○川内
参考人 東京で
リーガル・アドボカシーという
団体をやっています、その代表
理事をやっています川内と申します。
まず最初に、
交通バリアフリー法についてですけれども、このような
法律を国を挙げてつくろうと努力してくださっているということについては、本当にありがたいことだと思っています。
もちろん私の考えとしても、この
法律、
基本的にはできてほしいと思いますし、それからもう
一つは、よく誤解を招くのですが、すべての
整備を一度にやってくださいというふうなつもりは毛頭ありません。それは無理だということは私
たちも承知しています。ただし、何をどういう方向で
整備していくのだということだけは高らかに明かりを掲げて、進む道を照らしていただきたい、そういうふうに思っております。
その
考え方から
法案を読むと、ちょっと気になることがあるので幾つか
お話をさせていただきます。
まず、先日の
委員会で二階運輸大臣が、この
交通バリアフリー法は出発点である、
アメリカのADAより十年おくれたけれども、ADAに負けないものにしたいというふうなことをおっしゃっていました。ADAに負けないものになるとしたら、それはすごいものになるなという気がするのですが、
基本的に、ADAとは
法律の物の
考え方が違うということを説明させていただきたいと思います。
後ろから二枚目に
資料をつけました。その
資料に、小さな図を下の方につけておりますけれども、まず、
アメリカのADAというのは、
障害があるために
建物や
乗り物が使えないのは差別であるというふうに規定しています。そして、
障害に基づく差別をしてはならないということを規定しています。そしてその差別を防ぐために具体的な方策として、スロープをこうしましょうとか、ドア幅をこうしましょうとかいうふうな技術規定をつけています。
それに対して
日本の場合ですが、これは
ハートビル法に関して書いたものですけれども、
交通バリアフリー法でも
基本的に同じ仕組みだと私は理解しています。それはどういうことかというと、高齢の人や
障害を持つ人が最近はふえてきた、だからスロープをつくりましょうということですね。そこで
アメリカのADAと同列に考えるならば、差別禁止規定というものがないということです。差別禁止規定というのは、
日本では差別という
言葉はちょっと強いということですが、例えば利用の保障というふうに考えていただくといいかと思います。
当たり前に利用できるような
環境をつくるというのが私はこの
法律の究極の目的だろうと思いますけれども、その当たり前に利用できる
環境が今の
法律の案でできるのだろうかということを考えたとき、例えば、車いすを使用する者がバス停でバスを待っていた、そしてバスが来たけれどもちょっと込んでいた、スロープがついていて、乗ろうと思えば乗れるバスですけれども、乗ろうとすると運転手さんが、ちょっと込んでいるから次のバスにしてくれといって乗せてもらえなかった、あるいは盲導犬を連れた視覚
障害をお持ちの方が乗ろうとすると、犬の体が触れるとほかのお客さんが嫌がるのでもっとすいた次のバスに乗ってくれといって乗せてもらえなかったというふうなことが起こったとします。
これについてADAでは、
障害を
理由にしてサービスを拒否されたり差別を受けたりしてはならないというふうに明確に定めていますが、
交通バリアフリー法ではこういう案件が起きたときにはどういうふうな働きが起こるのであろうか、その辺が私にはよくわかりませんでした。
それから、例えば成田エクスプレスというのは車いすで使える座席というのがあるのですけれども、私が立川駅でその券を買おうとしたら、今忙しいからあした来てくれというふうに言われた。これは実例ですけれども、このような事態に対して、
交通バリアフリー法はどういうふうに有効なのだろうか。
後ろに写真一というのをつけましたが、写真一は、ちょっと不明瞭かもしれませんがエレベーターです。これ自体はだれでも使えるのですが、右の方に、ちょっと写りが悪いですが張り紙がしてあって、午前八時から午後九時までというふうに書いてあります。つまり、利用制限があるのですね。それ以外のときには電源を落としてありまして、駅員に頼みなさいということを言っています。
