○
青山参考人 青山でございます。
日ごろテレビでしかお目にかからないお顔を拝顔いたしまして、少しく緊張しております。緊張いたしますと、私は、
日本語が出てこなくなったり、少しく論理がおかしくなることがございますが、その点、御寛恕をいただきたいと思います。
きょう、霞ケ関の駅をおりまして少しく感じたことですが、二・二六事件というのが間もなく迫ってまいりました。今、
首相官邸をだれかが襲って、閣議中であってみんな死んだら
憲法上どうなるんだろう。
皆さん方は政治家ですから、そういったことは不断にお考えになっておられると思います。
国会はだれが召集をするのか、召集しても、今度は
内閣総理大臣の任命に対してだれが助言するのか。
内閣は存在しないわけです。これは非常に重要な問題です。
内閣が二・二六事件みたいなもので消滅したらどうするのか。ないとは言えません。およそ十年ほど前、
内閣じゃなかったですが、サミットがミサイルによってねらわれたということがあります。ですから、
日本国の閣僚だけじゃなくて、あのときには外国の国家元首あるいは
政府首脳、これが全部やられる
可能性だってあったわけですが、
国会は、そういったことを
皆さん方はよく日常検討なさっているものだと私は思っております。
それから、きょう、こういった
立場に置かれまして非常に光栄でございますが、午前中、西修という駒沢大学の教授が
参考人としていろいろお述べになりましたが、私は、西先生とは親しく接しさせていただいております。時々、
資料をもらいます。なぜかといいますと、西先生は
アメリカまで
資料をとりに、集めにいらっしゃるんです。私ども貧乏人は
アメリカまで行けないんです。
日本国の
憲法の
資料をとりに何で
アメリカに行かなくちゃいけないのか、我々貧乏人をどうしてくれるんだと言ってみたいんですけれども、とにかく西先生はよくいらっしゃいます。私は行けないものですから、よく教わっている、そういう
立場でございます。
ともあれ、
日本国憲法の
制定の経緯がここで問題になっているわけで、
調査されるわけですけれども、
憲法調査会というようなものが
国会に置かれたということは、非常にすばらしいことだと思います。
と申しますのは、この
国会以外のところでは、
憲法、これを
改正というような感じで物を言いますと、暗黙のうちに圧力がかかってくる。これが
憲法学界でもそうなんです。現にそれがまだあると聞いております。私は学会もサボってばっかりですから、私には圧力はかかりませんけれども、表現の自由が二十一条で保障されて、それを大学でとうとうと講義なさっている
人たちが、
自分の思った真情を吐露しますと、これに対して圧力をかける。これは、学界の先生方は国家権力じゃないですから
憲法問題ではないんですが、しかし、民間ではこういったことが行われていたんですし、現に依然存在するようです。
でも、私も、大学の講師になりたてのころですが、そういう雰囲気がありますので、大学の講義で——私は熊本の田舎で育ちまして、何でも
自分でやらなくちゃ済まないという気の人間だったものですから、
憲法なんかよくわからなかったんですが、非常に早いときから、
日本国の
憲法は
日本人の手でつくらなくちゃいけないと、わけはわからないんですが、そういう気にはなっていました。そこで、大学の学生は判断力がありますから、それから、大学の自治が保障されておりますので、少々
自分の
意見を述べましても権力は干渉してきませんから、私の思ったことを申しますと、昭和五十二年当時はもう教室が本当に白けたムードになっていました。講義しにくくなるんです。ある大学では学生
たちが前にぱぱぱと出てきて、何か非常に圧力をかけてきたということもございました。こういう雰囲気でした。ですから、権力が言論の自由を圧殺しようとするんじゃなくて、民間人の間で何となくそういうことがあった。
それが徐々に徐々に雰囲気が変わってきまして、今は
憲法の欠点なんか物を言いましても、学生
たちは非常によく聞いてくれます。全く雰囲気が変わってしまいました。ですから、講義もうんとしやすくなりました。
似たようなことは
国会でもあったんじゃないか、報道によりますと。私は、学会とも余りつき合いませんし、政治家とはまるでつき合いがありませんので、
国会のことは
新聞とあとテレビ以外ではよくわかりません。ですから、そういうところの報道で見ますと、ちょっとした
憲法発言ですぐ問責しようとする。何で国家の基本的なこと、一番重要なことを審議しようとするときにそれを抑圧しようとするのか、私には全く理解ができないことでしたが、しかし、今は
国会の方も相当変わってきて、私どもの言論を代表する、真の言論の府としての地位を築きつつあるんじゃないかと思われます。
この
憲法は、本当に一〇〇%欠点がない
憲法であれば、仮にそれがそうだったとしても論議することは自由でなくちゃいけないんですけれども、そうでないにもかかわらず言論を抑圧しようとする動きがあった。私には、
