○高木
委員 ぜひ国民の支持が得られる、しかも
我が国の産業、経済あるいは
国民生活の豊かさにつながるような夢のある
港湾整備を推進していただきたいと強く要請をしておきたいと思います。
さて、
港湾審議会の
メンバーのお一人であります東京大学の森地茂
先生が、その審議会の答申以降の座談会で、これは
港湾協会発行の「
港湾」という一月号の雑誌でございますが、次のようなことを言っておるのですね。実は答申の中で船の管制をぜひ取り扱いたかった、この点が不十分だ、東京湾のことを考えると物すごい船の交通量で錯綜しておる、
港湾内が込み合いスムーズな航行ができない状況があれば、いつまで寄港してくれるかという不安がある、こういうことを目にしました。
したがって、
港湾の
整備はまさに航路の
整備、あるいは情報化にとってあわせて考えなければならない重要な
観点でございますので、この際私は、効率的な船舶の航行のための水先制度について質問をしてまいりたいと思います。
我が国の水先制度については、二つの流れがございます。
一つは、これは一八五三年、嘉永六年、黒船来航で、横浜、神戸など主要港を開港いたしました。一八七六年、太政官百五十四号の西洋型船水先免状規則以降七十三年間任意の水先制度が続いてきました。一九四九年、戦後でありますが、昭和二十四年、GHQの要請を受けまして、横浜、神戸、関門、横須賀、佐世保を強制水先、
対象は国際航海に従事する全船舶。その後、海運界からの要請もございまして、諸外国の制度を参考に三百総トン以上とした、そういういきさつがあります。一九七一年、昭和四十六年ですが、沖縄が復帰をいたしまして、那覇がこれに追加をされております。したがって、横浜、神戸、関門、横須賀、佐世保、那覇六港がその当時三百総トン以上の強制水先となった、こういう流れが
一つ。
二つ目には、これは昭和四十九年、一九七四年でありますが、十一月九日、東京湾の浦賀水道におきまして便宜置籍船と
我が国のLPGタンカーが衝突をいたしました。船員三十三名が死亡をしたという大惨事。このとき衝突した便宜置籍船のパシフィック・アレス号は、一万八百四十七総トンでございます。この
事故を教訓にして、水域を一万総トン以上の強制水先とすることになったわけであります。したがって、そのときの事例を
もとに、東京湾、明石海峡、備讃瀬戸、来島海峡、関門海峡の通過船、そして大阪湾が、一万総トン以上の船は強制水先というものが必要になった経過がございます。
しかしながら、最近になりまして、
平成十年の七月、神戸港が三百総トンから一万総トンへ引き上げられております。また、
平成十一年七月に、横浜港が三百総トンであったものが三千総トン、これに引き上げられております。これは経済均衡論、大阪湾にある神戸、東京湾にある横浜、こういう
一つの湾一体の経済均衡論からそういうことになってきたわけでありますけれ
ども、そういういきさつのある中で、まず
基本的に強制水先制度の現状についてどのように
認識をされておるのか、この点についてお伺いしておきます。