駅員に頼んで
移動しなくてはならないということについての問題点はいっぱいありまして、ここで述べることはできませんが、
基本的に、もちろん今の私
たちのハードをつくっていく技術の中では、すべての
ニーズを組み込んで利用者が一人で
移動する
環境をつくるというのは大変困難ではありますが、
整備の方向としては、できるだけ今の技術を駆使して一人で動ける
環境をつくろうというふうな方針でなければならないと思うわけですけれども、このような利用の時間制限が起こった場合に
交通バリアフリー法はどういうふうに有効なんだろうか。
あるいは写真二は、ある特急
電車のデッキに私がぽつんと座っているわけですけれども、真冬に雪の多いところで、これから二時間列車の旅をしようとしているわけです。客室の中には通路が狭くて入れません。それでこういうデッキに二時間ぽつんといるわけですけれども、もちろん暖房がきいていません。古い列車で走っていると、雪が吹き込みます。強い風も吹きます。その中で二時間、列車に乗りながら遭難するのではないかというふうに思っていたぐらいですけれども、悔しいことに、ドアの向こうの客室ではサラリーマンらしき人がワイシャツ姿でビールを飲んでいる。その中で、ドア一枚隔てたこちらで凍える思いをして二時間
電車に乗らなくてはいけない。これに対して
交通バリアフリー法はどう助けてくれるのだろうか。
交通バリアフリー法では、
既存の
建物に対しては努力義務というふうになっていますが、この努力とは何なのでしょうか。努力を検証する手段、何をもって努力していると判断するのか、そういうことについて明確に規定されているのでしょうか。
例えば
アメリカのADAでは、改善の努力に合理的な協力をしないときは差別とみなされるといふうに定めています。これは努力といっても、その場にとどまる努力ではなくて、確実に前に進んでいく努力をしなくてはいけないのだよということを言っている。そして、それについて、自分でこういう努力をしているのだという説明をしなくてはいけないという責任を求めているわけですね。
それから、
言葉の定義として、後ろの写真三をごらんいただきたいのですが、これは駅員さんが二人で車いすの人を押して
電車に乗せている写真ですけれども、
交通バリアフリー法では
移動の
円滑化というふうなことを言っています。この写真の現状というのは、
移動の面で円滑なのでしょうか。
もちろん、プラットホームと
電車の段差がなくなれば解決できるわけですけれども、今説明されているのは、ばねの上下や
電車の摩耗のために
一定の段差は必要なのだという説明をされています。
しかし、素人の私から不思議なのは、
アメリカの地下鉄はいつもフラットなんですね。しかも、その
アメリカの地下鉄のある路線は、
日本の会社が受注してつくっているということです。同じ
日本の会社が、
アメリカではフラットな
環境をつくり出せて、そして
日本ではフラットな
環境をつくり出せていないとしたら、これはどうしてなんだろうか、私は非常に不思議に思います。
法律、
政府案では、
移動の
円滑化とは利便性、
安全性の向上だというふうにおっしゃっていますけれども、今まで私が述べたようないろいろな現実の事例に、こういう利便性について、この
法案は具体的にどうこたえてくださるのでしょうか。あるいは、全盲の人の三人に二人がプラットホームから転落した
経験を持つというような
調査結果に対して、この
法律は、
安全性という面で具体的にどういう方策をとってくださるのでしょうか。
基本方針について、主務大臣は必要が生じたときには
基本方針を変更すると述べていますけれども、どういう根拠で必要が生じたと判断するのでしょうか。もしそれがあいまいであるならば、必要が生じたと感じなければいつまでも変更されないということも起こり得る、その
時代の要請に合わないということが起こり得るわけですね。そうすると、必要が生じたときに変更するということとあわせて、何年ごとには定期的に見直すという時間的な軸を設定する必要があるのではないかというふうに思います。
その見直しをするためには現場の状況を常に知っておかなくてはいけないのですけれども、例えばADAでは、自治体や企業やNPOにADAの担当者を置いて、その会社の職員とかそれから地域へのトレーニングを行ったり、情報提供、電話相談なんかを行っています。