憲法二十一条等が保障されているところで、理解できないことが行われていました。
報道、これは我が国の報道、ばかにするわけじゃありませんが、時々正確性を欠くところがあるのじゃないかと思われまして、この
憲法問題がよく論議されますときに、報道する
立場にある
人たちが、いわゆる
護憲勢力とかいわゆる
改憲勢力、こういった
言葉を使って報道します。ですから、この問題を真っ先に取り上げなくてはいけないのじゃないかと思いまして、
最初にこれに触れることにいたしました。
いわゆる
護憲勢力と銘打たれている
勢力、これは本当に
護憲勢力であるのかどうか。といいますのは、例えば
憲法制定当時、
社会党はなかなか信念が強かったようでして、本当に
社会主義というようなものをいいものと信じていたようです。ですから、この
憲法ができましたときに喜んだのですが、これはまだ第一歩なんだという趣旨のことを言っている。これを
改正して
社会主義の方を実現しなくてはいけない。
社会主義は非常にいいものだと信じていたのだと思います。なかなか昔の政治家というのは堂々たるものだなと思いました。
今は政治家の中で、
国会で
社会主義を実現しようと論陣を張っている人、私が
憲法の
国会中継なんかを見ていますときに、聞いたことがないのです。ですから、
社会主義がいいと思っている人は今は政界にいなくなったのかどうか、これが知りたいのですが、しかし、
日本社会党というのは、
自分の意向がある程度
憲法に入りましたものですから喜んでいたのです。さらに
社会主義の実現を目指して行動しなくてはいけないという趣旨のことを、
皆さん方のお
手元の
資料、この社会
新聞、十一月六日のこれに堂々たる
意見が出ております。昔の政治家というのは、本当に信念、信条というものに忠実であろうとしたのだなと思いますが、ともあれ、
社会党にはそういう動きがありました。
ただ、
憲法に不満がなかったかといいますと、ないことはなかったと思います。
鈴木義男という先生なんかは、局外中立というようなことはアナクロだというようなことまで
国会で発言なさっているのです。これも
資料の、こういう形の一枚のものがあると思いますが、そこではっきり言っております。ですから、意に沿わない面があったことは間違いないわけです。
ともあれ、
社会党というのはこの
憲法を歓迎しましたが、さらに
社会主義を実現するために行動しなくてはいけないと言っていたのです。その党がどうなりましたか。実際、これは昭和三十年前後、
社会党左派なんかはその意欲はまだありました。ですから、当分の間、
憲法を
改正しないということで、当分の間ということで、
憲法改正の方に動くということは示していたのです。これを何で
護憲勢力と呼ぶのか。
私は自民党のことも余りよく知りませんが、自民党の場合が、むしろ、この
憲法の基本的なものを守りながらさらに発展しようとするような感じを受けているのですが、
社会党の場合は、この
憲法で
社会主義というところですから、随分大きな違いがあるような気がします。ともあれ、どちらも
改憲に向かっているところは一緒じゃないかと思います。にもかかわらず、
護憲と
改憲という報道の仕方がなされます。
同じようなことは
日本共産党なんかもそうです。
日本共産党も
社会党も、戦後のああいう事情で
憲法の
制定の審議をすること自体、これに対しまして非常に
批判的でした。その
日本共産党なんかがまた堂々たるもので、野坂発言という
資料があると思いますが、自衛
戦争ができるような
憲法でなければならぬという趣旨の論陣を張っております。
依然として
日本共産党には頼もしいところがありまして、まあ手段はどういう手段をとるのかわかりませんが、公明党が一番上に来ていますこういう
資料があります。一番
最後のところを見ますと、これはある雑誌が各政党の
意見を整理したのですけれども、百十五ページというのがついていまして、「中立国
日本にたいして、干渉と侵略がくわえられたときには、主権国家の固有の権利である自衛権を行使し、
国民の団結と、それに支えられ、可能なあらゆる手段を動員してたたかい、国の独立と安全をまもりぬく。」これはさすがだなと思いました。国家を守るという姿勢、気構えを持っているというのはさすがです。
ともあれ、
憲法制定時は、
共産党は、もしかしたら西先生の発表にあったかもしれませんが、全員
反対の投票をしているのですね。そして、
共産党の場合には、
自分たちの
憲法草案をつくって、別な方向を歩もうとする、こういう姿勢を示しております。これをなぜ
護憲勢力と言うのか。
やはり本質をとらえて報道してくれませんと、私どもは判断を間違うのではないか。自民党の
改憲に対して
反対を言っている、それだけの報道でいいと思うのですけれども、そうじゃない
名前のつけ方をしてまいります。ですから誤解を招きやすい。そういったところはきちんとしておく必要があるのではないかと思います。
