ
意味に解すべきだと答へました。 そもそも
憲法の中に、猫の目の様に変る国際
政治の現状判断を織り込み、それを大前提として各条項を定めるなど、どう考へても気違い沙汰」でありますというふうに福田さんは言っておられるわけでございます。
つまり、
憲法の前文が想定しているところの公正と信義に信頼するとか、国際社会が圧迫と偏狭を除去しようと努めているとかいう、そのような国際認識がそもそも間違っているのである、そのような間違った国際認識を前提にして
憲法をつくるということはおかしいと。それに対して
憲法学者の小林
教授は、それは当時の国連中心主義という考えを反映しているのだというふうに反論しておられるわけですが、福田氏はさらに、そういう転変きわまりない一時の国際情勢を、
憲法の、しかも条文に織り込むとは何ということかというふうに反論をしておられるわけでございます。
私は、これは単なる
言葉の遊びではなくて、非常に示唆に富むことであろうと思います。
憲法の前文は、決して単なる能書きやつけ足しではございません。前文の精神にのっとって
憲法そのものが規定されるべきでございまして、その
憲法の前文に、今日の我々が常識的に考えて明らかにおかしいという
部分があるとすれば、過ちを正すに恥ずるところはないというふうに私は考えるところでございます。
やや散漫な話で恐縮でございますが、以上でございます。(拍手)