それから司法省。ADAの管轄というのは、差別禁止規定ですので司法省が管轄していますけれども、その司法省にも窓口を設けて
専門の担当者が対応しています。
これらの
システムのところにいろいろな地域での小さな問題が集まってくるわけですね。それによって、今地域ではどんな問題が起こっているかというのが自動的に集まってくる、そういうパイプ役になっている。そして、それの効果として、一九九六年のアトランタ・オリンピックでは、ひょっとしたら
計画はADAに合っていないのではないかという訴えが一人の個人からなされて、オリンピックの全体
計画が影響を受けたというふうな現実もあります。つまり、草の根の小さな声を尊重するような仕組みができているということですね。
これについて気になるのは、二〇〇五年の万国博覧会です。アトランタ・オリンピックでは、千四百五十台の追加のバスが必要になりました。その千四百五十台を
アメリカじゅうからかき集めてオリンピックに使ったわけですけれども、幸いなことに、ADAができて六年後であったために、すべてのバスがリフトつき、造作もなく集まったということだったそうです。
二〇〇五年愛知万博、二〇〇〇年にこの
交通バリアフリー法が成立したとして五年後ですけれども、今の試算では
日本じゅうのリフトつきあるいはノンステップバスをかき集めても足らないだろうというふうに言われていますけれども、愛知万博で世界に恥ずかしくないアクセシビリティーが提供できるのかどうか、私は非常に心配をしています。
ほかにも、ADAの技術基準の作成はアクセス・ボードという機関が一手に引き受けているわけです。そのボードは
理事が二十六人いるわけですけれども、その半数は
政府、残りの半数は民間ですけれども、民間からの代表者はすべて
障害を持つ人である、
障害を持っているということが
要件になります。もちろん、
政府関係者の中にも
障害を持っている人が含まれている。
これはどういうことかというと、
日本の
審議会のように、あるいは
委員会のように、
障害を持っている人を招いて
意見を聞くのではなくて、
障害を持つ人
たちが主体的に自分
たちで決めていくという仕組みをつくっているということですね。今まで、周りの人からよかれと思ってやってもらったことが、決してよくないということがたくさん
経験としてあるわけです。それを防ぐためにこのような、自分
たちで決めるんだというふうな仕組みをつくっている。
日本でこれが無理だとしても、仕組みの中に当事者の
意見をいかに反映していくかということはもう少し真剣に考えていかなくてはいけないのではないかと思います。
もちろん、金銭的なものというのは大変ですけれども、もう
一つ、金銭的な負担とともに、
社会的な不公正を正すのも政治の非常に大きな役割だと思います。先ほどから申していますように、
障害を持つために、
公共交通を利用する上で非常に公正でない扱いを受けているとしたら、その
社会的不公正を正す役割ということをぜひこの
法律に期待したいと私は思います。
二階運輸大臣は先日の
委員会で、
アメリカ運輸省のマイケル・ウィンター氏について何回か言及されていました。彼が運輸省に入る前に、私は彼を三回にわたって
日本に招いて、トータルで
日本じゅう五十カ所近くの場所を講演旅行して歩いた
経験を持っていますけれども、あるとき、彼は体が大きいですから車いすの幅が広くて、
日本の列車に乗ろうとしたときに、乗り口が狭くて通らなかったんですね。駅員が抱えようとすると、彼はどこに行っても駅員の世話を受けなくてはいけない
環境に辟易していて、それを拒否して車いすからおりて、泥だらけの列車の床をはって列車に乗りました。
その彼に、次に
日本に来るときには、もうはう必要がないよ、自由に
電車に乗れるよというふうに言って
日本に招いてあげたいと思うのですけれども、そのような日がいつ来るのか。もちろん、はっきりと何月何日と言わなくてもいいですけれども、こういう方向で
整備を進めていったら、いつぐらいには何とかなるのではないかというふうなことが明らかにされたらありがたいなと思っています。
以上です。(
拍手)