憲法ができたときの雰囲気につきましては、的確に述べることは困難だ、当時、
憲法制定に携わっていた芦田という人がおっしゃっています。
憲法調査会で
委員で発言をなさっていましたが、あれほどの人が、「的確に述べることは困難」、このように言っておりました。高柳賢三先生なんかは、これは
貴族院にいらっしゃった人ですけれども、「内容の可否はともかくとして、
外国人の起草したものを
日本の
憲法にするのはけしからぬというナショナリズム的な感情に基づく不満の念が
議員の間にあったことは事実のようである。」このようにおっしゃっています。同じように
貴族院にいらっしゃいました宮沢俊義先生ですが、この先生は戦後の
憲法学界の非常に指導的な地位を占められる先生ですが、この先生は、「
反対者はいうにたらない数であったが、それでは当時の
貴族院議員の大多数は、
日本国憲法に終始賛成であったかといえば、その点は疑わしいと思う。」このようにおっしゃっています。
ただ、にもかかわらず、なぜ賛成が得られたかということにつきましては、第一に、
政府が国際情勢を理由にして賛成を強く要望したこと。これは、国際情勢というのは、ただ単に、東西冷戦の雲行きが怪しくなりそうだということだけじゃなかったと思うのです。
連合国の中にもいろいろな主張がありましたから、そういったことも頭にあったのではないかと思います。
それから第二に、
政府が
日本国憲法が総
司令部の意向に合致すると強く述べたということです。総
司令部の意向に合致するということを強く述べた、これはかなり影響力があったと思います。なぜかというと、このときには既にホワイトパージが行われていまして、いわゆるポツダム貴族が出てきています。そうすると、ポツダム貴族は、
貴族院議員、ホワイトパージされたのを補うために入れますが、ただでさえ発言内容等を審査されている人ですから、これに
政府が総
司令部の意向というようなことを強く述べていきますとどうなるか。よほどに勇気がある人じゃないと
反対するという気にならなかったんじゃないか、このような気がします。
それから第三に、既に
衆議院で圧倒的多数で可決されていたこと。しようがないなと思ったのかもしれません。といいますのは、宮沢先生が、大多数が終始賛成であったかといえばその点は疑わしいと思うというようなことの意味合いと、これは一緒になって考え合わせる必要があるんじゃないかと思います。ただ、このとき
衆議院では
反対票が八票でしたけれども、
共産党の
議員、当選者数がたしか五名だったと思いますが、五名全員
反対しております。
それから第四に、昭和二十一年四月十日の総選挙のときの選挙民の意向も支持を表明していた、宮沢先生はこのように判断されております。これは、事の表面を見ますとそのようになって当然だと思うんです。
後で申し上げますが、言論も情報も教育も統制されていたんです。すばらしい、すばらしいということでしか情報も流せなかった。教育も、
批判的なことをやるとすぐパージが行われる。今、
占領軍がやっていることはすばらしいことなんだ、そういうことがあっちこっち植えつけられていく。そうしますと、普通の人というのは非常に素直ですから、いいものが来る、これはいいものだと思うのが当然だと思うんです。
私は、その当時のことを
憲法を勉強するようになってから私の母に聞いたことがあります。私の母は天草で当時生活していましたけれども、私もそこで生活していたんですが、どう、
憲法をつくったときの雰囲気はと聞きましたら、全く知らないと言うんです。ただ、何かいいものがありそうだという雰囲気はあったけれども、大体、だれもラジオも持っていない、
新聞だってきちんととっていないんだと。それで
日本国民が圧倒的に支持するムードになっていたのか。
ですから、そのときの世論
調査をやるにも、
批判的な世論
調査のやり方をやりますと、時間があったらまた触れるかもしれませんが、
検閲が行われていたんです。すごい
検閲が行われております。去年、紅白歌合戦がありまして、長々と紅白歌合戦の由来なんかをやっていましたが、放送局でちょっと戦というような感じの
言葉が使われるとすぐチェックがある、そういう時代だったらしいんです。これも人が言っていることですが、NHKがいきさつをずっと話していたことで、
名前をつけることも苦労したとかなんとか言っていたと思っています。去年のことです。
それから、こういったムードですから、宮沢先生の第四のところは、宮沢先生がこのようにおとりになることは、宮沢先生も非常に素直な方だな、非常に善良ですから、世論
調査の結果なんかを素直にとられたとしてもそれは性格じゃないかな、そういう気がいたしております。
ともあれ、
護憲あるいは
改憲といったことだとか
憲法制定当時のいきさつをちょっとお話ししましたが、現在は、
憲法制定、つくったいきさつの
過程をめぐる論争の中で、この
憲法は
日本国民がつくったのか、それともそうじゃないのか、こういうことがよく論議されています。
ごらんになった方もあられると思いますが、昭和五十七年でしたか、
憲法論争というのが五月三日に長々と行われたことがあります。あそこでも、この
憲法は押しつけられた
憲法かそうでないかということを論議しています。そのときの第一部のテーマがたしか、
憲法は定着したかというようなテーマだったと思います。昭和五十七年ころのことです。そうしましたら、
憲法は定着したかどうかをテーマにすること自体が定着していないということじゃないか、定着していたらそういうことはテーマにならないというような発言もなされていました。私もなるほどと思って聞いていましたけれども。
ともあれ、押しつけられた
憲法かそうでないかということについて、押しつけられたとばかり徹底して言い張る、一〇〇%そうだと言う人もそう多くはないんですが、逆に、全く押しつけられていないと言う人もそうは多くない。一部は自由はあったんだというのはお互いに認めていますが、どっちに重きを置くかという感じになっています。
押しつけでないと主張する
人たちは、民主化や基本的人権の確立を要求した
ポツダム宣言を
受諾しながら、それにこたえなかった我が国の姿勢が悪いと。我が国の姿勢というのは、そのときによく出てきますのが
憲法問題
調査委員会、いわゆる松本
委員会と呼ばれるものですが、ここでつくった案を
批判するケースが非常に多いんです。これは、
憲法改正には賛成だけれども、押しつけられたということは
憲法改正の理由にならないと言う
人たちも、よくこの
憲法問題
調査委員会を
批判します。
まず、押しつけられた
憲法じゃないという説は、例えばある学者は、「
憲法の成立史のある断面だけをとってみれば、その
草案が
マッカーサーから「与えられた」という事実がある以上、こうした主張に全く理由がないわけではない。」と言っていますから、押しつけられた面があるということは一応認めているんです。「けれども、
ポツダム宣言を
受諾して、新しい民主国家として出直そうとした
日本が、今日のような民主的
憲法をもつことは、初めから当然の基本方針でなければならなかったはずである。」このように言うわけですね。
これについてはちょっと
一言述べさせていただきますが、それをやらなかったから
マッカーサーが押しつけたのはいわば当然だという感じなんですね。これには私は納得いきませんが。
ただ、
憲法を
改正しなくちゃいけないと言う人の中にも、この
憲法問題
調査委員会を出して、この
憲法問題
調査委員会がつくった案は
日本国憲法より劣っている、だから押しつけられたということは理由にならない、いいものはいいんだ、いいものはいいが、それだけじゃだめなんだ、こういうことを言います。これは、
憲法問題
調査委員会というのが当時どういう性格のものであったかということをやはり考える必要があるんだと思うんです。
我が国は、御承知のとおり、無条件降伏をしないで戦闘行為を終えたんです。条件つき降伏をして戦闘は終わる状態を迎えたわけです。そういう状態でこちらからつけた条件がなかったかというと、ありますので、お互いに条件を突きつけ合って
戦争を終えている。ですから、無条件降伏ではなかったんですが、そのときこちらから突きつけた条件は何かというと、いわゆる国体の護持です。国体という
言葉を使っていませんが、いわゆる国体の護持を条件としているんです。
そして、
憲法学者を含めた
人たちが
憲法問題
調査委員会に入ってまいりました。
そうしますと、
憲法は何でもかんでも
改正できるか、こういう問題が出てくるわけです。現在の
国民主権というのを改めて、これを君主主権に変えられるかどうか、こういった問題なんですね。
それで、今もそうですが、かなりの学説、まあ通説と言っていいと思いますが、限界があるというのが通説なのです。現行
憲法については、例えば
国民主権は変えられないんだ、それから基本的人権の尊重、これも変えられない。それから国際平和協調主義がそうだと。私は、第一条の
天皇制もそうじゃないかと思っているのです。ですから私は、よく教科書に出ています三基本原則なんという
言葉は使いません。ともあれ、よく三基本原則と言って、これは
憲法改正でひっくり返すことはできないんだというのが通説です。
そうすると、
国民主権を変えられないんだったら、帝国
憲法の
改正手続を利用して、当時は天皇が主権を持っているという
言葉はどこにも書いてないのですが、天皇が主権を持っている、このようにとらえられていた。
国民主権を現在の
憲法で変えられないのなら、昔の
憲法の手続で天皇主権を変えられるはずがない。そういったものを降伏の条件として、守ろうとして降伏したんじゃないか。
そうしますと、
憲法問題
調査委員会が、
自分たちで守ったものを廃棄するような行動に出るはずがない。何をやったかというと、大
日本帝国
憲法を将来
改正しようと思えばどういうところに
改正すべきところがあるかの
調査をやったのであります。
今回のここがそうみたいですね。
憲法改正のための
委員会じゃなかったのです、もともとは。でも、ここもそうなると思います。それは、一生懸命勉強してみて、欠点があるからどういう条文にしてみたらいいのだろう、そう思うのは自然ですから、恐らくここもそういうふうになると思います。ここは欠点がある、では、どうなるんだ、それは知らぬというふうなことにはならないと思います。ましてや、そこにはそうそうたる
憲法学者がいましたから、欠点があったら、どういう文章にしたらいいかというような方向に自然に向いていったのです。
ところが、これがある
新聞の誤報をきっかけにして、それは民意を反映しないといって
マッカーサーが干渉してきて、こんなのをやれと。世論
調査もしないで民意を反映しないと言って、やった。そういうことですが、ともあれ、松本
委員会、
憲法問題
調査委員会というのは、問題点の究明をやろうとしたわけであります。それだけの作業であった。
そして、それぞれ案を考えて、もともとは
委員会として案を出すつもりはなかったのですが、さすがにまじめなものですから、ふまじめだったら
調査しっ放しというような感じになるでしょうけれども。大学院生なんかもそうですが、
憲法の問題はどこにあると言いますと、欠陥が出てきて条文が悪いのだったら、ではどういう条文にしようかという話し合いに自然になっていくのです。ですから、松本
委員会もそうなったというだけですが、そのときには、大
日本帝国
憲法の枠内であって当然なんです。
それを、民主化、民主化ということで、
ポツダム宣言のどの条項から帝国
憲法をひっくり返せというのが出てくるか、私は納得いかないのですが、
ポツダム宣言にそういう条項があるということで、ここで突然に、民主的な
憲法をつくれということが要請されている、このように後で理解していくのです。当時の人は、少なくともそうではなかったのです。
では、どうであったかといいますと、何か
資料として
ポツダム宣言とカイロ
宣言なんかが
皆さん方のお
手元に配付されているそうですが、ちょっと失礼して、私も六法で正確に。
ポツダム宣言十項で
民主主義化を要請しているのは、間違いないのは間違いないのです。何かというと、十項の
最後のところを
ごらんになってください。「
民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ」こうなっていますから、
民主主義化しなくちゃいけないということは約束になっています。それはそれでいいのです。
そこで、
民主主義に対すること、
民主主義的でないのは非民主的なことですが、
ポツダム宣言を
受諾した後、大
日本帝国
憲法のもとで
民主主義化していけばいいわけですね。なぜかというと、復活強化と言っているわけですから。ですから、かつて
民主主義はあったのだ。大
日本帝国
憲法のもとで
民主主義はあったのだ。それを復活強化する、こういうことを言っているわけですから、
憲法を変えろとまでは言っていなかったはずなんです。
ところが、この十二項を盾にして、言っているんだ、このように説いていくのです。「
日本国国民ノ自由ニ表明セル
意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル
政府ガ樹立セラルルニ於テハ」こういう付近をとらえまして、ここで、
日本国国民が自由に表明した
意思に従って
憲法をつくりかえなくちゃいけなかったのだ、そこまで持っていっているんです。そういうふうに後で
批判する。当時は、そういう雰囲気なんかなかった。そういうふうに後で
批判するんでしたら、私どももまた別な考えで、その
批判を返すことが可能になってまいります。
なぜかというと、この十二項では、要するに、平和的傾向を有しかつ責任ある
政府を樹立すればいいとなっているだけじゃないか。
憲法を変えろと言っていない。軍事
政府、ミリタリーガバメントというのですかね、軍政、それをシビルガバメントに変えればいいと言っているだけじゃないか。大
日本帝国
憲法のもとで、十項で、
民主主義は不可能とは言っていない、あったのだと言っている。だから、復活してそれを強化しろと言っている。それを松本
委員会が、
憲法を大きく変えて
国民主権みたいになるようなほどに
民主主義化しなくちゃいけない、そういうような感じにまで持っていけるのかどうか。
ともあれ、後知恵的には
批判を返すことは可能なんです。
ポツダム宣言は、必ずしも
憲法改正まで要求していなかったのではないか。
憲法改正という
言葉が向こうの方から出ているのは間違いないのですが、その
憲法というときに、私どもが言う
憲法と向こうの人が言う
憲法は、即同じじゃないんじゃないか、これが美濃部先生や宮沢先生
たちのとらえ方なんです。
憲法というのは国の基本的な組織、作用に関するものですから、例えば選挙制度なんかでも、国の基本的なものだ。こういったものを民主化していけばいいんだ。あるいは、大
日本帝国
憲法の規定にはないのですが、発展していたいろいろな国家の基本になる機構があったではないか、こういったものを廃止していけばいい。
つまり、実質的に
憲法を
改正していけばいいんじゃないか。
アメリカが要求しているところの
憲法というのももともとはそうであったのではないか、このようにとらえられますし、大体、当時のああいう世情のもとで、形式的な、形で言う
憲法を変えるということ自体がいいことではない。宮沢先生、それから美濃部先生の見解が
資料としてコピーしてここに配付されているはずですが、そういった主張をなさっております。
要するに、
ポツダム宣言が言っているのは、
憲法を変えろと言っているのではない。国の基本的なもので、必ずしも
憲法の条文でなくてもいいから、実質上の
憲法を変えろ、こういうことなんですね。
例えば大
日本帝国
憲法期は
憲法が二つあった。形でいう
憲法ですがね。皇室典範という
憲法と大
日本帝国
憲法という
憲法がありました。現在は一元化して、皇室典範は
法律になっている。
法律ですが、中身は
憲法なんです。
ですから、こういったところを、つまり形は
法律という形をとっているものもあるかもしれない。あるいは、命令という形のものもあるかもしれない。あるいは、ついこの間までそうでしたが、不文の
憲法というのもある。日の丸とか君が代なんかは不文の
憲法であった。これは、不文法とすれば、国の基本的な法ですから
憲法ということになりますから、こういった形式的な
憲法以外のところの
改正。
ポツダム宣言の
受諾は大
日本帝国
憲法とは
矛盾しなかったんだ、このように考えられるんです。これが宮沢先生
たちの
立場で、私もそうであると思っているんです。
それから次に、押しつけでないとする説は、
日本国民は
日本国憲法を歓迎していたと先ほど言った宮沢先生の説がそうですが、しかし当時の候補者の
意見を
内閣の
憲法調査会が非常に集めておりますが、当時は当面の生活問題でいっぱいであった。お芋を二個食えるか三個食えるかの方が
憲法なんかより重要であったと、きのう、どこかの
新聞にその当時のことを書いていらっしゃる人がいらっしゃいましたが、ああいう、後に国を社会的にリードするような
立場になる人だってそうであったんですから、ましてや普通の人はそういう状況でなかったんじゃないかと思われます。
林修三先生によりますと、
社会党の候補者、こういったところも、やはり降伏の条件であった国体の護持を喜んでいたんでしょうね。選挙のとき、こういったことはかなり強調していたというようなことを主張なさって、むしろそっちが選挙の焦点であった。
憲法を変えるというようなことは、抽象的に
憲法を変えると述べた人はいるんですが、中身について選挙で主張した人なんかはほとんどいなかったということだそうです。
それから、先ほども言いましたが、
検閲が非常に存在したということです。私はこちらに
資料を出しておいたんですが、その
資料がなくなっていまして、ここに出ていません。私のところにも返されていませんから、
皆さん方のお
手元にもないと思います。どういうところを
検閲されたかという証拠をこちらにお届けしておいたんですけれども、とにかく
検閲が非常に行われていた。
検閲以外でも、教育も統制されていた面もある。暗黙のいろいろな統制があった時代であったということで、民意の反映というのがあったかどうか、それからそういうところで本当に
国民が歓迎したと言えたのかどうか、こういう問題があるかと思います。
それから第三番目に、押しつけでないとする説は、この
憲法につきまして、
極東委員会というのが
マッカーサーの上にあったんですが、ここが、見直しを一年以上二年以内にするように要求しているんです。
レジュメでちょっと三と四がダブった面もありますけれども、そこで見直さなかったというのは
国民が支持していたからだ、このように論陣を張るんですね。押しつけでなかったから支持していたんだ、
国民の中に素直に入っていたんだ、このように言うんです。
ただ、当時は非常に統制が厳しい時代でしたから、
政府としては見直しをやらないというのが自然であったと思います。当時の
政府はやる雰囲気がなかったとも言っておりますが。
それから、これは
極東委員会の方もするとなっていたんですが、次第に東西の冷戦の風の冷たさが出てきていたころですから、こちらの方もなおざりにしてしまいます。ですから、見直さなかったということと、支持していた、押しつけられていないということは必ずしも
関係ない、このように思います。
それから、押しつけでないとする説は、審議が自由に行われていた、このように言うんですね。しかし、先ほども申し上げましたように、本当に審議が自由であったかどうか。かなりの程度に自由であったことは間違いないんですが、言いたいことが秘密会でしか言えないことがかなりあったんじゃないか。
御承知のとおり、昭和五十五年当時でしたか、ここの
憲法制定過程のことについて、森清という先生、これは
新聞で読んだんですが、情報の開示の請求があった、そうしたら
社会党が公開に
反対したと
新聞に書いてありました。
社会党は情報公開法制
反対なのかどうか知りませんが、それはなぜかといいますと、うわさですけれども、鈴木
議員あたりにかなり激しい
言葉があって、むしろ九条に関しまして後の
日本社会党とは違う発言が明らかになるからだ、このようにある
新聞では解説されていたと思います。
審議は自由に行われたのはある面では事実ですが、せいぜいそれは仏様の手のひらの上の孫悟空くらいにすぎなかったんじゃないか、そういうところもあります。ましてや、
マッカーサー三原則なんかに関して、これを覆すような審議を本当にできたかどうか、それは非常に疑問があるところだと私は思っております。ある程度の自由でしかなかったと私は推測しているんです。
それから、
ポツダム宣言受諾後の若干の動きについて、ここで私の解説的なことをちょっと言おうと思いましたが、時間が迫ってまいりましたので、
日本国憲法制定行為、これは違法だ、これを私は少しく述べておこうと思います。
なぜ違法かといいますと、まず
極東委員会の行為、それから
マッカーサー総
司令部の行為は、ハーグの陸戦法規に四十三条というのがありますが、
レジュメの八ページの上の方に置いておりますが、これに違反する、こういうことです。
これは
皆さん方のところに
資料が配られているはずなんですが、ハーグの陸戦法規四十三条、ここで、占領者はその占領地の現行法でやれ、このようになっているんですね。
占領者というのは、戦闘行為中のものだけをいうんじゃないんです。戦闘行為中のものだけいうんでしたら、これは相手は交戦権を持っていますから、どんどん抵抗してきます。ですから、ハーグの陸戦法規、配られていると思いますけれども、款を別にしております。「戦闘」の外側に四十三条を置いています。
ですから、どういうことかというと、戦時の
反対の平時が来るまで、平和条約を結ぶまでは、占領という
言葉を使っているんですね。戦闘行為中のことだったら、相手から税金を取るというようなこと、取られる方は戦いを挑んでいいわけですから。ですから、「戦闘」という款、章とか款とか節とかありますね、その款を別にして、四十三条は別な款に定められている。ですから、戦闘行為が終わって平和条約を結ぶ間もこの適用があるんです。
我が国では、御承知のとおり、玉音放送があった後、変な動きがあったかといいますと、それはなかった。イタリアなんかは、ムソリーニなんか殺されてしまいますけれども、我が国はそれはなかった。御巡幸なんかを見ていますと、非常に平穏に行われていた。そういうことですから、我が国では絶対的な支障なんかなかったにもかかわらず、
憲法を変えさせる動きをした。これは
マッカーサーの行き過ぎた行為であったじゃないか。
ただ、
マッカーサーだけじゃなくて、後で
極東委員会は、あの文民条項なんか、ソビエトの意向から
極東委員会、
GHQというラインを通じて
憲法に干渉してくるわけですから、
マッカーサー総
司令部も
極東委員会もこの条約に違反する行為をやった、このように私は考えております。
それから、
マッカーサーの行為も
極東委員会も
ポツダム宣言に違反している、このように思っております。
なぜかといいますと、先ほどの十二項を見ますとわかりますように、我が国のことは基本的には我が国が決めるんだ。これは、大西洋憲章、欧州共同
宣言でしたか、ああいったところを見てみますと、こういった趣旨があらわれていますが、これが
ポツダム宣言に反映してきているのです。私どもの
政府から、降伏の条件としていわゆる国体の護持を出したときに、
日本国の最終の政治の形態というのは
日本国民が自由に表明した
意思で決めるんだ、そういう回答が参りますので。にもかかわらず、こういう行為をやった。ですから、
極東委員会とか
マッカーサー総
司令部、これは
ポツダム宣言及び降伏文書に違反している。
ただ、降伏文書を意図的に強調しなかったのはなぜかといいますと、降伏文書というのを我が
政府は条約の形にしていないのです。向こうも
宣言して、
受諾するという形にした。こちらは向こうが申し入れしたところをただ受け入れた、それだけですから、条約という形をとっていないのですね。ですから、条約違反という形と言うには、やはり
ポツダム宣言じゃないか。
降伏文書は、
ポツダム宣言の条項を履行するため、こうなっています。ですから、
マッカーサーは何でもかんでも支配できたわけじゃないのです。
ポツダム宣言の条項を履行するためしか支配はできなかった、それ以外の支配はできなかったはずです。我が国の
政府が
ポツダム宣言以外の領域で行政行為を営んだときに、これについて
マッカーサーが干渉できたかというと、これはできない。
マッカーサーは絶対ではなかったわけです、降伏文書にも
ポツダム宣言の条項を履行するためとなっているわけですから。それを我が国が勝手に、戦後、言うことを聞き過ぎたということはありますけれども、
マッカーサーは絶対ではなかった。それが
憲法改正の圧力をかけてきたというのは、行き過ぎた行為があって、
ポツダム宣言違反ではないか、このように思っています。
それから、
マッカーサーの行為自体につきましては、
極東委員会の方針に違反していますから、ここに条約違反がある。
極東委員会をつくったときの協定で、憲政機構、占領管理制度の根本的な改革、こういったものは
マッカーサーの権限ではないということを明らかにしているのです。これは
極東委員会の権限だ、このようにしているのです。ですから、
極東委員会の協議及び
意見の一致があったものだけ
極東委員会も発令できるのですが、それを
マッカーサーが勝手にこれ以外のところで動いてしまった。
もちろん、
マッカーサーは、この
極東委員会が実質上動き出す以前に動きを開始しているのです。ただ、
極東委員会は、昭和二十年の十二月二十六日だったと思うのですが、諮問
委員会というのが
日本に来る途中で、その協定ができた。その諮問
委員会のメンバーをすぐそのまま
極東委員会のメンバーにしてしまいましたから、いつ諮問
委員会が
極東委員会の
委員になったのかはっきりしないのですけれども、その諮問
委員会の
委員が二十一年の一月三十日に我が国から去るときに、私には
憲法改正の権限はないというようなことを
マッカーサーははっきり認めているのです。諮問
委員会の
委員といったらいいのか
極東委員会の
委員といったらいいのかわかりませんが、その
委員たちにはっきり認めているのです。
ところが、御承知のとおり、動きが始まったのはその月が明けてから、二月になってから
マッカーサーの動きが出てくるわけですね。ともあれ、
極東委員会の
政策決定権を侵しているのではないか、このように思われます。
それから、今度は
言葉をかえますと、
マッカーサーには
憲法の
改正をする権限などはどこにもなかった、にもかかわらずやらせた、これはおかしいではないかということです。
それから、理由づけは少し飛ばしますが、
最後に、この
憲法改正権の限界を超える問題がある、こういうことです。
ここで九ページをちょっと
ごらんになってほしいと思います。
憲法をつくる権力と
憲法によって組織された権力は区別されるんだ、これはアベ・ド・シエイエスという、第三階級とは何かということを述べた人が言っておりますが、
憲法を
制定する権力が
憲法をつくって、これがこういうことをやってはいけないと言ったことを
憲法上の権力が変えられるのかどうか。
憲法によって組織された権力、
憲法改正権力というのは、
憲法でこれは変えてはいけないよと言っていることについては変えられないのではないか、これが私どもの説いているところです。
そうすると、
マッカーサーの行為には条約違反の行為がありましたし、
憲法違反の行為があった、このように理解しております。ですから、
憲法制定行為自体には違法行為があった、こう私は理解しているのです。ともあれ、そういった感じで
憲法ができてまいりました。
憲法をつくったときに、なぜ
国民が主権を持っているかというようなことについても真剣に議論をしていません。だれが
国民に主権をくれたのか、そういう議論も何もやっていません。ですから、普通、
憲法制定権力というのは主権者であるはずなのですが、我が国ではそれがよくわからない。
憲法制定権力と主権者
国民とがどうも違いそうだ、こういう感じがするのです。普通は、主権者がその
憲法をつくるのです。この図表を御
参考にしてほしいと思います。
それから、それでもこの
憲法は正しいのだと言いたいために、いや、八月に
ポツダム宣言を
受諾したときに革命があったのだ、このように説くのが八月革命説です。
ところが、
ポツダム宣言の
受諾は合法的になされたのです。合法的になされる行為がなぜ革命なのか、これについてはきちんとした説明がなされていない。これも、八月革命説を
批判するために十ページに図式にしておきました。
ポツダム宣言の
受諾、これが革命を意味するのだったら、革命の主体は
ポツダム宣言を
受諾した天皇になるではないか、こういうことになりかねないですから、八月革命説でもってこれを説明することはできない。ですから違法なのだ。それで、違法につくられたものがそのまま現存して運用されている。
私どもは、こういう重要なことを何も解決しないで、まあいいじゃないかという感じでやっている。一番基本的な重要なことを解決しないで、まあこれでいいじゃないかというのだったら、不文
憲法でやっていった方が一番いいのです。ところが、一応これでやっています。そして、そのもとで、従来は、
憲法を
改正するということ自体を
批判する、こういう動きがあった。私には非常に理解しかねるところです。
個々の条文以外に、こういう入り口の問題あるいは
制定過程において重要な問題があるということを、
皆さん方はもう御承知かと思いますが、再度
調査してほしいと思います。
以上でございます。(拍手)